ロスト・ファイターズ5
「玲さん!」
気づけば僕は玲さんの心配しかしていなかった。手を回したが、僕より玲さんの方が派手に頭の方から落ちた。水のクッションがあるとはいえ、その下が頑強な石であることに変わりはない。
しかし、僕の心配をよそに玲さんはすっくと起き上がった。
「大丈夫ですか!?」
「あ、あはは、まあなんとか」
どうやら強く打ちつけたところはないらしいが、頭から足の先までびしょ濡れだった。そして僕も。とりあえず大事には至らなかったことに安堵した。
「大丈夫でしたか!?」
背後から焦燥に満ちた声。
見ると、三つ揃いのスーツを着た壮年で痩身の男がこちら側に落ちそうな勢いで僕たちを覗き込んでいた。そんなに泣きそうな顔をするな。こっちが泣きたい。
「……まあ、なんとか」
男が差し出した手を取って立ち上がり、僕が玲さんを引き起こす。濡れた玲さんの手は同じくらい濡れている僕の手でも分かるくらい冷たくて、震えていた。
川から出ると、僕と玲さんの足元には水溜まりができた。厚手の服を着ているから、水を吸った分重い。防寒も何もない。寒風に晒される手や顔以上に、凍りそうな服が体温を奪っていく。
男は「大丈夫ですか、お怪我はありませんか」と連呼している。表情や言動からみて、やはりこの男が玲さんの足に当たったらしい。そして、こうなっている。その反省していますという顔が余計に僕の神経を逆撫でた。
「あの……」
「本当に申し訳ありませんでした!」
男は凄まじい勢いで頭を下げた。それに気圧され、僕はつい開けた口を閉じてしまう。
「私の不注意でこのような事態に……。申し開きもございません。全て私の責任です。私にできることなら何でもさせていただきます。ですのでどうか、どうかご容赦を……!」
「いや、あの……」
平謝りをする男には、文句ひとつはさむ隙間もなかった。何故だか謝罪慣れしているように見える。
そんな男を見ていると、怒りや寒さよりも周囲の視線の方が気になってくる。ただでさえ川に落ちたというだけで注目の的なのに、スーツ姿の男がずぶ濡れの男女に平身低頭している様子なんて明らかに普通じゃない。というか言動がいちいち大袈裟だ、この男。
「あの」
「はい!」
「……と、とりあえず場所を変えませんか。ここじゃ寒いし、周りの目も気になるので……」
「あっ!」
いちいちうるさいな。
何か閃いたように顔を上げた男は、ジャケットの内側をまさぐって小さな四角い紙を取り出し、僕に手渡した。少しイライラしていたので、濡れたままの手で受け取る。
「場所を変えたいのであれば、いいところがあります。お二人には大変な思いをさせてしまいました。ですので、一切お代はいただきません」
「……は?」
「いやぁ、お部屋が空いていてよかったです。いつもなら毎年この時期は満室になってしまうのですが、ちょうど運よくキャンセルのお客様がいらっしゃったようで」
「…………は?」
どうしてこうなった。
「職務中にも関わらず抜け出してファンであるロックバンドのライブに行こうとした天罰なのでしょうね。スタッフには私からいいように説明致しますので、気兼ねなくお寛ぎください。この度は誠に申し訳ございませんでした。ではごゆっくり――」
「いや。いやいやいや。え?」
僕はさりげなく出て行こうとした男の腕を咄嗟に掴んだ。
「何ですか? 何なんですか? 新手の詐欺ですか?」
「いえいえ、滅相もございません」
ついつい、と男はまだ僕が持っていた四角い紙を指差した。
強烈な単語が三つあった。『ホテル』『代表取締役』『会長兼社長』。
「実はしがないホテルの偉い人をしておりまして」
「しがないって辞書で引いたことあります?」
男の言うことは信じられないが、僕と玲さんがいるのは間違いなく高級ホテルの一室だった。
男の電話一本で人混みの中にやってきた黒塗りのハイヤーに服の水を絞ってから乗せられ、あれよあれよという間に見上げても見上げたりない建物に入り、フロントのお兄さんに微笑まれながらロビーを素通りし、ここに至るのである。
「しがないですよぉ。まだまだ成長途中ですので」
「あなたが今握ってるそのドアノブに彫られた繊細な王冠の意匠を見てもまだそんなことが言えますか」
