ロスト・ファイターズ6
気がつくと、見覚えのある天井だった。
厚手の毛布と、一人暮らしをする時に両親が心配して買った掛布団のほどよい重さ。安物のベッドの柔らかすぎる感覚。紛れもなく僕の家のものだった。
「起きた?」
聞き慣れた声だ。
そちらを向くと、やはりももこさんがいた。腕と脚を組んで僕を見る仏頂面がいつにも増してドライだった。
「遅い」
「はい……?」
「起きるのが遅いのよ。もうお昼回ってるのに」
ベッド脇のデジタル時計を見ると、時刻はもう午後一時を過ぎたところだった。
「……おはようございます」
「体の調子はどう?」
「え?」
「ていうか覚えてる? 昨日のこと」
「いや……」
言われてみればどこか体が重いし、昨日のことは……まあ、いつの間にか自宅のベッドにいたという感じだし。
「あんた、倒れたのよ。ホテルの部屋で急に」
「……そうでしたか」
「本っ当、肝心な時に何やってんだか。玲が泣きながら電話かけてきた時は何事かと……」
ももこさんは大きなため息をついた。
そういえば、昨日は僕だけ濡れた服を着たままだった。というか、自分の服のことなんて気にしている余裕がなかった。シャワーを浴びましょうなんて言った僕自身が風邪をひいて、その上玲さんを泣かせるなんて失態もいいところだ。
「あたしたちがすぐに駆けつけたからよかったけど、玲がいなかったらどうなってたことか」
「……すみませんでした」
こんなことで手間をかけさせてしまう自分が恥ずかしい。
ももこさんは寝たままの僕をじっと見ている。そして何も言わない。その視線がなんだか痒くて、僕は再び天井を見て、尋ねる。
「あ、玲さんと店長は?」
「店に出てるわ。ちなみに病院からあんたを家まで背負ってきたのも、あんたの服を着替えさせたのも、あんたんとこの店長だから」
「えっ」
着替えと聞いて、悪寒が走った。店長は男だけれども。いや、だからこそだ。
「謝るくらいならお礼がほしいものね」
「あ、ありがとうございました」
「……素直すぎて気持ち悪いわ」
「一体どうしろと……」
「玲が寝たベッドで寝てるくせに」
「僕のベッドですよ?」
ももこさんはまたため息をついて、脚を組み替えた。
「……ねぇ、覚えてるでしょ、昨日のこと」
唐突に、そしてどこまでも核心を突いた言葉だった。口が重そうな割には、仏頂面のドライさがそのまま言葉に乗り移っていた。
「……はい」
そう言うしかなかった。頭に焼きついた玲さんの声と姿が、それ以外を口にすることを許してくれなかった。
「まあ、あたしも粗方は玲から聞いたけどさ」
やっぱり。だからきっと今ここにいる。
「仕方ないわ。あんたは何も悪くない。あんたにも玲にも、非はない」
その意味以上に重くのしかかる言葉だった。
「偶然よ。単なる偶然。たまたまそうなっちゃっただけで、どうしようもない。玲も言ってたわ。誰も悪くない。咎めるなら、そうなってしまった現実を咎めるって」
いかにも玲さんらしい考え方だ。
「だから玲は後悔してなかった。むしろ感謝してるようにさえ見えたわ。いずれ話さなきゃいけないことを、あんたが契機を作って話させてくれたって。もしそれでどうなっても、あんたは何も悪くないって」
ももこさんの声に、玲さんの声が重なる。苦笑いをする玲さんの顔がすぐそこに見えるようだった。
「あんたはどうなの?」
僕は……どうなんだろう。
冴えない頭を動かそうとしても、だるさのせいか上手いこと論理的に考えることはできない。だから感情ばかりが先行する。
「黙ってるってのは、どういうこと?」
僕にも分からない。分かりたくないのかもしれない。
「玲と一緒にいて、話を聞いて、肌を見て、どう思った?」
「それは――」
直球な投げかけに言い返そうとした瞬間、部屋のドアが開いた。
「昼飯できたぞー……って、なんだ、タイミング悪かったか?」
顔を覗かせたのは、紺色のエプロンを着けた棚町さんだった。
「別に」
「なんだよももこ、ぷりぷり怒って」
「そんなかわいく怒ってないわ!」
「そうか。じゃあとりあえず昼飯にしよう」
そう言うと、棚町さんはドアを開け放って部屋に入ってきた。両手に持っているのは……土鍋?
