両手いっぱいの花束を1
すっかり出番の少なくなった太陽が、もう僕の目線と同じような高さで、辺りをオレンジ色に照らしている。こんな西日の差す中で走るのなんて部活の時以来だ。
寒さと奇妙な高揚感に背中を押されながら走る道は、もう通い慣れているはずなのに、今日ばかりは特別な感じがした。
電車に乗っている時に座ることはなかったし、ICカードは財布から出して手中に用意していたし、もしかするとタッチするより速く体は改札を抜けていたかもしれない。やはりまだ万全ではないからか、アスファルトを踏む足に鉄の枷がついているように感じる。が、そんなことで止まってはいられない。僕は遠回りになる商店街を抜けずに最短距離をひた走った。現役の頃のようにはいかないが、それでも一秒を削るために脚を動かした。
レインダンスの前に着くと、ドアにはもう輪の形をした注連縄の飾りが掲げられいた。そうか、もう年末に突入したのか、と思った。もう年末だ。激動の一年……半年、いや数カ月だった。
どことなく寂しさを感じながら、僕はレインダンスのドアを開けた。
夕暮れ時だからか、店の中の客は少ない。カウンターに一人と、今会計を済ませているのが一組。いつものことだが、今日はそれが好都合である。
「ありがとうございました」
溌剌とした声で送り出される客。僕はドアを開けたまま出るまで待ち、出た後でドアを閉め、レジの方を見た。
「……あ」
接客時とは極端にトーンダウンした声を漏らしたのは、他でもなく玲さんだった。
微妙な顔をしている。少なくとも笑顔で迎えてくれることはないだろうと思ってはいたから、おおよそ予想通りである。そもそも今日ここに僕が来るとは微塵も思っていなかっただろう。
いつも通りの玲さんだ。表情以外は、上から下まで一昨日までの玲さんそのものである。メイド服は普通のものに戻っている。それを見て僕は、安心と落胆がないまぜになった複雑な感情に襲われた。
「……玲さん」
僕が名前を呼んだだけで玲さんの顔が強張る。今の僕たちの関係をよく表している反応だった。
僕は玲さんの様子を見て、次の言葉を一度飲み込んだ。そして忘れてしまった。やはり実際に会うと、どうしても昨日のことに直面してしまう。それだけ尾を引いている。
少しの沈黙があって、玲さんがはっと思いついたように口を開いた。
「じ、潤さん、体調は大丈夫なんですか……?」
会話の口火を切られてしまった。しかも心配をさせる形で。
「……大丈夫です。一晩寝たら随分よくなりました」
「そうですか……」
安堵のため息をつく玲さん。だが顔は安堵などしていなかった。
言うべきことをなかなか言えない。目的の人はすぐ目の前にいるのに、今さら彼女の表情ひとつで決心が鈍る。
……いや、もうそんなことを言っている場合じゃないだろう。
「あの、玲さん――」
「玲ー。ちょっとこれ棚に戻しといてー」
言葉が押し潰された。声の主は、もう分かる。
「……あれ、潤ちゃん?」
乗り越えなければならない壁が、キッチンの奥から出てきた。
棚町さんの言っていたことを忘れてはいない。
絶対に玲さんを悲しませるな。裏切るな。もしそれをしたら――店長は、たぶん、僕を許せなくなる。
「何よ潤ちゃん、具合はもういいの?」
店長の一言一言が、今の僕には弾丸のように感じる。
「ていうか何その格好。見てるだけで寒そうだわ。とりあえず制服に着替えてくれば?」
僕の決心と釣り合わない店長の声音が、僕の膝を折りにかかる。
そんな印象が僕の被害妄想だとは思えない。
店長もきっと昨日のことを知っている。その上で店長は僕にいつも通り話しかけている。そのこと自体がどこか不気味で、質が悪い。
「どうしたの?」
「……店長」
