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参戦2

 翌日の初出勤、まず最初に、僕はこのカフェ『レインダンス』に抱いていた印象を覆さなければならなかった。

 僕がどぎまぎしながら店のドアを開けると、落木部さんは額に浮かんだ汗を拭いながらカウンターの中で小休憩を取っていた。なんでも、駅からそれほど遠くもなければ僕の通っている大学からもあまり遠くないという立地故に、開店から昼の時間帯はサラリーマンや学生がそこそこ立ち寄るらしい。とはいえ満席になるほどではないらしいが、ホールスタッフが落木部さん一人という状況を鑑みれば結構なハードワークである。

 そんな状況もあり、店長は朝からまっさらな新人を投入するのはさすがに忍びないと思ったらしく、暇になる……もとい客足が落ち着く昼過ぎからシフトを組み、せっかくだから入念に教えていこうという算段だったようだ。

 そして時計の針が午後三時を過ぎた頃、客は店に入ってこないが、落木部さんから入ってくる情報量は気が引けるくらいに膨大だった。

 注文の取り方から簡単なドリンクの作り方、掃除の仕方など、数え上げるのも億劫になるほどの仕事内容が矢継ぎ早に繰り出され、これを毎日、しかも一人でこなしていたとなると、店長が彼女を大切にするのも頷けた。

 ちなみにコーヒーと食事の調理は基本的に店長が一任している。完全分業制。まあ落木部さんもアルバイトだし、下世話だが彼女くらいのルックスをホールに出しておかないのはあまりにもったいない。

 そうした仕事を今日も朝からぶっ続けでこなし、その上僕の指導までしてくれるなんて、まるで頭が上がらない。それにこの制服――無事白いワイシャツに黒のスラックスとエプロンだったが、それぞれに僕の名前がローマ字で刺繍されている。昨日の今日ということはこの刺繍も寝る間を惜しんで施してくれたのだろう。しかもどこで知ったのかサイズもぴったり。これだけ良くしてもらえるのなら、いっそメイド服でも何でも着てやろうと思った。いや、まあ嘘だけど。

「で、ここを押すと再発行できるので……」

 そんな優しさと温もりが編み込まれたような服を着て心拍数急上昇中の僕は、落木部さんの横でレジの打ち方を教わっていた。

 偉そうなことを言えば、彼女の教え方は率直に言って非常にわかりやすい。飲食どころか接客のバイト経験すらない僕でも体系的に理解できるよう努めてくれている。量こそ膨大だが、あれよあれよという間に頭の中にインプットされていく。これなら僕もいち早く戦力になることができそうだ。

 まあ、それはともかくとして。

 近い。

 落木部さんは特に気にしていないのだろうが、この肌が触れてしまいそうな距離感にどうしても気が散ってしまう。おかげでインプットされたことも片っ端から心臓の音に蝕まれていってしまう。ああ、仄かな柑橘系の香りで一向に集中できない。

「も、百瀬さん?」

 落木部さんの少し上擦った呼びかけが僕の頭を揺らした。

「何でしょう?」

「大丈夫ですか? 体調が優れないなら休憩しても……」

「いえいえ、何の問題もありません」

「あ、その……じゃあそろそろレシート再発行を連打するのはやめてもらってもいいですか……?」

「えっ」

 落木部さんの視線を追うと、レジの周りに『再発行』と銘打たれた紙が大量に散らばっていた。

 サーっと血の気が引いていく。

「大丈夫です。大丈夫なのでそんな絶望的な顔しないでください」

 落木部さんは苦笑を浮かべて、盛大に床にばらまかれたレシートを拾おうとする……が、僕は慌てて落木部さんが拾おうとしたものを彼女より先に拾った。彼女の手を汚すまいと、次から次へレシートを拾い上げていく。

「すみません、本当にすみません……!」

 言わずもがな、レシートのロール紙は店の備品だ。無駄遣いが御法度なのは百も承知。ただでさえ日々綱渡りのような収入なのに、備品に大層な支出を割くわけにはいかない。……というのは正直建前で、こんな失態を、よりにもよって落木部さんの前でしてしまうなんて。

 昨日の履歴書の件といい、落木部さんの前では何かと上手くいかない。間違いなく、僕のメンタルの問題だ。別にいいところを見せようと思っているわけではないのに、感情が勝手に僕の邪魔をしているみたいだ。顔を上げられない。