ははは、と快活に笑った男は、もう一度僕たちに向き直った。
「僕は欲深い人間ですから。上があると知れば駆け上がらなければ気が済まないのです」
言葉の重みが違う。
「では、私はこれで。私に何か御用がございましたら、あとで内線にてお呼び出しください」
「ちょっ……」
終始笑みを崩さない男は、結局僕たちを部屋に置いて颯爽と出ていった。
上手いこと丸め込まれてしまった。玲さんを見ると鳩が豆鉄砲のマシンガンを食らったような顔をして固まっていた。無理もない。車に乗せられたくらいから文句を言うよりも状況理解に全神経を注いでいたのに、僕もまだ頭が追いつかない。ていうかあとでって……。
「キューピッドってか……」
「潤さん?」
「はい。あ、いえ、何でもないです」
ともかく、まずはこの状況を飲み込まなくては。玲さんが不安そうな顔をしているのに僕がそれを助長するのは最悪だ。
隠しカメラがあるとか、出た後にやっぱり高額な請求をされるとか、そもそも連れて来られた時点で拉致だとか、怪しまずにはいられない状況であることに変わりはないが、あの男の様子や手の中の名刺が疑念を掻き消そうとする……ので、携帯を取り出し、もらった名刺の名前と会社名で検索をかけると、
「マジか……」
出てきた。一発で。あの男は本物だった。
「……はぁ。とりあえず休みますか。せっかくですし」
「え、大丈夫なんですか?」
「大丈夫です。胡散臭いことこの上ないですが、こういう人たちは自然とそうなるのかもしれないです」
「……?」
そんなに首を傾げないでほしい。僕だって意味が分からない。
ともかく、僕がそう言ったことで安心したのか、玲さんは僕の隣に立って、僕のタイミングに合わせて部屋を覗き込む。そこはおよそ僕たちが思っていたよりも数段格上の部屋だった。
中央には見たこともない大きなサイズのベッドがひとつ。そしてそのベッドを置いてもまだ余りある広さ。クローゼットから化粧台、ランプに至るまで、まるで住むことを想定されているような、古めかしくも厳かな家具の数々。それらが僕たちを品定めしているように感じる。入室にさえ品格を必要とされるような圧を感じたのは初めてだった。
僕たちは揃って唖然として、顔を見合わせ、唾を呑む。猫に小判。豚に真珠。そんなニュアンスの言葉が何度も頭を巡った。
「はは……」
玲さんが不意に笑った。それにつられて僕も笑う。
どこから湧き出した笑いなのかは知らないが、笑わずにはいられなかった。
しばらく二人で笑って、ふう、と一息つき、どちらからともなくベッドに座る。僕がドア側で、玲さんが窓側。
あ、ベッドひとつじゃん。
「……」
僕が少し動いただけで、玲さんが息を呑むのが分かった。顔が熱い。たぶん玲さんの顔も赤い。空気に乗って玲さんの姿が目に浮かぶくらいには、僕たちの間には緊張が張り詰めていた。
「れ、冷静になりましょう。とりあえず濡れた服をどうにかしないと……」
痺れを切らした玲さんがコートを脱いでいる……らしい。湿った衣擦れの音が妙に大きくこだまする。僕は動けないままだった。
視線を横に滑らせると、鏡の中に、クローゼットのハンガーにコートをかける玲さんが見えた。鏡越しでも分かるほど、中に着ていたブラウスまで濡れていた。そのままムートンブーツから備えつけのスリッパに履き替える。
「へくしっ」
「だ、大丈夫ですか」
「はい、なんとか……」
鏡の中の僕に向かって、玲さんは鼻を擦りながら微笑んだ。
「……シャワーだけ借りて、少し休んでから出ましょう。このままじゃ僕も玲さんも風邪をひきます」
「そ、そうですね。私もそれがいいと思います。……あ」
「どうかしました?」
「いや、浴びるのはいいんですけど、着替えが……」
「ああ、それなら――」
僕はごく自然にリュックへ手を伸ばしていた。開けようとしかけて、止める。
この状況で渡すのは果たして正解なのだろうか。濡れた少女に差し出すような服ではないことも、こんなタイミングで渡せるような無意味な贈り物ではないことも、あらゆる方面の事情を含めて、ここで出してしまっていいのだろうか。
数秒、時が止まったように考えた。すると案外結論は早く出た。
「玲さん、これ使ってください」
