アイドル・オブ・アローン アフター
菅野さんは事務所を辞めた。
ただ、菅野さんが敏腕マネージャーと呼ばれる所以というか、これまで培ったスキルや人脈を大いに活かせる転職先、というのを既に決めていたらしい。あれだけ感情的になっていたのに、盤石に事を進めているところが抜け目のない人だと僕たちは一様に感心した。だから綺羅めくるとかいう猛獣を手懐けることもできたのだと思う。
それと、あとで落木部さんにはあの手帳に何が書いてあったのかを尋ねた。落木部さんは言おうか言うまいか迷っていたようだが、他言無用という条件で僕に耳打ちしてくれた。
曰く、「ある日の欄に『ももこ誕生日。告白。ケジメ』って書いてあった」らしく、加えて日にちがハートマークで囲われているのを見て、大方確信したらしい。確かにこれ以上なく動かない証拠ではあるが、それを見ただけでよく菅野さんにあれだけ強く言えましたね、と言うと、百瀬さんの方がすごいですよー、と返ってきた。
僕は心の隙間に木枯らしが吹いたように虚しくなった。それがどこから湧いて出たものか知っていた僕は、落木部さんの言葉をすぐに否定しようとしたが、彼女の笑顔を崩したくない気持ちが勝って、出かかった言葉を飲み込んだ。
そして今日は、菅野さんの告白から一日挟んだ、件の人物の誕生日である。店長の計らいにより、我がレインダンスで閉店後にバースデーパーティを開くことが決定したのは、つい昨日のことだ。
カウンター前の四つのテーブルがまとめられ、その上に大皿に盛られた色とりどりの料理が所狭しと並ぶ。それを囲む人物が四人。今日の主役である綺羅めくると、落木部さん、菅野さん、そして初顔合わせとなる綺羅めくるの新マネージャー、新田さんだ。菅野さんとは似ても似つかない、僕より少し年上くらいの若い女性で、落木部さんにどうぞどうぞ、と勧められた缶チューハイを苦笑いしながら受け取っている。余計なお世話だが、綺羅めくるのマネージャーになってしまった彼女の行方が少しだけ心配だと思うのは僕だけだろうか。
「混ざらないの?」
カウンターの丸椅子に座る僕に、調理を終えてキッチンから出てきた店長が声をかけてきた。
「あー……」
僕は心中をどう伝えればいいか分からず、ついはぐらかしてしまう。
僕はなんとなく、あの輪の中に溶け込めずにいた。というか、輪に入りたいとさえ思わなかった。
一昨日のことが後を引いている気がするし、あれだけのことをしておいて、菅野さんや綺羅めくると普通に話せる自信もなかった。僕がいるのといないのとで変わることなんてたかが知れてるとも思うし、僕がいない方が気兼ねなく話せるかも、とも思ってしまう。
喉まで出かかった不安を、缶チューハイを煽って胃の底に沈めた。そしてそれ自体を忘れてしまおうと、店長に違う話題を振る。
「そういえば、お店にお酒持ってきてよかったんですか?」
「まあ、ウチはお酒出してないからね。こういうパーティなら、買ってきて勝手に飲む分には問題ないわよ」
「はあ、なるほど」
ばちーんとウインクした店長も、その手に赤いワインが注がれたグラスを持っていて、妙に様になっていた。
「問題はないけど、ちゃんと二十歳過ぎてる?」
「一年前に」
「あら、もうオジサンじゃん」
「せめてあと十年経ってから言ってくださいよ、そういうの」
僕はもう一度缶を傾け、出そうになった言葉をまた食い止めた。僕がオジサンなら店長はどうなんですか、なんて言った瞬間終わる気がする。人生とかが。
「潤ちゃんは、一昨日のこと後悔してる?」
まだ半分も残っている缶を落としそうになった。
「してるんだ?」
「いや、それは……」
努めて言葉を濁すが、店長を出し抜くのはどう転んでも難しいようだった。店長は確信を得て、しめしめと笑いながら、グラスを小さく傾けた。
「まあいいんじゃない? アタシは潤ちゃんなりによくやったと思うわよ。それに仲直りしたんだから結果オーライじゃない。いつまでもめそめそしてる男は女に嫌われるわよ」
「えっ!?」
「だからそんなに思い詰めることもないと思うわ。切り換えが大切よ、切り換えが」
