両手いっぱいの花束を2
「本気で言ってるの?」
さも平静ですと言わんばかりの店長の、言外に見え隠れする凄みがフロアを支配している。
店長がこんなにも玲さんに詰め寄ったのは初めてなのだろう。玲さんも困惑している。
いや、それよりも……
「玲さん、いいんですか……?」
僕から言い出しておきながら、とは思うものの、店長の話を聞いた以上、僕には玲さんの手を引いてここから連れ出せるような自信はもう残っていなかった。運命の渦は僕の予想よりはるかに大きく、混沌としていた。一介の男子大学生風情が自分勝手でどうこうできないのではと、やはり思ってしまった。思わざるを得なかった。
だが玲さんの瞳は強い。僕の折れそうな自信なんかよりもずっと。
「はい」
玲さんが何を思ってそう決めたのかは知らないが、その決意が揺るぎない場所に根差したものであることは確かだった。
「私は、どうにかしたいです。昔のことも、それのせいで悩んでる私自身も。ずっと体と心のどこかにあったもやもやを追い出すために、修に会いにいきたいです」
店長がため息をついた。
「言葉にすら敏感で腰が砕けるような人間が、どうやって問題の本質に手を触れるの? 触れて、どうするの? 何ができるの?」
「それは……」
「アンタが修と会うことは、ガラスを落として割れるかどうかを見るようなものよ。割れるに決まってる。割れて、今のこの安定は粉々に砕け散る。ようやく手に入れたこの安定した関係に、その割れた破片で、術式も分からないままメスを入れる。アンタがしようとしてるのはそういうことよ」
店長の鬼気迫る表情に、玲さんは汗を浮かべて俯いた。
そうやって玲さんが押し黙ったのは、玲さん自身も店長の言うことを理解しているからだ。そして自分の現状も。玲さんは僕と同じような状況になっている。理想が現実に打ち勝てない苦しい状況に。
「私は……」
玲さんは拳を握った。それと同時に、菅野さんが玲さんの肩から手を離した。
「私は、店長に守られてばかりでした。店長だけじゃない、ももこちゃんや亮司さんにも、返し切れないくらいの恩がいっぱいあります」
ぱっ、と顔を上げる。
その顔はいつもの朗らかな玲さんでも、危うさを秘めた玲さんでもない、凛々しいものだった。その凛々しさに、僕は理想を見つけたような気がした。
「でも、いつまでもそれじゃダメだと思ったんです。私がやらなきゃいけないのは、私の今を変えることです。この今を変えることが、過去にがんじがらめの私たちが救われる道だと思ったんです」
「それ、アタシたちに気を遣ってるの?」
店長が眉根を寄せた。
「そうだとしたら、無駄なことよ。アンタに恩を着せるつもりもないし、返してほしいとも思わない。これはアタシたちの意思で――」
「違います」
間髪入れず否定された店長の眉間が動いた。
「これは恩返しじゃありません。自分勝手です」
それは、まるで僕のようだった。
他の要素はさておき、自分の、こうあるべきだという最適解を突き詰めようとする。自分がそんな大層なことをしているとは思えないが、そこに、他人事とは思えない既視感を覚えた。それくらい、玲さんの姿は僕と重なった。
「私の自分勝手で、修に会いに行きます。私は誰も恨んでいません。恨むならそうなってしまった状況を恨みます。でもその恨むべき『状況』に身を委ねてしまっていたのは、他でもない私なんです。結局私は『状況』に振り回されていたんです。だから、立ち向かいたい。振り回されるんじゃなくて、克服するために」
玲さんは言い切ってから、僕を見た。
「そう思わせてくれたのは、潤さんです」
玲さんは笑った。
慈しみに満ちた、優しい笑顔だった。
「憧れました。ももこちゃんと菅野さんの時も、アイルくんと私の時も、最後の最後は潤さんの言動が鍵になっていて、まるで潤さんの選択が運命を変えているみたいで……。こうやって変えることができるなら、私もやってみたいと思ったんです」
僕はそんな大袈裟な人間じゃないですよ――と言おうとしても、玲さんの視線に釘を刺される。
玲さんの黄玉の瞳の中には、確かに僕がいる。
その下の頬が紅潮している。
菅野さんが苦笑いをしながら腕を組んだ。
「やってみたいんです。潤さんみたいに」
店長は黙ったままだった。玲さんと店長の視線は交錯したまま、静かな時の流れに乗っていた。