だが敵ではない。壁だ。
壁は乗り越えられる。僕の知る限りではそのはずだ。
「単刀直入に言います」
「ん?」
「今から、玲さんを貸してください」
「え……」
一番驚いていたのは玲さんだった。
一方で、店長の様子は変わらない。ただ玲さん越しに僕を見ている。品定めをするとか、拒否するとか、そういう具体的な次元の反応ではない。
「それってどういうこと?」
「そのままです。シフトの途中で申し訳ないですけど、玲さんを貸してください」
「連れ出すってこと?」
「そうです」
「どうして?」
「それは……」
店長の疑問は当然で、僕にはそれを説明する義務がある。苦行のようだ。
だが、少なくとも僕にはもう、こうする道しか残っていない。僕と、棚町さんたちと、何より玲さんの抱えている状況を一度に打破できる方法。荒療治だが、僕はこうするべきだと思うし、こうしなきゃいけないと思う。
酷なことかもしれない。まるで自分勝手だ。自分勝手が過ぎる。それは自分でも分かっている。それでもやはり、ももこさんが言った通り、僕はなけなしの力を振り絞って、運命を変えたい。
「玲さんの妹さんに会いに行きます」
二人の顔色が変わった。
玲さんは言うまでもない。店長は……。
「それ、どういうことか分かってる?」
目を合わせられない。口元に視線を合わせるだけで精一杯だった。
「分かってます」
「だとしたらおかしいわね。何を考えてるのかアタシにはさっぱりだわ。」
「僕は玲さんに幸せになってほしいんです」
「それ以外にも方法はあるでしょ?」
「ありません」
「あるわよ。それは潤ちゃんのエゴよ」
「それでもいいです。僕は――」
言え。
「僕は、普通の幸せを玲さんに渡したい」
店長は口を閉じた。玲さんも少し辛そうに僕を見ている。
最も近くにいた妹が、今離れている。その理由はたぶん玲さんの中にある複雑な問題と根は一緒で、それを解決することが唯一、玲さんの過去を洗い流すことができる道だと思った。
目的はひとつ。そのためにはまず玲さんの妹に会わなければならない。玲さんの妹が、僕が知る中でただ一人のキーマンだ。
「……はあ」
店長は大きくため息をつくと、張り詰めた空気をほどくように言った。
「とりあえず着替えてきなさい。制服の方がまだマシでしょ。ぶり返したら後が面倒なんだから」
僕が制服に着替え、棚町さんのジャケットを羽織ってフロアに出ると、玲さんがフロアの中心にある席に座っていた。振り返って僕を見つけた玲さんは、そのまま僕を見つめ、すぐに逸らした。どうやら呼ばれているらしい。
玲さんと丸いテーブルを挟んで向かい合わせに座ると、店長がトレイに何かを乗せてやってきた。
「はい、コーヒー」
「……ありがとうございます」
店長は三杯のコーヒーをテーブルの上に置くと、自分も玲さんの隣に座った。とりあえず腰を落ち着かせて店長を説き伏せなければいけないようだ。それができるかどうかはともかくとして。
「ん、今日もいい味だわ」
誰より早く口をつけた店長は、そんな自画自賛をしながらカップを回す。
僕と玲さんも続けてカップを傾ける。流石に申し分ない味だ。寒さに浸った体の隅々に沁み渡るあたたかさに安心感を覚える。
豆が良いか、あのサイフォンが良いか、はたまた店長の淹れ方が良いか。いや、そのどれかひとつでも欠けてしまえばこの味ではなくなってしまいそうな、包容感と脆さが混在する奇妙な美味しさだ。きっとこのコーヒーがあるからこの店がある。大袈裟だが、そんな気がしてならない。
「で、どういう了見で修に会いに行くって?」
「……?」
「あら、何も知らないで来たの?」
店長は嘆息して、促すように玲さんを見た。俯きがちだった玲さんは店長を一瞥して、