「百瀬さん、気にしないでください」

 僕が取ろうとした紙に、シルクのような手が伸びた。

「百瀬さんは新人さんなんですから、先輩の私をどーんと頼っていいんですよ」

 つい顔を上げてしまって、眩しさに目を細める。

 またあの笑顔だ。すべてを照らす、春の木漏れ日のような笑顔。心臓がまた小さく跳ねる。昨日やっと思い知った感情が、もっともっと思い知れと主張してくる。

「あ……ありがとうございます。すみません……」

「いえいえ、先輩として当然です。……顔が真っ赤ですけど、やっぱり体調が──」

「全然何ともありません大丈夫です」

 散らばった紙を超高速で集め終える。落木部さんは少し驚いてから、僕の顔を見て微笑み「さて」と立ち上がった。

「レジの仕事はこれくらいですね。時間もちょうどいいですし、休憩にしましょうか」

「あ、はい」

 僕は両手に溢れるくらいのレシートの山を、少し躊躇しながらゴミ箱に押し込み、キッチンに向かった落木部さんを追う。

「店長ー! 休憩入りまーす!」

『りょーかーい』

 奥で何か調理している店長の返事を聞くと、落木部さんはキッチンの傍にある水道で手を洗い、カウンター席に向かった。僕も同じ道程を追いかける。

「休憩は、お客さんが少ない時はカウンターで取ってもいいことになってます。まあこの時間帯、お客さんがいることの方が少ないですけど」

 落木部さんはエプロンを外して丸椅子に座ると、朗らかに隣の席を指で示した。

 戸惑ったが、無下にするなど今の僕にはどう考えても不可能なので、精一杯の平静を装いつつ、エプロンを外して彼女の隣に座った。カウンター席らしい黒い丸椅子は、やはりカウンター席らしく首が回るため、何か待ち遠しそうにくるくると体を振っている落木部さんに当たらないようにする。

「どうですか? 私の教え方、問題ありませんでしたか?」

 僕がやっと一息ついたところで、落木部さんが言った。

「あ、もう、全然……。本当に、わかりやすくて助かります。ありがとうございます」

「おぉ、それは何よりです! 百瀬さん、なんだか教えがいがあるんですよねー。仕事にすごく真摯というか。今までいろんな人に教えてきましたけど、みんな辞めちゃうので……」

 落木部さんはえへへ、と困ったように頬を掻いた。あれだけわかりやすい指導を何度も何度も繰り返して、結果すべて徒労に終わってしまうというのは、仕方がないとしてもだいぶ堪えてきたはずだ。

 心配しないでください、と僕は言いかけた。仮に今のが「辞めないでくださいね」という釘刺しかリップサービスだとしてもまったく気にならないくらい、今の僕にはここに居続けなければならない理由がもう既にある。ただそれを口にできるだけの、この沸き上がる感情との折り合いは、まだ僕の中でついていない。

 だから、今の僕には何のことはない会話をするのが精一杯なのである。

「でも、すごいですよね。あれだけの仕事をいつも一人でこなしてたなんて。きっと要領がいいんですね」

「えぇっ? いやあ、別にそんなことは……無きにしもあらず?」

「何言ってんの。玲の要領がいいなんて冗談にしても笑えないわ」

 落木部さんのすこぶる満足げな表情を彼方に消すセリフと共に、キッチンから店長が現れた。

 食欲をそそる野性的な匂いがする。店長の両手には一枚ずつ、木皿に重なった鉄製のプレートが乗っていた。それだけで口の中に涎が滲む。そういえば緊張でこの半日何も口にしていなかった。

