大いなる渦の中で
僕は明日が来るのを待ち望んでいた。その翌日も、そのまた翌日も、世界のルーティンのように、僕の意思に関わらず、夜が開けるのを待ちわびていた。
正確に言えば、今日のように楽しい毎日が、無限に思えるバリエーションで一日一日重なっていくことを期待していた。今日のような、しかし今日よりも胸が躍る素敵な明日であることを望んでいたのだ。
『すみませーん』
「はーい!」
『こっちもお願いしまーす』
「ただいまー!」
『ねえこっちまだなんだけどー』
「ちょっ…少々お待ちくださーい!」
だからこうしてどんなに忙しくても、僕は明日に期待するのだ。今日のようにクソ楽しい毎日が、無限に思える(中のどちらかというとマシな)バリエーションで一日一日(の忙しさも忘れるくらい)重なっていく、胸が躍る素敵な明日であることを望んでいた。畜生。
取れるだけの注文を取り、食器を片づけると同時に注文をキッチンの中の店長に向かって叫び、外に並ぶ次のグループの人数を聞いてからすぐテーブルの準備をする。
ここのところ、我らがレインダンスはいつもこんな調子だ。師も駆け回る十二月は一ヶ月以上も前に終わったはずなのに、当店だけ暦でも違うのだろうか。
まあ、その実、この混雑には大きな理由がある。
「おいコラ、さっきから呼んでるじゃん! 早く出せやカフェオレ、チンタラしてる暇はないんじゃ!」
この任侠映画のようなスジモンのセリフで恫喝してくる、目深に被ったキャップとサングラスで変装したどっかの誰かさん。
このどっかの誰かさんのテレビ出演が最近妙に増え、なんとプチ再ブレイクしている。……と、思ったら結構な頻度でこの店に来ていることをポロッと全国ネットで口にしてしまい、これまでの彼女の知名度も相まって、根強いファンがレインダンスに押し寄せているのだ。いつだか自分で「お忍びだから他言無用」とか言っていたのは何だったのだろう。
そんなこんなで今、とばっちりの如く当店は大忙しなのであるが、実のところ理由はそれだけではない。
ある時、このどっかの誰かさんをきっかけに来店した客が「レインダンスっていう店にどえらいべっぴんさんがいる!」とSNSで拡散したおかげで、インターネットの力を借りたまさに「話題の店」になったのである。
そしてそのべっぴんさんというのが、
『え、写真ですか? 全然いいですよ!』
どっかの誰かさん2だ。
「……」
「女々しいヤツめ」
「な、何がですか」
「男の嫉妬って見苦しいわよ」
どっかの誰かさんのサングラスの奥に見える目が憎らしく笑う。
多忙のせいであまりレインダンスに来れなかった時期もあったが、ここ最近はまた暇なのだろう。こうして僕がフロアの仕事の区切りに合わせて皿を洗いに来ると、決まって突っかかってくる。小姑か。
店長から手渡されたカフェオレをカウンターに置くと、ももこさんはサングラスを少しずらして僕を覗き込んできた。
「ねぇ、今どんな気分よ? 今まで独り占めしてた愛しのあの子が注目されてるのは? んん?」
「ももこさんも、玲さんのせいですっかり昔の人ですね!」
「あ゛?」
ガミガミ食いついてくるももこさんを無視して、僕は洗い物をしながら賑やかなフロアを見渡し、次の動きを考える。あそこの女性二人組はそろそろ席を立ちそうだ。向こうのカップルは、メニューを指さしながら話し込んでいる。あとでおすすめを教えにいこう。手前のお一人様は本を読み始めた。そのうちコーヒーのおかわりを伺った方がいいかもしれない。
あそこのメイドは──
「……」
「……しょーもな」
「何も言ってませんよ」
「目は口ほどに物を言うのよ」
「じゃあそのサングラス貸してください」
「そういうことじゃねえわ」
ももこさんはボケ待ちの気質がある。僕がちょくちょく合わせてあげていることに気づいているのだろうか。
僕が内心悪態をついていると、ももこさんは出されたばかりのカフェオレをずずーっと半分飲み干し、根を張るようにカウンターに突っ伏した。
「暇なんですか?」
「うっさいな。ていうかあんたさ、今日の準備大丈夫なの?」
「そういうももこさんこそ大丈夫なんですか?」
「愚問よ。そうじゃなくて、あんた──」
『すみませーん』
「あ、はーい」
カップルの呼ぶ声が、ももこさんの言葉を遮ってくれた。
玲さんは相変わらず引っ張りだこなので、もちろん、僕が行くしかない。
「心配しなくても、会場の準備は大丈夫ですよ」