僕が玲さんに既視感を覚えたのは、僕のあくまで自分勝手な行動とそれについてくる結果に、玲さんのありたい姿を重ねたから。優柔不断で、簡単に覚悟が揺らいでしまう僕の、今のところたったひとつしかない強みを、玲さんは認めてくれた。その上「僕みたいに」と、言ってくれた。
体中に痺れを感じた。電流だ。全身を、電流が駆け巡った。
こんなに嬉しいことはない。今まで恋愛を経験したことのない僕でも分かる。こんな喜び、はたしてどれだけの先達が感じられただろうか。
店長を見据える玲さんの目は優しく、それでいて強い信念に満ち溢れている。その根拠が僕にある、ということを噛み締め味わわずにはいられない。僕は――玲さんの未来を、幸せな方向に導くことができるかもしれない。
「もう、決めたの?」
不思議だ。店長よりも、当の本人である玲さんの方が晴れやかな顔をしている。
「はい」
曇りの一切ない声が、決心の程度を伺わせる。
「……そう」
店長はそれだけ言って、コーヒーを一口飲んだ。
「あーあ、冷めちゃった」
ぶっきらぼうに呟くと、そのコーヒーを持ってキッチンの中へ行ってしまった。
取り残された僕たちは、自らの城に消えた店長の背中を呆然と見送るしかなかった。へそを曲げた……とは思いにくい。
しばらくすると、店長はカップの乗った皿を片手に戻ってきた。今度は湯気がしっかりと立っている。どうやら淹れ直したらしい。そこで僕は気がつく。
……ひとつだけ?
「潤ちゃん」
店長は淹れたてに口をつけながら、僕に紙切れを差し出した。
「これは……?」
「住所」
「?」
「修の。あと通ってる高校の名前」
「え……」
「乗り込んできたのは潤ちゃんだからね。最後まで責任持ちなさいよ。男なんだから」
店長は僕を見ようとはしてくれない。さっきまでと同じトーンだ。それでも、やはりさっきまでとは違う店長だった。
「あ、ありが――」
「ありがとうございますっ!」
僕のそれを完全にかき消してしまったのは、玲さんだった。その声に比例した角度で頭も下げていた。
店長は何も言わなかった。ただカップを口につけ、飲んでいるのかいないのか分からない微妙な傾き加減でそれを揺らしながら、窓の外を見ていた。
僕は店長に、何かを言うべきか迷った。かけていい言葉があるのかどうかも分からなかったが、何か言わなければ、そうしてこの達成感であり使命感でもある強い感情を発さなければ、気が済まなかった。
「行ってきます」
店長の様子は変わらない。目配せさえもしない。
「行ってらっしゃい」
店長の代わりに答えた菅野さんが、ぽんっと玲さんの背中を叩いた。
僕は玲さんを見た。玲さんも、今までにないくらい精悍な顔つきで僕を見ていた。
僕たちは頷き合い、再度店長と菅野さんに一礼をして、何度も潜ったドアの、すっかり古びたドアノブに手をかけた。
また戻ってきます――そんな当たり前のことが頭を過ぎった。店長はたぶん僕たちを見ていない。ずっと窓の外を見て、自分の手がけた一杯の湯気に瞳を曇らせている。
なのに、背中には何故かあたたかい圧力を感じる。
心底勝てない。店長には、たぶん一生。
そうして僕たちは、レインダンスを後にした。
駅は向かいのホームに停車している下りの電車から降りた人々で混み合っていた。いくつか並んでいる改札の、入口専用になっている端のところを、僕、玲さんと続いて通る。
人の流れを横切ってホームに並ぶと、ちょうどこの人の海を降ろした電車が去っていくところだった。反対側ではあるが、車両に巻きついた風のお裾分けがこちらにも来る。日が沈もうとしている時の風はやはり冷たい。
「やっぱり寒いですね」
僕の隣に並んだ玲さんが僕と同じようなことを言いながら、白い息で両手をあたためていた。
「あっ」
そこで僕は、もはや過失と言うべき失態にやっと気がついた。
「すみません、上着も持たせずに連れ出しちゃいましたね……」
「あ、いえいえ、全然大丈夫で――っくしゅん!」
それを聞いて大丈夫だと思える人がどこにいるだろうか。僕は慌ててジャケットを脱ぎ、
「僕のじゃないですけど、着てください。風邪ひいたら大変ですよ」
「そっくりそのままお返しします……」
まあその通りだが。
「僕はほら、もう治りかけなので」
「治ってないじゃないですか。潤さんこそぶり返したら大変なんですから、着ててください」
三人に同じような心配をされるとは。
「いやでも、僕のせいで玲さんにも風邪をひかせたら……」