「……妹です」
僕は驚いた。玲さんの妹の名前を知ったことより、玲さんの口からその言葉が出たことに。
「玲さん、大丈夫なんですか……?」
「……まあ、ぶっちゃけ大丈夫ではないんですけど」
苦笑いする玲さんの顔が次第に青ざめていく。少しは慣れたのか、前みたいに急転直下で様子が変わってしまうようなことはなさそうだったが、玲さんの言う通りとても大丈夫そうには見えない。
「さっき、いの一番に玲の心をつつくようなことを言った潤ちゃんが心配するなんてねー」
「それは……」
その通りだ。先んじて妹さんのことを口にしたのは僕だ。そのせいで玲さんが辛くなっていることも否定できない。でもそれは、あくまで玲さんを一刻も早くここから連れ出すため。
それに店長も店長だ。棚町さんは店長が「何があっても玲の昔について語らない」と言っていたのに、その玲さんの昔話の引き金となるようなことをさらっと玲さんに振るなんて。
「無理しなくていいわ。ちょっと休んでなさい」
店長に言われるがまま、玲さんはコーヒーを持って離れた席に移動し、テーブルに突っ伏した。
「話を戻すわ。どういう理由で玲を修に会わせるつもり?」
店長の放つ圧に耐えながら、僕は玲さんを見た。この距離なら、ギリギリ僕たちの会話は聞こえないだろう。
「……僕は、全部じゃないですけど、知りました。玲さんのことも、玲さんを取り巻く環境のことも」
店長は眉ひとつ動かさない。
「それを知って、玲さんへの気持ちが少なからず揺らぎました。実際、諦めることも頭を過った。僕の憧れと現実とのギャップはそれだけ大きかった。それでも、僕は諦めようとは思わなかった」
見上げるほどにそびえ立つ大きな壁を前にしても、言いたいことは素直に口を開けて出てきた。
「玲さんが好きだからです」
恥ずかしさなんて、今はもうどうだっていい。
「好きな人には幸せになってほしいんです。……失礼を承知で言いますが、玲さんはレインダンスに囚われてる。この店で働くことが、僕には玲さんの幸せに繋がる道だとは思えない。箱庭に押し込めて、これから先も問題から目を背け続けることで得られる幸せなんて、本当の幸せじゃない……と、僕は思います。だから、清算します。玲さんの過去を。そのために妹さんに会いに行くんです」
喧嘩を売ってしまった。できればこの後の店長の言葉を聞きたくない。
だが僕は、自分の言ったことを間違いだとは思わない。店長は紛れもなく玲さんのヒーローなのだろう。玲さんの傷ついた心を、時間と空間を提供して癒してきたのは他でもない店長だ。しかしそんな『今まで』と『これから』は別の話だ。いつまでも対症療法ばかりしていたのでは、永遠に根治なんてできない。店長たちがそれでよかったとしても、僕はそれでよしとしたくない。
「ふぅん……」
店長の目は、僕の胸を透かしてその中を覗き込んでいるようだった。強い目だった。だが今の僕に裏表はない。
どんなに見透かそうとしても、そこにあるのはどこまでも僕だ。それ以外の何ものでも、何者でもない。
「まあとりあえず、潤ちゃんの言い分は聞いたわ。随分と考えたみたいだけど……」
店長は表情を変えないまま、
「ノーよ」
僕の意見を一蹴した。
「……っ、でも店長、それじゃ――」
「ダメなものはダメよ。そんなやつれた顔しちゃってさ、病み上がりで何も食べてないんじゃない? 何か食べる?」
「さっき食べてきましたし、今はそれどころじゃないんです。考え方が違うのは分かってます。僕なんかより店長の方が玲さんのことをよく知っているのも分かってます。その上で頼むんです。このままじゃきっと玲さんは……」
「しつこいわね」