「……あっそ」
「潤ちゃん潤ちゃん」
カウンターを出ようとしたところで、店長に呼び止められた。
「玲、あの子そろそろ断ることを覚えさせないとダメね。あんな調子じゃ、いつまでたってもお店閉められなくなっちゃう」
「それは困りますね」
「潤ちゃんからも念押ししといて。それ以上撮られるならどっかの芸能事務所にぶち込むわよって」
「了解です」
「あたしが顔出せばいいんじゃない?」
「そんな、傷つくようなことはやめてください」
「今なんつった?」
今にも襲いかかってきそうなももこさんから逃れるように、僕はそそくさと呼ばれたテーブルへ向かう。
今日はとても大事なパーティがある。パーティといっても、体裁はただ単に早めに店仕舞いをして、知人を集めて飲み食い騒ぐだけの会だ。前にやったももこさんの誕生日会に似ている。
決定的に違うのは、その会が、僕の中ではももこさんの誕生日以上に、とても大きな意味を持つということ。
「かしこまりました。少々お待ちください」
注文を取り終えて踵を返すと、客が構えた携帯のインカメラにど真ん中で写り込む玲さんがいた。
いつもの溌剌とした笑顔だ。僕はその笑顔を見るだけで、意図していないのに口角が上がってしまう。
その一方で──晴れて然るべきはずの僕の心は、蓋をされたように翳る。
「玲さん、そろそろ」
「おぉ、潤さん。すみません」
玲さんは客に一礼して、カメラに向けていた笑みで僕を見た。
それを見て、口角が少し下がったかもしれない。翳りは僕の意に反して、冬の曇天よろしく重く胸にのしかかる。その重さも、この身に感じる。
──玲さんは、今日でレインダンスを辞める。
玲さんの口から初めてその話を聞いたのは、三人で墓標の前に立った翌日だった。
「私、レインダンスを辞めようと思うんです」
閉店作業をしている時に何の前触れもなく放たれたその言葉を、僕と店長はすぐに受け止められなかった。
その日は特に変わったことがあったわけではなかった。店長は前日のことを聞くともなしに、ただいつも通り僕と玲さんをフロアに放ってキッチンを守っていた。僕もそんな店長を見て、心の一番強固なところに深く刻まれた前日の出来事を、宝石を仕舞うように自分の中で大切に終わらせた。
だから、僕は同じように……玲さんにまとわりついていた鎖が断ち切られ、本当の意味で、いつもの笑顔をいつまでも湛えていてくれると思っていた。その笑顔で、僕たちを、この店を、照らし続けてくれるものだと思い込んでいた。
その話を聞いた時、正直、何かの間違いだと願った。玲さんだっていつもと変わらなかった。元気で笑顔で優しい、いつもの玲さんだったのだ。言葉とその意味だけがいつまでもふわふわと宙に浮いていた。
でもどうやら年の功というのはあるらしい。僕より先に店長が耳を傾けた。「こっちの話だから」と僕を先に帰らせ、そのまま年末年始の休暇に入った。そんなのはお構いなしにレインダンスか玲さんの家に行ってもよかったが、それで「この前言ったことは本当ですか?」と確認できるほど、僕はまだ頭の中を整理できていなかった。
そして年が明けた、最初の出勤日。何かの間違いであってほしいという僕の淡い期待は、やはりどうしようもなく、僕の期待でしかなかった。
「レインダンスを辞めます」
僕と店長、そして年始早々に店に来たももこさんと棚町さんの前で、玲さんははっきりとそう告げた。
とどめを刺された気分だった。僕が整理できないまま無為に期待を抱くことしかできなかった間、玲さんの意志は覆りそうもないくらい、より強固になっていたのだ。
この時初めて件の話を耳にしたももこさんと棚町さんは、やはり僕や店長がそうであったように、頼んだドリンクも口にできないまましばらく固まっていた。
玲さんはひとつ、息を吐いた。
「大学に行きたいんです」
予想だにしない答えだった。僕の頭の隅の隅をつついても出てこなかっただろうと思う。
「急な話でごめんなさい。でも、やりたいことを見つけたんです」
「やりたいこと……?」
玲さんは静かに笑って、一言ずつ、僕たちに語り始めた。
もう誰も邪魔できない──玲さんが思い描いている未来は、そう思わせられてしまうものだった。
正直、言いたいことはたくさんある。辞めると決めたのはいつなんですか? どうして事前に相談のひとつもしてくれなかったんですか? 玲さんがこの店からいなくなったら、誰がフロアを守るんですか?
