両手いっぱいの花束を
その日の晩、僕はあまりよく寝つけなかった。ただ目が冴えていたわけでも、興奮していたわけでもない。寝ようとしても、瞼が閉じなかった。日を跨いだことを認識するのが少し恐かった。
朝になって、身支度を整えて、駅に向かう。午前九時に改札前で玲さんと待ち合わせをしていたが、そこにはもういつものメイド服を着た玲さんが、花の束を小脇に抱え、髪を弄びながら待っていた。
「お待たせしました、おはようございます」
僕が声をかけると、玲さんは顔を上げて穏やかな微笑みを浮かべた。
「おはようございます。ちょっと早く来ちゃいました」
嫌味で言ったわけではなさそうだ。玲さんの目元にうっすらとくまがある。きっと僕と同じか、それ以上に今日のことを気にしていたのだろう。
昨日の強気も今はなりを潜めている。一晩空いて頭が冷えたのか、それとも内に隠しているだけか。たぶん前者だろうが、いつもより玲さんの瞳は澄み切っていた。
「行きますか」
玲さんの後に続いて改札を通り、少し待って電車に乗る。今日は下りだ。朝だからか、向かいに停まっている上り電車の混雑とは裏腹に、椅子に空席が目立つ。また二人並んで座る。
先に出発した上り電車が遮っていた朝の陽光が、窓越しに僕たちを照らした。その光を受けた花からいい匂いがした。玲さんの代わりに持とうと思っていた僕の思考を先読みしたみたいだった。匂いたつ花束を抱えた玲さんはとても綺麗で、僕はそのまま玲さんに花を預けることにした。
「……今日、僕たちシフトでしたよね」
煩悩を諫めようと、苦し紛れに話題を振る。
「あー、大丈夫です。昨日の夜、店長に連絡しておきました」
「おぉ……」
また玲さんのような声が出てしまう。
僕よりも玲さんの方が大局を見ている。厳密には今回の件に関わりを持っていない僕なんかより、戸惑う立場である玲さんの方がひとつひとつのことを大切にして、やらなければいけないことを消化して、着実に立てた道筋を踏みしめている。
こんな人だったっけ? と思ってしまう。まだ、僕の知らない玲さんがいる。天然でかわいいところも、脆く危うかったところも、芯が強いところも、こうして冷静に俯瞰をするところも、等しく落木部玲に集約されるのが不思議だった。
それでも、玲さんはここにいる。何人もいるわけじゃない。そんなドッペルゲンガーみたいな話ではなく、その根底に、瞳の奥に、玲さんはいる。
玲さんが「着きました」と言って、僕たちは電車を降りた。思いのほか揺られる時間が少なかったから拍子抜けした。こんなにも近いところに、この姉妹の人生の鎖が眠っている。
駅から数分歩いたところに、目的地はあった。小さな山を切り開いたような場所で、舗装された斜面の上にある。恐らく唯一のルートであろう、道路から枝分かれしている階段を、玲さんに追従して登る。
あまり広くはない敷地に、所狭しと墓石が立ち並んでいた。前を歩く玲さんの服装とその墓石たちがなかなかにミスマッチで、少し不安になった。
「ここです」
玲さんが立ち止まる。
その視線の先には、『落木部家』としっかり彫られた墓標が鎮座していた。
「……」
息が詰まる。お盆に帰省して、自分の先祖が眠る墓の前に立った時でもこんな感覚にはならない。
横に立つ墓誌に目をやると、脈々とした玲さんの先祖の生きた証が――ない。そこにはひとつ、まだ新しい名が彫られているだけ。
「このお墓は店長が建ててくれました」
淡白に目を細めて、玲さんははっきりと言った。
現実が、目の前に横たわっている。
「だからいくら感謝しても足りないんです。これは私たちと、私たちの記憶以外で唯一、お母さんがいたことを証明できるものだから」
玲さんの声の最後の方が、ほんの少しだけ震えた。
「私、バケツに水汲んできますね!」
その震えを振り払うように、玲さんは花を僕に押しつけ、水場の方へと早足で向かってしまった。
僕は玲さんを見送って、残された玲さんの感情の残滓をかすかに感じながら、墓前に向き合う。
初めまして、と言うべきなのだろうか。そんな仰々しいことをしなくてもいいじゃないか。僕はまだ、この墓石の前では何者でもない。そう、今日の僕は何者でもない。ただ現実を見て、受け止めるだけの小さな存在だ。それ以上でも以下でもない。
「──おはようございます」
昨日とは打って変わって、あまり抑揚のない声だ。
自分でも驚くほど、その声が聞こえたことに対して冷静だった。それはたぶん昨日見た、あの最後の顔せい。