「体調が悪い時はやはりお粥が一番だと思ってな。たんと食べろよ、潤」
にやつく棚町さんが土鍋の蓋を開けると、入っていたのは淵すれすれのおかしな量のお粥だった。
「え、待ってよ。これもしかしてあたしたちの分も……」
「当然」
「なんでよ! あたしパスタがいいって言ったじゃん!」
「同じ炭水化物だしいいだろ」
「料理の概念がないのか!」
ももこさんはぷりぷり怒りながらも、既にテーブルにスタンバイしている。本能には逆らえないのだろう。
「いただきます!」
「潤」
そうやって棚町さんに催促されるがまま、僕もベッドから降りてテーブルについた。その間に棚町さんは三人分のコップを用意し、それぞれに水を注いだ。
「……ありがとうございます」
食事が始まってからしばらくは、会話がほとんどなかった。三人揃って淡々とお粥をスプーンで掬っては口に運ぶのを繰り返していた。終始そんな感じだったから感想を言うタイミングを逃していたが、棚町さんの作ったお粥は十分に美味しかった。どうやら店長と同じように料理が達者らしい。少しの空腹とだるさが相まって、仄かに感じる塩気が異様に腹の底に沁みた。
鍋の中が半分くらいになったところで、棚町さんが口を開いた。
「昨日は大変だったんだぞ。俺もももこも慣れてないのにこき使われて」
ももこさんが聞き捨てならないといった風に棚町さんを睨み、咥えていたスプーンを棚町さんに向けた。
「元はといえばあんたが言い出したことでしょ。巻き込まれたあたしがかわいそうだわ」
「でも暇だったんだろ?」
「後見人のあんたがよく平気でそんなこと言えるわね?」
「あの」
話の腰を折るのを承知で、言いたいことがあった。
「……すみません、ありがとうございました」
「やめてくれ。俺はそんな顔を見たくて引き受けたわけじゃない」
残ったお粥をかき込んだ棚町さんは、箸と茶碗を置いてコップの水を一口飲み、息を吐いた。
「全てを悪い方に考えなくていい。お前は俺たちが期待したことを、お前の気持ちに従ってつつがなく遂行した。どこにも悪い要素なんてない。そうだろ?」
僕は頷けなかった。
僕は自然と頭を下げていた。お礼と、自分自身の情けなさ故に。
「でもな、事はもっと先に進んでる。もう仕方がない、単なる偶然だったで終わるようなところにお前はいない。それを踏まえた上で、お前がどう考えるかなんだ。今度はお前が玲に応える番なんだよ、潤」
それは昨日の玲さんの覚悟の代弁だった。
棚町さんは僕の何もかもを見透かしているようだ。もちろんももこさんも。たぶん二人とも、僕がいずれ玲さんの抱える問題に突き当たることは確信していた。
棚町さんの言う通り、もう後悔してはい終わり、なんて次元にはいない。玲さんがあのドレスを着てくれたことに、僕は応えなければいけない。
「まあ、ただ玲を想うお前に、俺がこうしてプレッシャーをかけるのも筋違いだとは思うが……」
棚町さんは鍋からお粥を掬いながら言う。
「全部、真中の頼みなんだ」
「……店長の?」
「玲は、真中が怪我をして引退して、カフェを開くのに人手が足りないから玲を迎えたって話しただろう?」
「違うんですか?」
「ああ。そもそも真中は怪我なんてしてない」
「……?」
「要は、全部玲のためなんだよ。引退したのも、カフェを開いたのも」
そこまで言われても、僕には棚町さんの言っていることを上手く呑み込めなかった。
「俺も覚えてる。ももこたちと初めて会った日。あの時はたぶん俺も真中も、いつもと一味違う興行だけどいつも通りやればいいと思ってたんだ。でもそれは玲を見た瞬間に打ち崩された」