この店は玲さんを中心に回っていて、僕から見た世界は玲さんを中心にした螺旋のような様相で、その世界の一欠片を僕も担っている。
その中心を失った時、ピースである僕たちは一体どこに向かえばいいのだろう。
そうは思っても、笑顔で未来を語る玲さんに、始まってもいない今から水を差すことはできなかった。
だから、僕はひとまず、この胸に沸々と湧いてくる虚しさに近い寂しさを、表面化しないうちに底の方へ押し込んだ。
最後の客を見送って会の準備をしているとまもなく、菅野さんと新田さん、そして棚町さんがやってきた。
意外な組み合わせだ、と思ったのはももこさんも同様だったようで、怪訝な顔をしてテーブルの配置を変える手を止めた。
「えー、何その初めて見る組み合わせ……」
「そこで店が閉まるのを待っていたようだったから、話しかけたんだ。それにほら」
棚町さんはすこぶる楽しそうに、両手に提げている缶ビールのしこたま入ったレジ袋を掲げてみせた。その後ろでは菅野さんと新田さんも同じように、中身の重さで詰め放題の後みたいになっているレジ袋を掲げ、
「なんと今日はサッポロだ!」
「あー、それはよござんしたー」
棚町さんを師と慕うももこさんがこんな顔するのだから、容易に想像できる。うんうん、確かに棚町さんって酔っ払ったら面倒くさそうですよね。
「ちょっと、来たなら手伝ってよー」
調理中の店長がカウンター越しに呼びかけ、仰せの通り、各人それぞれパーティの準備に散らばった。
閉店直後で、まだパーティさえ始まっていないとは思えない賑やかさに、僕は不覚にも少し笑ってしまった。なんというか……簡単に勢揃い、というこの感じがまた、レインダンスの面白いところのひとつなのだと思う。
同時に少しだけ、寂しくなった。
「おい潤、ビール冷やすの手伝ってくれ」
棚町さんがニコニコしながら、皿の準備をしていた僕の元にやってきた。
ぎょっとした。棚町さんの手には、今さっき一緒に連れ立ってきたもう二人の分のレジ袋も提げられていた。それを軽々と笑いながら持ち上げるもんだから、恐らくあれは全部空き缶に違いない、と思って二つ預かると、まあレジ袋もよく耐えていたなというくらいには重い。やはり元プロレスラー、僕を家まで担いでくれただけある。
「案外平気そうだな」
棚町さんはレジ袋四つ分のビールを次々冷蔵庫に並べながら言った。
「そう見えますか」
「いや、見えない。隠せてない」
質の悪い冗談だ。とはいえ、やっぱりそうかと笑うしかなかった。胸の奥に押し込んではみたものの、僕自身、正直隠せているつもりもない。
「まあ、玲はあんな感じだから分からんだろうさ。別にいいんじゃないか、そのままで。俺たちに見られて恥ずかしくないなら」
今日僕はどんな顔で接客をしていたのだろう。
玲さんは今日も今日とて変わった様子もなく、いつもの溌剌とした笑顔で店を回していた。最後の仕事が終わった今もそうだ。あまりにもいつも通りで、いちいちそれを憂う自分が情けなくなる。
現実が、雲を掴むようにそこにはないのだ。一ヶ月弱という短くも長くもない時間がその存在を希薄にさせたのか、面白いくらい会話の中でその話題が出てこなかったからか、「玲さんがレインダンスを辞める」という現実は、どこか遠くの無関係な出来事のように、日常から切り取られてこの店の頭上に浮かんでいる。
そして上を見るとふと思い出す。彼女がこの店で溌剌とした笑顔を振り撒くのは、今日が最後なのだと。
「……情けないですね、僕」
弱音だ。棚町さんに何かをしてほしいわけじゃなく、単純な気持ちの吐露だった。
「そういえば、まだ聞いてなかったな」
「?」
「この前お前が玲を連れ出した件の顛末だよ」
聞いてこないつもりだと思っていた。棚町さんも店長と同じタイプで、似た考えを持っているはずだから。
だから、その質問に何の真意があるのかは、いつも通りの表情を見ただけでは分からなかった。
「結果オーライ、ですかね」
言葉を選んだ。便利な言葉だ。当たり障りなく、あの日起こった……いや、僕が起こしたことを、ラッピングして最後に正当化する。
「そうか」
棚町さんの質問はそこで終わった。
「ならよかったよ。らしくないから心配したんだ。何かやらかしたんじゃないかって」
「らしくない?」
「今のお前はな。さて、他を手伝ってくる」
ビールを全て入れ終え、棚町さんはフロアの方へと出ていってしまった。
「らしくない……」
一体何のことだろう。その言葉には、僕らしさというバックグラウンドがあるはずで……そして少なくとも、そんなものについては分かりきっている。
自分勝手だ。体良く言えば、僕がこうあるべきと思った方に進路を取り、前進しようとする力。僕なりの最適解の導き方。中身が軟弱な僕の核心となる、唯一の強み。でも、それで?
今までは上手くやってこれた。ももこさんの時も、アイルの時も、妹さんの時も、無我夢中だったが、わずかな光明があったから上手くいったんだ。僕の強みは、そこに行き着くまでの手段でしかなかった。
じゃあ、今は?
