《盲目》-Dysacusis-①
どうして、こんなことを。
少女には、四肢を失った醜い雌の口が、そう動いた気がした。
しかし少女は一切の言葉を返さず、右手に握るナイフを雌の胸に突き立てる。
雌の悲鳴は、彼女の耳には届かない。
返り血が少女の白い肌とシャツを汚すが、彼女はその手を止めない。
不快感が治まらないのだ。
目の前に、この雌が生きて息をしているという事実が。
この雌がこれまでにしてきたことが。
少女の中に、計り知れぬ不快感を積み重ねていたのだ。
そしてそれは、血を流させるだけでは清えない。
傷を付けるだけでは落とせない。
息を絶やすだけでは拭えない。
存在の輪郭すらも乱さねば、解けない。
この雌がいるという現実を、少女はいま消すのだ。
より良い環境のために。
自分のために。
彼のために。
■ ■
重さを感じさせないスムーズさで開いた自動ドアを抜けると、二人の目に、暗色に包まれた小規模なオフィスが認識される。
気を落ち着かせるという意図で部屋がこの配色になっていることをカナシは知っているが、先ほどからあらゆるものに怯えているアイリスもそうかと言われたら、怪しいところがある。
だが見たところ、設計者の意図通りに気を落ち着かせているらしく、カナシは少しだけ安心した。
「やあ、カナシ」
「おはよう。……昨日はすまなかったな」
「お互い様。データは得られたわけだし、過ぎたことは仕方ない」
柔和な笑みを浮かべる白衣の彼の名は、城崎シュン。カナシにとって、気兼ねなく話すことのできる数少ない存在である。
そんな彼の視線は、当然カナシの背後に隠れる少女に吸い込まれる。
「アヤメちゃん、髪を染めたのかい。ていうかウィッグだよね、それ」
「あ、あの、その……」
「……何から話したものか」
「愛するカナシに仲間外れにされてグレたとか?」
適当な推論を述べながら、シュンはマグカップに注がれた薄白の湯気が上るコーヒーを啜る。
同時に曇る眼鏡が、カナシには彼の思考を読むことが困難であることを表しているかのように思える。実際、幼馴染たるカナシでもあまり読めない。
のちのことを考えると、いまシュンにだけ話すのは効率が悪い。カナシどうしたものかと頭を掻きながら、やけに乾いていた口を開いた。
「シュン。いま誰がフォルセティにいる」
「浜谷さんと笠木さんが休憩室で寝てる。そろそろ起きる頃だと思うけど」
「杉野は」
「朝から元気に外回り。なんだい、急にそんなことを聞いて」
「……こいつについて話をする必要がある。今後の活動にも関わる話だ」
カナシの纏う上着を引っ張る少女――アイリスの頭を軽く撫で、カナシは彼女に安心感を与えようとする。
しかしアイリスは依然怯えたまま、いや、警戒というべきだろうか。シュンを見つめたまま、身の危険を案じているかのようだった。
「シュンは色々と気になる点はあるが、まあ、悪い奴じゃない。取って食われたりはしないから安心しろ」
「記憶喪失……いや、ただのそっくりさんの可能性もあるかな。アヤメちゃんに髪色の変化はなかったはずだし」
カナシがシュンに対するアイリスの警戒心を解かせようとする一方で、シュンは自身の推測を独りごちる。
その後シュンがじっとアイリスを見つめていると、カナシとアイリスの後ろで自動ドアが開いた。
「ひいっ!?」
「おや、カナシじゃないか。おはようさん。それに……アヤメ?」
「わ、なになに。アヤメちゃんイメチェン?」
アイリスに小さな悲鳴を上げさせたのは、どこかゴーグルのような意匠をもつ眼鏡を掛ける少女と、胸から圧倒的な存在感を放つ女性。
カナシの同僚である、笠木コノカと浜谷シズルだ。
シュン同様の反応をする二人に、カナシは溜息を吐くしかなかった。
「今からその話をする。アイリス、お前も……」
と、後ろに隠れていたアイリスはしかし、彼女らに怯えている様子はなかった。
見知らぬものに怯えているわけではないのだろうか。それとも別の理由があるのか?
