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アイドル・オブ・アローン4

 「綺羅めくる」や「澤井ももこ」という名は表向きの名前で、彼女の本業は秘密探偵とかFBIとかに違いない。

 そう思わせるくらいに、僕の連絡先は大いに活用され、綺羅めくるの思うままに事が進んでいた。

 まず渡した翌日にはもう着信が入り、現状で僕が入っているシフトの日時を尋ねてきた。メールではなくわざわざ電話で言ってくるなんてご苦労なことだ、という内心でやんわり指摘したが、曰く「内容が残る媒体で連絡を取り合うのはあたしの立場からして愚行」だそうで、どうしても電話が使えない時の最終手段としてメールというツールを取って置くのだそうだ。

 また綺羅めくるの携帯は当然のように非通知設定で、番号を知ることもかけ直すこともできない。つまり僕の個人情報は見事に搾取された(のち)、彼女の個人的な都合のために所持・保管・酷使されているのである。

 まあ、ただの愚痴のように聞こえるかもしれないが、そこから感じ得たこともあった。

 率直に言って、綺羅めくるは本気だった。ある日は、ちょうど電話がかかってきた時に彼女のマネージャーが店にいることを伝えると、悔しそうに舌打ちして電話を切り、店に来なかった。またある日は、綺羅めくるが来店した後にマネージャーが来店すると、ばつが悪そうにそそくさと店を出ていった。何が何でも鉢合わせするのは御免らしい。いかに女性が嫌悪の対象だとしても、やりすぎではと思うほど徹底し、かつ継続していた。

 数こそ少ないが、そういうことが起こりつつ、二週間が経った。

 肌寒さも通り越していよいよ本格的な寒気に身を震わせ始める頃。太陽が傾き始めた店の外では、道行く人がもうすっかり厚手の上着を着込んでいた。もちろん店の中は暖かいから、そういう人々の姿を見ていると、すぐにでも暖をとりにくるんじゃないかという予感がする。

 僕は落木部さんのシャツの上に軽めのセーターを重ね、ドアを開けた時に入ってくる冷たい風に備えていた。が、落木部さんの期間限定ハロウィンバージョンが惜しまれつつ終了した上、季節の変わり目だからといって客足が活気づくこともなく、安定して低い売り上げを保ちつつ、普段通りのペースで時間が進んでいた。

「店長ー! カフェオレ一つお願いしまーす!」

 だが、この短期間でわかったことが二つある。

 まず一つは、たった今落木部さんが注文を受けた女性──綺羅めくるのマネージャーは、この店の常連だということ。

 僕がシフトに入っている日は高確率で店に来たし、そのおかげで数回、本当に綺羅めくるは連絡を寄越してから店に来ることはなかった。今日も僕が「あー……」と言葉を濁した時点で舌打ちをされて電話を切られた。なんとなくマネージャーさんが来店するスパンを捉えたのかもしれないし、自分と同じく常連だと気づいてしまったのかもしれない。とにかくこれが分かったことで、玲さんも「最近またももこちゃんを見なくなりましたね」とぼやいていた。

 そしてもう一つは、マネージャーさんの方は綺羅めくるがこの店の常連であることを知らないということ。

 綺羅めくるも上手くスケジュールの合間を縫って(そもそもスケジュールが埋まっているかは定かではないが)来店しているらしい。まあ仕事の外での話だから、わざわざマネージャーに言う必要もないのだろうけど、ついこの間まで仕事の上でのパートナーが自分と同じ店に通っていることを知らなかったというのは、今の二人の関係を推測するには十分すぎるピースだった。

 僕はテーブルを拭きながら、何度も落木部さんと会話するマネージャーさんの背中を見てしまう。その度に二人の関係を邪推する。大きなお世話だと分かってはいるが、僕自身が巻き込まれている以上、これは不可抗力に近い。

 僕はつい嘆息する。何故僕はこんなことに巻き込まれているのか。僕はただ落木部さんへのこの恋心をどうにかして昇華したいだけで、客同士のいざこざに巻き込まれるのは全く以て不本意だ。

 とはいえ、いろいろと不運、というか偶然が重なってこうなってしまったことは仕方がないこととして受け入れるしかない。僕の力の及ばないところでこんな状況の只中に放り込まれてしまっては、たとえこれらすべての現状を無視して己の心に従ったとしても、その結果が芋づる式に僕の道を塞ぐ結果を招くことは想像に難くない。