今まで聞いたことのない低い声だった。言うまでもなく、僕は簡単に委縮した。
声だけではない。店長の背中から発せられている覇気のような波が僕の頭上を覆い尽くさんとしている。ように感じる。感じるだけだが、店長の腕っぷしに見える素性がまたその波を厚くしている。
「大体、なんでそこまで焦ってるの? 別に今すぐにどうにかなる話でもないでしょうに」
「それは……」
確かにその通りだ。別に今すぐ玲さんがどうにかなってしまう話ではない。
でも、きっとこの焦りだって、そんな理屈でどうにかなるようなものじゃない。
「……はあ。まあ言ってることは正しいわよね。アタシと潤ちゃんは考え方が違うし、アタシは潤ちゃんより玲のことをよく分かってる。だから教えてあげるわ。玲は修には会えない。たとえ会ったとしても、何も解決しない。ただ玲が傷ついてそれで終わり。何も生まれない。無駄と分かっていて、それでも潤ちゃんは玲を連れ出すの?」
ごもっともだ。僕がしようとしていることはただの自分勝手で、もしかしたら無益で徒労なのかもしれない。
でもそれは、僕にとっては試す前の悲観に過ぎない。
店長が僕なんかよりもずっと玲さんのことを理解しているのは承知の上だ。でもこれだけ穏便にしようとしているなら、玲さんと妹さんを会わせようともしなかったのではないか? 拗れて玲さんが傷つくことのないよう、穏便に。
だとすれば、やはりまだ分からない。
「……店長、僕に言ったじゃないですか。拗らせてみるのも面白いって。それに、若さは挑戦するための武器だって」
「潤ちゃんのはただの無謀よ」
「違います。拗らせることで何かが変わるかもしれない。僕はそれに賭けたいんです」
僕は店長の目を見ていた。いつの間にか生まれた自信がそうさせていた。
今のまま何もしないことが一番ダメだ。これまでだって、僕は僕がこうあってほしいということを、選択に選択を重ねて勝ち取ってきた。ももこさんの言う通り、それは僕の力なのかもしれない。結果論でしかなくとも、その結果さえいいものであれば、過程もまた美化されるものだろう。
だから、僕が扉を開ける。これまで閉ざされたままだった過去と運命の扉を。
「……ちょっと、教えてあげる。亮司にも、もちろん玲にも言ったことがないこと」
店長は一口だけコーヒーを口にすると、惜しむようにカップを置いた。
「このコーヒーさ、実は教えてもらった人がいるのよ。豆も、淹れ方も」
急に話を変えた店長の口調はまるで独り言のようだった。
「仮にAとするわね。本当にどうしようもない人だったわ。いつもどこかで遊び歩いてるような人だった。ずる賢くてよく悪知恵のはたらく人だった。そんなんだから、アタシはAのことが嫌いだった。でも唯一、コーヒーについての造詣だけはすごかったわ。この店を開けたのも、Aが嫌がるアタシにコーヒーについて無理矢理教え込んだからこそ」
「店長……」
「まあ聞いててよ」
止めるつもりはなかった。こんなに物憂げな店長の顔を見たのも、店長が身の上を語るのも初めてだったから。
さっきまでの重たい圧力も、今は鳴りを潜めていた。
「それで、アタシはそのAが嫌いだったんだけど、どんなにどうしようもないやつでも、何かひとつ熱中してるものがあれば急に輝いて見えるものなのよ、不思議なことにね。心のどこかでちょっと尊敬してたのよ。楽しそうにコーヒーの話をするAを、アタシは結局芯から嫌いにはなれなかったんだと思う。それに当時のアタシには熱中するような趣味も夢もなかったから、一層輝いて見えた。忘れられないくらい眩しかったわ。でもね、その人はある日、取り返しのつかないことをした」
「?」
「逃げてきたの。女性を妊娠させて、責任も取らずに」
自然と息が出た。僕は、玲さんの方を見ていた。
