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アイドル・オブ・アローン5

「どう……して……」

 ドアの前で固まる菅野さんの表情は、驚愕に焦燥が重なっていた。

 予想していなかったというよりも、まるで自らが選択を誤ったことに気がつき、それを確信してどうすることもできないような、絶望の色を浮かべている。

 そしてそれは、カウンターに座る綺羅めくるも同様だった。

「都……」

 本来こんなところで遭遇するはずのなかった人物を目の前にして、写し鏡のように表情を固めている。

 しばらく間があってから、この状況の犯人が僕だと早急に見当をつけた綺羅めくるが、カウンター越しに手を伸ばして僕の胸ぐらを掴んだ。

「これはどういうことだよ、おい……!」

「……」

「なんで都がここに……! あたしが頼んだこと忘れたの……」

「いいえ」

「じゃあ何なんだよ! あたしはこんなことしろなんて頼んでない! どうしてここに都がいるのよ! なんで!」

「ももこちゃん!」

 今にも殴りかかってきそうな剣幕の綺羅めくるを、落木部さんが後ろから羽交い絞めにした。小さな手が僕の襟から離れた。

 綺羅めくるは怒り狂った猛獣のように鼻息を荒くし、憎悪と激情を纏った瞳で僕を睨みつけた。怒りとか焦りとか、そういう大雑把な言葉で説明がつくものではなく、神経をすり減らしてぶつけてくるような、そんな感情の塊だった。

 初めてだった。こんなに人から剥き出しの感情を向けられるのは。

 昨日の菅野さんからは、感情を押し殺していたからかここまではっきりと感じることはなかった。

 でも、今の綺羅めくるは違う。

 抜き身の刃物の切先を向けられたような緊張と恐怖に苛まれる。生々しく混沌とした感情の渦が、僕を頭から喰らうように降りかかってくる。きっとこれは殺意にも似たものだろうと、僕の本能が危険信号を発している。逆鱗に触れた。それだけで僕は足が竦み、汗を垂れ流していた。酷く体が重い。

 僕はその血走った目を見据え、纏わりつく痛いくらいの感情の塊を押し返すように声を振り絞った。

「僕が嘘をついたんです。今日、菅野さんが来るのを知っていて、『今日は大丈夫です』と答えました」

「……何、言ってんの」

「僕は綺羅めくると、綺羅めくるのマネージャーである菅野さんを会わせるために、二人をここに呼んだんです。僕の意思で」

「それがどういうことだって聞いてんだよ!」

 また僕に飛びかかろうとした綺羅めくるを、落木部さんがなんとか制してくれた。申し訳ないことをさせていると思いつつ、僕は毅然として綺羅めくるの目を見る。

「あんたあたしに恨みでもあるのかよ! たった何時間か会ったくらいで調子に乗んな! 何が望んでいたことだよふざけんな! 子供みたいにわだかまりなく仲直りしろとでも言うのかよ、笑わせんなよ! こんなこと、こんなこと……!」

