《端緒》-Virus-
「ごめんね、カナシ」
街灯が照らす閑静な住宅街。
どこからか聞こえる虫の音を聞き流しながら歩いていると、不意にシュンがカナシに謝罪した。
「殴ったことか? あの状況なら仕方ない、気にするな」
「そうじゃなくて、駅でのことさ」
振り向いて見た幼馴染の顔が陰っていることから、カナシは彼がよほど気にしていたのだと悟る。
自分の判断が絶対に正しかったかと言えば、彼自身でもよくわからないのだが。
「あのまま僕がカナシを説得しようとしていたら、カナシが傷ついていたかもしれない。それに、周囲の人のことを考えられていなかった。申し訳ない」
小さな蛾の舞う電灯の下でシュンは立ち止まり、深々とカナシに頭を下げた。
そこまでされる理由――に思い辺りはあるものの、そこまで気にしてはいないと、慌ててカナシは頭を上げるように言った。
「気にしすぎだ。俺だってあの時お前が居なかったら、あの人を殴ってたかもしれない。お相子だろ」
「だけど」
いつものマイペースはどこへやら、シュンがここまでしおらしくなってしまうと、カナシは逆に調子が狂ってしまう。
どうしたものかと頭を掻いて、カナシはシュンの肩に優しく手を置いた。
「二人の間で何か嫌なことが起こったら、どっちも悪いんだ。だからお互いを許せばいい。仲がいいほど、そうした方がいいと俺は思うよ」
「……変わらないね、カナシは」
「お前もだろ」
安堵の笑みを浮かべながら、シュンは顔を上げた。
その笑みは、いつもの底が見えないようなものではなく。
アヤメが生まれるよりも前から見せていた、親しき友のそれだった。
「アヤメがお腹を空かせてるかもしれない。早く帰ってやろう」
「うん」
先程とは違う、穏やかな雰囲気を纏いながら、二人はまた静葉家へと歩みだす。
いつからシュンは変わってしまったのだったか。カナシはふと過去を思い返す。
カナシと同じく、先天性の感染者である城崎シュン。
彼は魔術師を忌み嫌っていた両親に捨てられ、孤児院で暮らしていた過去を持つ。
その時に偶然とカナシと関わりを持ち、現在に至る。
これだけならば、ただの魔術師同士の友達だろう。だが、ある日を境に互いに対する認識が変わったのだ。
「僕がこうでなければ、君たちと出会うこともなかったんだろうね」
「そうかもな」
ふとしたシュンの呟きに、カナシは苦笑で応える。
半魔術師――魔法を持たず、身体への変化のみが起こった人間。
身体の能力が向上する者があれば、脳の一部機能が発展した者も存在する。
シュンはその後者に該当する。
「両親が感染者で、子が《そういう人間》として生まれたか、ただ胎内の受精卵が感染したのか。たったそれだけの違いなのに、こんなにも違う」
「何も違わないさ。こうして手をつなぐことだってできる」
カナシは無意識に彼の手を取り、しかし慌てて手を放す。
過去の忘れがたい記憶が、彼の脳裏に過ったのだ。
――君が好きなんだ、カナシ。
ちょうどお互いが13歳になった頃、シュンは己の想いと共に、自身の隠していたものをさらけ出した。
カナシははじめ、シュンは急に裸体を晒して、何をしているのかと思った。
だが、ちらりと見たその肢体を異常と判断するまでに、そう時間はかからなかった。
人間が皆もつはずの生殖器が、彼には存在しなかったのである。
胎内で感染したときの後遺症のようなものだと、シュンはのちに語っていた。
「ごめんね、縛ってるみたいで」
「……気にしてない」
見え見えの嘘をついて、カナシはそっぽを向く。
彼はその時の恐怖はとっくに乗り越えていた。だが、受け入れるにはまだ至っていない。
「君を心配するのは、仲間だからだ。それは変わらないよ」
「……着くぞ」
カナシはあえて返事をしなかった。いや、何を言えばいいのか分からなかったのだ。
複雑な感情と共に家の前に着けば、今の照明が点いていることを認める。
アヤメは無事だ。
ほっと胸をなでおろして、カナシはシュンと共に帰宅した。
「ただいま、アヤメ」
「カナにぃ! 城崎さんもひさしぶり!」
大きな目を輝かせて、エプロン姿のアヤメがカナシに飛びついた。
カナシはその頭を撫でながら、妹の服装に違和を覚えた。
「なんでエプロンなんか着てるんだ?」
「ほう、愛する兄のために手料理を作ろうとしたわけだね?」