 しかし同時に、どこから発生したか知れない使命感のようなものも僕の中にあった。決して無視できない大きさで、僕の心の一部を占拠していた。そういうどっちつかずの中身を持った僕は、やはり綺羅めくるが落木部さんと繋がっていることもあって、その使命感とやらを贔屓にしようとしていた。

 店内のテーブルを大方拭き終わったところで、僕はカウンターの中へ戻った。

「あ。ありがとうございます百瀬さん」

「いえいえ」

 落木部さんの労いを真摯に受け止めながら、僕はふきんを洗って新しいものに取り替え、棚に積んである皿を持ってカウンターに立つ。

 接客する相手もおらず暇な時、そして落木部さんが取り込み中の時の最終手段、皿拭きだ。これを始めてから「この店は皿も新品同然にピカピカにするのか。素晴らしいおもてなしだ」と一部界隈で評判らしい。

 一歩分隣にいる落木部さんは、相変わらずマネージャーさんと談笑していた。女性同士の会話だし、そもそも楽しそうだし、無論僕が入り込むような隙はない。そして僕もこれくらいの空気は読めるから、少し離れて黙々と暇を潰す……もとい、皿を拭き続ける。

 しかし空気を読むことと気にしないことは別問題であって、僕はふと、明るい笑顔を咲かせるマネージャーさんを横目に見た。

 彼女を間近で見るのは初めてだった。会話の邪魔をしてはいけない、というか落木部さんの邪魔をしたくないためにどうにかこうにか仕事を見つけてはこなしていたので、まともに話したこともない。

 初めて遠目に見た時に思った通り、キャリアウーマンという言葉が板についた容姿だった。落木部さんや綺羅めくるとは異なり大人の女性という印象で、透明感とビジネス向きの緊張感を纏っている。

 そこで、あらゆる考えに先立って、ある疑問が浮かんだ。

 どうして見るからに仕事に実直そうなこの人が、綺羅めくるを裏切るような真似をしたのか。

 彼女の人柄が容姿の通りなら、そして綺羅めくる本人の言っていたことが正しいなら、彼女はマネージャーとして非常に優秀で、ビジネスチックな考え方の持ち主なのだろう。嫌な言い方だが、今の綺羅めくるとの関係を割り切ったのは、確かにサラリーマンとしては正解なのかもしれない。

 笑っているマネージャーさんを見ていると、その向こうに綺羅めくるの顔が浮かぶ。あの苦しそうな顔だ。それを見ていると、どうしてもマネージャーさんが自分は関係ないと主張しているように思えてくる。不仲という事実を笑顔で隠しているように感じてしまう。

 押し出される使命感のようなものが、僕の体の中心に居を構えつつあった。

「潤ちゃん」

 後ろから呼ばれて、僕は手を止めて振り向いた。

 微笑を湛えた店長が、キッチンの中からカフェオレを差し出していた。

「この間さ、ももこと随分話し込んでたでしょ」

 皿とふきんを置いてカフェオレを受け取ると、店長は僕の心を見透かすような目で言った。落木部さんともあれだけ仲が良いせいか、店長が綺羅めくるを呼び捨てにしていてもあまり不思議には感じなかった。

「まあ、呼び止められたので」

「へぇ」

 間違ったことは言っていない。むしろ事実だけを伝えたのに、店長は僕の言葉の裏側にある動機を探すように、じっと目を合わせてきた。

 店長に隠し事をする時は気をつけよう。今も隠しているわけではないが、自分の発言の、自分で気がついていない真意を掴まれていそうで、何もかもを(つまび)らかに吐かされてしまいそうだ。