 言葉を並べ立てていく度に、綺羅めくるの双眸にはガラスのように透き通った涙が溜まっていった。

 綺羅めくるはしばらく落木部さんの腕の中で暴れ回ると、どうしようもなくなって諦めたのか、それとも疲労からか、嗚咽混じりに息を切らせて俯いた。

「こんなの、どうしろっていうのよ……」

 入口から微かなベルの音が鳴った。僕と落木部さんはほぼ同時に音の方を向く。

 今にも膝から崩れ落ちそうな菅野さんが、力無くドアに背中を預けていた。今の怒号をまるで自分に向けられた言葉として受け止め、怯えているようだった。

 菅野さんの白い手がドアノブにかかる。それがここからの離脱を意味することを悟った時には、僕の体は有無を言わせずカウンターから出ようとしていた。

「言わなきゃいけないと思います」

 だが、落木部さんの言葉の方が早く、強かった。

 菅野さんはドアを開けようとしたところで、こちらに振り向いた。

 精悍な顔つきで、あくまで冷静に、しかしどこか取り乱してしまいそうな不安定な口調で、玲さんが続ける続ける。

「ごめんなさい、菅野さん。私、手帳の中を見ちゃいました。もちろんやましい気持ちとかじゃなくて、持ち主を確認するためにですけど……」

 菅野さんの眼鏡の奥が揺らいだ。菅野さんはそれを悟られまいと、ずれてもいない眼鏡のブリッジを押し上げた。

「……そっか、見ちゃったんだ」

 その声は聞き取れるギリギリのところで、波のように揺らめいていた。

 落木部さんは一度唇を一文字に結んで、意を決したように続ける。

「でも私は、これが原因で二人の仲が悪くなったのなら、伝えるしかないと思います。二人がここで会ったのはきっとそのためです。少なくとも言わなきゃ今のままで、それはたぶん、ももこちゃんも菅野さんも満足しないし、きっと後悔することになる」

 落木部さんがあの手帳について、何を言っているのかは定かではない。ただ、落木部さんも僕と同じことを考えているようだ。

 最悪の結末は、二人がこのままで終わること。ここで二人の関係を上手く作り直さなければ、もう誰も、何も得をしない。それだけは避けなければならなかった。

 菅野さんは出ていく素振りこそ辞めたものの、酷く狼狽していた。平静を装う余裕すらも瓦解してしまったように、視線を散らばせ、僕や落木部さん、綺羅めくるを何度も見て、その度に(おのの)いているようだった。

 少し経ってから、菅野さんは項垂(うなだ)れた。

「私……私は……」

 その次の言葉が出ない。辛うじて口から出た言葉も、菅野さん自身の背中を叩いているようだった。

「今さら……」

 沈黙していた綺羅めくるが羽交い締めにされていた腕をほどいたせいで、落木部さんが小さく悲鳴を上げた。足元に視線を落としたまま、床を踏み鳴らして菅野さんに迫っていく。

「今さら……何、言って……!」

 そのまま殴るような勢いで、菅野さんの襟を掴んだ。

 僕にしたよりもより暴力的な、それこそ今にも顔面に拳を食らわせそうな覇気で、菅野さんをドアに磔にする。

「あんたはあたしを裏切った! あんたに裏切られてから、あたしは全部一人でやってきたのよ! もう誰の助けもいらない……! こんなことになるなら、あたしはもう──」

 僕と落木部さんはすぐに綺羅めくるを止めた。腕を取って引き剥がしたせいで、菅野さんがよろめく。

 引き剥がした後も、綺羅めくるは菅野さんに向かおうとした。僕の中にある腕は、この感情剥き出しの本人のものとは思えないほどに細かった。

「あたしはあんたを許さない! 所詮事務所の犬だったのよ! 自分のためだけにあたしの面倒を見て、元が取れたら乗り換えて、あの子も、またあたしみたいに捨てるんでしょ!」

 矢継ぎ早に繰り出される言葉は、苦しみの吐露そのものだった。抑圧していた感情が、菅野さんを標的にしてナイフのように刺さる。

 その痛みを受けてなお、菅野さんは俯いて黙っていた。

「もうあたしに関わらないで! あたしはこれからも一人で生きていく! 誰にも頼らないで、またあの場所に返り咲いてやる! それであんたを見返す! あたしを裏切ったことを、あんたがいなくてもあたしは一人でやれるってことを、その目に焼きつけてやる! 後悔させてやる! あんたなんて! あ、あんた……なんて……!」

 一気に溢れ出してしまいそうになる涙を必死に堪え、破裂しそうな感情を押し込むように、細い腕に力が入った。

「嫌いよ……バカ野郎……っ!」

 菅野さんが顔を上げた。

 僕と落木部さんの腕から崩れ落ちる綺羅めくるを、怯えて憔悴した目に映す。

 そのたった一言が、菅野さんの心のどこかを抉ったのだと、表情にはっきりと浮かび上がっていた。混じり気のない言葉だからこそ、何よりも強く、どこまでも深く菅野さんの内側に突き刺さった。

 そこで僕はようやく気がついた。菅野さんが何かを言う前に気がついてよかった。

 紛れもなく、これは僕の自分勝手が招いた結果だった。

 僕は綺羅めくると落木部さんの繋がりを第一に考えていた。この問題をどうにかすれば、あわよくば──そんな、綺羅めくると菅野さんを踏み台にするような、最低で、どうしようもなくみっともない理由だ。