ただただ玲さんのことを考えるのなら、ここで渡すべきだ。正解ではないかもしれないが、最適ではある。今は僕の事情よりも優先すべき人が前にいる。
濡れた服のまま背負っていたせいで心配だったが、幸いリュックは濡れていなかった。乾いた包装紙に触れた指の腹に、リュックの生地を透過するほどの冷気に晒された紙の冷たさが痛かった。
「本当はこんな状況で渡すつもりじゃなかったんですけど」
照れと緊張を口先で誤魔化そうとしていた。やはりこんな状況でもそれなりに心の準備が必要らしい。こんなに混沌とした聖なる現場があるものかと、我ながら気の毒になる。
しかし、まあ、ついでだから、僕の気持ちも少し乗せておこう。
「メリークリスマスです。玲さん」
立ち上がって、しっかりと両手で持って差し出す。玲さんは僕の手中にあるのが何なのか理解しあぐねていた様子だったが、しばらくすると頬が紅潮し始めた。
「これって、その……」
そっと箱を手に取り、まじまじと見つめる。そんな様子を見せられると僕も心臓を掴まれた気分になる。
「まあ、その……。今日付き合ってもらったので、そのお礼です。……なんちゃって」
「あ、えっと……」
玲さんはしどろもどろになりながら、投げかけるべき言葉を探しているようだった。その姿を喜んで捉えるべきだと僕の心がドアを何度も叩くように訴えかけてくるが、実際何を意味するのかは、邪推せず成り行きに任せることにした。
「い、いいんですか? 私なんかに……」
「なんかに、じゃありません。玲さんのためにです」
「……っ」
湧き上がるものを必死で押さえつけている。その反動か、玲さんの目尻には涙が溜まっていた。
「ありがとうございます、潤さん……!」
――お前が思う以上に、玲の気持ちは動きかけてる――
ようやく棚町さんの言っていたことが分かってきた気がする。実感し始めている。あのセリフが体に溶けていく。否が応でも、やはりそういうことなのだと信じ込んでしまう。ああ、やっぱり、成り行きに任せるなんてできなかった。
「開けても、いいですか?」
僕は頷く。
晴れやかな顔の、照明を受けて透き通る瞳の中には、確かに僕の姿があった。僕を僕として見てくれている証拠がそこにはあった。鳥肌が立つ。嬉しいとか喜ばしいとか、そんなちんけな表現では足りない。この感情の一切を一言に押し込めるなんて、僕には無理だし、他の誰にもできないに決まっている。
玲さんの雰囲気はどことなく、あの駅のホームで僕が告白じみたことを口走った時のものに似ていた。思い出されるのは、あのとびっきりの笑顔。それは最終的な目標のひとつ。僕が目指したいと思うほどに強烈だった、あの笑顔。
それを、また見ることができるかもしれない。そしてあの時寒空と電車に掻き消された言葉を、今度はちゃんと聞くことができるかもしれない。
玲さんの手が、包装を解いてあらわになった真っ白な箱にかけられる。
「――」
そこに、笑顔はなかった。
いや、笑みは張りついたままだった。しかしまるで凍りついてしまったように、温度がなかった。少なくとも、僕が期待していたあの笑顔とは程遠い、むしろ真逆の、冷たい面持ちだった。
「玲さん……?」
僕は慌てていた。玲さんの反応があまりにも僕の想像とかけ離れていた。
「あ、いや……」
そんな僕を置き去りにするように、玲さんはひどく狼狽した。しきりに揺れる瞳は一度も手の中のプレゼントに向くことはなかった。
どうして――よりも、目が眩むほどの衝撃が僕を呑み込む。ただ目の前の現実に淘汰される。
玲さんは俯き、固まっていた。沈黙が満ちているのに、僕の頭の中だけ不快な騒音が支配していた。
しばらくすると、
「……ありがとうございます。シャワー浴びてきますね」
そう言って、プレゼントを持ったまま浴室へと向かっていった。僕を見る玲さんの優しい笑みが痛々しかった。
浴室のドアが閉まる音を聞いてから、僕は自然とベッドに身を投げた。
柔らかさに少しだけ安心したが、すぐに次の波が押し寄せる。虚しさと後悔、そして不安。
表情で分かる。ありがとう、なんてお世辞にもほどがある。心の中の片隅でも、そんなことは欠片も思っていないことはあまりにも明白で、体の力が一気に抜けた。
どうしてこうなった?