「何を言われたか知らないけどさ、いろいろと(こじ)らせてみるのも面白いわよ。アタシそういうの好きだし」

「はい?」

 突拍子もない言葉に、思わず変な声が出てしまった。

「若い時って何かと溜まるのよねぇ。人間関係とかこれから先の人生とか、あと恋とか」

 僕は何も答えなかった。答えたら負けのような気がした。

「だからさ、潤ちゃんも思ったことはバンッと言った方がいいわよ。スッキリしないと進まないこともあるからね。スッキリ。溜めるのはよくないわ。何がとは言わないけど」

 そう言って、店長は星が瞬くようなウインクを僕に放ち、キッチンの中へと消えていった。

 何を伝えたかったのかはよく分からなかったが、僕が何もしなくても既に状況は拗れているし、店長の好みなど本当に知ったことではない。

 ただ、なんとなくではあるが、店長の言葉が鎧のように僕の心を守ってくれて、後押ししてくれたような気がした。

 不思議な感覚だ。二言目には「僕には関係ないのに」と思う一方で、安っぽいこの使命感から目を逸らすことはできそうになかった。

 僕は結露を始めたグラスを一度拭き、楽しそうに話している二人の間に割って入って、コースターと共にマネージャーさんの前に置いた。

「どうぞ」

「あら、どうも」

 小さく会釈をして、そそくさと退却する。甘い匂いがした。女子が向かい合って喋るとこんな現象が起こるのか。どういう原理なのだろう。

「そういえばあなた、新人さんよね?」

 再び皿拭きへ戻ろうとした僕を、明らかに僕へ向けられたであろう言葉が止めた。振り向くと、マネージャーさんが微笑しながら僕を見ていた。

 一方の落木部さんは、僕とマネージャーさんを交互に見て疑問符を浮かべている。

「はい。まだひと月とちょっとです」

「あぁー! なるほど、百瀬さんは菅野(かんの)さんとあまり会ったことがないんですね! そういえば!」

「いつも落木部さんと楽しそうに話してますからね」

 輝くような笑顔で「なるほど!」と手を打った落木部さんはさておき、僕は改めてマネージャーさんに向き直り、我ながらうやうやしく頭を下げた。

「百瀬潤です」

「ご丁寧にどうも。菅野都です」

 僕の真正面になるよう体を向け、同じく頭を下げるマネージャーさん、もとい菅野さん。職業柄か、それとも社会人だからか、僕なんかより(かしこ)まった深いお辞儀をしていて、僕はつい恐縮してしまう。ちゃんとしている、と思った。

「菅野さんはですねー、うちの常連さんなんですよ! もう随分前から贔屓にしてくれててですね、毎日綱渡りな経営を支えてくれる命綱みたいな方で……」

「玲さん、言い方言い方」

 落木部さんのことだから悪意を持って言っているわけではないのだろうけど、まるで菅野さんが金ヅルのように聞こえてしまう。

 僕たちのやり取りを見ていた菅野さんは、口に手をあてて小さく笑った。

「よかったわね玲ちゃん、また新しい人が入ってきてくれて。しかも真面目そう。私が来るといつも掃除してるでしょ」

「A型なので」

「百瀬さんは有望株ですよ! 私なんて百瀬さんくらいになるのに半年かかりましたもん!」

「いや、それは彼が普通なだけだと思う」

「やだなあ、それじゃあまるで私がちょっとアホな子みたいじゃないですかあ」

「……」

「……」

「なんで二人とも黙るんですか! 私、アホと違いますよ! ち、ちょっと抜けてるだけで……失礼な!」

 自分で抜けてるとか言っちゃうんだ。

 どうやら僕が思っていた以上に、菅野さんはレインダンスの功労者のような立ち位置にあるようだ。頭の中でこの店自体が直接落木部さんに結びついている僕としては、彼女の発言が店としての発言そのものなので、疑いの余地はない。ついでに有望株というのも真に受けておこう。

 だから、この菅野さんという人がどんな性格で、どういう人柄なのかというのは、落木部さんや店長は知っているかもしれない。でも、僕はまだだ。まだ知らない。

 社交性の出番だ。

 これが本当に社交性というものの本質を根底に据えた行動であるかはともかく、その言葉を使えば僕だけでなく落木部さんたちも知らない、菅野さんの深いところが見える気がする。

 便利な言葉だ。社交性という言葉は、僕の性格の悪さの隠れ蓑のようなものになっている。

「菅野さん」

「何?」

 楽しそうな笑顔の余韻を残しながら、菅野さんは僕に振り向いた。

「失礼ですけど、お仕事は何を?」

「菅野さんのお仕事はですねー、芸能人のマネージャーさんなんですよ!」

 本人が言うより先に、落木部さんが意気揚々と告げた。これは流石に落木部さんも知っているか。まあ常連だし、そういう話題に耽ることもあるだろう。

 僕はさらに投げかける。

「芸能人? 誰ですか?」

「それはですね、最近絶賛売り出し中の……」

「落木部さん」

 また本人に代わって告げようとした落木部さんを、少し強めに制した。彼女には申し訳ないが、僕の中にはまだ懸念が残っていた。それを暴きたい。もうすっかり、僕の中の巻き込まれてしまった故の倦怠感は薄らいでいた。