未だにアイリスが怯える基準が分からないカナシは、眉を顰めるばかり。
「どーしたのー?」
「いや、なんでもない。それで、こいつだが――」
と、カナシはアイリスを前に出して黒いウィッグを外し、その透き通る水色を皆に晒す。
そして、昨晩の出来事をかいつまんで語った。
妹のアヤメが姿を消したこと。
そのショックに無我夢中で自分の魔法《創造》を使ったらしく、その結果アイリスが生まれたと考えられること。
そして、アヤメとは別の存在である可能性が高いことを。
「……なるほどね。だからリングフォンのGPSがカナシの分しか反応しなかったのか」
「正直、俺も現状を把握しきれていない。これからシュンと話をしたいところだ」
「話すこと自体は構わない。けど、どうする気だい? アヤメちゃんがもし死んでいないとして、捜索しようにも難しいだろう」
空になったマグカップを食洗器に入れながら、シュンが言う。
「そうだねえ」彼の意見に同意を示したのは、マイペースさを滲み出す笠木だ。
「好んで魔術師を探したい人なんかいないだろうし、アヤメちゃんのこと他の人に任せたくないでしょ?」
「それ以前に、魔術師とは言えフォルセティの一員である以上、戸籍が要る。アヤメちゃんの戸籍を利用しなきゃ、隊員としての存在を保つことはできない」
「それもそっか」
面倒な問題だねえ。
笠木が他人事のように語るのも皆慣れているのか、わざわざ追及することはない。
「パーソナルデータの利用……は、イメチェンって言えば表面は通るだろうけど。まず遺伝子は? 血液型も一緒? 同じデータを使っているからって、完全に同一の存在であることを示す証拠にはなりゃしないよ」
生じうる問題を口にしたのは、椅子に座る浜谷。元医学生という過去から、真っ先に身体のことを案じてしまうのだろう。
「だが、魔術師化で遺伝子が変わるだろう。それが起こったと考えれば」
「《マギアウイルス》に感染した両親から生まれた先天的魔術師であるアヤメは、そもそも従来の人間と遺伝子の形状が違う状態で生まれてきた。同じように生まれてきたあんたなら、分かってるはずだよ」
「………」
カナシは浜谷に反論することができたが、確かな根拠を持ち合わせていなかった。
《再感染》――昨晩の、アイリスの創造とは別の出来事で耳にした言葉が、彼の脳裏をちらつく。だが、彼はまだそのことについて正確に理解、あるいは納得できてはいない。
一方で、アイリスは依然カナシの後ろにいたまま、首をかしげていた。
「……まぎあ、ういるす? カナシさまがさっきもいってましたが……」
「あー、アイリスちゃんが置いてけぼりになっちゃったね。っていうか、この調子だとなんも知らない?」
「俺も何を知っているのかは把握しきれてない。話に付き添いたいところだが、仕事はないのか」
「今朝届いたのが一件あるよ。その間預かっておこうか」
「とりあえずこの場の空気に慣らす必要があるだろう。浜谷、頼んでいいか」
おうとも、と男勝りな口調で胸を張る浜谷。アイリスはその大きさに驚いたのか、彼女の双丘を見つめたままごくりと生唾を飲み込んだ。
怯えていないなら問題はないだろう。カナシはシュンの方をちらと見て一抹の不安があることを確認するが、その視線に気づいたらしい彼と目が合い、苦笑する。
――さすがに、ほんとに取って食うことはないだろうが。
付き合いの長い幼馴染を信頼し、カナシはシュンから事件のデータをメールで受け取り、すぐに開いて内容を確認した。
内容と言っても、これまでの過程がまとめられただけの、簡素なレポートのようなものだ。
要するに、詳しくは分からない、ということらしい。
「事件性の有無は不明だけれど、《上》はなるべく早い行動がお望みらしい」
「なるほどな」
罠の可能性、というのも、彼の仕事柄珍しくはない。
その点も留意しつつ、カナシは足早にオフィスを出ようとして――寂しげなアイリスと目が合う。
アイリスの精神年齢は、高く見積もっても6歳ほどだ。そのくらいの年齢の幼子が知らない人物に囲まれて、決していい気分にはならないだろう。
だからと言って、連れて行くと身の安全が保障できなくなる。安全性の観点からすれば、この場に置いていた方がずっとましだ。
「……安心しろ。すぐに戻る」