「ハイ、今日のまかないはレインダンス特性ハンバーグよー」

 肉が焼ける音を大いに響かせるプレートが、フォークとナイフを伴って僕と落木部さんの前に置かれた。

 まるで凶器だ。隣の落木部さんも、肉々しさ満天のハンバーグを宝石箱でも前にしたような目で見つめていた。

「て、店長! 今日は一体何ごとですか!」

「潤ちゃんが採用されたお祝い。採用した玲も特別に食べさせてあげる」

「おぉ……! 店長の甲斐性発揮ですね! ありがとうございます!」

「あ、ありがとうございます」

「どういたしまして。二人ともコーヒー飲む?」

 僕と落木部さんが揃って「はい」と答えると、店長は微笑みを浮かべながらキッチンに戻り、カウンターに面した渡し口の近くにあるサイフォンでコーヒーを淹れ始めた。

「店長のコーヒーは本当に美味しいんですよ! 私大好きなんです! きっと百瀬さんも好きになると思います!」

 僕までつられてしまいそうなくらい溌剌(はつらつ)とした笑顔の落木部さんは、早速大口を開けてハンバーグを食べ始めていた。

 コーヒーの味の違いなんて考えたことがない。普段から飲むのはもっぱらペットボトルのお茶だし、それでさえ銘柄による違いなんてわからないのだから、常飲しないコーヒーの違いがわかるわけもない。……ただ、喫茶店の淹れたてコーヒーというものに妙な魔力を感じるのは確かだった。それが落木部さんのお気に入りであるなら、なおさら。

 コーヒーが来る前に、とりあえず落木部さんを見習って、フォークとナイフでハンバーグを一口大に切り、口へ運ぶ。なるほど、これは美味い。ミディアムに焼き上げられた肉の塊はふっくらとしていて、自家製だというデミグラスソースと非常に相性がいい。

「玲もねー、最初の頃は酷かったのよー。もう目も当てられない。今の潤ちゃんの方がまだマシなくらい」

「店長!?」

 店長が何の気なしに暴露したことで、落木部さんは一瞬にして顔を真っ赤にした。

「もう長いからそんな風には見えないと思うけど、注文は取り損なうわレジは打ち間違えるわ、酷い時はコーヒーを一日に三回もお客さんにぶっかけたりして──」

「わーっ! わーわーわーっ!」

 さらに赤くなった落木部さんが、カウンターを飛び越えそうな勢いで店長を止めようとした。が、店長は気にも留めない。

 しかし、まあ、そうだろうなぁとは薄々思っていた。先輩にしては背伸びをしているきらいがあるし、昨日の落木部さんを見たら誰だってそう思うだろうし。本人には申し訳ないけれど、落木部さんを見ていると危なっかしいというかなんというか。

 だが逆に言えば、そこから一人前になるには相当苦労したのだと思う。そう考えると落木部さんがかけてくれた言葉のひとつひとつに、意味以上の重みを感じる。

「ま、今は頑張ってくれてるからね。たまにしくじるけど」

「ほ、本当にたまにですよ? というかほぼ皆無です。じゃなきゃ店長だって私を使わないですから」

「ハイハイそうね、じゃあ明日はもうちょっと落ち着いてコーヒー運んでね」

「わーっ!」

 店長は二人分のコーヒーをカウンターに置くと、落木部さんの抗議を一笑に付してキッチンへ戻っていった。

「……いや、今日はたまたまだったんです。たまたまつまずいてカップごとお客さんに……」

 くぐもった声で言い訳を繰り返す落木部さんは、やけになってすごい勢いでハンバーグを平らげようとしていた。どうしても先輩としての面子を潰したくなかったのだろうけど、もう遅いというか、そもそもそんな面子を僕としては気にもしていないというか。

 とはいえ、そのまま勢いでプレートを空にした落木部さんは、もう打って変わって幸せな表情を湛えながらコーヒーを飲んでいる。わかりやすい人だ。

「本当に仲がいいんですね、落木部さんと店長」

「まあ、もう長いですからねぇ」

 返答も表情も、ふわふわと地に足が着いていなかった。邪魔をするのも忍びないし、もう何を言っても戻ってこなさそうなので放っておくことにした。

 僕は挽きたての香ばしい匂いを漂わせるコーヒーカップを手に持ち、覗き込む。僕の思い描いていたとおりのコーヒーだ。黒に茶色を落とし込んだような色。立ちのぼる湯気が、僕を手招きしているように見えた。

 それを一口飲むと、確かに違った。想像よりもはるかに香りが立ち、コクがあり、それでいてすっきりと飲める。美味しい。

 つい、何度もカップを傾けてしまう。そしてその度に、僕の中のイメージと口に含んだコーヒーの違いを感じた。これは裏切られた、コンビニに売っているペットボトルコーヒーと大差ない見た目でも、これほど違いが出るものなのか。

 結局、僕はカップの底を見上げるまで舌鼓を打った。飲み干してカップを置くと、落木部さんが勝ち誇ったような顔で僕を見ていたので、苦笑いで返した。



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