棚町さんのスプーンを運ぶ手はいつの間にか止まっていた。自分のことじゃないのに、棚町さんの表情はまるで自分の身に降りかかった災難を嘆くようだった。
「あんな面構えの子供は初めてだったよ。ぼーっとして、本当に俺たちを見ているのか分からない、抜け殻みたいな目で俺たちを見ていた。リングの上からでも観客の顔ってのはよく見えるもんだが、あんなに印象に残った眼差しはない。まあ、無理もないよな。あれは玲の母親の事件が起こって、まだ間もない頃だった」
昨日玲さんに聞いた、当時玲さんが感じた印象と、棚町さんが見た玲さんの様子が食い違っていた。感情と表情が乖離するというのは、一体どれほどの状態なのだろう。
「それを見かねた真中は、興行が終わった後に園長から玲のことを聞き出した。玲の身の上から体の傷のこと、妹の存在も。もしかするとその時にはもう、プロレスを辞めようと思ってたのかもしれない。あいつの目には玲しか映っていなかった。俺にはそんな風に見えた」
棚町さんはまだ残っている僕の茶碗を取って、さらにお粥を注いだ。
「その辺の詳しい話は、真中に聞けば一から十まで教えてくれるだろう。でもお前が向き合わなきゃならないのはそこじゃない」
棚町さんは何かを確認するように、一度ももこさんを見た。ももこさんは茶碗とスプーンを持ったままむくれていた。
この先の話がどういうものかは僕にも分かった。だからこそ、考えるより先に心が怖気づいていた。
応えなければいけない……のに、耳を塞ぎたくなる。僕はこれだけの現実を目にしてもなお、それを拒絶して、僕自身の初恋を神聖化しているのだと思う。僕にとって都合のいい憧れの存在であってほしいという我儘が、僕の中にある。
「玲の母親の事件の引き金になったのは、他でもない玲の父親なん――」
「ちょっとトイレ」
ももこさんが棚町さんの言葉を遮った。立ち上がったももこさんは僕を一瞥すると、早々(はやばや)と部屋を出ていった。
「……あいつもそろそろ大人になってほしいんだがな。ともかく、玲の父親はろくでなしだった。アイルの両親もろくでなしだったが、『学園』に来るまではアイルを育てていたわけだから、親としてはまだマシだったろう。玲の父親はまるでダメだ」
「……全部任せっきり、とかですか?」
「いや……そもそも分からないんだよ。誰が父親か」
――どうして。
昨日から何度、玲さんに打ち込まれた運命を嘆いたことだろう。僕はあと何度、衝撃と無力感に心身を蝕まれればいいのだろう。
「父親は外国人で、玲はハーフ。それだけは分かってる。でも探す時間も、金もない。だから母親は女手ひとつで玲を育てた。そして三年後、新しく父親になってくれると言った男と出会った。でもそいつもろくでなしだった。また一人子供を産ませて、母親の元を去った」
「じゃあ……」
「玲と妹は異父姉妹なんだ」
知れば知るほど、僕が踏み込んではいけないような話に思えてくる。それは僕なんかにはどうにもできないということの証左であり、やはり僕自身の弱さだった。
「結果的に玲の母親は二度も男に裏切られた。ただ妹の父親は身元が分かっていたから、慰謝料あたりの話し合いが続いていたらしい。子供が二人もいるんだ、その先は慰謝料なしじゃやっていけない。母親はその間、パートをかけ持ちしてなんとか食い繋いでいた。でもある日……」
棚町さんは大きな息を吐いた。嘆息とも息継ぎともつかないそれは、棚町さんなりの覚悟を僕に伝えてきた。