不満げな顔をするアイリスが一瞬だけカナシの足を引いたが、彼はそれを振り払うようにオフィスを出た。
来た時とは違う道を選び、暗い通路を抜け日比谷公園の森林の中から顔を出す。
人気がないとはいえ、仮に見られてしまえば怪しまれることは必至である。
カナシは素早く外に出て出入口を塞ごうとしたが、まだ通路に何かがいることに気付いた。
まさか、と彼は思ったが、そのまさか以外には考えられない。
「なぜここにいる」
「……こわかったから、です」
涙ぐんだ声で答えたのは、言うまでもなくアイリスだった。
カナシは周囲に注意をしながら肌の汚れたアイリスを引き上げ、手早く出入り口を塞いだ。
ふう、と息をついてアイリスの方を見れば、ばつが悪そうに眼を泳がせていた。
見れば、雑ではあるがウィッグを被っている。一応、水色の髪を見せてはならないと学んではいるらしい。
「ええと……その……」
「俺の配慮が足りなかったことは謝る。だが、俺についてくる方が怖い思いをするかもしれない。それでもいいのか」
う。
喉が詰まったかのような声を出すアイリスは、葛藤を表に出しているかのように俯く。
「……カナシさまと、いっしょならば」
「なら、俺は可能な限りお前を守る。離れるなよ」
「は、はい!」
涙を拭いて気合を入れ直すアイリス。
カナシはその様を微笑ましく思いながら、彼女の乱れたウィッグを整えて共に表に出た。
「……ええと、その。聞きたいことがいっぱいあるのですが」
「じゃあ、マギアウイルスの話からだな」
「カナシさまはたしか、マギアというヒトなのですよね」
ああそうだ、とカナシは頷く。
「正体不明の《マギアウイルス》に感染すると、遺伝子どころか人体の構造そのものが異質なモノに上書きされる。それが魔法を持つ、魔術師だ」
「で、ひとびとはそれをおそれて、ヒトではないかのようにあつかっていたと……」
「来るときにも見ただろうが、それが当たり前になってしまっているのが現状だ。簡単に言えば、それをなんとかするのが俺たちの仕事だ」
「マギアのひとをたすけたり、かくれてるマギアさんもさがしたりもするんですか?」
「それは基本的にパトロール……つまり俺たちが外で偶然に遭遇した時に対処する。たまに通報があってこちらに回ってくることもあるがな」
なるほど、とアイリスは頷く。
カナシは彼女が少しでも理解できるように努めて話していたが、問題なく受け取ってもらえたようで安心した。
「フォルセティって、そもそもなんなんです?」
「……その話はまた後だな。とりあえず魔術師がこの扱いの中で唯一、まともに働ける場所とだけ覚えておけ」
話が長くなるからな、と付け足して、カナシは立ち止まる。
彼は何も考えずに歩いていたわけではなく、待ち合わせの場所へと赴いていた。
相手が誰かと言えば――
「待たせてすまない。島中達樹……だな?」
「あ、はい」
俯きがちだった顔を上げて、学生服を身に纏う少年がベンチから立ち上がる。
島中達樹。シュンが受け取った事件の関係者、とカナシは伝えられていた。
「俺は静葉カナシだ。何が起こったのか、ということは耳に入れている。とりあえず話を聞かせてくれないか」
「それは……いいですけど。警察の方、ですよね」
「若干違うな。警視庁から連絡があったと思っているだろうが、あれは違う。まあ、そう警戒することもない。確実に力にはなれる」
強い自信を示すカナシへ、達樹の疑念の視線が突き刺さる。仕方のないこととはいえ、どう言うのが正しいのか、カナシはいまだにわからない。
カナシがフォルセティの制服たる上着を脱いで丸めてベンチに座ると、達樹の視線がアイリスに向けられていることに気付いた。
「多少、複雑な事情でな。大人しい奴だから安心してくれ」
「は、はあ……」
状況に脳の処理が追い付いていないらしい。
むしろ、これで戸惑わない方が珍しいだろう。
達樹は言いづらそうに指を絡め、カナシとアイリスを交互にちらちらと見ていた。
「……では、お話ししますが」
彼は自棄になったかのように、その口を徐に開く。
相手が誰でもよかった、という風にも見える。
自己紹介に失敗していたためにどうしたものかとカナシは思っていたが、不幸中の幸いであった。
「僕は、魔術師かも知れません」
「ほう」
「驚かないんですか?」