 それでいて自分が何もできないと変に諦観して、菅野さんに役割を押しつけた。それだけならともかく、押しつけるだけ押しつけて、菅野さんの言葉を受け流していた。だから僕は昨日菅野さんに辛辣な言葉をぶつけたし、今日もこうして罠に嵌めるような真似をしてしまった。彼女がどんな想いでそこにいるのかを考えもせず。

 菅野さんにも事情がある。そんなことは分かっていたはずなのに、僕は僕の目的を優先させた。関係の上では部外者の僕が、当事者の正当な意見を無視して。それは菅野さんが内に抱いていた「不安定な安定」をかき乱す行為であり、綺羅めくるの秘めた激情を再燃させてしまうものだった。

 愚行だった。二人の関係に水を差し、挙句こうして、菅野さんを容易く傷つけてしまった。

 僕は奥歯を噛み締めた。腹の底から湧き出す罪悪感が、僕のしたことの是非を問うている気がした。もう何も言い出せなかった。自らの行いの愚かさを知った時、こんなにも人は惨めな気持ちになるのかと、本能が教え諭しているようだった。

 菅野さんが小さく口を動かした。

 その想いを口にすることがどれだけ勇気のいることか。僕は菅野さんの心を汲んだような気持ちになって、縫いつけたように口を(つぐ)んだ。

 愚かさの延長線上に立つ僕にはそうするしかなかった。菅野さんが何かを伝えるというのなら、僕は黙ってそれを見届けよう。それが今、僕にできるせめてもの罪滅ぼしだと思った。

 ──だが、菅野さんは何も言わなかった。

 ただ綺羅めくるを見つめている。何かを言い出す気配は全くない。

 フロアには綺羅めくるの小さな嗚咽だけが響いていた。僕も、落木部さんも、今はただの部外者でしかない。この空気が菅野さんの言葉を催促しているようだった。それでも菅野さんの口は小さく開いたまま、声そのものを奪い取られてしまったかのように、何も発することなく固まっている。

「菅野さん」

 そんな静寂を、落木部さんが破った。

 朗らかで溌剌とした普段の笑みは消え去り、追い立てるような目を真っ直ぐに菅野さんへ向けていた。

「言ってください」

 そしてもう一度、強く要求する。

 だが、菅野さんは目を逸らした。彼女の意志の表れだった。僕は、こうして彼女の言葉でなければ終わらないような状況にまで、彼女を追い詰めてしまった。脂汗を浮かべるその顔を見ると、心臓を握られたような感覚が襲う。もう、何も言わなくていいとさえ思えてくる。

 菅野さんを……いや、そもそもこの二人の関係は、僕なんかがどうこうしてはいけないものだったんだ。

 僕は落木部さんに振り返った。後悔が先に立って、考える前に落木部さんを止めようとしていた。

 なのに、何も言えなかった。

 落木部さんはいつからか、眉根を寄せて僕のことを見据えていた。少なくとも僕が振り向く前には、その瞳は僕のことを捉えていた。

 この状況を招いたのは僕自身で、ここまでしたのに、僕が真っ先に掌を返すのはお門違いだ。そう訴えられているような気がした。

 菅野さんの表情が感染ってしまったのかもしれない。落木部さんの決意は僕なんかの比にならなかった。昨日綺羅めくると菅野さんを邂逅させるという作戦の趣旨を説明している時から、きっと落木部さんは友人への想いを覚悟に変えていた。

 一方の僕には、責任を取ることしかできることはない。そして責任を取るためにはまず、僕が口を挟んではいけない。落木部さんの言う通りにする以外になかった。

「違う……」

 菅野さんがようやく、重たそうな口を開いた。

「何が!」

 その声に綺羅めくるが即座に反応した。叫びともとれる声量に、菅野さんは小さく肩を震わせた。

「……まず、元を取ったらとか、そういうのは、違う」

「じゃあどういうことよ」

「……お金は、関係ない」

 菅野さんは俯き加減のまま、ぽつりぽつりと砂の上に鉛玉を落とすように言葉を吐き出していく。

「お金じゃなかったら何だっていうのよ」

「それは……」

「それ以外にある? あんたにとって、あたしなんてお金以外何も魅力がなかったんでしょ? 味を占めたのか、最初からそれが目的だったのか知らないけどさ」

「ち、違っ……」

「じゃあ何なのよ!」

 悲鳴にも似た綺羅めくるの怒号が、菅野さんを言いかけた言葉ごと呑み込んだ。

「あたし、あんたに何かした? あんたの思う通りに頑張って、やっと一番になれたと思ったのに、ダメになったら見切りつけるわけ? あたしはあんたに感謝してたし、尊敬もしてた! なのにこんな仕打ちって……!」