「……ある日、パート先に玲の母親を誹謗中傷する電話が来たそうだ。それも一度だけじゃなく、数分おき、数十分おきに何回も。妹の父親が手を回したらしい。内容も酷いものだった。職場の人間もその内容には半信半疑だったが、それよりもしつこさが大きかった。店も台風の目をいつまでも置いておけなかったんだろう」
「え……」
「予想だが、それがたぶん、あの傷を負った日だ」
「……なんで」
声が先行した。虚しさだけが胸を満たしていた。
「なんで……助けようとは思わなかったんですか? そこまでいって、なんで周りの人は、手を差し伸べようとは思わなかったんですか?」
「流石の俺もそこまでは分からない。運が悪かった、としか言いようがない。引き寄せた人間も、置かれていた状況も、最終的にそのせいで自分が死ぬと分かっていて選ぶ人間なんていない」
「そんなの……!」
「頭に血が上るのも分かる。でも冷静になれ。全部過ぎたことなんだよ。俺たちにはもう、聞いたことをお前に伝えることしかできない。そりゃ俺だって初めて知った時は憤ったさ。そんな理不尽が許せなくて、どうにかしなきゃいけないと思った。でもな、当事者でもない俺たちには、そんな過去のことはどうにもできない。これから歩む道で玲の背中を押してやることしかできない。そのためには、今の玲に大きく影響しているその過去を、受け入れなきゃならないんだ、潤。真中や俺たちが求めているのはそういうことなんだ」
やや興奮気味に言い切ると、棚町さんはまた息を吐いた。
「……すまん、俺も勢いに任せすぎた」
「いえ……」
確かにもうどうにもできないことだ。でもそれで納得できるほど僕は前向きな性格じゃない。一方で、やっぱり棚町さんの言ったことはどうしようもなく正論で、嘆くしかできない。
――そんなショックの隙間から、見えてきてほしくないものが見えてきた。嫌だが、昨日が強烈すぎて、玲さんの過去に慣れてしまったのかもしれない。たぶん棚町さんも、それに僕が気がつくと想定した上で話したのだろう。
棚町さんは、玲さんについて僕なんかよりはるかに多くのことを知っている。それを昨日の今日、後出しで開示してきた。そもそも僕が玲さんの過去に行きつくと予想した上で僕の背中を押した。棚町さんも、ももこさんも、恐らく店長も。まるでそこで待っていたかのように、僕に伝えてきた。
棚町さんの勢いのおかげで逆に冷やされた僕の頭は、すぐに次の言葉を探すには十分すぎるくらい冴えていた。
「……僕を試してたってことですか?」
棚町さんの顔色は変わらなかった。
「平たく言えば、そうなるのかもしれない」
あえて提示してくれた真中さんの答えが、僕の動揺を誘った。
まるでワンツーパンチを食らったみたいだ。試されていた。僕の気持ちを。嘆くしかない玲さんの過去に僕が行き着くと知っていながら、背中を押したんだ。こんなにも惨い選択肢を僕に用意していた。
ただでさえ玲さんの過去に目を向けなければならないのに、それ以前に僕は、棚町さんたちの掌の上で転がされていた。
「俺たちはただ、玲に幸せになってほしかった。そのためには玲が自分から昔の話をできるくらいの相手が必要だった。その希望がお前なんだ」
一日前の僕なら甘言と思い喜んだだろう。でも今の僕にはそんな余裕はない。
「お前と会った最初の日、俺は真中に後押ししてやってくれと頼まれてレインダンスに行った。あいつが誰かに、玲のことで期待をかけるなんて初めてだった。だから俺もお前に期待した」
「……僕より前のバイトには、そういった人はいなかったんですか?」
「真中は何があっても玲の昔について語らない。その代わり俺やももこが、玲を傷つけないよう釘を刺していた。お前もももこに言われただろう。だが玲目当てだったからか、誰一人として長続きはしなかった」