振り返ると、大きめのダッフルコートとマフラーで身を包んだ妹さんが立っていた。
「おはよう……ございます」
妙に眼光が鋭い。顔の下半分がマフラーに埋まっているから、表情が上手く読めない。
妹さんは僕から視線を切って、僕の隣に並んで墓石と向かい合った。
そのまま、しばらく沈黙が流れた。恐ろしく静かな冬の空気が僕たちの肌を撫で続ける。
耐えかねた僕は、妹さんを見た。同時に妹さんも、僕に小さく振り向いた。
「なんですか?」
「いや……」
彼女の目元もうっすらと色が変わっていた。血は争えないらしい。安心した。
「お姉ちゃん、いないじゃないですか」
「あー、玲さんなら水を汲みに行ってます」
「……そういうの、率先してやらないと株上がらないんじゃないんですか?」
「ああ……」
まあ、そうかもしれない。そうかもしれないが、僕が行っていたら代わりに玲さんが妹さんと鉢合わせになっていたわけで。
正しいことなのかどうかはともかく、玲さんと妹さんのクッション代わりになるのは、別にやぶさかではない。二人が上手くいくのなら。
「……昨日から思ってたんですけど、敬語やめてくれません?」
「えっ」
忌々しげに言い放った妹さんの表情は、思ったよりも柔らかかった。
「百瀬さん、見るからに年上ですもん。そんな人から敬語使われるの、あんまりいい感じがしないです。私まだ若いんで」
「は、はぁ……」
そういうものなのだろうか。確かによく考えれば妹さんの方が年下なのは明白だし、女子高生相手に敬語を遣うのもちょっとどうかと思う……と、言われて初めて感じ始めた。
そういえば、最近は敬語しか話していない気がする。
「……わかった。じゃあ、普通に話すよ」
妹さんは特に感情を示すこともなく、僕を少しの間見つめてから墓石に視線を戻した。
僕は少しだけ口が渇いていた。映画を観る前にドリンクを何度も口にしてしまう、ちょっとした緊張感に似ていた。そういうことは展開的に、全てが終わった後に頼むことだと、世の中の大半の人は感じることだろう。
「この下に――」
妹さんは続けて何かを言おうとして、息と共に言葉を飲み込んだようだった。
そして細く長い息を吐いてから、
「信じられますか? ここにお母さんがいるんですよ」
努めて穏やかで、まるで自分には関係ないことのような声だった。それは玲さんがそうする時と全く変わらなかった。
「信じ難いけどね」
「……」
気の利いたセリフのひとつも言えない。まあ、そんなものは浮かんですらこなかったけど。
流石に一人で生活しているだけあって、妹さんは強かだ。平静に装うのは玲さんと一緒でも、僕を利用して自分の頭を冷やすなんてのは、きっと玲さんにはできない。
一人で感情を抑え込もうとする玲さんと、他人を上手く利用して感情をコントロールする妹さん。生きてきた状況が違えば、考え方もまた違う。だからたぶん、今この二人の相性はあまりよくないのだと思う。
「久しぶりです。お母さんに会いにくるのは」
あくまでお母さんに会いにきただけ。そう釘を刺された気がする。あなたたちなんて知ったことじゃない、と。
「そうなんだ」
「……」
妹さんはまた僕を見た。煽っているつもりなのだろう、僕が釣れなくてちょっと苛ついている、そんな三白眼だ。
「僕は初めてだ」
初めての感覚だった。僕はあろうことか、他人の墓の前で少し感傷的になっている。だがそれを妹さんに悟られるのは都合が悪い。今日の僕の立場的には。
「……意味分からないです」
「いいんじゃないかな、分からなくても」
「……」
僕に向けられる妹さんの視線が痛かった。
遠くから少しだけ不規則な足音が聞こえた。たぶん、いや十中八九、取りに行っていたこの時間に比例した量の水に振り回されているのだろう。
僕も妹さんも、同じ方向を見る。耳をそばだてたつもりはなかったが、妹さんの息を呑む音はどうしても拾ってしまった。
「お、お待たせしました……!」
コンクリートの地面に派手な音を立ててバケツを置いた玲さんは、膝に手をついて切らした息を整える。
「だ、大丈夫ですか……?」
「はい、全然、大丈夫です……」
とてもそんな風には見えない玲さんは、二、三度無理やり深呼吸してから、体を起こした。
そして、目が逢う。
「……修」
玲さんからは、特に何も感じなかった。別段驚いた様子もない。ここに妹さんがいるのが当然であるかのような反応だ。
妹さんは……まあ、知っている。眉根に浅くはない皺が刻まれているのだろう。
僕は内心ほっとした。二人とも、見事に僕の予想通りの反応だ。