「来たのは私の意思ですよ、潤さんのせいなんかじゃないです」
「でも……」
「もう、しつこいですよ潤さん! もっと自分の体の心配をしてください!」
言われてしまった。その通りだ。玲さんにしてみても、こんな病み上がり……いや、病み上がってすらいない男から上着をかけてもらっても、嬉しいというか心配するだろう、普通に考えて。
ぐうの音も出ない僕は「すみません……」と一言挿んで、大人しくジャケットを着直した。
「潤さん」
「はい」
呼ばれて振り向くと、玲さんは黄玉の瞳だけを僕に向けていた。その顔は寒さを解かしてしまような赤に染まっていた。
「……と、とはいえ、寒いのに変わりはありません、ので……」
くい、と袖を引かれた。一瞬、そっちを見て、また玲さんの顔を見ると、その瞳はもう見るからに冷たそうなホーム下の線路を見ていた。そういう角度で、顔を伏せていた。
僕は少しその玲さんを眺めて、同じように線路を見た。こんな寒空の下に晒され、電車には上を走られ、僕たちにはこうして何の意味もなく見られる。もし僕が線路だったらそんな不毛な運命を断ち切るために自らの腹を断ち切るかもしれない。無機質な分、壊れて日々被害を受けているあれこれを困らせて一矢報いても、きっと誰も僕のせいだとは思わず、仕方がないと流すだろう。何故なら無機質だから。そこに意思を感じないのだから、周りから責められることもない。ということは、いつでもそうして復讐できるのだから線路である僕の方が彼らよりも上位の存在であるということにはならないか。僕が機嫌を損ねて迷惑をかけても僕は誰からも責められない。彼らは僕の存在の上に成り立っているからこそ僕には逆らえない。ああ素晴らしい。僕は線路になりたい。
だがその前に、僕は玲さんの手を握った。
「……」
僕も玲さんも、何も言わなかった。玲さんの息遣いは少し変わった。
頭の中をぐちゃぐちゃにして握った玲さんの手は、思った以上に冷たかった。それでも、掌の真ん中に小さな温もりを感じた。それはたぶん、この繋いだ手が線路になるより幸せな証だから。
人々の足音が遠のく。もうホームの活気は薄らいだ。僕と玲さんの繋がれた手を中心にして、世界が回っているような気がした。
「……玲さん」
返事はなかった。でも不思議と焦りはなかった。玲さんの方を見ずとも、なんとなく玲さんがどんな顔をしているのか分かったし、そんな玲さんに向けて呼びかけ直すなんて野暮なことはしたくない。
「玲さんのおかげで、またひとつ僕の思い通りになりました。ありがとうございます」
「ふふっ」
玲さんは思わず失笑していた。でも事実だ。玲さんが店長に直談判してくれなかったら僕の行動は無に帰していた。
「あっ、ごめんなさい。でも、お礼を言うのは私の方です」
「そんな……。僕はただ自分が思う通りに行動しただけで、行くって決めたのは玲さんの――」
「それもそうなんですけど」
僕は玲さんを見た。玲さんは相変わらず熱そうな顔で冷たそうな線路を見ていた。
「潤さんは、みんなとは違うんです」
「違う……?」
「店長も、ももこちゃんも、亮司さんも、私にとっては大切で、その……家族、みたいな存在で」
少し歯切れは悪かったが、その言葉は確かに、玲さんが自分の中の過去に打ち勝った証だった。
「かけがえのない存在なんですけど、潤さんはもっと特別なんです。みんなより多く持ってるものがあります」
「……?」
「勇気です」
玲さんの声は強く、そして美しく、僕の頭の中に響いてくる。
「自分の思い通りにするって、勇気がいると思うんです。一歩間違えたら悪い方向に傾くかもしれない。そんな時に自分の思い通りにするには勇気が必要で、潤さんにはそれがある」
僕の手を握る玲さんの手に力が込められた。
「その勇気に──私は憧れて、そして惹かれたんだと思います」
聞き逃しはしなかった。その代わり耳を疑った。
「潤さんも、私のことを知って戸惑ったと思います。それ自体を知らなくても、戸惑っていたと思います。私が普通の女の子じゃないって知っただけで、みんなは普通に接してこなくなるんです。それが普通なんです。店長たちの優しさは嬉しかったけど……そんなこと思える立場じゃないのに、私の後ろにあるものしか見てないんじゃないかって思っちゃうんです」
玲さんはもう片方の手で自分の胸元に触れた。
「でも……潤さんは違った」
やっと、視線を上げた。