「誰です?」

「……あ、あー、そっかそっか。私、君には話してなかったわね」

 菅野さんは慌てているのを取り繕うような苦笑いを浮かべた。

「そうそう、玲ちゃんの言うとおり、最近売り出し中の新人の子で、結構ファンも増えてきてる……」

「その人だけですか?」

「え……」

 きっと予想外だった僕の追い打ちに、菅野さんの顔が露骨に強張った。

「も、百瀬さん? どういうことですか、その人だけって……」

 状況が読めていない様子の落木部さんは、なるほどやっぱり知らないみたいだ。綺羅めくる本人からはともかく、功績のひとつとして語ってもよさそうな綺羅めくるのマネージャーであるという事実は、この場では僕と菅野さんしか知らないみたいだ。

 ぼんやりと、菅野さんの中に、言葉にするのも憚られるほどのしこりがあるのが見えたようだった。

 僕は菅野さんに現実を、落木部さんに事実を突きつける。

「綺羅めくる」

 それだけで、菅野さんの表情が悲しいくらい引きつった。

「なんで……」

 よく聞き慣れた名前が出てきたことが理解できないと言いたげな落木部さんだったが、すぐに目を見開いた。大方勘づいたようだった。

「成功の立役者、ですよね」

「……真面目なだけじゃなく抜け目もないのね。誰に聞いたの? もしかして君もあの子のファン?」

「本人です」

「本人?」

 僕が何を言っているのか分からないと、訝しげに僕を眼鏡の奥から睨めつけた。

 しかし僕が何かを言うより先に、落木部さんが喉の奥で詰まらせたような声音で、彼女に告げた。

「ももこちゃん……綺羅めくるさんは、このお店の常連さんです。菅野さんと同じように」

「え──」

 菅野さんは表情を失った。そして誰かに呼びかけられたように誰もいないフロアに振り返って、件の人物の影を探すように見回す。

「ちょうど本人から聞きました。菅野さんのこと。あなたがいなければ自分は成功することはなかった。あの景色を見られたのはあなたのおかげだって。それから、もう自分は本当に一人だって」

 綺羅めくるの言葉を代弁すると、菅野さんは引き寄せられるように僕を見た。その顔は怯えているようにも見えた。

 僕はまた続ける。

「あなたがいたおかげで、きっとあの人は支えを得たんです。それが上を目指す理由にもなって、あなたがいたから、綺羅めくるは綺羅めくるとして名を馳せることができた」

 綺羅めくるは、諦めているわけではない。今度は自分一人で這い上がろうとしている。

 かつて頂点を手に入れた者が地を這う姿は、とてもじゃないが見ていられないと思った。それでも、綺羅めくるはまだ頂上を見上げている。

 僕は少し逡巡した後、彼女の後ろ姿を思い浮かべながらひとつ息を吸った。

 釈然としなかった理由が分かった。巻き込まれたのに使命感が湧いてきたのは、こういうことだったのだ。

「僕たちの綺羅めくるを返してください。アイドルとしての彼女をもう一度、僕たちに見せてください。あなたの他にそれができる人はいないんです」

「……何、それ」

 菅野さんの手が、痛みを押し潰すように強く握られていた。絞り出す言葉が少し震えている。

「そんなの、君のエゴじゃない。人のことなんて何も知らないくせに、自分の好きなものを崩されたらそうやって不満を言って、無責任に元に戻せって……!」

「無責任なのはあなたじゃないですか」

「っ……!」

 逆撫でするような僕の一言で、菅野さんから痛いほどの敵意を感じた。いや、敵意というより、僕なんかに言われたこと自体が腹立たしいに違いない。一介の大学生が何を偉そうに、とでも言いたげだ。

「綺羅めくるにとって、きっとあなたは大切な一部だったんです。そして同時に頂上を目指す理由でもあった。ちゃんとあの人を見てください。ここであなたが目を逸らしたら、あの人は何を頼って上を目指せばいいんですか」