どこかで聞いた話だ。それもつい最近。
「どこかで聞いた話かしら? まあ、とにかくAはそうして逃げてきて、アタシに自分がしたことを告げたの。今思えばその時に一発殴ればよかったんだけど、できなかった。無為な日々を過ごしてたアタシには劣等感しかなくて、道を外れても輝いて見えるAを殴れなかった。無力で惨めだったわ、泣けるくらいね」
店長は笑った。ただの思い出話ですよ、とでも言うつもりだろうか。
目尻に、口の端に、瞳の奥に、隠し切れないやるせなさが見えている。
「そしてその日以降、Aは顔に暗い影を落とすようになった。それで何かよからぬことを考えてるのだけは分かった。そしてそれは的中した。今でも忘れないわ。しばらく経ったあの日、すっきりした顔でアタシの前に現れたAは、アタシにこう言った」
店長は僕の目を見ていた。
「全部丸く収まった。これで肩の荷が下りる」
その言葉の冷たさが、背筋をなぞった。
「もう分かるでしょう? Aは他でもなく――修の父親。そして玲と修の母親を自殺に追い込んだのも、そのAなの」
僕は返す言葉を探した。だがすぐには見つからなかったし、どれだけ時間をかけても見つかりそうにはなかった。
「アタシったら、無我夢中になっちゃってさ。気がついたらAのことを思いっ切りぶん殴ってた。劣等感なんて吹き飛ぶくらいの怒りと、こいつをどうにかしなきゃいけないって使命感がそうさせた。その時のアタシはもう体が大きくて近所でも有名だったから、素人殴りだけど相当効いたと思う。でもそんな威力云々より、Aの、アタシを見上げる顔がおかしかった。まるで「どうして?」って言ってるみたいだった。おかしいじゃない、殴られて当たり前のことをしたのに、そんな顔するなんて。でも、まだ残ってるのよ。初めて人を殴った時の、この手の痛みが」
右の拳に視線を落とした店長は、寂しそうに微笑んでいた。
「それが、アタシとAが最後に面と向かって触れ合った瞬間だった。話もしなくなって、顔も合わせなくなった。そしてしばらくして――」
店長は一度言い淀んでから、
「死んだわ。自殺だった」
また運命の暗い部分を覗いてしまった。
玲さんと、玲さんの妹さんの不遇さと、いとも容易く人の命を鎖してしまう運命を呪わずにはいられない。膨れ上がっていた『A』に対する怒りが、虚無感に変わった。
「どうして……」
自然と出た言葉に、店長もまた自然に返した。
「それはたぶん、アタシがその人の兄だったから」
――空耳を疑った。そんなに簡単に出てくるものではないからだ。
「……え?」
「その人は、アタシの弟。つまり修の父親はアタシの弟で、アタシは修の伯父ってこと」
面白くもなんともない。そんな冗談やめてくれ。
だが店長の顔を見れば分かる。この期に及んでそんな悪趣味な冗談を言うほどの余裕も理由もない。
これが現実だ。
仲がいいとか、関係者とか、そんな甘えた関係なんかじゃない。玲さんの身内がこんなにも近くにいたなんて。
「どんなにろくでなしな弟でも、殴った拳は痛かった。そしてたぶん、どんなにろくでなしな弟でも、殴られた頬は痛かったのよ。実はアタシたちも、両親を早くに交通事故で亡くしたの。だからこそアタシたちは繋がってなきゃいけなかった。でもそんな繋がりは最初から無かった。劣等感で何も言えなかったアタシと、誰も彼もを敵に回しても、アタシだけは最後まで味方でいてくれると思ってた弟。歪な関係だった。家族は二人しかいないのに。そしてそんな歪な関係さえ、アタシがこの手で壊してしまった。最初からもっと上手くやっていられたら、玲や修を苦しませずに済んだし、アタシも家族を失わなくて済んだ」
気丈な言動の節々に悔恨が滲んでいた。