一向に僕を見ることはないが、それでも、清々しく堂々とした顔をしていた。
「戸惑っていたとしても、その向こう側を見越してくれていた。私自身を見てくれたんです。それがすごく新鮮で、すごく嬉しくて……」
ゆっくりと目を細める。
「初めてです。こんな気持ち。だから潤さんがいなければ、私は私なりに覚悟を決めて過去に向き合うこともできなかったし、こんな素敵な気持ちに気づくこともできなかった。そういう意味のありがとうです」
その横顔があまりにも綺麗で、僕はそんな玲さんを見ているだけで幸せだった。
握った手の冷たかった指先も、今はもう熱を感じるほどだった。その熱を空気にさらわれないよう、僕は玲さんの手を強く握り直した。
人もまばらなホームに、次の電車が到着するというアナウンスが響く。音が反響して、ホームに染み込んでいく。熱を持って敏感な手の爪の先を震わせ、その振動が腕を伝い、肩を過ぎて、胸に届く。確かに震えた。
玲さんが僕の方に振り向く。
「ありがとうございます、潤さん」
あの時の笑顔だった。あの時、僕が目標とした笑顔だった。
いつもの玲さんの笑顔よりも明るく、魅力的な、かけがえのない笑顔だった。もっといい表現がないものかと頭の中を探そうとしたが、辞めた。これは僕の中だけに記録しておきたかった。
あの時、聞こえないままだった空の言葉も、あの時浮かべたこの笑顔の意味も、今はなんとなく分かる。なんとなくでいい、はっきりとはいらない。そうして漠然と玲さんの気持ちを感じていられるだけ、今は幸せだ。はっきり分かるようになるのは、全部が片づいた後でいいし、僕からでいい。そう思った。
「──……なぁーんて、はは……」
玲さんはどう見ても照れ隠しのための苦笑を浮かべた。だからこそ、僕の鼓動は大きくなる。
この握っている手だけでは僕の中の何かが満たされない気がして、それを満たすためにはどうすればいいか、というのはもう本能的に知っていたが、ぐっとこらえた。僕にも玲さんにも、まだやるべきことがある。
「あ、来ましたね」
苦笑いのまま玲さんはホームの先の方を指差す。光源が薄闇の中を進んでやってきていた。
絶対にこの手は離さまいと誓った。必ずこの手で、玲さんを幸せな未来へ連れていくと決めた。
電車が僕たちの前に停まって、ドアが開く。
「行きましょう、玲さん」
僕が微笑むと、玲さんも同じように微笑み返した。
二十分ほど電車に揺られ、降りたことのない駅に降りておろおろする玲さんの手を引きながら一度乗り換えをし、また二十分ほどかけて目的の駅に到着した。
電車に乗った時間と、それに比例する距離が、まるで玲さんと妹さんの距離だった。揺られるだけそれを痛感した。ほんの少しだけ足が重い。
店長から預かった紙の通りだと、妹さんの家はどうやら駅からそれほど離れてはいないようだった。
しかし、
「この時間だと、たぶんまだ学校ですかね?」
ということで、微妙な時間だが、とりあえず通っている高校の方へ向かうことにした。
ところで、高校生であれば電車通学が多いようなイメージがあったし、実際僕もそうだったが、玲さんの服を見て驚いていた通行人に高校の場所を聞いたところ、どうやら妹さんの家と高校は駅からほぼ同じ距離にあるらしい。まあ確かに、自立した女子高生であればそれも頷ける。逆に言えば、それだけ自分の退路を断っているようにも思える。相当の覚悟で独り立ちをしているらしい。
「じゃあ、行きますか」
そう言ったのは玲さんだった。いつの間にか玲さんの方が力強い一歩を踏み出していた。
駅前の商店街を抜け、住宅街を抜ける。十分ほど歩くと、目的の高校が見えてきた。
校門横に掲げられた校名は店長に渡された紙にある記載と合致している。とはいえ、よく知りもしない学校の敷地に無断で入り込むのは当然憚られるので、校門前の電柱の影に隠れることにした。
「まずは心の準備が必要ですからね」
もちろんバレバレだ。既に下校するため校門を出た生徒が軒並みこちらを見て……というか玲さんを見て、十人十色のリアクションをしている。何故か踵を返して校舎に走り去ってしまった女子生徒もいる。
「潤さん、緊張してますか?」
「え」
うっすらと笑う玲さんが僕を見上げていた。
そんなことこっちが聞きたいくらいだ、と思ったが、言われて気がつく。僕は緊張していた。
「まあ、私もなんですけど」
電柱から顔を覗かせる玲さんは、やはりいつも通りの笑みではなかった。不安が見え隠れして、強がっているように見えた。
