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両手いっぱいの花束を3

 僕と玲さんは引き続き電柱の影で待つことになった。その理由はさっきと少し変わった。どうやら例の(・・)彼女が教員たちと話をつけてくれるらしい。

 僕は少し呆然としていた。校門の横で話をしている彼女は、後ろ姿しか見えないものの、よく肩が弾んでいる。そんな彼女の話を聞く教員と女子生徒も、屈託のない笑みを浮かべている。

 想像していた印象と少し……いや、だいぶ違う。伝聞に印象づけられて、勝手に背中を丸めて過ごす内気な少女を想像していたが、とてもそうには見えない。

 しばらくすると、彼女が深く頭を下げた。それに苦笑いを浮かべた二人は、ばつが悪そうに僕たちに会釈をした。まあ向こうの立場だったら僕も同じ行動をしていただろうから、同じように会釈をする。

 教員たちが校舎に戻っていくのと同時に、彼女もこちらに歩いてきた。

 玲さんよりも一回り小柄だ。玲さんよりも暗い色の髪を肩の高さで揃えている。玲さんとは似ても似つかないが、瞳は同じ黄玉の色をしている。ブレザーの制服を着崩していて、まさに今どきの女子高生然としている。

 なんて、気づけば僕は彼女と玲さんを比較していた。無理もない、と自分でも思う。そして比較すればするほど、胸の奥を針でつつかれるような痛みが増す。

「初めまして」

 僕の前に立った彼女は、身長差のある僕を見上げた。大きく見開かれた目と声の明るさが、遠目で感じていた印象と重なった。

 同時に戸惑った。これだけ顔を近づけることへの抵抗はないのだろうか。だって……。

「久しぶり、お姉ちゃん」

 言葉が詰まった僕の返答を待つことなく、彼女は玲さんに振り向いた。

 その声は僕の時と全く変わらない。明るい、彼女の中では恐らく普通であろう声だ。

「…………うん。ひ、久しぶり……」

 玲さんの声は震えていた。真正面に彼女を見ようとする素振りは一切なかった。

 普通ではない。普通であるはずがない。いくら克服したとはいえ、本人を目の前にして、僕や店長の前と同じような態度を保てるはずがない。

「……修」

 彼女――落木部修は、今どんな顔をしているだろう。後ろ髪の揺れる様子にさえ、僕は戦々恐々としていた。

 こういう時こそ、僕が架け橋にならなければいけないのに――

「――っだぁーもう、二人揃ってどんだけくっらぁーい顔してんの!」

「え」

 僕も玲さんも固まった。元々そんなに動けなかったが。そうじゃなくて、度肝を抜かれてしまった。

「暗い! 暗すぎる! せっかくいい気分で帰ろうとしてたのに……」

「あ、あの……」

「なんですか!」

 ものすごい勢いで睨まれた。

「いや、えっと……」

「お姉ちゃんの彼氏ですか!」

「うん、その……はっ!? いやいやまだ違う!」

「まだってどういうことですか!」

「そ、それはいろいろあって――玲さん! そんな悲しそうな顔しないでください!」

 調子が狂う。年下に手玉に取られるなんて。

「彼氏のお披露目じゃないの? お姉ちゃん」

 どうしてそうなる。

「ううん、そうじゃなくて……」

「じゃあ何しに来たの?」

 快活な声に気を取られて、油断していた。

 僕も、もちろん玲さんも、体が強張った。直接風に吹かれるよりも寒気を感じた。

「……まあ、とにかくウチに行こ。寒くなってきたし、風邪ひいちゃうよ」

 そう言って、彼女は歩き出した。

 彼女の言う寒さと、僕たちの感じる寒さはきっと違う。

 玲さんの顔は曇り切っていた。そんな玲さんにかけるべき言葉を僕は知らなかった。




 道中、僕たちは一切話すこともなく、校門を出てすぐの道を住宅街の隙間から見える線路と平行に歩いた。気がつけば空にうっすらと残っていた太陽の残光も闇に呑まれていた。

 先を行く妹さんの背中を追いながら、後ろを歩く玲さんの様子を気にする。しゃんと胸を張って歩く妹さんの後ろ姿は、僕の後をついてくるだけになってしまった玲さんよりもはるかに大きく見えた。