見えるはずだった光は見えなくて、どうすればいいのか分からない。一片の光も見えないくらい厚い雲で鎖されていて、どんな言葉も、どんな行動も、その高く重厚な雲の前には無力に思えてしまう。理由は他でもない。
玲さんの姿が、僕に重なりつつあるから。
自分のことは自分が一番よく分かっている。だから僕が玲さんの立場だったらどうするか、なんてのは、まさに手に取るように分かる。そして実際に玲さんが選んだ道も、どんな心境でその道を選んだのかも分かる。もちろん、その選択がどれだけ強固な意思に基づいたものであるかも。
玲さんの夢は、学園をもう一度復活させることだった。
「私たちみたいな子供は、これから何年経ってもいなくなりはしないと思うんです。きっと私たちの手の及ばないところで、私たちの力の及ばないことが起こってるはず。根本的な解決は、今の私には難しい。だから、まずはその子たちの受け皿となる学園を、そういった場所をもう一度作りたいんです。そのために経営や、福祉や、その他のいろんなことを大学で勉強したいんです」
そう言った玲さんの眼は、僕たちに何も言わせてくれなかった。
そんな未来を教えられた時点で、玲さんがどれだけの覚悟を持って決断し、いかに曲げる気がないのかは火を見るより明らかだった。
まして僕が見ようとしていた光明は、どうしようもないくらい利己的なものだ。僕の近くに玲さんを置いておきたいだけ、という身勝手な欲望。エゴ。そんなもの、少し冷静になれば自問するまでもなく選択の対象から外れる。とはいえ、これまで見えていた最適幸福的な他の光は見える兆しすらない。
素直に玲さんの門出を祝えない自分が情けない。情けなくてたまらないから、ただ玲さんの背中を見て、この数ヶ月間で起きたこと、思ったこと、抱いた感情を押し込めて、何もなかったかのように見送るしかない。
『──ももこ、聞いたよ。最近頑張ってるって』
不意に耳に飛び込んできたのは、柔らかい菅野さんの声だった。
『……まあね』
『よかったね、復活だね』
どうやらカウンターの影になって、僕に気づいていないらしい。
ももこさんと菅野さんが二人で話している場面に遭遇するのは久しぶりな気がする。
『新田はいいでしょ、私が育てた後輩だから』
『あんたと新田以外知らないからよく分かんない』
『でも、私とやってるよりのびのびできるでしょ』
『さあねえー』
僕は息を呑んだ。この二人の会話は心臓に悪すぎる。
心拍数が上がる胸を押さえて、さっさと離れてくれるよう願っていると、
『潤くん、大丈夫そう?』
……まさかここまで心配されているなんて。
『何が?』
『だって顔色悪いからさ』
『ははーん』
『今日が玲ちゃん最後だし、告白して振られたのかなーとか思って』
「違いますから!」
つい、飛び出してしまった。
結果的にももこさんと菅野さんどころか、フロアにいる全員の注意を引きつけてしまった。
「そこにいたんだ」
「あっ……あの、告白とか、してませんから……」
本人が同じ空間にいるのによくも憶測で話を進めようとしてくれたなと、僕は咎めるつもりで二人に耳打ちした。
「そうなの?」
「そうですよ。 そんな脈絡もなく……」
「自然な流れだと思うけど。いなくなりそう、会えなくなる、告白する、そして撃沈。ね?」
「全然自然じゃないですし、勝手に終わらせないでください。大体そんな簡単な話じゃ……」
「潤くんならそうすると思ってたけどなあ」
一瞬、何をとぼけているんだと思った。
ただ茶化しているだけだと思った。それなのに、菅野さんの表情に裏表はなかった。
「ね、ももこ?」
「……まあ、そういうことよ」
ももこさんは小さく嘆息した。
それから、僕を見た。困ったような微笑みを浮かべて。
「分かれよ。察しろ。あたしたちがわざわざ言ってやってるんだから」
ごもっともではある。この二人が肩を並べて僕にそう言っているのだ。やっぱり僕らしくない、と思っているのだと思う。
でも、僕の内心は二人が期待するような方には向かおうとしてくれないし、そもそも現実はそんなに甘くはない。
「分かってますし、察してもいます。でも──」
「あ、ちょっと待って」
突然携帯にかかってきた電話に、ももこさんは僕の話を遮って応じた。
「もしもし? あんた今どこよ。あたしちゃんと集合時間伝えたじゃ──え、もう着く? あーそう、なら早く来なよ。一番下っ端なんだからね」
ももこさんは「ったく、どいつもこいつも……」と強めに通話を切り、僕を睨んできた。
「因果応報ってやつよ。あんたにも荒療治が必要みたいだから、舞台を用意してやったわ」
いよいよ今日のももこさんは腹の中が読めない。それどころか言っていることもよく分からない。
因果応報? 荒療治? その言いっぷりじゃまるで、僕がどこぞの昔話の悪漢みたいじゃないですか。そんなことを面白半分で聞こうとした矢先、甲高いドアベルの音が耳に届いた。
「ほら来た」
ももこさんはニヤリと笑った。
僕は、声が出なかった。驚きすぎたのかもしれない。フロアも同様に静まりかえった。およそ現れるとは思っていなかった彼女を見て、内臓を胸元まで持ち上げられたような気分だった。
そんな僕よりも驚嘆していたのは、やはり他でもなく玲さんだろう。