「こんなこと、玲には言えないでしょ?」
それでも、店長はまた寂しそうに笑う。
ただの乗り越えなければならない壁なんかじゃない。そんな無機質なものじゃない。
何かを言うことさえ憚られた。耐えかねた僕は、ついに視線を店長から外した。視界に入ったコーヒーは見て分かるくらい冷めていた。
「それからアタシは、二度と感情に任せて人を殴らないと誓った。そして有り余った体力と鬱屈とした思いを吐き出すために、プロレスに没頭した。トレーニングをしてる間、試合をしてる間、プロレスに関わって、仮初めの自分を演じてる間は何もかもを忘れられた。ある意味楽しかったように思うわ。アタシにとっては何もかもを忘れることが楽しいことだったから。そんな時期がしばらく続いたある日、『学園』で玲と修に出会った」
店長の顔が少し晴れた。
「最初は修に気がついた。弟の面影があったからすぐに分かった。でもそれ以上に、そんな修の隣に立っていた玲の顔の印象が強かった。あんなに酷い顔は見たことなかったわ。修のこともあったから、どうしても気になって興行が終わった後に園長に聞いた。そこで初めて、修に姉がいること、酷い顔の子がその姉ということ、どういう経緯で『学園』に来たのかを知った。そこからね、プロレスへの興味が薄れていったのは」
店長の言ったことと棚町さんの言ったことは、認識が少しずれている。だがどちらにしろ、その日がやはりターニングポイントだったのだろう。
「この二人をどうにかしなきゃいけない。そんな使命感が生まれた。それは弟がしたことの贖罪でもあるし、そうすることがアタシから弟への手向けになると思った。アタシが弟に注げなかった愛を、二人に注いで幸せにする。そう思うほどに、アタシの中でプロレスは自分自身のためから玲と修を救うための資金を稼ぐ手段になった。ある程度貯まってから何をやろうか考えた時に、プロレス以外で唯一アタシの手元にあったのは、弟から教え込まれたコーヒーに関する知識だけだった。それからいろいろと勉強して、調達もして、もう少しで開店、ってタイミングで、『学園』が潰れた。それから急ピッチで準備を進めて、二人を迎え入れる場所を作った」
見誤っていた。店長には店長の、玲さんと妹さんを想う理由と経緯があった。
それはたぶん、僕なんかが踏み荒らしてはいけない領域だ。店長が誰にも告げず、自分の心の中だけで立ち向かい続けてきた様々な現実や感情との戦いの歴史だ。こんな人を前にして、僕はどうすればいいのだろう。
僕は、何のためにここにいるんだろう。
「……でも、修はダメだった」
店長は苦笑した。別の感情をごまかしているのは明白だった。
「アタシが二人を迎え入れようとした時、修は拒否したの。「こんな顔で接客なんてしたくないし、いつまでもお姉ちゃんの下にはいたくない」って。普通の高校生になりたいって。アタシはショックだった。自分勝手だけど、アタシは二人に生きる価値を見出してた。この使命感も昇華できず、贖罪もできない。……でも、本当に辛かったのは玲なのよ」
店長は慈しむような優しい目で玲さんを見た。
「修に与えた取り返しのつかない傷も、失った母親の役割も、玲は全部背負ってた。玲は修のことをただひたすら守ろうとしてた。お姉ちゃんだから。アタシなんかとはまるで違う。そして負わせた傷と、母親の不在とその悲しみを補完するように、玲はより一層修を案じるようになった。もうこんな傷を負わせたりしない、自分が修を守る、って。でも、拒絶された。修にとって玲は重かったのよ。それが決定打だったわね。玲が家族とかの言葉に敏感になったのは」
――私のせいなんです。ちゃんと守り切れていたら、今頃レインダンスにはあの子もいたんです。