「そのとーり! さすが城崎さん、カナにぃと違ってするどい!」
鈍くて悪かったな、と妹を引きはがして、カナシは先に居間へと向かう。
玄関に残された二人は互いに笑みを浮かべ合い、彼の後を追った。
「お、もうできてるのか」
カナシが上着を脱ぎながら、卓上に並べられた料理を眺める。
ポテトサラダにカレーライス。シンプルな組み合わせだが、兄妹ともに好きな料理の組み合わせだった。
出来の拙さは否めないが、妹の手料理というだけで最高のスパイスであると、カナシは思っていた。
「ごめんね、急に一緒に来るだなんて」
「私はいつでもだいじょうぶですよっ。今スプーン持ってきますから!」
シュンも上着を丸めて、本来はリンドウが座るはずの椅子に腰かける。
実際、ほとんど使われていないから、カナシ達が怒る義理はないのだが。
「変な奴は来てないみたいだな。アヤメ、ちゃんと食事は摂ったか。しっかり休めたか?」
「もう、カナにぃったらお母さんみたい。大丈夫、心配しないで」
「カナシ。アヤメちゃんは君よりよっぽどしっかりしてるんじゃないかい」
にやにやと口の端を吊り上げながら、シュンはカナシに嫌味を言う。
本当にそうかもしれないと思う自分がいて、カナシは言い返せなかった。
そこへ、人数分のスプーンを持ったアヤメが来る。
「じゃあ、食べよっ! いただきまーっす!」
「いただきます」
「僕もいただきます」
三人が同時に手を合わせて、食事を始める。
それぞれに一口目を飲み込むと、ふう、と満足げな吐息を漏らした。
「よもや11歳の女の子が、ここまで美味しいものを作れるだなんてねえ……」
ルウから広がる野菜と肉の旨み。丁寧に切られた牛肉は噛むたびに肉汁が溢れ出す。
野菜と肉が互いの良さを吸収し合い、ルウがその加速を担っている。
ほのかな甘みのある白米が、さらに美味を確かなものにしていく。
機械や魔法にはできない所業はこういうものだと、カナシはしみじみと感じていた。
「えへへ、カナにぃにばっかり頼れないから。そう言ってくれるととっても嬉しいな」
笑みを浮かべる妹の、嬉しさと照れの混じった顔の赤み。
それをちらと覗いたカナシは、兄ながら妹の並外れた可憐さに見惚れていた。
□ □
「ふう。もう寝たいくらいだ」
「お前が休憩だって言ったんだろ。少し休んだらまた出るぞ」
食事を終え、賑やかだった空間は静かかつ穏やかなものへと変わる。
背後でアヤメが食器を洗浄機に入れる音を聞きながら、満足げな顔をするシュン。
カナシはそれをなだめていたが、本音は彼と同じだった。
「こんな時間なのに、まだやるんだ。気を付けてね、カナにぃ」
「仕事がたまったらそれこそ敵わないからな。お前がつらいなら、今日は休むってこともできなくもないけど」
「……つらいよ」
小声の呟きは、カナシには届かない。
すぐに聞き返したカナシだったが、アヤメは何も言っていないと誤魔化した。
「無理はしないでね。よのなかのためだもん」
「ああ、そうだな」
魔術師を人の一部として認めてもらうために、フォルセティでの活動を続ける。
そう思う自分は確かに人間であるはずなのに、人間らしく生きられているかと言えば否である。
社会の家畜と化して後世の魔術師のために尽くすか、家族との時間を優先してこの状況を長引かせるか――天秤は大きく揺れたまま、止まる気配がない。
「《創造》――ネックレス」
気持ちを落ち着かせるために、カナシは青い眼光から銀の首飾りを想像する。
十字架の飾りがついているのは、彼が一瞬そのイメージを込めたからだ。
静かな輝きを放つそれを出したはいいがどうしようかと迷っていると、彼は首飾りを無意識にアヤメの前に差し出していた。
「プレゼントだ、アヤメ」
「『俺だと思って大切にしろ』――とかは、言わないのかい?」
「言うか」
アヤメにそれを手渡ししながら、カナシはシュンの茶化しを冷静に叩き落とす。
そう言えばアヤメは喜ぶのだろうが、自分の抱かれているイメージに合っていない。
おそらくそこまで、アヤメは分かっているのだろう。
「きれい……大事にするね」
「喜んでもらえたなら良かったよ」
「《創造》ならではの、プライスレスプレゼントだね」
「中身がないみたいに言うな」
「でも、カナにぃの気持ちがいっぱい詰まってるの、私は知ってるよ」