考えるだけ無駄な気がする。しかし考えずにはいられない。こうなる運命だったのか、それとも僕が選んでしまった結果なのか。どちらにせよ、起こってしまったことへの無力感が背中に覆い被さってくる。確実に喜んでもらえると思ったものを、僕の自信を否定されたその理由を探るのなんかよりも、この奈落に落ちそうな気持ちをどうにか保つことの方が先決だった。保たなければ、今すぐここから立ち去ってしまいそうだった。
どのくらい時間が経ったのだろう。しばらくすると浴室の扉が開いた。
僕は重い体を持ち上げ、ベッドに座る。背中が勝手に丸まって、目線が下を向く。玲さんがスリッパを履き、こちらに歩み寄ってくる。
「お待たせしました」
玲さんは僕の前で立ち止まった。
後頭部に降る声がやけに温もりを帯びていた。引っ張られるように上を向いてしまう。
「――え……」
言葉を奪われた。
「まだ、何も言わないでください」
言われなくても、何も言えない。
混乱する僕を尻目に、玲さんはその身に纏った真っ赤なドレスの、肩から羽織ったマントのような上着の結び目に手をかける。
するっ、と結びを解くと、肩に沿ってゆっくりと落ちていく。
「潤さん」
もう僕は、返事をすることさえままならなかった。
する気も起こらなかった。
やはり逃げてしまえばよかったかもしれない、とさえ思った。
なんてことをしてしまったのだろう。
釘付けにされる。玲さんのその――体に。
肩がぱっくりと開いたドレス。袖を通す布と胸元を包む布のその間。
露出した肌を覆うように、絵筆で塗り潰したような火傷の痕があった。
寒い。
雨にうたれたような寒さが内側から肌を突き刺す。指先の感覚なんて随分前から無い。視界も霞がかかったように不鮮明だ。僕にとっては、とても物事を考えられる状況ではない。唯一分かるのは、ぼんやりとした視界に浮かぶ、鮮烈な赤。
「驚きましたか?」
何も言えない。そりゃ驚いた。でも僕の心中はそんなもので済むような状態ではない。
「無理もないですよね。こんなのを見て、驚かない方がおかしいです」
違う。そうじゃない。
僕の中の、何か大切な部分を動かす歯車が少しずれた。
「私、さっき決めたんです」
「え……」
玲さんはそっと僕の隣に座った。
「潤さんからプレゼントをもらって心の底から喜ぶ私と、もらったものに少なからずショックを受けた私がいて、すごく迷いました。どっちの私を信じればいいのかなって。喜ぶだけじゃもう一人の私を否定するような気がするし、嫌になって突き返すのも、私の気持ちと、何より潤さんを拒絶するような気がする。どっちも嫌でした。その時に思い出したんです。時が来たんだって」
「時?」
「僕を頼ってくださいって、潤さんが言ったんですよ。忘れちゃったんですか?」
「……あ」
そうだ。あの夜の、ホームで僕が言い放ったセリフ。
「だから、潤さんを頼ろうと思いました。どっちの私も受け入れて、潤さんを頼れば、全部丸く収まると思ったんです。というより、そうするしか抜け道がありませんでした」
「……だから、着てくれたんですか?」
「それだけじゃないですけどね」
玲さんはスカートの裾を持ち上げてみせた。やはりその仕草が病的に似合う。
それでも、どうしても、僕の目は玲さんの肌に向いてしまう。
「潤さんは、私たちがどういう身の上か、なんとなく感づいてますよね?」
痕に向く僕の意識を逸らすような、鋭利な刃物のような質問だった。
僕は頷く。ももこさんの話と、アイルの話。その二人の話が交差するところに玲さんもいることは知っている。
以前はそこまで知ってその先を考えるのをやめたが、もうそれを固辞していい状況ではない。関係ないと言って壁を作れるほど無関係でもない。たぶん僕は、そこから先を知らなければならない。この服を着てくれた玲さんの覚悟に応えるためにも。
「じゃあ、店長がどういう人だったか知ってますか?」
「はい?」
どうして急に店長の話になる?