 しばらくすると、妹さんは長く続いていたブロック塀の切れ間に入り込んでいった。

 僕たちもそれに続くと、そこには恐らく白色だったであろう名残のある壁の、いかにもアパート然とした建物があった。

「二階なんで、気をつけてください。お姉ちゃんは裾踏まないようにね」

 心遣いの言葉も、ついさっきの寒気が尾を引いて素直に受け取れなくなっている。敏感になり過ぎているのかもしれない。

「部屋の中を少し片づけるんで、ちょっと待っててください」

 先に部屋に入った妹さんがドアを閉めてから、僕は玲さんを見た。

「……ダメですね、あはは」

 僕の心配は玲さんに筒抜けだったらしい。明らかに無理をしている。

「玲さん……」

「大丈夫です。こんな感じだって、なんとなく予想はしてましたし。問題ないです」

 そう思い込みたい。玲さんの顔にはそう書いてある。

 気丈な振る舞いは玲さんの専売特許だ。でもそれがいつまでも続くわけじゃない。ここから先は、僕がそんな玲さんの土台にならなきゃいけない。玲さんが玲さんらしく前を向けるように。

 僕が意を決した頃、ドアが開いた。

「お待たせしました」

 私服に着替えた妹さんに招かれて中に入ると、仄かにコーヒーの香りが鼻腔をくすぐった。

 通されたのは七畳ほどのリビングだった。それらしいドアもないし、建物の大きさを考えればワンルームなのだろう。家具や装飾はそれほど特徴的なものはなく、質素で小綺麗で最低限、という言葉がよく似合っている。壁にはさっきまで着ていた制服がかけられていた。

 僕と玲さんは部屋の中央にあるテーブルの傍に座る。

「コーヒーと麦茶、どっちがいいですか?」

「あ、お気遣いなく……」

「じゃあ私が飲みたいんでついでに淹れます。どっちがいいですか?」

「……こ、コーヒーで」

「お姉ちゃんは?」

「…………私も、一緒で」

「はーい」

 僕たちの気分を嘲笑うかのような軽い返事だ。まあ、僕たちの方が重すぎるのだろうけど。

 妹さんは廊下にあるキッチンで三人分のコーヒーの準備を始めた。その間僕たちはまた待ちぼうけを食らうわけだが、話が続かないとどうしても緊張が表面化してしまう。玲さんも部屋に入ってきてから余計カチカチに固まってしまっている。

 なので、本当に失礼なのは承知だが、少し部屋の中を観察することにした。……とはいっても、やはり特筆すべきところなどないが。強いて言うなら、小綺麗なインテリアと裏腹に、外観同様に劣化してくすんだ壁が目立つくらいだろうか。