店長は何故かしたり顔で、「嫌われる」という言葉に胸を抉られた僕を見るだけだった。落木部さんとて人の子だ。男に頼り甲斐を求めるのは当然かもしれない。
一方で僕は、店長のおかげで少し安堵している節もあった。心を見透かしているような発言が、悔しいけれど心地よかった。僕が今感じているどうにもならない部分を洗い流してくれるような気がした。
「……後悔、というか、本当にあれで正解だったのかとは思うんです。僕が介入しなくても二人はどうにかなったんじゃないかって」
気がつくと、すらすらと口から言葉が漏れ出していた。
「実のところ、僕は自分のために二人を引き合わせたようなもので、実際菅野さんの思い描いていた終わり方を狂わせたし、傷つけた。今でこそ結果オーライなんて言えるけど、それはあくまでただの結果であって、僕がしたことは取り返しのつかないものなんじゃないかって……」
口にしているうちに、膝が震えだした。二人がいるこの空間にこうして立っていることさえ、辛酸を舐めるような気分にさせた。右手にあるドアが妙に存在感を増して、駆け出してしまいたい衝動に駆られた。
胸の中にしこりが残っている。本当なら、僕は綺羅めくるにも菅野さんにも合わせる顔がないのだと思う。今ここにいるのは情けをかけられただけで、本当は許されていないのかもしれない。菅野さんが言った「ありがとう」も社交辞令で、内心では僕のことを憎んでいるのかもしれない。菅野さんが手帳に書いていたのは覚悟の証だ。それを踏み躙るようなことを、僕はしてしまった。
頭に浮かぶことがすべてネガティブな方へ進んでいく。負の連鎖の只中に放り込まれて、罪悪感で押し潰されそうになる。
「だからいいんじゃない」
僕の思考回路を、店長が焼き切った。
「え……」
「潤ちゃんまだ若いじゃない。若いってのは何でもできる特権みたいなものだから。潤ちゃんの選択は正しいとは言えないけど、間違ってもいないと思うわ。どっかのエジソンじゃないけど、潤ちゃんはこれで、あの選択は辛い道になるってことを知った。そういう収穫があって、積み重なって、経験になって、糧になるのよ」
店長はグラスを時計回りに手首だけで回しながら、盛り上がる綺羅めくるたちを見つめていた。
「アタシは羨ましいけどねぇ。いろんなことに挑戦して、失敗を積み重ねることができる。あたしはもう若くないし。そもそも成功ばっかじゃ人生つまらないでしょ。人間って、人生のどこかで何回かつまづくようにできてるのよ」
「……でもやっぱり、成功した方がいいじゃないですか」
「そりゃそうよ。でも若い時に失敗したからって、よっぽどのことじゃない限り人生を棒に振るワケじゃない。だから今のうちにいろいろしてみたらいいわ。酸いも甘いも含めてね。若さは挑戦するための武器よ」
まばたきを境にして、店長の視線が今度は僕に向けられた。その言葉と声が、僕の背中を押してくれているように感じた。
「ま、せいぜいがんばってね!」
バコン! 僕の背中に並の威力ではない平手打ちを放って、店長はパーティの輪の中へ入っていった。背中を押してくれるどころではないというか、痛いというか、患部一帯がピリピリと痺れている。前のめりになりながら思う。店長には二度と背を向けないようにしよう。
後遺症が残りそうなほど痺れる背中をさすりながら、僕は自分の選択を今一度噛み締めた。
若さ故の過ちと言ってしまうと、やはりどこか責任逃れをしているように聞こえてしまう。だが過ちではないと断定しても、自分の行為を正当化しているだけだと感じてしまう。結局僕のしたことは、あの二人にとって良い選択だったとは言えない。綺羅めくるとして復活してほしいという欲望から、僕が僕のためにしたことなのだから当然だ。
しかし、現に二人の仲は再生した。そして僕は、その選択によって一つの回答を手に入れた。他の選択をして、その結果と照らし合わせて優劣をつけるとか、そういう「たられば」を考えることはともかく、この選んだ道に限って言えば──
「何よその辛気くさい顔は」
頭の上から声をかけられた。