「なら僕も同じですよ。いや、もっと酷い。僕は結果的に玲さんを傷つけた」
「違うさ。もう時間の問題だった。お前の行動が玲に決心をさせた。お前に心を開いてる何よりの証拠だ」
「でも僕は――」
「潤……!」
棚町さんの大きな手が僕の肩を掴んだ。背もたれ代わりのベッドに押しつけられる背中と肩の痛さが恐かった。
「お前は……玲を受け入れられないのか? 玲の過去を背負ってやれないのか?」
「……卑怯ですよ」
棚町さんは迷うようにぐっと力を入れた後、ゆっくりと僕の肩から手を離した。
「僕は、人を好きになったことがないんです」
顔を上げられない。
今、棚町さんはどんな顔で僕を見ているだろう。
「でも玲さんに出会えて、初めてそれを知ることができた。すごく尊いものだと思った。こんな気持ちがこの世にあるなんて、にわかには信じられなかった。それくらい、嬉しかった。でも……」
ああ、ダメだ。みっともない。
「僕には分からないんです。人を好きになるって、その人のことを何よりも大切に想って、近くにいるだけで緊張して、話せただけで舞い上がる。そういうものじゃないんですか? なのに今、僕は恐がってる。昨日、玲さんの体を見た時から。ずっと、恐怖が憧れを邪魔してる」
口が乾いていく。口だけではないかもしれない。
あの時ずれた歯車は、まだ戻らない。
「嫌なんです、今素直に玲さんを受け入れられない自分も、僕の初恋が普通じゃないって事実も……。棚町さんたちには感謝してます。僕一人ではここまで来れなかった。でも僕は玲さんが好きです。それだけで完結する幸せなだけの恋をしたいんです……!」
やっと顔を上げて、その先にあった棚町さんの表情には、何の色味もなかった。
ただ僕を見ていた。僕を見ていて、それだけ。さっきまで僕に向いていた威勢と希望的眼光は、もう面影もなかった。
「……そうか」
棚町さんは空いた茶碗にコップを重ね、その中にスプーンを入れた。
「お前の恋は、もちろん応援してる。でも、少なくとも俺は……」
それを持って立ち上がった棚町さんが、僕を見下ろす。
「玲の幸せを優先する」
遠のいた。何もかも。
突き放されたというより、僕の自業自得で遠ざかった。結局、僕には玲さんの覚悟に応えるだけの覚悟が足りなかった。
いや、覚悟がどうこうという話ではない。そもそも僕は、こうなることを求めていなかったんだ。もっと普通に、楽しく、幸せに、昨日数え切れないほどすれ違った男女のように、人並みの恋をしたかったんだ。
しかし、運命が邪魔をする。奇跡のような運命が引きあわせたくせに、悪夢のような運命が僕を苛む。そしてこの僕自身も、これまで幾度となく見え隠れしていた悪夢のような運命をのらりくらりと躱していた。玲さんを傷つけるかもしれないからと蓋をしたり、そのくせ中途半端に踏み込んでは邪推してまた蓋をしたり。それが最善だったのかもしれないが、正解ではなかったかもしれない。だがもし正解を選んでいたら、僕と玲さんの関係は今なんかよりもっと悪い方向に向かっていた気もする。
そうして見えてくるのは、僕の気持ちと現実とのジレンマ。玲さんとの普通の恋をしたいという気持ちと、玲さんの過去を受け入れなければならないという現実。受け入れてさえしまえば全て丸く収まるのに、僕はやはり憧れを捨て切れない。
僕はまだ子供だ。そんなちっぽけな憧れに縛られて、思いたくないのに、自分でもどうしようもないと思えてくる。
そしてもう、どうしようもなくなった。
状況は最悪。最悪すぎて身動きもできない。
――諦めるしかないのか?