 それにしても、やはり物足りなさを感じるくらい物がない。女子高生の部屋というのはどこもこんな感じなのだろうか。

 見物も早々に終わり、玲さんの心配をしながら恐ろしく長く感じる時間が経つのを待っていると、淹れたてのコーヒーの匂いが漂ってきた。

「お待たせー」

 妹さんは湯気の立つコーヒーの入ったカップを三つと、同じ数のコーヒーミルクとスティックシュガー、スプーンを持ってきてくれた。

「ご丁寧にどうも」

「お客さんですからねー。インスタントだけど許してください」

 妹さんは僕達の対面に座ると、早速コーヒーの中にミルクとスティックシュガーを入れた。

「で、お姉ちゃんの彼氏じゃないならどちら様なんですか?」

 まだコーヒーがクリーム色にもなっていないのに。

「僕は……まあ、玲さんのバイト仲間というか」

「というか?」

「バイト仲間……です」

 まるで面接をされているみたいだ。

 妹さんは「ふーん」と興味なさそうに呟いた後、

「お姉ちゃんと来てるんだったら、私のことも知ってますよね。落木部修です」

 名乗ってから、ぺこりと頭を下げた。

「あ、百瀬潤です」

 同じように頭を下げる。なんだか完全に主導権を握られてしまっている。

 そして顔を上げると、妹さんはまじまじと僕を見ていた。

「……」

 何を考えているのかよく分からない。異父とはいえ、本当に姉妹なのかを疑ってしまうほど妹さんの中が見えない。姉はあんなに分かりやすいのに。

「……あー、その、さっきはありがとうございました」

 耐えきれず、僕は話を変える。

「さっき?」

「あの、校門前で……」

「あー。別にいいですよ、あれくらい。でも今日終業式だったし、私がたまたま遅くなって通りがからなかったら絶対面倒くさいことになってましたよね」

「た、確かに……」

 そうか、今日は終業式だったのか。そういえばあの時間にしてはやけに出てくる生徒が少ないと思っていた。妹さんが通りかかったのは本当に幸運だったらしい。

 妹さんはコーヒーを一口飲んで、

「それで、お姉ちゃん」

 標的を本命へと移した。

「そんなバイト仲間さんまで連れ出して、何しに来たの?」

 本当に分からない、とでも言いたげに、妹さんは首を傾げた。

 玲さんはずっと視線を落としていた。話を振られても、玲さんは恐れ迷っているような暗い顔で黙っている。

 何をしに来たか、と言われて、こんな状況で、素直に言えるかと言われれば、首を縦には振れない。僕でさえそうなのだから、玲さんはなおさらに決まっている。

「あ、じ、実は――」

「大丈夫です、潤さん」

 助け舟を出そうとした僕を、玲さんが少し震える声で止めた。

「いや、でも……」

「それを潤さんに言われちゃったら、何のために来たのか分からなくなっちゃいますから」

 玲さんは胸が詰まるくらい歪な笑みを僕に向けた。

 無理をしないでほしい、とは思う。ただ玲さんがここにいるそもそもの理由は、恐らく僕なのだ。そんな根拠である僕が、玲さん本人の意思を阻害してまで手を差し伸べるのは道理じゃない気がする。

 玲さんの土台になるというのは、たぶんこういうことじゃない。だが具体的にどうすればいいのかを僕はまだ知らない。だから、ひとまず僕はこの場を玲さんに預けることにした。

 玲さんは僕が押し黙ったのを見るなり、ひとつ大きく息を吐いて、妹さんに向き直った。

「仲直りしに来たの」

 どこまでも真っ直ぐな玲さんの言葉に、妹さんの眉が少し動いた。

「すごく遅くなっちゃったから、ちゃんと戻れるかなんて確証はなかったし、修にその気があるかも分からなかった。でも……」

 玲さんはしっかりと、妹さんの目を見据えた。

「どうにかしなきゃいけないって思ったの。私たちが姉妹でいる意味を考えなきゃいけないって思った。それにこれから先のことも。今の私のままじゃ、いつまで経っても前に進めないって。だから会いに来たんだよ」

 そう、だから会いに来たのだ。僕は玲さんのために、玲さんは玲さん自身と、玲さんに関するあらゆるもののために。

 だが、妹さんの表情は変わらなかった。

「何言ってるのか分かんない」

 僕も、恐らく玲さんも想定していなかった返答だ。

 ずっと会っていなかった姉を前にして、あまつさえ思いの丈を示したにも関わらず、口にするべきセリフではないと思った。

「私暗い話ダメなんだ。そういうのガラじゃないし。で? 百瀬さんはいつお姉ちゃんとくっつくんですか?」

「修、そうじゃなくて……」

「あ、もしかして実はもうくっついてるとか? 私に遠慮して隠してます?」

「だから修、あのね――」

「しつこいってば!」

 剣先のように鋭い怒号だった。それが僕たちを指の先まで凍りつかせる。

「暗くなるのは嫌なんだよ! 人が暗い顔をするのを見るのも嫌! お姉ちゃんは……っ!」

 妹さんは言葉を飲み込んだ。勢いをつけて吐き出してしまいそうな剥き出しの想いを、ギリギリのところで食い止めているようだった。

「お姉ちゃんは、昔からそうだった……! 私をかわいそうな妹としてしか見てない。私に仕送りをしてくれてるのも、こんな風に私のところに来たのも、この傷があるからでしょ! いつも暗い顔して、何が仲直りだよ、お姉ちゃんが勝手に私のことを悲観して見てただけじゃん! そうやって自己嫌悪に浸って、私に贖罪をなすりつけるんだよ。そういうのを自分勝手(・・・・)って言うんだよ! 何を今さら……」