アヤメは早速首に着けて、嬉しげにその場で回ったりする。
「ふふっ、《幻想》っ!」
嬉々とした声で唱え、アヤメはその双眸を桃色に光らせた。
瞬く間に、部屋中に無数の光球が現れる。
大小も色彩も様々で、突如としてアクティブ・イルミネーションが飾られたかのようだ。
プラネタリウムのように動き回る光球はまさに幻想的で、カナシもシュンもしばし息をのんで見つめていた。
「そんなに嬉しかったか」
「うんっ!」
ほらみろと言わんばかりのどや顔を向けるカナシに、シュンはまた底の見えない笑みを浮かべる。
するとアヤメは唐突に恥じらいが込み上げてきたのか、顔を赤くして光球を消してしまった。
「こればかりは《幻影》にはできないね」
「……おいおい」
よく覚えてるなと付け足して、カナシは呆れを溜息に込めた。
《幻影》。カナシが持っていた魔法の名である。
アヤメの《幻想》が《実体のない動画を見せる》のだとすれば、《幻影》はただ《実体のない物体を見せる》魔法である。
まだ立体映像が存在しなかった頃、彼らはよくこれらの魔法で遊んでいた。
だが。
「君は事故に遭った。あれがきっかけで変化したんだろうね」
「今こうして生きてるんだ。魔法なんてなんだっていいさ」
苦笑するアヤメに不安の残滓のようなものが見え、カナシは慌てて話を切り上げようとする。
だが、シュンの語りは、ゼンマイが止まるまで動き続けるブリキのようだった。
「死に瀕してなお生き続けるのは、君にはまだすべきことがあるから。そうは考えられないかい」
部屋の隅をぼんやりと眺めながら語るシュンは、カナシの目には奇異に映った。
どこか他人事のような――実際、他人だが――語り口に違和感があったのだ。
「……シュン。アヤメの前だぞ」
アヤメの気持ちを察していないのか、遠慮のないシュンにカナシはようやく直接持ちかける。
しかし、シュンはどこか不快そうな視線をカナシに向けた。
「アヤメちゃんの前だからこそ、言わなくちゃならないんだ」
彼の視線と、言葉。
謎めいた二つの事柄を追求しようとしたカナシだったが、次第に俯いていくアヤメの表情に、この場を離れるのが先決だと瞬時に判断した。
「……休憩は終わりだ。早く行くぞ」
「そうだね、そろそろいい時間だろう。ごちそうさま、アヤメちゃん」
「う、うん。また来てね」
シュンが立ち上がって笑みを張り付けると、アヤメはぎこちなく返事する。
カナシは先に彼を外に追い出し、食器を片付け終えた妹の下に歩み寄った。
「今晩はフォルセティに泊まるかもしれない。一人でも大丈夫か」
「うん」
「来客には居留守で対応していい。ここに要件のある奴なんて、ろくなもんじゃない」
「……うん」
心ここにあらず。それをなんとか誤魔化そうとしているのが見て取れる。
些か心配の残るカナシだったが、妹の言葉を信じてシュンを追った。
上着に袖を通しながら外に出ると、湿り気の残る涼風が彼の頬を撫でる。
「なぜあんなことを言った」
行くぞ、と言うわけでもなく歩き出すと、カナシは微量の怒気を孕んだ声で問いかけた。
「魔研で高橋さんと、マギアウイルスについて話をしていたと言ったろう、あの件だ。その内容は、カナシの妹であるアヤメちゃんの耳にも入れておくべきことだったんだ」
「なんだよ、それ」
シュンの言おうとしていたことが本当なら、自分は間違ったことをしてしまったのかもしれない。
カナシは後ろめたさと冷めかけた怒りからそっぽを向き、次の言葉を待った。
「マギアウイルスは、人間を変質させるウイルス――微生物のようなものだ。魔術師の死体からも発せられることは、少し前に話したね」
まさか、と無意識に零したカナシに、シュンは悲し気に頷いた。
いや、今更かと嘲っているようにも見える。
「君はあの日の事故で、一度死んだ。その時発せられたマギアウイルスは、どこに向かったのだろう?」
「病院内で感染者が出たなんて、聞いてない……」
「死体からの感染率が低くなくとも、高くもないのは何故だろうね」
カナシの中で、答えは既に出ていた。
なのに、なぜか彼はそれを口にしたくはなかった。
今度はそんな彼の心情を察したのか、シュン自身が言葉を繋ぐ。
「――死者自身が、もう一度感染するからだよ」
だとしたら。
だとしたら?