僕はこのまま、運命の渦に呑み込まれていくしかないのだろうか。
自分の首を絞めて、終わっていくのか、僕は――
「湿気たツラすんな」
そんな暴言のような一喝で、僕は顔を上げさせられた。
「ももこ……」
食器を台所に置くために棚町さんが開けたドアの先には、果てしなく仏頂面なももこさんの姿があった。
「……ちっ」
蔑むように見下すその目に射殺されそうだ。そのまま大股で部屋に入ってくると、一直線に僕に向かい、目の前に立った。蛇に睨まれた蛙のような僕は、ただももこさんを仰ぎ見ることしかできなかった。
「もううんざりなんだよ、その顔」
ももこさんは僕のスウェットの襟を掴んで引き寄せた。最近よく胸ぐらを掴まれるが、ももこさんからは二度目だった。
一度目より体に力が入らなかった。抵抗する気も起きなかった。風邪のだるさはたぶん関係ない。
至近距離で見るももこさんの瞳が、一心に僕を見ていた。
「後悔は後にしか立たないけど、あたしはあんたのその顔が嫌い。可能な限り見たくない。そういう顔をする時は誰でも、その後悔をいつまでも引きずる。それであの時どうして後悔する方を選んだんだろうって、また後悔する。嫌いなのよ、そんなの。……だからこそ、あんたはそんな顔すべきじゃない。あんたはまだ後悔する立場じゃない」
「え……」
「あんたの正念場はここからよ」
ももこさんは決して僕から目を逸らさなかった。
ぱっ、と襟から手を離した後も、僕とももこさんの目は一直線上で繋がっていた。僕ももう逸らすことなんてできなかった。
「玲はまだ昔に囚われてる」
「……?」
「あの子は半ば妹のために働いてる。毎月入る給料の半分を、妹宛てに振り込んでる。自分が守り切れなくて傷を負わせたせめてもの償いです、って」
「ももこ……」
「ちょっと黙ってて」
ももこさんは肩に置こうとした棚町さんの手を払いのけた。その間も全く、同調した視線がぶれることはなかった。
「まだ終わりじゃない。あんたも、玲も。終わらせちゃいけないのよ」
僕がひとつまばたきをすると、いつの間にかももこさんの顔が眼前にあった。
「玲を助けられるのは、今のところあんたしかいない。玲はあんまり強くない。そんなあの子が、これから先もずっと心の奥に罪悪感と寂しさを抱えたまま生きていけるとは思えない。だからあんたが必要なの」
「……でも、僕は」
「でもじゃない!」
ももこさんはしゃがみ込む勢いのまま強く床を叩いた。その振動と怒号が骨の芯にまで響いた。
僕の脚を四肢で跨ぐように肉薄した形になっても、ももこさんはまだ目を逸らさない。
「あんたは玲が好きなんでしょ? それは恋よ。恋っていうのは、突き通すから恋なの。もがくから恋なの。壁にぶち当たって、もうダメだ諦めようなんて、そんなのは恋じゃない。でもあんたは違う。きっと今あんたの中は混乱してるだろうけど、でもあんたはそうやってあがいてる。自分の気持ちを大切にしてる。大切にして、どうにか上手くいく方法をどこかで探してる。だったらそれは紛れもなく恋よ。あんたはそれを信じて努力したのよ」
瞳を通して僕に注がれる熱意が、後ろ向きな僕の心を少しずつ打ち崩していく。
「あんたは何度も立ち向かったじゃない。都の時も、アイルの時も、運命に立ち向かった。玲の運命はまだ終わってない。その立ち向かえる力で、あんたが玲の運命を変えればいい。玲だって普通の女の子なのよ。特別な過去を背負ってるだけ。それを克服できれば、普通の女の子に戻れる。あんたにはそれができる。変えることも、あんた自身が変わることも、そんなに悪いことじゃない」