 妹さんはそこまで言い切ってから、はっとして僕を見た。

「あ、あー、ごめんなさいねー。見苦しいところを」

 へらへらと急転換した妹さんの表情には、まだ激昂の余韻が汗になって残っている。

 その激昂で、玲さんは完全に沈黙してしまった。こうして話が拗れることは分かっていたはずだ。それでも、言葉というのは覚悟さえ飲み込んでしまう。

 どうやら僕の見てきた玲さんと、妹さんの知る玲さんは大きく違っているらしい。あれだけ溌剌とした笑みの消える瞬間を僕はまだ数えるほどしか見ていないのに、妹さんにとってはその笑みが消えた後の玲さんこそが玲さん、という認識なのだろう。

 一方でそれが、玲さんの中の妹さんを定義づける指針のひとつになる。つまるところ、妹さんの言っていることは正しいと僕も思う。玲さんは全てを背負ってきたのだ。妹さん本人が望むか望まないかは別として。

 自分勝手だ。僕に負けず劣らず。こんなこと本人の前では言えないが、玲さんは僕なんかに影響される前に、もう十分自分勝手だったということだ。

 だからこそ。

「自分勝手だっていいじゃないですか」

 目の前で慕う人がこき下ろされていたにしては、自分でも驚くくらい冷静だった。見かけだけは。

 たぶんここは、玲さん自身がちゃんと向き合って話さなければならない場面なんだと思う。だが玲さんをこの場所まで連れてきてしまった僕にだって言う権利はあるし、言いたいことだってある。だから言う。……いや。

 玲さんのために、僕が言わなければいけない。

「確かに、今までは玲さんの自分勝手だったかもしれない。それでも玲さんは一人で抱えて生きてきたんです。妹さんのことも、玲さん自身のことも、昔のことも。それは玲さんが抱えなきゃいけない立場だったからです」

「そんなにお姉ちゃんの肩持っちゃって、ぞっこんですね」

 小馬鹿にしたような口調だが、妹さんの目は笑っていなかった。

「お言葉ですけど、バイト仲間さんに何が分かるんですか」

「分かります。話は聞きましたし、何より妹さんに会いにいこうって言ったのは僕です」

「……随分余計なことするんですね」

 妹さんは目を細めた。

「私だって、別にお姉ちゃんのことが嫌いなわけじゃないですよ。嫌なのはお姉ちゃんが暗い顔をすること。私を見る人はみーんな、同じ顔するんですよ。かわいそう、って。私がそれでどう思ってるかも知らないで。この傷を理由にすれば、私にしたことはみんないい事(・・・)になるじゃないですか。そうやって満足そうな顔をしてるのが嫌なんです。私はお前らが自尊心を保つための踏み台じゃねえぞ、って。だからそんな心配をかけさせる前に、明るく振る舞うんです」

 妹さんは何かを訴えかけるように、玲さんを見た。

「お姉ちゃんには、そんな顔してほしくなかった。でも分かるんですよ、妹だから。変に気を遣われてることくらい、すぐ分かるの」

「……だから、離れていったの?」

「そうだよ。お姉ちゃんのその自分勝手な考えが、私にとっては重荷だったんだよ。だから離れた。お姉ちゃんから、真中さんから、他のいろんなものから。自立して、私なりの生き方を探そうと思ったの」

 ――玲さんと似ている。

 体の傷越しに自分を見られることへの嫌悪感。玲さんは抵抗感で済んでいたかもしれないが、妹さんはきっと玲さんよりも敏感で、そして玲さんにとって僕がそうなれたような、自分自身を見てくれる人がいなかった。そしてそのたったひとつの頼りだった玲さんも、そうやって見てくれることはなかった。

 状況は似ていた。でも選択は異なっていた。

 彼女もまた、運命に翻弄された一人だ。それでも、彼女は自らの運命を過去と切り離して、前に進んだ。それは今まさに玲さんが前に進むために挑もうとしている方法とは違うもの。

「そ……か……」

 玲さんは完全に意気消沈していた。

 何より本人の口から、それを聞いてしまった。自らを切った妹の選択。突き放すなんて生易しい表現では明らかに足りない、明確な切離の意思。そんなものを今の玲さんが真正面から投げかけられて、何のダメージも負わないはずがない。

 それが彼女の「生き方」だと、本人がそう告げてしまった。これ以上の意思表示はきっと存在しないだろう。僕の知る限りでは、人の生き方ほど簡単に変えられないものはない。それがあの玲さんの妹さんであればなおさらだ。それをどれだけ固く心に留めているかは想像に難くない。