反射的に顔を上げると、声の通りの人物が……いたが、とても正気の格好ではなかった。
円錐状の先にキラキラした紐のついている帽子と、『HAPPY BIRTHDAY!』の文字が大きく綴られた、煌びやかな襷。それだけならまだしも、眼鏡と鼻とヒゲがセットになった、今時宴会芸でも使わないようなおもちゃで顔の大半が隠れていた。
正気じゃない。あの人がこんな格好をするなんて、もしかしたらこの間のいざこざの拍子にどこか不治の疾患を抱えてしまったのでは……。
「おいなんだその怯えた顔は。喧嘩売ってんのか」
表情は判然としないが、こめかみのあたりに血管が浮き出たような気がした。
「何してるんですか、そんな格好で……」
「今日はあたしが主役だから特別だって、都が買ってきてくれたわ。せっかくの厚意を無下にするわけにはいかないでしょ。嫌だけど」
そう言って、僕を見下ろしながら仁王立ちしている彼女は、子供が被るお面のように顔を覆うおもちゃを剥ぐように取り去った。よかった、いつもの綺羅めくるだ。中身はともかく、外見はそのままで安心した。
「素直に受け取って、さらに身につけるなんて、この二日間でどういう心境の変化が?」
「嫌だけど、って今言ったわよね? 聞いてた? 喜んでこんな格好するわけないでしょ。あんたあたしを何だと思ってるのよ」
顔を引き攣らせる綺羅めくるは、流れるような動作で僕の足を踏んだ。指のつけ根あたりでかなり痛いが、どうやら中身も変わっていなかったみたいだ。
ひとしきり踏み続けると、綺羅めくるは呆れたようにため息をついて、僕の隣の席に腰を落ち着かせた。そして右手に持っていた紙コップを、何も言わずに僕の方へ差し出した。
「くれるんですか?」
「図に乗るな」
素っ気なく振られてしまった僕は、彼女の意図通り、持っていた缶を紙コップに小さく当てた。「おめでとうございます」と言うと、「ありがと」と返ってきた。すぐに口をつける綺羅めくるの、紙コップに接する口元が少し歪んで見えたのは秘密にしておこう。
「それ、お酒っぽくないですけど。飲まないんですか?」
「まあね」
「もしかして下戸ですか?」
「さあ」
「あ、もしかして未成年ですか? 今日で何歳になったんです?」
「そんなことより、あんたも混ざりなさいよ。あたしの誕生日なのよ」
「そんなに僕に祝ってもらいたいんですか? やだなあ、人気者は辛いなあ」
「何なんだこいつマジで……」
分かりやすくイライラしている綺羅めくるの顔を見て、僕は少し安堵した。
彼女の反応はいつも通りだし、それを引き出した僕もいつも通り彼女に接することができている。そんなことでさえ、今の僕には心に平穏をもたらす重要な要素だった。
「……ちょっと気にしてるんでしょ、一昨日のこと」
唐突で、しかもあまりにも図星だったので、また缶を落としそうになった。
「やっぱり」
綺羅めくるはそんな僕を見るなり大きく嘆息した。
「あんた分かりやす過ぎ。演技の練習したら? それじゃ慰めてくださいって言ってるようなもんよ」
演技の練習をすべきなのは僕じゃなくてあなたでは、と思ったが、今度は喉より下で食い止めた。これで今日何度目だろう。きっと一昨日の二の舞を避けようとして、何かを言う前に足踏みをしているのだと思う。
そうやって隠そうとしても、不安は表に出てしまうらしい。慰めてほしかったのかと言われると、素直に首を横に振れない。店長のおかげで少し楽にはなったが、やはり当事者と話してしまうと、気持ちもまた変わってくる。核心に触れられただけでボロが出るなんて、全然、ほんの一ミリも、大丈夫だなんてことはなかった。
「……すみませんでした。僕の勝手に巻き込んでしまって」
謝罪は簡単に口から出てきた。
これでどうにかなるわけでもないが、言わないよりはましだと思った。一昨日から言うタイミングも逃していた。実際僕の勝手に巻き込んだわけだし、綺羅めくるも快く思っているわけがないのだ。店長の言っていたことはともかく、一言詫びを入れるのが筋だと思う。
だが、綺羅めくるの表情は芳しくなかった。
「いらないわよ、そんな身勝手な謝罪」
「えっ……」