同じ言葉が、足を止めたカナシの中で暴れまわる。
折れた骨が臓器に刺さって、原形をとどめないほどになっていても。致死量の出血をしても、自分が生きていたのは?
眼球を奪われたはずの萩田が、眼球を持った状態で再び姿を見せたのは?
「マギアウイルスに、常軌を逸した再生能力を付与する――いや、死を生に、無を有に、人間を魔術師に上書きするする性質があるのならば。
その過程で、『魔法を与える』というプロセスが既存の魔法に重なり、一段階発展したものになるならば?」
「……俺の蘇生にマギアウイルスが関わってるなら、それが全部……」
ウイルスの持つ力。
確証はどこにもないというのに、カナシはそうとしか信じられなくなっていた。
でなければ、死の淵から蘇った理由が分からない。
挽肉が肉塊に戻るだろうか?
木炭が大木に戻るだろうか?
豆腐が大豆に戻るだろうか?
死体が生物に戻るだろうか?
人の手によって、それらを戻すことができるだろうか?
不可能だ。
しかし、現にカナシはそれを経験した。戻ったのだ
梨の礫に等しかった止血と輸血以外に、人の手は加えられていない。
魔術師だからと見捨てられる以前に、彼の命にはもう希望がなかったからだ。
それでも彼は蘇生した。考えられる要因は、魔術師であることだけ。
そして、魔術師が共通して持つのは――マギアウイルス。
「それが、犯罪者の手に渡ったのか……?」
「魔術師を戦力とみなし、利用しようとしているのだろう。
この情報をくれた魔研が、佐祐主任を通じてその組織と繋がっているとすれば」
魔術師を犯罪のための道具として利用する。
万が一にも考えたくはない事態だ。
フォルセティの任務が増えることなど、この際大した問題ではない。
その被害は、未だかつてないものになる。
カナシは今すぐにでも駆けだしたかったが、どこに向かえばいいのかが分からなかった。
「どこに行けばッ!?」
「……逆探知は済んでる。まずはそこに行こう」
その時シュンは何かを懸念しているような表情をしていたが、カナシが気づくはずもない。
彼が今まさに駆けだそうとしたその時、シュンは彼の腕を強くつかんだ。
「何を」
「まだ話は終わってない。前が見えなくなりやすいのは、君の悪いところだ」
痛いところを突かれ、カナシは波立っていた心を落ち着かせる。
焦りはいまだ見えるものの、彼が耳を傾けたところで、シュンは再び口を開いた・
「同じことがアヤメちゃんの身にも起こり得る。そのことだけは忘れないでほしい」
「分かってる。アヤメを守るのは俺の役目だ」
「……なら、いいんだ」
本当に理解しているのだろうか。
そんな言葉を今にも吐き出しそうなシュンの不安げな表情に、カナシは気付きはしない。
「……僕はフォルセティに戻ってバックアップをする。君はひとまず、昨晩暴走車に襲われた辺りに向かってくれ」
「分かった」
複雑な感情を絡めて解かぬまま。
夜黒に染まった街へ、少年が二人駆けだした。