「修……」
制服姿の妹さんが、俯きがちにレインダンスの扉を開けていた。
誰もがすぐに動けない、静寂に包まれたフロア。だが陳腐な魔法のようなその沈黙は、破るべき人によって破られた。
一歩、糸で引き寄せられるように、玲さんが妹さんの方へ歩き始める。テーブルを拭いていたことも忘れて、さらに一歩踏み出すごとに早足になっていく。
そして妹さんがドアを閉めるのと同時に、彼女を真正面から抱き締めた。
「……よく来たね」
静かな呟きは、不思議とよく聴こえた。玲さんの言葉が空気を満たした。
「……うん」
妹さんもどこか遠慮がちに玲さんの背中へ手を回す。戸惑いの隠せなかった顔も、次第に穏やかな笑みが満たしていった。
体を脱力感が包み込んでいく。
改めて見る、僕が選んだ運命の、そのひとつの選択の結果。確かに今の僕には荒療治かもしれない。「お前は間違ってない、だから自分を貫け」と言われているようなものだから。
それでも、僕はつい口の端をあげてしまうくらいに安堵した。形容するなら妹さんの表情と同じくらい、穏やかな気分だった。つい数か月前のことなのに、今思えばよくもまあ無謀で荒々しい真似をしたものだと思う。この体の緩みはきっとその反動だ。
そしてそんな穏やかな水面に歪に浮き出た、この小さな違和感もまた、その反動なのかもしれない。
「あんたはこの光景を見て、まだうじうじ言い訳するつもり?」
ももこさんが僕を一瞥した。
「朴念仁。よく考えなくても分かるでしょ。これだけのことをあんたはしたのよ。あんたのこの数ヶ月は、何のためだったのよ」
玲さんのいる世界の運命を変えるため。
僕がこの数ヶ月の間でした選択は、僕だけのものじゃない。最初なんて玲さんにどうすれば接近できるかなんて惚けた考えをしていたのに、いつの間にかその好きな人に幸せになってほしくて、僕は自分勝手に選択を重ねた。
その結果が、今僕の目の前に広がっている光景だ。
玲さんを中心とした世界の渦中にいる僕たち。この景色が、僕の望んだものであることは、大方間違いではない。僕は玲さんのいる世界を変えられたのかもしれない。過去の諍いを清算し、この店に来るはずのなかった人が姿を現し、世界の一欠片である僕たちが同じ屋根の下に集ったことは、想像していた以上に強く、僕の選択がこの世界に刻み込まれている証左なのかもしれない。
僕は選んだ。
そして変えた。
僕は僕が大切だと思う人の、どうしようもなく報われそうになかった世界を変えたくて、僕自身とその大切な人を信じた。
──ところで、どこぞの店長が言っていた通り、やはり人生というのは全速力のまま駆け抜けられるほど平坦ではないらしい。
見えてくる現実。この小さな違和感の正体。
僕がももこさんたちの期待していた行動を取らなかったのは、光が見えないとか、最適解が見つからないとか、エゴだとか、そういう次元にはなかったようだ。
今日、最後のチャンスであるこの場で玲さんに想いを伝えることの代償。
どうしても言えない理由が、他にもある。
「僕みたいに、って言ってくれたんです」
気がつけば口を開いていた。
ももこさんが僕を、細い目で見ていた。
「玲さんが……僕みたいにと、言ってくれたんです。そう言って、玲さんは僕と一緒に妹さんのところへ向かってくれたんです。本当に嬉しかった。ももこさんに言われた通り、僕が選んできた道は間違いなんかじゃなかったんだって、そう思えた。だからこそ……」
僕は妹さんの手を引いて輪の中に誘う玲さんを見て、ひとつ呼吸をした。
「だからこそ、自分で選択をした玲さんの邪魔をしたくないんです。僕の自分勝手で玲さんの邪魔をしてしまったら、それは……これまでの僕の選択を、全部否定することになってしまう」
玲さんがここから旅立つ決心をした、その根の部分の話だ。
僕のおかげ、なんて大言壮語を語りたいのではない。僕は僕のしたいようにして、そんな僕の姿を玲さんは見ていてくれて、今まで踏み出せなかった一歩を彼女はようやく踏み出した。そこには少なからず「僕」が介在していて、「僕の選択」が根を張っている。それは客観的な事実に他ならない。
僕が想いを伝えてしまえば……僕が玲さんを引き留めて、彼女が抱く夢の方向とは違う場所を示してしまえば、僕はその根を自ら断ち切ってしまうことになる。最後の最後で、僕は玲さんどころか自分の信じてきた選択まで裏切ることになってしまう。
玲さんの幸せがどこにあるかを模索して、決断をして、積み重ねた結果を、僕の気持ちひとつで台無しにしてしまう可能性。矛盾。感情と理性が僕の中で異なる方向を示している。
この上なく、恐い。
そして恐怖の後に押し寄せる、悔恨の波。
その悔しささえ独りよがりだった。当てどころもなく、ただ漠然と沸き上がる悔しさが膨らんでいく。
運命は降ってこない。今の僕のように、人の選択によって形を成すものの最後の姿が、運命と形容される。
その言葉に振り回されることが悔しい。辿り着きたかった場所へ向けていたはずの歩みが、気づかぬうちに外れていたことが悔しい。今この時は僕が望んだ選択が招いた結果で、でも望んだ結果ではなくて、その結果に対して無力な自分が、悔しい──
「全然分かってないじゃん」