「……」

 あの揺らぎは嫌なものだった。世間に受け入れられていた彼女の姿が陽炎のように歪むのは、まさにこの世界から彼女が消えてしまうような錯覚まで引き起こす。それが彼女の人生を狂わせる。彼女の人生が狂えば、この店や、落木部さんにも、その波は押し寄せてくるような気がする。

 僕にできることは何か。それをこの状況の中で考えて、捻り出した結果だった。何かに背中を押されている感覚があった。僕は確かに、自分の口から次々と吐き出される言葉を武器に感じていた。

「何も知らないくせに……」

 菅野さんは顔を伏せ、小さく体を震わせながら呟いた。

「君も、自分の視界にあるものがこの世界のすべてだと思ってるタイプね。まあまだ大学生だから仕方ないか。でもね、これから嫌というほど知ることになるわ。本当は思うようにならない、どうしようもないことで溢れてる」

 その声は怒気を孕んでいた。菅野さんはハンドバッグから財布を取り出して、カフェオレの分だけ小銭を置き、立ち上がった。

「ごちそうさま」

 そして捨て台詞を僕にぶつけて、早足で店を出ていく。僕も落木部さんも、まだ余韻を響かせるベルの方をしばらく見つめた。

「派手にやったわねー」

 一部始終を見ていたらしい店長が面白半分に笑いながら言うと、すぐにキッチンへ引っ込んだ。

「そういうことだったんですね……」

 全てが腑に落ちた落木部さんは、眉をハの字にして俯いた。

 二人と顔見知りである落木部さんでさえ気づかなかったんだ。誰かが言うか、本人に聞くかのどちらかしか知る術はない。

「菅野さんがレインダンスに顔を出してくれるようになったのは、半年くらい前です。ちょうどももこちゃんがあまり来なくなったのと入れ違いになったんだと思います。ももこちゃんとはたまに連絡を取り合ったりしてたんですけど、営業は大変とかなんとか言ってたのも、たぶん……」

 一人で頑張っていた。

 仲の良い落木部さんに弱みの一つも見せず、自分の足で歩き回って這い上がろうとしていた。

 それは、あまりにも彼女に不釣り合いだ。彼女の努力を知ってしまった僕は、僕の中で揺らいでしまった澤井ももこという一人の少女を、綺羅めくるという一人のアイドルにもう一度書き換えたかった。偶像のままでいてほしい。そのためには菅野さんという力が必要だった。

「あれ?」

 フロアに出てカウンターを拭いていた落木部さんが、足元を見ながら声を上げた。途端、持っていた空のグラスとふきんを置くと、急にしゃがんでカウンターの影に隠れてしまった。

「これは……手帳?」

 再び姿を見せた落木部さんが手にしていたのは、新書くらいの大きさのピンク色の手帳だった。

 落木部さんはそれをしばらく凝視すると、「失礼します……」と小さく断って捲り始めた。そしてあるページを開いた瞬間、氷漬けにされたように固まった。

「落木部さん?」

「……これ、菅野さんのです。きっとお財布を出す時に落ちたんだ」

「本当ですか? どれ……」

 僕にも見せてください、と伸ばした手は、手帳に届く前に落木部さんによって制された。

 若干の驚きと寂しさを感じた僕を、落木部さんは悲痛な面持ちで見ていた。

「これは、ダメです。これは見ちゃいけないものでした……。早く返さないと……」

 落木部さんは手帳を閉じると、焦りを浮かべてドアの方に走り出した。

「まっ、待ってください! 今からじゃ追いつけませんよ!」

 あの様子では手帳を落としたことにも気がついていなさそうだったが、あれだけ早足ならもう随分遠くまで行ってしまっているだろう。何より、さっきの今で店に戻ってくるかどうかも怪しい。

「日を改めましょう。それは落木部さんが持っていてください」

 僕が諭すと、落木部さんは苦しそうに逡巡した後、小さく頷いた。

「……そうですね。分かりました。じゃあ明日にでも取りに来てもらえるよう連絡を……」

「はい。明日──」

 そこで、あることを閃いた。というか、もうこうするしかないと思った。

 その発想に至ったことを少しばかり後悔したが、あれだけ啖呵を切ったんだ。ここまできたらとことんやらなければ面目が立たない。生半可な覚悟で言ったわけではないことを証明して、もうこれでダメならどうしようもないという意気で、荒療治だ。

 そして、翌日。

 落木部さんから連絡をもらった菅野さんは、レインダンスのカウンターに座る少女を見て、小さく後退りした。


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