ちょっとだけ、自分の性格の悪さを感じた。
玲さんが柄杓でバケツの水をすくい、墓石の上からゆっくりと流す。深々と彫られた窪みに水が伝い、家名がよりはっきりと姿を現した。
「あ」
続けて花を入れ替え始めた玲さんが、ぽつりと言った。
「お線香、忘れました……」
ああそうだった、と僕も今気がついた。線香なんていつも親が自然と用意していたから、気にしたことなんてなかった。
するとふと、妹さんが懐に手を入れて、そこから何かを玲さんに差し出した。
「ん」
出てきたのは、数式がいくつも印刷されているコピー用紙に包まれた、短い棒状の何か。
玲さんは水に濡れた手を振って軽く乾かし、ぎこちなく受け取った。その紙を剥ぐと、中には線香が一束入っていた。
「どうせ忘れてそうだったし、数があって困るものじゃないし」
そう言って明後日の方を向く妹さんは相変わらずの仏頂面だった。さも興味なさげに、たぶん縁もゆかりもない三つ隣の墓石の方を見ている。
玲さんはほんの少し呆然として、一向に自分の方を見ない妹さんに向かって──
「ありがとう」
微笑んだ。
その言葉の柔らかさに、妹さんも反応した。反応して、玲さんに振り向いて、またあのもどかしい、迷いの露呈した目をしたまま、何も言わずにまた目を逸らした。
本当に……僕の小生意気な予想なんて、玲さんの前ではことごとく無に帰すのかもしれない。
「僕、火つけてきますよ」
「ありがとうございます」
僕は玲さんから線香をもらい、共用のアルコールランプに向かう。
備え付けのマッチでアルコールランプに火をつけて、一度二人の方を見る。何やら玲さんが妹さんに指示を飛ばしている。花の入れ替えを手伝って、なんてことを言っているのだろう。玲さんに入れ替えた後の古い花を差し出されて、妹さんは渋々とか恐る恐るといった感じで、静かに受け取った。
そして玲さんが言う。「ありがとう」、と。
今日の僕は部外者だ。ここは二人と、空の上にいる二人の母親の世界だ。そう思いながらオレンジ色の火に線香の束を拡げてくぐらせる。だからこうして線香を手にしたし、揺らめく火に顔を火照らせている。
でも僕の心は、僕が思っているよりも断然素直だ。僕が大切だと思える人と、その人が大切だと思う人が、幾ばくかの空白の期間を経て、またこうして再び言葉を交わしている。それが僕にとってはこの上なく、嬉しい。
今日だけじゃない、ずっと僕は部外者だった。玲さんたちにとって僕はどこの馬の骨かも分からない若造で、玲さんたち自身の秘めたる部分を散々かき回した挙句に自分の無力を知る、なんて七面倒くさい男だった。逆の立場なら迷惑極まりない。現に僕自身がこれまで踏み込んできたのは、どうしようもないと思わざるを得ないことばかりだった。
そんな現実に何度も、勝手に打ちのめされた僕を、玲さんが、玲さんたちが迎え入れてくれた。認めてくれた。あの店の敷居を何度も跨ぎ、僕に新たな居場所と経験を与えてくれた。
僕たちは恋以上の何かで、繋がることができただろうか。
たった三か月前のあの日に僕を導いた運命、それに僕は抗った。選択を重ねた。僕が思う正しさと、何より玲さんのために。
その結果が今、僕の背後で、まるで抗ったはずの運命に吸い寄せられたように、そこにある。
「お待たせしました」
アルコールランプを消し、もくもくと煙を上げる線香を持って二人の元に戻ると、二人揃って僕を見た。驚くくらい同じ、穏やかな顔をしていた。
束を三等分して、二人に渡す。玲さんは妹さんに言ったように、妹さんは何故か訝しげに、同じく「ありがとう」と言う。僕はついにやけてしまった。二人が墓石の方を向いていてくれて助かった。言及されるのは少し面倒くさい。
玲さん、妹さん、僕の順で墓石に線香を供える。縁のない人に対して供え物をするのは初めてだから、積まれた線香の山にどんな心境で上乗せすればいいのかよく分からなかった。だからとりあえず、僕と彼女を引きあわせてくれた二人の女の子について、いくつか頼みごとをした。それはある意味僕なりの誓いだったかもしれない。
立ち上がって墓石に背を向けると、二人の姉妹が並んで線香の山を見ていた。僕は玲さんの隣に並んで、また墓石に向き直る。
「……お姉ちゃんさ、どうして私を連れてきたの」
ふわふわと大雑把で、それでも答えは分かりきっている疑問だ。
「お母さんが寂しがってると思って」
昨日の今日でそんなことを言うとは、なかなか玲さんも意地が悪い。