 とはいえ、僕の知る限りでは、の話だ。

「玲さん」

 ここには何よりも玲さんがいる。これは僕ではなく、玲さんがどうするかの問題だ。

 二人の生き方は全く異なっている。悲しいくらい正反対だ。前に進むために切り離すことと、前に進むために結び直そうとするのでは、あまりにも方向性が違う。

 だが期待はある。玲さんならもしかしたら……そう思って、僕は玲さんを見た。

「玲さん」

 もう一度呼ぶと、俯いていた玲さんが僕を見た。

 その顔を見て、僕の気持ちがほんの少し揺らいでしまう。玲さんを想うが故に、玲さんの顔に表出したその感情の色味をこれ以上濃くしたくないと思ってしまう。

 だがそうではない。今、大切にすべきなのはそんな玲さんの表情ではない。

 玲さんがこれから先、今この瞬間からどうなっていきたいか。それを想像するのも、実現させるのも、玲さんにしかできない。

「……」

 僕が何も言わずにいると、玲さんは少し開いていた口をきゅっと閉じた。

 もしかするとこれさえも、僕の自分勝手なのかもしれない。玲さんの名前を呼んで背中を押すことさえも、玲さんにとっては辛く、酷なことなのかもしれない。

 それでも――と僕は思う。それでも、僕は玲さんの幸せのためにできることをしたいし、玲さんがそう望んでいるのなら背中を押したい。それでも、僕はいつまでもいつまでも、そんな健気で優しい玲さんの隣で彼女を支えられる存在でありたい。

 僕がいることで、玲さんが玲さんの望む方に足を向けて歩いていけるのなら、僕はこの身を捧げたい。

 僕は玲さんにとって、かけがえのない存在でありたい。

「修」

 玲さんが妹さんを見つめる。横から見るその瞳は、いつもより強い輝きを放っている。

「それでも私は、諦めたくない」

 その輝きは確かに、声と言葉を彩る。

「修はまた自分勝手だって思うかもしれない。その通りだし、私もそう思う。一人で全部抱えた気になって、私の自己満足を修に押しつけてただけなのかもしれない」

 玲さんには今、こうやって自分を見つめられる勇気がある。つい数日前まではあんなに敏感で、その単語をまともに口にすることもできなかったのに。

「それでも、私はお姉ちゃんだから。修が嫌だったとしても、私は修のお姉ちゃんだから。たった一人の家族を放っておくことはできなかった。自分勝手だとしても、自己満足だとしても、私は修のよりどころでありたかった」

 妹さんは表情を変えない。それはたぶん、この数カ月の玲さんを知らないからだ。

 できることなら徹頭徹尾教えてあげたい。玲さんがこうして過去の扉を開けるに至った理由、突き放されても妹さんの目を見続ける理由。妹さんの中で止まっている玲さんと、僕が見てきた玲さんは違う。

 玲さんは僕を見ない。助けを求めるような素振りを見せない。それは何より玲さんがそう決断したから。玲さんにとってかけがえのない存在でありたいが、今この瞬間、この家族の間には僕の役はない。

「もう一度、私と来てほしい。修と一緒にいたい。目を逸らすことはもう辞めたいの」

 正直で、お世辞でもない。影の全くない、日向のような言葉だ。

 過去に対する贖罪も、後悔も恐怖も、今の玲さんからは感じられない。今この玲さんこそが、本来あるべき玲さんなのかもしれない。変わったというよりは、元に戻ったという方が正しいのかもしれない。

 初めて会った時から感じていた玲さんの可憐さ。過去に足を踏み入れていく度に押し寄せてきた危うさ。それを克服し、自分の力で進んでいくことを決意した強さ。どれも全て玲さんだ。これだけ多くの面を見てきた僕でさえ気づかなかった。