「……強いですよね、玲さんって」
「私は強くなんかないですよ」
即答だった。そしてまた小さく笑った。
「実は、潤さんがレインダンスに来る前に、店長にあらかじめ相談してたんです。修に会いにいきたいって」
「え、そうなんですか?」
「はい。まあダメだったんですけど」
そうだろう。一筋縄で懐柔できない人だということは、僕も痛いほど思い知った。
「それで私、正直諦めかけてました。口ではそうやって相談できてもまだ迷いはあったし、言ったそばから体が震えたんです。店長にも諭されちゃって。こりゃあまだまだダメかもしれない、もしかしたらこのままがいいのかもしれないって。私なりに一晩考えて導き出した答えはこんなにも浅はかだったんだって。そう思っちゃったんです。でも……」
玲さんは再び僕を見た。
「そんな時に、潤さんは来てくれました。そして店長に正面から向かっていきました。たぶん、私のために。そうしたらなんだか、私もその気になっていったんです。不思議なくらい、勇気が湧いてきたんです」
病的に魅力的な、悪戯な笑み。見ているこっちが照れてしまうような、無邪気な笑顔。
「たぶん潤さんは、そういう不思議な力を持ってます。私、自分でもびっくりするくらい、潤さんに影響されてるんだと思います」
僕がその魅力のあまり凝視してしまったせいか、玲さんの方が先に校門の方に向き直ってしまった。
「つまり、えーっと、潤さんはなんかそういう力を持ってるので、自信持ってください。緊張する必要なんてないんです」
何故そう言いながら僕ではなく玲さんが胸を張るのか。張りたいのは全く以て僕の方だ。
玲さんのその言葉が、僕という存在の全てを肯定してくれる。玲さんの言動にも心情にも僕が作用していることを、玲さん自身が教えてくれた。あの店長に放った言葉の、湧き出す根源の部分に少なからず僕の存在があること。傲りかもしれないが、それは要するに僕が玲さんの中に刻まれつつあるという兆しだと思う。
嬉しさと、奇妙な浮遊感に鼓動が速くなる。僕は玲さんにとっての「何か」になれた、という事実が厳然としてそこにある。なんて言ったら、店長たちに笑われるだろうか。
店長はたぶん、玲さんが妹さんに会いたいと口にした時から、玲さんを行かせるつもりだったのかもしれない。
玲さんの心変わりを受けて、今現在の状況を変えなければいけないと思ったのかもしれない。それは、他でもない玲さん本人がそう望んだのだから。
今度は僕も、玲さんも試されたのだろう。レインダンスでの会話は、現状を変える覚悟があるかどうかを確かめるため。逆に言えば、店長は自分の中にある「現状維持か、変革か」という葛藤を押し殺して、僕に、そして玲さん自身に玲さんの運命を預けた。
結局、店長は一枚も二枚も上手だったのだ。僕なんかが見通すことのできない何かを、店長はその目で捉えている。つくづく敵わない。少しだけ店長に憧れた。
「あれ、誰か来ますね」
「え?」
玲さんが急に、見ていた校門の方を指差した。
見ると、さっき校舎に走り去っていった女子生徒とスーツ姿の男性が僕たちの方に近づいてきていた。二人ともかなり凄みの効いた表情で。
二人は何故か大股で、一瞬のうちに歩み寄ってきて、これまた何故か僕の前に立ち塞がった。
「どちら様でしょう? 我が校に何かご用で?」
「あ、あはは、いや……」
この男、教員だったのか。近くで見るとよりすごい剣幕だ。
あれ。いや待て、これはもしかして……。
そうか。僕たちは不審者か。
「玲さん、ここはひとまず退散して……」
社会的な立場的危機を感じた僕はすぐに号令をかけたが、そんな僕の声は玲さんの耳には届いていないようだった。
玲さんの視線は縫いつけられたように、さっきまでのそれ以上に校門の方に釘付けだった。半分助けを求めている僕の方を見ようともしない。
ただ、その口から漏れた声だけは、何とも言えない重みに溢れていた。
「修……」
僕は詰め寄ってくる二人越しに、玲さんと同じ方へ目を凝らした。そしてすぐ、そうだと分かった。
僕たちの視線の焦点にいるその少女。彼女は校門を出て、少し歩いてから立ち止まり、はっと何かを感じ取ったように僕たちの方を見た。
その顔の、右半分。
緊張なんて吹き飛んでいた。急に現実に引き戻された気がした。
驚愕に目を見開くその少女は、痛々しく、悲しい傷を宿していた。