達樹は恐る恐るといった様子で上目をカナシに向ける。
自分でおかしなことを言っている自覚はあるのだろうが。
「このご時世、珍しくはないからな。それで、その理由は?」
「ええ、と……その。うちの学校、けっこう不良とか多くて。授業にならないなんてこともしばしばあるんです」
――いつの時代も変わらないものだ。
むしろ顕著になったのだろうか。それとも変わっていないだけか。
あるいは、変わりたがらないのか。
自分の脳内に現れる推測を流しながら、カナシは達樹の話に耳を傾けていた。
「やっぱり、うるさくて。鬱陶しくて。遊んでるやつらの所為で、僕だけじゃなくてみんなが迷惑していました。他は分かりませんが、僕は殺意まで湧いていました。もちろん、本当に殺してしまえば罪人ですから、やってません」
ですが、と達樹は付け加える。
「少しずつ、そいつらが姿を消していくんです。それも、その日僕が一番不快に思ったやつが! ……僕は怖くなりました。自分がそう思い込んでいるだけで、本当は殺してしまっているんじゃないか。人を呪う魔法で、殺してしまっているんじゃないかって……!!」
「落ち着け、まだそうとは限らない」
自分の体を強く抱きしめる達樹からは、己への怯えが見て取れた。
魔術師になった可能性よりも、自分が人を殺したかもしれないという憂慮が何より怖いのだろう。
カナシはその感覚を知らないために安い気休めしか言えず、複雑な気分で彼の背中をさすった。
「君はコンタクトを使用しているか」
「え? いえ、裸眼ですが……」
じっと見つめられて恥じたのか、達樹は目をそらす。
「例外はいくつかあるが、魔術師は基本的に髪や虹彩の色が人間と異なる。その特徴がみられないのだとすれば、君が魔術師である可能性は低いだろう」
「そう、なんですか?」
「仮に君がその例外だとしても、気になる点はいくつもある。別の可能性を考えた方がいいだろうな」
「……もしかして、あなたは」
ただの警官ではないことはなんとなく察していたのだろうが、その根拠がおそらく達樹の中に生じたのだろう。
さて、どのような反応をするのか――カナシは彼の目を見据え、次の言葉を待った。
「魔術師、ですか」
「あまり大きな声では言えないがな」
達樹の目は疑念を孕んだものに変わっていた。
カナシは信用に足る人物か? カナシに任せて良いのか?
そんな今更な葛藤が、達樹の表情から滲み出ている。
「俺たちが今、社会でどのような扱いを受けているのかは知っている。だが俺たちは、本気で現状を打破したいと思っている。それをお前が鼻で笑い飛ばすのは勝手だ。それでも俺たちは、魔術師と人間が憎み殺し合う状態を放置して良いとは思わない」
「……正直、完全に信用はできません。ずっと、魔術師は――《異質なモノ》は、この世にあるべきでない、信用できないと教えられてきましたから」
膝の上で握った拳を見つめながら、達樹は己の想いを吐露する。
カナシはそれに何かを言うこともなく、ただ黙っていた。
それから数秒――達樹にはもしかしたら、もっと長く感じられていたかもしれない――が経った後、達樹は震える唇を開いた。
「……あなたを。魔術師を信じても、いいですか」
「信じるのは俺ではなくお前だ。信じたいのならそうすればいい」
「ただ」カナシは立ち上がり、続ける。「信じてくれるなら、地道な活動の甲斐がある」
カナシは彼に手を差し出し、片手間にアイリスを呼び寄せた。
「改めて自己紹介をしよう。俺は静葉カナシ――魔術師による独立治安維持組織フォルセティに所属する魔術師だ」
「フォル、セティ……」
かみしめるように、達樹はその名を復唱する。
「餅は餅屋と言うだろう。警察よりかは話が通じるはずだ」
カナシの言葉に頷く達樹の表情には、やはり自棄の色が滲んでいた。
自分に淡い希望を抱かせてくれた魔術師が、仮に自分を裏切って殺されたとしてもいい。
それほどの罪が自分にあると盲信している。カナシにはそう感じられた。
「ひとまず事件の起こった学校に行こう。案内を頼めるか」
「わかりました」
信頼を得ることが簡単でないことは分かっている。
だが、こうも悔しいのは何故だ。
答えの出ぬ問いに答えを求めてしまう彼の癖は、ソレを察知する能力を疎かにしていた。
独善をまとう、悪意の視線を。