ももこさんの言葉が、ぐるぐると頭を巡っていた後悔の渦を堰き止めた。
「全然分かってない。察してもいないじゃん。あたし、後悔するなって言ったわよね?」
「……」
僕は頷いた。半ばももこさんの静かな怒気に圧されたように。
「あんたが何をどう思おうとあたしには関係ないけどさ。そうやってうじうじ立ち往生してるのを見てると腹立つのよ。分かる?」
僕はまた頷いた。そんなことは分かっている。それでも、吐露せずにはいられない。
僕だってうじうじ立ち往生している自分に嫌気が差す。だがどこを向いても出口はない。元より八方塞がりなのだ。道を歩いていたら、いつの間にか出口のない檻に迷い込んでいた。それ以上でも以下でもない。
「……どうしようも、ないじゃないですか」
僕は確率の渦に呑み込まれた。為す術もなく、奈落の中心へと吸い込まれてしまった。
──ように、思えた。
「……変わってるようで、肝心なところは変わらないのね」
「え?」
吐き捨てられたももこさんの言葉に、僕は戸惑った。
「自惚れ、自分勝手。あんたの悪いところが丸見えだわ。何を勘違いしてるのか知らないけど──」
ももこさんは、少し笑っているように見えた。
そして僕の目を見て、こう言った。
「あんたは、玲とは違う」
僕は言葉を失った。
肋骨の内側にこびりついた真っ黒な何かを、ももこさんのその言葉が削り落とした。
「あーあ、変なところで後ろ向きやがって。そんなに自惚れてるとは思わなかったから、無駄に期待しちゃったじゃない」
嘆息しながらも、ももこさんは僕を鼻で笑った。嫌な感じはしなかった。
僕は、玲さんとは違う。
それはまるで、僕の不安を全て包み込んで優しく消してしまうような、魔法の言葉だった。
「違いますか……?」
「何度も言わせんな。月とスッポン」
ももこさんは肩を竦めた。
ももこさんが言っているのは、人類の系譜と科学で裏付けられている壮大な違いなどではない。もっと単純で、それでいて本質的な話だ。
玲さんの向く方向について、僕の言動が根底にありこそすれ、そこから先の道をどう選んでいくかは、あくまで玲さんの意志なのだ。そこまで僕が考えて頭を抱えてしまうのは、自惚れで自分勝手な僕の悪い面なのだと思う。
だから同時に、僕が玲さんを想うこの気持ちを原動力にして目の前の選択をすることは、僕自身の問題だ。
玲さんがどうこうの前に、僕自身がどうしたいかの決断が必要だった。
そんなの、僕の十八番じゃないか。だからももこさんも菅野さんも棚町さんも、いつも通りの僕を期待していた。
ああ、本当に、僕は……。
僕は随分と、くだらない取り越し苦労をしていたらしい。
「……ありがとうございます」
僕の葛藤の行方について、ももこさんたちに何かを望んでいたわけではない。だが結果としてこうなるのを、きっと僕はどこかで望んでいた。
誰かが背中を押してくれるのを期待していた。この、不安に駆られてたまらなく腰の引けた、どうしようもない僕の背中を。
「うわ、いらねー」
僕の言葉に苦い顔をするももこさんは、いつも通りのももこさんだ。それを見て微笑んでいる菅野さんも。
こんな時にいつも通りじゃないのは、どうやら僕だけみたいだ。
「で、どうすんのよ?」
ももこさんがため息混じりに言った。
「そりゃあ……」
もう、やることなんてひとつしかない。
余計な枷が外れた今、ここで、伝えるべきことをちゃんと伝えなければ、絶対に後悔する。
「ねぇ、あたしにいい考えがあるんだけど」
ももこさんが笑う。
これまでの僕なら、己の皆無に等しい経験値の無さに負けてももこさんの言うことを真に受けていた。
──が。
「いえ、今日はいいです」
「お? おいおい、言葉には気をつけろよ?」
「いや、本当に」
ももこさんは目を丸くした。後でどやされるんだろうなあ。
「最後のチャンスくらい、自分でモノにしてみせますよ」
「……あー、痛い痛い」
また、ももこさんが笑った。
今日の彼女はよく笑う。自分の友が、自分の知らぬところで一歩を踏み出す日としては、少し眩しすぎる笑顔だ。
複雑な感情が、じんわりと伝わってくる。大切な友人が過去を飛び出したことに対する喜びと、巣立つ子を見守る親鳥のような寂しさと。同様に僕への期待も伝わってくる。伝播する感情が僕を一層奮い立たせた。
カウンターから出て、玲さんの元へ向かう。途中で菅野さんに「がんばれ」と声をかけられて、急に息苦しくなる。呼吸を止めていたみたいだ。脚も竦む。自分の意思とは関係なく心臓が暴れ回る。
それがなんだ、と言い聞かせる。そんなものはただの生理現象に過ぎない。
僕には背中を押してくれる人がいる。自分で道を選ぶ自分勝手さがある。それだけあれば、暴れる心臓をおさえて前に進むなど造作もない。
僕が玲さんの前に立つより先に、玲さんは近づく僕に気づいて、表情を強ばらせた。
「……」
玲さんは何も言わない。何も言えないのかもしれない。同じように強ばった僕の顔に釣られてしまったのかもしれない。
前に立つと、玲さんは一層体も顔も固まった様子だった。それはたぶん、僕のこの高揚感に等しい緊張とはまったく別の、もっと言葉にできない、漠然とした何かが原因のような気がする。