 表情や言動では表し切れない、もっと根源的な、明るさというか、気高さというか。いつか感じたような、感じていないような曖昧なものだが、確かに今は隣で感じる。

 これが玲さんなのだと、僕は確信する。

「……ずるいなあ、お姉ちゃんは」

 妹さんは立ち上がって、窓のカーテンを静かに開けた。夜の暗さを優しく切る月明りが妹さんを照らして、余った分が僕と玲さんに届く。

「そんなこと言われて、はいそうですかって行けるわけないじゃん」

 そう言って玲さんに振り返った妹さんは、まるで無力さに打ちひしがれたように微笑んでいた。

 僕はこの時、その微笑みの意味を量りかねた。

「人間そんなにホイホイ決めたことを変えられないよ。私はもう後戻りしたくないんだよ。私がこうしてここに住んでる理由、分かるでしょ?」

 妹さんは窓に体を預け、指で傷をなぞった。

「やっと落ち着いたんだよ。これ(・・)に関する何もかも。私は普通の子になれたんだよ。昔を切り離して、普通の子に……。なのにどうしてお姉ちゃんは、私がここにいる理由と同じものをそのままぶつけてくるの?」

 内容の荒さと声の力なさに僕は戸惑った。玲さんを責めているようにも、自らを嘆いているようにも聞こえる。

 いや、実際はそのどちらもなのかもしれない。

「何も変わってないじゃん……」

「変わったよ」

 玲さんが間髪入れずに返した。

 それが気に食わなかったのか、妹さんは目を細める。

「変わってないよ。言ったじゃん、お姉ちゃんは昔っから自分勝手で――」

「確かに自分勝手だけど、私は前を向けたよ」

 全てを打ち消す強い言葉だ。今の玲さんを表すのにこれ以上のものはない。

「自分勝手で、自惚れで、甘えてばっかりだった。それでも私は前を向けた。前を向くっていう選択肢があることを、潤さんに教えてもらった。だから修にも前を向いてほしい」

「何言ってんの……。私、前向いてるからここにいるんじゃん」

「違うよ。追われて逃げたらここにいたんだよ。……私が言える立場じゃないけど」

 妹さんの顔があからさまに曇った。敵意というより不快感だ。それを真っ直ぐに表出させている――のに、迷いも感じる。感情だけ前面に押し出して、本人の中心にあるものを目の奥に隠している、ように感じた。

 前に進もうとしているのは、もう妹さんだけではない。紆余曲折を経てやっと玲さんも今の考えに至ったのだ。そんな今の玲さんから見れば、妹さんの進もうとしている道は前を向いているようで後ろを気にしているような、釈然としないものに見えるのだろう。

 たぶん、妹さんは強い。血の繋がりを投げ打ってまでこうして自立しているのだから、玲さんに負けず劣らず強い芯を持っているはずだ。

 だが過去の捉え方は違う。傷も含めた過去の何もかもを、妹さんは奥深くに押し込め、鍵をかけている。もちろん、玲さんとの絆も。

 今の生き方を変えろ、なんて無粋なことを言ったわけじゃない。それが簡単かどうかは置いておいて、もっと単純な話なのだ。それはたぶん、妹さんも分かっている。

「明日、お母さんのお墓の前で待ってる」

「!」

 僕の想像の斜め上をいく言葉だった。

「玲さん、それは……」

 さしもの僕も止めようと思った。だってそれは、たぶん勇気でどうこうできる話ではないから。

 だが、僕は一向に僕の方を見ない玲さんを見て、やはり言葉を飲み込んだ。

 どうしたらこんなに真っ直ぐ、一寸もブレずに妹を見据えられるのだろう。どうしたら、そこまでの強さを身につけることができるのだろう。「それは辞めておきましょう」なんて、舐め腐ったことは言いたくない。

 玲さんはおもむろにカップを手に取って、すっかり冷めたコーヒーを流し込んだ。

「ごちそうさまでした。行きましょう、潤さん」

 すっくと立ち上がり、流れるように部屋を出ていく玲さん。それを追いかけるために僕もコーヒーを飲み干す。

「ごちそうさまです。ありがとう」

 礼を言った僕を、妹さんは尻目に見た。

 もどかしい目だった。言いたいことをどう言葉にすればいいか分からない、それ以前に自分の言いたいことが分からない、ただひたすらに迷っている。そんな目。思わず手を差し伸べたくなる。

 明日、来て。

 そう言えば彼女は、明日どころかこのまま僕たちの後ろをついてきそうな気さえする。

 ただ、今だけはそれを僕の気のせいにしておいた。少しだけ彼女を(おもんぱか)った。今手を伸ばすのは、最適解でも最善策でもない。

 僕は妹さんがやっと目を逸らしてから、部屋を後にした。コーヒーの残り香が道に出るまで尾を引いた。





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