不思議だった。体が浮いている気がする。
悲哀の絶海に沈んでしまいそうだった僕の体を、水面を突き破って差し出した手で引き上げてくれる。
ももこさんの言葉は魔法のように、僕の悩みが他愛もないことだと証明してくれた。
こんなにも小さなことだったのかと、それなりにショックもあったが……それさえも溶かしてくれる。ももこさんの瞳は不思議な力を宿している。
菅野さんの時も、アイルの時も、きっとその二つの邂逅は僕にとって大きな運命のターニングポイントだった。言ってしまえば、大きな壁だったかもしれない。玲さんとここまで親密になれたのも、その壁を乗り越えることができたからかもしれない。
そしてその壁を克服する時、僕はあらゆる選択を重ねた。そのほとんどが僕と玲さんのためであったが、少なくともその自分勝手は決して悪い方向にいくことはなかった、と思う。
それなら、この積み重ねた確率と自分勝手な選択を、僕の力としてもいいのかもしれない。それを元手に玲さんを、玲さんの運命を僕の力で変えられるのかもしれない。そうすれば僕の我儘も、棚町さんたちの願いも叶えられる。どうして気づかなかったのだろう。
道はこんなにも簡単に開くものなのか。
……ああ、本当に、ももこさんはすごい。僕は今、自分さえも変えようとしている。あれだけ玲さんの過去に恐怖して、かけがえのない気持ちさえも揺らいだのに、感情のベクトルを完全に塗り替えられてしまった。
「潤」
ももこさんは右の拳を僕の胸に押し当てた。心臓の真上に置かれたそれは、揺れが収まったばかりの心にとどめとして打たれた杭のようだった。
「後悔するな」
それだけ言って、ももこさんは僕から離れた。
いつもは小さいももこさんの姿が大きく、際立って頼もしく見えた。味方でいてくれるのがこの人でよかったと、心の底から思えた。
僕は弾かれたように立ち上がり、棚町さんを見た。棚町さんはらしくない不安そうな顔で、一瞬何かを言おうとしたが、声にする前に静かに口を閉じた。
ももこさんはいつの間にか自分の器の前に座り、黙々と食事の続きをしていた。さっきとは打って変わって、ちっとも僕のことを見ない。わざと視界から外しているようにも見えた。
「行ってきます」
僕はももこさんに一礼して、枕元に置いてあった携帯と財布を持ち、部屋を飛び出そうとする。
「潤!」
ドアに手をかけたところで、棚町さんに呼び止められた。
「外は寒い。俺の上着を貸してやる」
差し出してきたのはダークグリーンのジャケットだった。
「でも……」
「着てけ。ぶり返したら後が面倒だ」
「……ありがとうございます」
何でもなさそうに言う棚町さんの声。それに誘われるように、僕は自然と受け取っていた。
「行ってきます」
棚町さんにも一礼して、ドアを開ける。尻目に見た棚町さんは、笑っているようにも、悲しんでいるようにも見えた。
体格差故にかなりオーバーサイズなジャケットに袖を通しながら、靴を履き、玄関を出る。外は昨日よりも幾分か寒く感じられた。それでも胸は熱かった。
病み上がりのだるさも、熱の余韻も今は気にならないくらい、僕はただひとつのゴールを目指して走り出そうとしていた。
空を仰ぐと、混沌とした灰色が、絵筆で塗り潰したような模様で僕を見下ろしていた。今にも雨が降りそうだ。しかしそんなものは気にならない。気にしていられない。
降らせなければいい――そんな調子のいいことを考えながら、僕はレインダンスへと向かった。
「よかったのか? あいつを行かせて」
「……」
「……はあ。まだまだお前も甘いな」
「…………しょっぱい」