玲さんはそう言っていた。全て自分のせいだと。自分がしっかりしていれば、少なくとも姉妹で今も一緒にいられたかもしれない。そういうことだろう。
その言葉の裏で、玲さんは全てを一人で背負い込んでいた。妹さんに傷を負わせた責任も、母親を失ったことで空いた穴を塞ぐ役割も。そんな必要はないのに。自分が、妹さんにとってたった一人の家族だから。
「潤ちゃんに想像できる? 自分が守り切れなくて負い目を感じてる人を、助けて助けて助けた挙句、拒否されることの辛さを。そこでアタシはやっと気がついた。救わなきゃいけないのは修ではなく、玲だって。修はもう一人で歩いてる。そんな修自身が玲を、そしてアタシを拒んだ。自分の辛さと、修の辛さを天秤にかけて悩んだ挙句、玲は修に通帳を押しつけた。アタシも玲に乗っかる形でお金を送ってる。それが最も修の負担が軽くて、玲の辛さを緩和できて、アタシが贖罪できる最善の方法」
ああ、そうだ。
どうにかしたくても、本人に拒まれてしまったらそれまで。根本的な話だ。
「この関係が安定してるの。この関係が、アタシたちの最大公約数の幸せ。でもこの幸せは簡単に崩れるのよ。それをわざわざ手を入れて崩すより、そんな過去のことも全部包み込んでしまうような一人に幸せをもらう方がいいと思わない? その希望が潤ちゃんだった。修も、アタシも、ある程度幸せなの。でも玲だけはまだ本当の意味で幸せになれない。でもそのためのキーに拒絶されたんじゃ叶わない。ならそんな過去の土産も含めて、新しい幸せを見つける方がずっと現実的よ。ねえ、潤ちゃん」
……僕なら、玲さんを幸せにできる?
変な感じだ。威勢が萎んでいくのが分かる。悪い方じゃない。あまりにも説得力のある店長の身の上と、袋小路のような状況が、僕の自分勝手を打ち壊していく。
店長の言うこと全てが正論だ。そもそも玲さんを妹さんに会わせてから、どうすればいいか分からない。清算すると言いつつ、会わせた先のことは想像できない。見切り発車だったわけだ。
自分勝手が過ぎた。ここまできてやっと、僕がしようとしていたことに勝算がないことが判明した。
妹さんの言葉が全てだ。僕の気持ちなんかじゃどうにもできない。過去を受け入れるしかなかった理由。清算できない理由。それらはみな妹さんの言葉に集約されるわけだ。
そう考えたら、やはり今の状況を、最大公約数の幸せを維持したまま、過去の苦しみや悲しみを忘れさせるほどの幸せで玲さんを包み込むことが、一番の選択肢なのではないか。最もリスクが少なく、簡単に、確実に幸せになれる道。きっと後悔も最小限で済むだろう。
それを、僕ならできる……?
現実的だ。そして理想的だ。
それを選ぶべきなのか、僕は――
「店長」
どこからか聞いたことのある声が届いた。
思案に耽っていて気がつかなかったが、玲さんがテーブルの近くに立っていた。だが今の声は玲さんのものではない。
視野が広がってようやく、僕は玲さんの隣に佇む一人の女性に気づいた。
「――菅野さん!」
かつての綺羅めくるのマネージャーが、玲さんの肩に手を置いて眼鏡の奥から店長を見下ろしていた。
「お久しぶりね。そこのカウンターで仕事してたら、どうしてもこっちが気になっちゃって。それより店長」
菅野さんは満面の営業スマイルを湛えて、
「肝心の本人の気持ちを聞かなくていいの?」
顔を伏せた玲さんの肩を軽く二回叩いた。
「……店長」
「何?」
冷静さの滲む声音が、僕に向けられたものではないのに僕の体まで凍りつかせる。
玲さんは口を力いっぱい結ぶ。
結んで結んで、悩み、迷っている。
そして、自分自身の意思を叩きつけた。
「私は…………修に、会いにいきます」