そういえば、玲さんが将来を語ったあの日以来、こうして面と向かって話すのは初めてだ。
「玲さん、あの……」
口を開くと、指が震える。その震えが口に伝わって発する声にも影響しそうになったところで、一度唾を飲み込んだ。
落ち着け、落ち着け。深呼吸をして、玲さんを見る。
玲さんはらしくない不器用な笑みを浮かべていた。僕が気を逸らしている隙に指で無理やり成形したような、必死の笑みだった。
いよいよ僕は決心をする。考えるより先に口が動いた。
「──今日、一緒に帰りませんか」
スパーン、といういい音と、遅れてやってきた後頭部の激痛。
僕の足元にカラフルなスニーカーが転がっている。振り返ると、投球後のピッチャーのように綺麗なフォロースルーを見せるももこさんが、とても地上波には流せないような般若の如き顔つきで僕を睨んでいた。
「それはない」
妹さんも冷たく吐き捨てる。恐ろしく冷ややかな瞳だ。
それでも、
「……ふふっ」
玲さんだけは、笑ってくれた。
とはいえ、その後のパーティで、皆の僕に対する態度がいつになく冷たかったのを、僕は向こう数週間引きずることだろう。
玲さんの送別会という名目だったはずのパーティは、とてもそうとは思えないほど呆気なくお開きとなった。
とはいえ、考えてみればそれもそうだと思う。玲さんは仕事を辞めるだけであって、どこか遠くに行ってしまうわけではない。もちろん日頃の生活圏はがらりと変わってしまうが、パスポートが必要な場所に行くわけでもない。これまで培った繋がりがぷつりと切れてしまうようなことにはならない。
こうして玲さんと二人でいつものように駅に向かっていると、また明日もあの店で会えるような気がしてくる。そんなものは幻想だと自分に言い聞かせ、緊張感を保つ。
そう。幻想だ。玲さんはもうしばらく店に来ない。次いつ来るかも分からない。それはとても……寂しい。
「楽しかったですね」
「ですね。……なんか変な気分ですね。明日からお店に行かないなんて」
パーティの時よりは柔らかく、玲さんが返事をくれる。酒は一滴も飲んでいない様子だったから、あの場の雰囲気につられた余韻が、いい風に作用しているのだろう。
──皆の前であんな露骨に保険かけて。そんなに寂しいならさっさとやることやっちゃえばいいじゃない?
呑めもしないのに場酔いしたももこさんには、僕の肩透かし発言を、大きなため息とともに突っつかれた。それに対して僕はもちろん、あははと乾いた笑いで流した。
実際、少し違う。確かに寂しい。確かに少しでも一緒にいたいとは思った。それ故の悪あがきと捉えられても、無理はないかもしれない。
だがこうして最後に帰り道を共にしたかったのは、これから先の、家に帰るまでの少しの時間を、二人のものとして玲さんに記憶してほしかったから。
ももこさんたちには申し訳ないが、最後は誰にも、この時間に介入されたくないと思ったから。
「妹さん、すごく笑ってましたね」
「まあ、もともと明るい子ですからね」
「これからちょくちょく来るみたいですけど、玲さんもたまには来てくださいよ」
「ありがとうございます。でもひとまずは、勉強に専念しなきゃかなって思ってます」
そんな半ば定型文のような、他愛もない会話を繰り返しながら、駅を目指す。
最後という感じはしない。だがもしかするとそう思い込みたいだけなのかもしれない。話題を数珠のように繋げていく。特に面白くもないと自分でも思うそれらに、玲さんは少し笑ったり、すこし驚いたりしながら投げ返してくれる。
いつもの駅舎の、いつもの改札を通って、いつものホームに二人並んで立つ。僕たち以外誰もいないホームには少しだけ、冷たく乾いた風が吹いていた。
「この駅ともしばらくお別れですね」
独りごちるように玲さんが言った。その視線は右隣に立った僕ではなく、列車が来るであろう線路の先に向いていた。
「でも、いつもよりは少し長くいられますよ」
屋根から吊り下がる電光掲示板を見ると、次の電車まではあと10分強ある。ちょっとした冗談のつもりだったのに、今の玲さんは線路の向こうをただ見ているだけで、返事はない。
恥ずかしさと、心臓の底の方から湧き上がる妙な感覚に、僕は少し黙ることにした。
今の僕には、静かに玲さんの隣に立っているくらいがちょうどいいと思った。
でなければ今実感している気持ちの、その全てを、自分の中で整理しきれないと思った。
隣に立っていられる嬉しさも、少しキザなことを言った恥ずかしさも、できれば反芻したくない最後の帰路だという寂しさも、何より──玲さんを想う気持ちも。
何もかもがごちゃまぜになっている。レインダンスで安酒を飲んでいた時の方がまだ晴れやかだった。
言い忘れたことが、伝え損ねたことが、折り重なって頭を巡る。
早く言わなければと、思考より先に口が動く。
「──玲さん、僕は」
言いかけて、止まる。
玲さんは僕を見ていた。穏やかで、強そうな意志を覗かせる笑みを、僕に向けていた。
綺麗だった。有無を言わさず、それこそ言葉を続けようとする僕の意思すら削り取ってしまうくらい、玲さんは強く、美しかった。
「私から話しても、いいですか?」
僕は何も言えなかった。
「私は──」
小さく、空気が揺れる。
玲さんの唇の動きに合わせて、静かに、ゆっくりと。