「待って、ももこ……」

「待たない! なんであたしだけこんな苦労しなきゃいけないのよ! 何もしてないのに! なんで、何もかも失わなきゃいけないの! あたしだけ……! どうしてよ!」

「ももこ……!」

「あんたも大切なものを失えばいいのよ! そうすれば今のあたしがどんな気持ちで頭を下げて回ってるか分かるでしょ! あたしだけこんな目にあってるなんて許せない、だから……」

「──ももこッ!」

 初めて聞いた菅野さんの絶叫に、僕も、落木部さんも、綺羅めくるでさえも、呆然とした。

 形振り構わず発せられたその声は、フロア全体の時間を止め、静寂をもたらした。体裁など気にする余裕もないほど必死な姿は、昨日やさっきまでとは別人だった。

 菅野さんは一度大きく深呼吸すると、両手を強く握り締める。

「……どいつもこいつも、自分のことばかり考えててさ……。誰も私の、本当の心の内を見ようともしない……。どうして私が辛くないと思うの? 顔に出さないから? 馬鹿馬鹿しくて笑えてくるわ。視界に映るものだけがこの世のすべてじゃないって、私昨日言ったわよね、百瀬君」

「……はい」

 僕は頷くしかなかった。事実である以上に、今の僕の立場では、万に一つも菅野さんに盾突くことなんてできない。

「あんた何言って──……ッ!?」

 再び噛みつこうとした綺羅めくるの口を、落木部さんが手で塞いだ。

 予想外の人から強制的に口を紡がれ驚いていた綺羅めくるは、しかし落木部さんの至って真面目な表情を見るなり、怪訝そうにしながらも何も言わずに落ち着いた。

「ももこ……」

 菅野さんは伏せ続けていた顔をゆっくりと上げた。眼鏡をかけていても分かるくらい、その目元は染まっていた。

「裏切ったわけじゃない。もちろん、ももこを傷つけるためでもない。お金のためでもない。私だってももこを尊敬してた。こんなに努力を続けられる子がいるんだって、私は素直に驚いた。みるみるうちに名前が知れ渡るあなたを見ていて、私も誇らしい気持ちになった。それは本当」

 綺羅めくるが散々こき下ろしていた評価を覆すような、堂々とした口調だった。

「でも私は、もうあなたの傍で、あなたを見守ることはできない」

 しかしそんな調子もすぐに崩れ、わずかに声音が震えた。

「もう少ししたら、ちゃんと話そうと思ってたんだけどな。……まあ、見られちゃったしね。白状する」

 菅野さんは僕を、そして落木部さんを一瞥すると、ゆっくり目を瞑った。

 間を置いているようだった。一つ、二つと息をし、その言葉の重さ故の覚悟を決めているようだった。

 目を開け、綺羅めくるを見る。少しだけ逡巡して、今度はしっかりと視線を定めた。

「私は……」

 胸の前で手を握る。溢れそうな感情の渦を、理性で押さえつけるように。

 そして、発露した。

「私は……──ももこのことが、好き」

 僕たちはその言葉の、奥の奥にある真意をすぐに汲み取ることができなかった。

 安易な言葉だと決めつけていた。少なくとも僕たち三人……いや、恐らく二人はそうだった。僕たちはそれを、社会に触れる中で身に着けた、当然と言われるような解釈の範囲内で意味付けして、頭の中に落とし込んでいた。社交辞令そのものだと、思ってしまった。

 そんな軽い意味で理解しようとしてしまうほど、僕たちは混乱していたのだと思う。

「私はももこのことが好き。友達としてとか、仕事がしやすいとか、そういう理屈でどうにかなるものじゃなくて、私は一人の女として、あなたのことが好きなの」

 菅野さんは自分に言い聞かせるように反復した。眼鏡の奥の双眸には血のような涙が溜まっていた。

 僕と綺羅めくるはやっとその真意を咀嚼し始めた。分かったようで、分からない。理解しようとするが、どこか認めたくないような自分もいた。それはきっと綺羅めくるも同じで、性質は同じだが、綺羅めくるの方が何倍も苦悩しているはずだった。