「店長の昔の話、聞いたことありませんか?」
「いえ、一度も……ていうかその話って……」
「店長って昔、有名なプロレスラーだったんです」
「は?」
有無を言わせず繰り出された暴露に、耳を疑った。
「意外ですよね。けど、実はスーパーヒーローだったんです。強くて、凛々しくて、勇猛果敢に敵に向かっていく。何度倒れても決して折れずに立ち上がる。人気も実力もナンバーワン。同時期に活躍していた亮司さんと二人でプロレス界の広告塔になってました」
確かに意外だ。意外ではあるが、同時になるほどと思った。あの隆々とした体格はきっと相当な努力の末に手に入れたものなのだろう。謎に包まれた店長の真の姿が少し垣間見えた。それに棚町さんとの関係も。
「本当に、私のヒーローなんです」
玲さんの声音は熱に満ちていた。前に僕が玲さんと店長の昔について聞いてしまった時のような、何かに怯えるような様子は微塵もなかった。
「私と店長が初めて出会ったのは、私たちがまだ『学園』にいた頃です。もう随分昔の、今日みたいに寒い日でした。店長の所属していた団体の代表と学園長が知り合いだったみたいで、私たちの『学園』に小さな興行に来たんです」
運命的だ、と思った。今の玲さんと店長の関係を考えればそう言う他ない。
「強烈でした。あんなに大きな人を見たことがなかったし、あんなに強い人も見たことがありませんでした。敵をなぎ倒す店長の背中を見ていると、不思議と勇気が湧いてくるんです。そういう力を持っていたんだと思います。腕っ節だけじゃない、人を魅了する力が。そう感じたのはきっと私だけじゃないはずです」
その通りだ。玲さんだけじゃない。僕だって知っている。店長が放つ言葉にも、その力が宿っている。
「それから二年くらい経って、ある出来事が起こりました」
「ある出来事?」
「『学園』が潰れたんです」
ありのままの表現が、一層強く僕の頭を撃ち抜いた。
「潤さんもこの前聞きましたよね? 散り散りになったんです、私たち。唯一の拠り所だった場所を失って、途方に暮れました。これから先の未来も見えない。未来を探す力も手段もない。そんな時に手を差し伸べてくれたのが店長だったんです」
聞いている僕も胸があたたかくなるような、そんな声だった。
「二年の間に、店長は怪我をして引退していました。そこから第二の人生としてカフェを開くことにして、自分しかいないから人手が欲しいって、私を引き取ってくれたんです。棚町さんも店長と同じ時期に漫画家になって引退して、そのままももこちゃんの後見人になって、ももこちゃんはアイドルの道に進むことができたんです」
「……引き取られたのは、あの占い師だけじゃなかったんですね」
「アイルくんは私たちより早く引き取られたので、知らなかったんだと思います。実際情報が入るような状況ではなさそうでしたし、私たちも自分のことで精一杯でしたから」
三者三様な玲さんたちの生い立ちは、やはりどれも僕の想像を超えるものだった。自分たちで精一杯だったのも、それぞれが差し伸べられた手を取るしかなくて、それが唯一の道だったからだ。
何もかもが、僕の生きてきた世界と違う。今まで僕は、こういう世界があるということをどこかで認識はしていて、それでも自分には関係のない、どこか別の国のことのように思っていた。テレビで流れるニュースを見るのと同じだ。無駄に俯瞰的で、他人の意見に迎合してうんうんと頷くコメンテーターと一緒だ。当事者のことを何も分かっていない。
「ともあれ、店長は私を救ってくれたヒーローなんです。私は店長のことを何より大切に思っています。店長がいなければ今頃どうなっていたか分かりません。前に潤さんに訊かれた時、上手く答えられませんでしたよね。これがまず、私と店長の昔話です」
「……話してよかったんですか?」
「はい。なんていうか、あの時は昔のことを色々と思い出してしまって……やっぱり暗くなるとダメですね」
少し沈黙が降り、玲さんは改めて僕の方を向いた。
その時僕は、ようやく玲さんの顔を見ることができた。
決して晴れやかではないが、何かを決心した強い瞳だった。迷いの底から必死に抜け出して、玲さんなりに答えを出そうとしている。
その時、玲さんが僕の手を握った。