「私は、潤さんのことが好きです。たぶん、潤さんが思ってるより、何倍も」
息が詰まった。
水の中でもないのに、呼吸ができない。寒さも感じられない。感覚さえも奪われてしまう。
その言葉が玲さんの口からこうも簡単に出てきたことに驚く。驚いて、意味を咀嚼して初めて、心も体も震えた。
「潤さんが私に見せてくれたこと、話してくれたこと。全部全部、私の中ではかけがえのない経験で、宝物です。そんな素敵な宝物をくれた潤さんに、私は惹かれて、好きになったんです」
頬を紅潮させる玲さんは、決して僕から目を逸らさない。
こちらが逸らしたくなるくらいなのに、それさえも許してくれない。
「潤さんはいつも、そんな大層なことしてないです、って謙遜するけど……。私の中で潤さんは、人生のヒーローです。だから、潤さん──」
「──僕も」
口を突いて出た声が、その言葉を遮った。水面のように揺れる黄玉の瞳が、大きく見開かれた。
先を越されてしまった。本当ならもっと早く、僕の方から言うべきだったのに。
「あの、僕、こんな経験は初めてで」
玲さんに先を越された動揺と、緊張とが混ざりあって、言い訳のようになってしまう。
でも、もう、この逸る気持ちを止めたくはなかった。
「こんな感情も初めてで、上手く伝えられるか分からないし、何よりこういうのは僕の方からって思ってたので、かっこ悪いかもしれないですけど、その……」
改めて、玲さんを見て、告げる。
「僕も、玲さんのことが好きです。たぶん、玲さんが思ってるより、何倍も」
僕と視線を交わす玲さんの顔を、灯りで煌めく涙が伝った。
自分の気持ちが、自分の口からこうも簡単に出てきたことに、少しだけ驚いた。淀みなく、混じり気もない、僕にとって最も純粋で強固な、感情の吐露。
だが、必然だ。伝える時が来た。
「一目惚れってやつでした。だから、玲さんが言うような僕の言動は本当に大したことじゃなくて、むしろそれは自分のためだった、というか……」
初めはそうだった。初めて好きになった人に振り向いてほしい──それが原動力だった。
初めての感情で右も左も、前も後ろも分からない僕ができるのは、少しでも玲さんの生きている世界、見えている視界に、僕という存在を刻み込むための選択をすること。
「でも今は、最初の頃の感情とは少し違っていて。玲さんのために、玲さんのために……そうやって選択していく中で、僕にはどうしようもないことや、辛いこともあって」
僕が玲さんに近づこうとするにつれ、玲さんの生い立ち、ずっと抱えていた過去、そうした僕の手の届かない範疇にある現実が、否応なく立ち塞がった。
初めて好きになった人の背中には、誰にも見えない、だが何よりも重く、大きな十字架がのしかかっていた。
「その時、僕は優柔不断だから、そういうものにどう向き合えばいいのか分かりませんでした」
玲さんの周りの世界は、僕の想像し得る現実とはあまりにかけ離れていた。
その乖離に自らの気持ちの整理をつけることは、恋愛初心者の僕にとってはそう簡単に割り切れるものじゃない。
揺らいだし、疑念も抱いた。葛藤もした。自分自身の気持ちに疑心暗鬼になった時もあった。
「でも、皆が背中を押してくれた。ももこさんも店長も棚町さんも菅野さんも新田さんも、皆が僕に、目の前の現実に、運命に向き合う勇気をくれたんです。だから──」
僕は改めて玲さんを見据える。
「だから僕は、少しでも玲さんが幸せに暮らせるような、幸せだと思えるような選択をしようと思ったんです」
玲さんは驚いたように大きな瞳を瞬かせる。
「潤さん……」
「好きだから」
もう何も迷いはなかった。
心が熱を帯びる。恥ずかしいと思う時間さえ惜しいくらい、早くこの感情を玲さんに伝えたい。
「好きな人に幸せになってもらえるのなら、これ以上の幸せはないと思ったんです。玲さんが褒めてくれる僕の一挙手一投足は、他でもない玲さんがいてくれたからこそできたことなんです」
好きな人の過去がどれだけ辛いものだとしても、それ故に今の立ち位置から見える世界が狭くなっていたとしても、仮初の安定を手に入れていたとしても。
幸せにしたい。笑顔でいてほしい。好きだから。初めてこんな感情を抱いた人だから。
それはもう、単純明快な好き嫌いさえ超えているのかもしれない。僕はこれが初めてだから、別のいつかの感情とは比較なんてできないけど。
それでも、この時、この一瞬が、玲さんの幸せに繋がると思えば、玲さんが背負うものにも真正面から向き合える。
「だから、玲さん」
ふわりと、雪が降ってきた。
不思議だ。
こんなにも簡単に決意の言葉が出てくるのは、たぶん──
「僕に、玲さんが幸せになる手伝いをさせてください」
──一瞬、視界が真っ白になる。
体が感じた軽い衝撃と、いつもよりも近くに感じる玲さんの髪の匂いと、体温。
それらが薄れ、目の前に再び顔を真っ赤に染めた玲さんが現れた時、唇を撫でる雪混じりの冬の空気がいつもより冷たく感じた。
そこからは、キスをされたと分かるまでそう時間はかからなかった。
「それをお願いするのは私です。ねぇ、潤さん」
手を後ろに組んだ玲さんは、いつもの溌剌とした笑顔で、僕を見上げた。
「──大好きです!」
Fin.