でもそれが本当の意地悪だなんて僕は思っていないし、きっと妹さんも思っていない。それでいて玲さんのセリフそのものも、決して間違ってなんていない。
「まあ、私も来ることなんてなかったから、お互い様だね。店長がいつも掃除してくれてたんだよ。一緒にお母さんに謝ろう」
ここはかつての玲さんからすれば、恐らくこの地球上のどこよりも忌むべき場所のはずだ。思い出したくない過去に嫌でも向き合わなければならない、磔台のような場所。そこで玲さんはこうやって、実の妹に笑みをこぼす。
店長はこうなることを見越した上で、墓を建て、水をかけ続けていたのかもしれない。いつか玲さんが、自分の中ですべてを綺麗に整理しようと決心した時の道標を作るように。
妹さんは黙りこくった。口を固く結んで、顔を伏せている。玲さんの笑みなんて見ようともしない。
玲さんはそんな妹に対し、今度は苦笑して、少し大人びた、小さな嘆息をした。
「来てくれて嬉しい」
「……バカみたい。別にお姉ちゃんのために来たわけじゃない」
「うん。でも修はここにいるよ」
「……私は私の気まぐれで来たの。それだけ」
玲さんはまるで小さな子供のわがままを聞く母親のように微笑んでいた。瞳はずっと妹さんを捉えていた。
「お姉ちゃんは──」
妹さんは玲さんに勢いよく振り向き──いや、止めた。
優しいはずの玲さんの微笑みに気圧されているようだった。一瞬の怯えた顔と、悲しげな顔と、それらを押し潰す前髪の影。顔の傷も一切見えないくらい、酷く項垂れた。
「……本当に、自分勝手」
「うん」
「結局こうやって私まで巻き込んで、自分の思い通りにしようとする」
「うん」
「お姉ちゃんにとって、私たちの事情とか心境なんて関係ないんだよ。それで全部背負った気になられても困るんだよ。お姉ちゃんの背中には最初から誰もいない。何もないんだよ」
「……うん」
「それは──」
流石に言い過ぎだ、と思って止めようとした僕は、玲さんが振り向いたせいでその勢いを失った。今日の僕の立場からすれば出過ぎた真似になりそうだったのを咎めるでもなく、「すみません」と聞こえてきそうな苦笑いによって、僕は封殺された。
「そうだね。そうかもしれない。でもね、修」
玲さんはまた、優しい微笑みで妹さんを捉えた。
「修は今、私の隣にいる」
その言葉は、どんな言い訳や謝罪よりも強かった。
玲さんはまるで全てを抱きかかえていた。体も心も全て使って、玲さんは唯一の肉親を、そうであってほしいと自身が願う姿に留めていた。切れかけていた糸を、再び強固に結びつけるかのように。
妹さんは黙りこくった。何も言えなくなっているようだった。他でもないたった一人の家族の、見たこともない強い力は、ある方向に傾きかけていた彼女の中の彼女にとっては決定的だったのかもしれない。
僕は不思議と、畏怖とか尊敬とか、仰がなければ見えない場所に玲さんがいるとは考えなかった。そうした玲さんの姿が、まるで完成形の見えなかったパズルの最後のピースを当てはめたように、僕の中でしっくりときた。言い換えれば安堵感だ。妹さんがここにいるように、玲さんもここにいる。最初に会った時と変わっているようで変わっていない玲さん。
僕たちは、たぶんあるべき姿になって、今ここにいる。
「……お母さん。今まで会いに来られなくてごめんね」
優しくて、迷いがない。
すると、玲さんが僕の手を静かに握った。僕は少なからず驚いたし、それ故に彼女へすぐ振り向いたが、僕の方は見ていなかった。そしてよく見ると、空いていると思っていたもう片方の手で、妹さんの手を握っていた。
「お詫びしなきゃいけないけど、私はもう、ここで立ち止まるのはやめたから」
優しい笑みだ。
僕がそんな玲さんの──目の縁から流れ出した涙を、見逃すわけはなかった。
「ねえ、お母さん。私──」
握った僕たちの手を胸元に引き寄せる。
まるで大切な人に贈る花束に、想いを込めるように。
「私、ちゃんと前を向けたよ」
──これは僕が抗った運命とは違う何かだ。
もし抗っていなかったら、どうなっていたか分からない。先のことは誰にも分からない。でも今僕の前に敷かれている道は、きっと何もしなかった場合に歩んでいたであろう道とは違う気がする。その正否は誰にも分からないが、分からないからこそ、僕がそう思うことに意義を唱える者はいない。
玲さんに引き寄せられた僕の手に、玲さんの涙が落ちる。冷たかった。その冷たい一滴が、指の間に入り込み、三人の掌の中でじわりと熱を持つ。
何をしたかの選択と、乗り越えた確率の数々は、こうして帰結した。