「……もちろん最初は違った。私はマネージャーとしてこの子を育てて、立派なアイドルにしてみせるって意気込んでた。でも初めて違和感を覚えたのは、ももこがあるバラエティ番組のレギュラーになった時。今まで仕事相手として見ていた綺羅めくるが、澤井ももこに変わっていったの。変な話でしょ」

 菅野さんは小さく笑う。

「それからは早かったわ。仕事相手だって割り切らなきゃって思うのに、頭が言うことを聞かないの。会うことが楽しみになっていって、ももこのためなら何だってやってやるって思うようになって、仕事も一層力を入れるようになった。そうしてももこはトップにまで登りつめた。嬉しいったらなかったわ。この子と出逢うために私は生まれてきたんだって、本気でそう思ってた。でも……」

 そして、顔を隠すように床を見た。

「私のこの感情は、そう簡単に受け入れてもらえるものじゃないってことは知ってた。私自身、まさか自分がこうなるなんて思ってなかった。戸惑った。毎晩毎晩、ももこのことを想って、想う心が私の中にあることを確かめるたびに、後悔が続くようになった。これでいいのかって。どうしてこんなことになったのかって。それから、私は少しずつももこの仕事の量を減らしていった。私の気持ちが高じて得られた大量の仕事を削れば、少しは落ち着くかもって思ってた。それから別の子のマネージャーも始めて、もとの菅野都に戻れると思ってた」

 菅野さんの靴の甲に、ビー玉のような大粒の涙が落ちた。

「でもね、本当は違ったのよ。仕事がもらえるようになってから、前みたいにプライベートな話をすることもなくなった。だから仕事を減らせば、また二人で楽しい時間が過ごせると思ったの。こっちが本当の動機。結局私は、私の感情を抑えることができなかった。自分の欲望に従っていた。そうしたらもう片方の子が売れ始めて、私が減らすまでもなく、ももこの仕事は目に見えて減っていった。そうして、どうしようもなくなってしまった。私なんかがどう足掻いたってどうにもならないくらいにね」

 小さな震えと共に発せられる言葉のひとつひとつ、枝葉末節に至るまで、真実の響きと色褪せた無念の色を纏っていた。

「ももこ」

 俯いたまま、落ち続ける涙を止めようともせず、菅野さんははっきりと告げる。

「辛い思いをさせてごめんね。私が仕事を減らしたのをきっかけにあなたは人気を失って、もう一人の子があなたの後釜みたいに売れてしまった。それからは、あなたが私を避けるようになっていった。気づいてたわ。でも全部、私のせい。因果応報。すべて私がやったこと。それで自分の首を絞めてるんだから、笑いものよね。情けなくて涙が出るわ」

 笑って誤魔化そうとしても、その勢いは止まらなかった。

 僕は後悔していた。頭が麻痺してしまいそうなくらい、自分のしたことが忌まわしくて仕方なかった。

 きっとさっき落とし込んだ意味付けには、性別の固定観念みたいなものがあった。女と女、それ以上でも以下でもない、と。

 でもそんなことは関係ない。性別がどうであろうと、菅野さんが好きになったのは綺羅めくるで、その綺羅めくるが、たまたま女の子だったというだけ。偶発的な産物だ。その本質は、今隣にいる人を好きになってしまった僕と変わらない。それどころか、そんな偶発的な産物のせいで、これまで菅野さんがどれほど苦しんできたのかを考えると、僕なんかが彼女と同じ土俵だと考えることすらおこがましい。僕は僕の中にあった無意識の決定に安住していただけなんだと、つくづく実感する。