「……前座です、今の話。店長を大切に思ってるのは本当ですし、だから申し訳ないんですけど」
両手で、強く、縋る(すが)ように、自らの膝の上に引き寄せる。氷のように冷たい。
「ごめんなさい。でも離さないでください。こうしなきゃたぶん、話せないので……」
小さく震える手も、強張る顔も、吐息の混ざる声も、すべて寒さのせいなんかじゃない。
その意志に応えるように、僕は手を握り返す。
玲さんはゆっくりと、大きく息を吸ってから、
「私の家族は母親と妹だけでした」
その口からは永劫出ることがなかったであろう言葉は、雨のように暗く、重かった。
「私が覚えてる限りでは、父親の記憶はありません。近くにいたのはいつもお母さんと妹でした。そういう家族だったんだと思います。灰色の団地の小さな部屋に住んでいました。その団地の前の公園でいつも妹と遊んでいました。妹は私と三歳離れていて、かわいくて、いつも二人一緒でした。元々経済的な余裕はなくて、お母さんは朝から晩まで仕事。でも優しい人でした。夜にはお母さんが帰ってくるので、夕方に家に帰ってご飯を用意するんです。お金はなかったから、いつも二人で工夫して。それが楽しかったんです」
可能な限り感情を排除した、抜け殻のような言葉。
それなのに玲さんが今にも崩れそうな表情をしているのは、努めて平然と喋らなければ自分がどうなるか分かっているからだ。
危うい彼女の手をひたすら握る。僕にはそれしかできない。
「でもある日、お母さんの様子がおかしかったんです。仕事から帰ったお母さんは、いつもならすぐにご飯を食べて私たちの話を聞いてくれるのに、その日は着替えもせずに台所の椅子に座ったまま動きませんでした。何十分も、何時間も。心配になった私と妹が話しかけても気の抜けた返事をするだけ。妹はまだ小さかったから、そんなお母さんの様子が分からなかったんです。本当に、分からなかっただけ。遊ぼうって、ちょっとしつこく誘っただけなんです」
そこで玲さんは、高まった感情をリセットするように長い息を吐いた。
そして僕の手を握っていたその手で、自らの肩の傷に触れた。
「たまたま、なんです。たまたま、お母さんの好きなインスタントコーヒーを淹れてあげようとしていて、お湯を沸かしていたんです。たまたま……」
「まさか……」
想像でき得る限り最悪な事態を思い浮かべた。それこそ自分の肌が疼くくらいに。
しかし玲さんは何も反応しない。僅かに俯いて、何もない床を見つめている。それが答えだった。
「……咄嗟に妹を庇ったんですけど、小さな私の体じゃ限界がありました。私は首から下で済んだのに、妹は取り返しのつかないところに傷を負ったんです。私のせいなんです。ちゃんと守り切れていたら、今頃レインダンスにはあの子もいたんです」
理解ができなかった。実の母親がそんなことをしたことも、玲さんが今こうして自分を責めていることも。どうしようもなく理解ができなくて不快感に息が詰まる。
「……お母さんと、妹さんは?」
だから僕は、何も考えずにそんなことを言っていた。その後に何が返ってくるかも知らないで。
「妹は今、少し遠いところで高校生をしています。お母さんは……」
玲さんの、肩を抱く指先がほんの少し動いて、それを隠すようにまた僕の手に触れる。漏れ出す吐息も震えている。顔も青ざめてきた。
僕は、何をしているんだ。
「死にました。私と妹の目の前で」
後悔は先に立たない。どんな時も、僕の選択の後ろについてやって来る。
「潤さん」
想像できたはずなのに。その結末はきっと僕の頭の片隅にあったはずなのに。
「潤さん、私は……」
僕は何も分かっていない。やっぱり、分かろうともしていなかったのかもしれない。結局僕は、この期に及んで自分勝手だった。
「私は、どうすればいいですか……? 私は――」
玲さんの目から零れる大粒の涙も、僕には止める術がない。どうにかしてあげたくて手を伸ばしても、届きそうにない。
……あれ?
「潤さん……?」
力が抜けていく。
崩れていくジェンガのように体が支えを失って、僕はそのまま、ベッドに倒れ込んだ。
「――……さん……!」
玲さんの声が遠い。視界もぼやけてきた。それでも僕の胸の中には確かに、拭えない違和感があった。
寒い。
寒い――