あまりにもばっさりと切り捨てられ、動揺する。
「あんた何を勘違いしてるのか知らないけど、別にあたしも都も怒ってるわけじゃない。そりゃ一昨日のはあんたの暴走だし? それに巻き込まれてこっちは随分な目にあったけど?」
ぐさり、ぐさりと言葉が槍のように突き刺さる。どこが怒っていないんだろう。
「でもね」
そんな僕の心配を打ち消すくらい、綺羅めくるの声音は穏やかだった。
「ああやって引き合わせてくれなかったら、たぶんあたしは都の気持ちをちゃんと聞けなかった。あの時、あんたと玲がいなかったらあたしは、きっと不本意な別れ方をしてたと思う。そこはまあ、認めてやる。だからあたしは怒ってないし、都もお礼言ってたでしょ。そういうこと」
決して思いやりに溢れている台詞じゃない。だが少なくともこの人なりに、僕のことを心配してくれている。それは伝わってきた。
天邪鬼で気が強いけど、この人には不器用ながらの優しさがある。素直じゃないけど、ちゃんと僕や、落木部さんや、菅野さんのことを考えてくれている。
嬉しかった。僕の行いを水に流してくれたことにではなく、大げさだけど、綺羅めくるがどんな人かということを改めて知り、その人柄に直接触れられた気がしたことに。
「……何よ、その恍惚とした顔は。気持ち悪」
まあ言葉選びはもう少し改善した方がいいと思うけど。
そんな壊滅的な台詞のセンスも含めて、とにかく不器用だ。だからこんなふうに顔を赤らめながら罵倒したりするのだ。これは本格的に役者には向いていないな。あとで新田さんに告げ口しておこう。
綺羅めくるは不機嫌そうに口をへの字にして、子供みたいにそっぽを向いた。
「……ありがとうございます、綺羅めくるさん」
心の底から思ったことを、思ったまま声に出した。なんだか清々しい気持ちだった。
綺羅めくるは一瞬ビクッとして、
「…………」
「はい?」
何か言ったようだったが、あまりにも声が小さすぎて聞こえなかったので、反射的に聞き返してしまった。
振り返った綺羅めくるは充血するくらい僕を睨みつけてきた。それはもう不機嫌そうなどという範疇を超えて、思わず身構えてしまうくらいに。
しかし、深々と刻まれた眉間の皺はすぐ元に戻った。その代わり、悔しそうに下唇を噛んで、また頬を紅潮させる。あまりにも二転三転するので、僕は戸惑った。その変化の理由はすぐに分かった。
「……ももこ、でいいわ。特別に許す」
綺羅めくるは目を逸らした。口を尖らせ、言い訳するように、決して僕と目を合わせようとしなかった。
「はあ……」
「はあ、って何よ。あたしが特別に名前で呼ばせてやるって言ってんの。いやまあ、そもそも芸名だし? 今となっては、プライベートまでそれで呼ばれるのもなんか嫌だし? ていうか今さらあんたにそう呼ばれると他人行儀すぎて気持ち悪いし……」
ちらっ、と僕を一瞥した。
「だから、あたしもあんたを潤って呼ぶわ」
「……!」
「何よ、何か文句でもある?」
僕は大きく首を振った。
足の裏から頭のてっぺんまで、むず痒い何かが体を駆け巡った。
面と向かって呼び方の許可を求められたのは、生まれて初めてだった。その間にあった紆余曲折が、それを僕が想像していた以上に特別なものにした。酷く、胸が躍った。
「じゃあほら、潤。あんたも早く来なさいよ」
「えっ」
綺羅めくる……いや、ももこさんはすっくと立ち上がった。
僕はつい動揺してしまう。ももこさんの足はあの輪の中に向いていた。自分の弱い性根を再び思い知るほど、僕はすぐに体が動かなかった。
だがそんな逡巡は、ももこさんの一言でいとも簡単に吹き飛ばされてしまった。
「あたしが協力してやるって言ってんのよ。玲のこと、好きなんでしょ」
強い風が、僕の背中を押した。
考えるよりも先に、僕の足はももこさんの後を追っていた。
本当に店長の言った通りだ。
僕のこの選択は、間違いなんかじゃなかった。他の選択肢を選んだ時のことはどうだっていい。僕のこの選択が、今の僕には最良の選択だった。きっとそれでいいんだ。
顔がにやつく。僕はそれを隠すことも忘れて、夢中で輪の中を目指した。