「ありがとう、百瀬君」

 菅野さんがスーツの袖で涙を拭いて、微笑みながら僕を見た。腫れぼったい目がいやに痛々しかった。

「君がこうして引きあわせてくれなかったら、こうしてももことまともに話せなかったかもしれない。昨日はいろいろ言っちゃったけど、許してね」

「い、いやそんな──」

 菅野さんの困ったような笑顔を見て、僕は言葉を失った。

 僕には一生かかっても無理なことだと思った。菅野さんは僕が思っているよりもずっと大人で、たぶん僕が今まで会ったどんな大人よりも芯が強い。そう思わせるくらい、今の菅野さんの声には何者をも寄せつけない高潔さのようなものがあった。

「玲ちゃんも。ありがとう、発破かけてくれて」

「いえ」

 落木部さんも小さく苦笑しながら、会釈した。

「ももこ」

 そして再び、呆然としている綺羅めくるを呼ぶ。

「本当はね、明後日のももこの誕生日に言おうと思ってたの。そこで言って、全て終わらせるつもりだった」

「終わらせる……?」

「私はもう、ももこと関わらない」

 僕たちはその時、たぶん一斉に驚き、一斉に同じ結末を予想した。

 関わらない、ということは、関係を断ち切ること。

「私は、事務所を辞める」

 僕と落木部さんは息を呑んだ。綺羅めくるは感情が欠落したように固まった。

 反対に菅野さんは、どこか晴れやかな顔で僕たちを見ている。

「実はね、もう辞表は出してあるの。だからこの業界とはもうすぐおさらば。ももこと、もう一人の子の次のマネージャーは、私がちゃんと信頼できる人にそれぞれお願いしてある。だから安心して」

「ま、待ってください! そんな急に……!」

「急な話じゃないわ。半年くらい前から、決心はついてた」

 目元を真っ赤にしている人が飄々と言っても、そう簡単に受け入れられるわけがない。

 菅野さんはゆっくりと、崩れ落ちたままの綺羅めくるの前に膝をついた。

「ねえ、ももこ。あなたはあなたが思ってる以上に不器用で、誰かが面倒を見ないとこれから上手くやっていくのは大変かもしれない。でもね、それは私じゃない。あなたに嫌いって言われて分かった。あなたに特別な感情を持つ私が、あなたの傍にいても仕方がないって」

「それは……っ!」

「だからね、私はあなたの前から消える。その上で、後腐れがないように、ももこの口から返事が欲しい。答えはもう分かってるけど、これからの私の背中を押すと思って。いい?」

 菅野さんの問いに、綺羅めくるはしばらく黙りこくった。そして数秒した後、ためらいながらも極々小さく頷いた。それから、ひとつひとつ感情を削り取るように、菅野さんへ返答した。

「あたしは……都に裏切られたと思った。それで嫌いって言ったけど、それは違くて……。ただの強がりで、ただの出任せで。本当は、都のことが好き。でもあたしの好きは都の好きとは違うから、だから……ごめんなさい」

 菅野さんの目がまた、零れ落ちそうなくらい涙を溜める。しかし口を堅く結び、崩れてしまいそうではあるが、なんとか我慢していた。

「──でも」

 綺羅めくるが顔を上げた。二人の視線がちょうど重なった。

「あたしは澤井ももことして、都と仲良くしていたい。気持ちに応えることはできないけど、それで都との関係を全部なかったことにするなんて、あたしは嫌だ。あたしの前から消えるなんて言わないで。消えるなら、綺羅めくるの前からだけにして」

 真っ直ぐ菅野さんの瞳を見つめる綺羅めくるは、肝が据わっているんだと思う。

「こんな終わり方、もしかしたら都は嫌って思うかもしれない。でもあたしはこれがいい。だから、一応けじめつけるわ」

 それは、この場の誰もが予想していなかったと思う。少なくとも僕は面食らった。

 ただ同時に、なんだか綺羅めくるらしいとも思った。

「今まで綺羅めくるを、立派に育ててくれてありがとう。そして今度は澤井ももこを、友人として支えてあげて。どうかこれから、よろしくね」

 菅野さんの眼鏡の淵から、大粒の涙が矢継ぎ早に頬を伝った。

 綺羅めくるが手を差し出し、それを菅野さんが握り返す。

 もう僕たちには、何も言うことはなかった。菅野さんの涙は、きっと苦しくて流れたものじゃない。僕はそう信じることにする。それだけの証拠が、今ここにある。

 菅野さんが子供みたいに泣き疲れるまで、綺羅めくるは握ったその手を放すことはなかった。


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