ロスト・ファイターズ4
ももこさんの作戦はつまりこうだ。
僕が玲さんを買い物に誘い、色々な店を一緒に巡る。その中で玲さんがふと「これかわいい!」や「これいいですね!」と口にしたものを、玲さんがお手洗いに行ったタイミングで購入する。戻ってきた玲さんにそれを渡すと、「おぉ! これくれるんですか!? ありがとうございます! 潤さん大好き!」となる。
筋書きは完璧だ。ももこさんのアイデアには舌を巻く。なんたって好きな人にプレゼントを渡すのなんて初めてなのだ。せっかく取りつけたチャンスも、道標がなければ無に帰すだけである。逆に言えばその道標次第で結果はいくらでもいい方に向かっていく。
デパートの中はしっかりと暖房が効いていて、外の乾いた冷気に晒された肌が常温を取り戻していくのが分かった。
周囲を見回すと、四方八方カップルの群れ。店に入って仲睦まじく服を選んだりする組もいれば、通路の中央にあるベンチに腰かけて休憩している組もいる。今や外見だけはその内の一組に過ぎない僕たちは、あってないような緩やかな人の流れにあわせて進む。
各々ここに来た目的は違えど、心なしか僕の目にはデパートの中にいる彼らの方が幸せそうに見えて、少し羨ましく思った。いや、実際僕より彼らの方がたぶん幸せだ。端から見たらカップルと思われるかもしれないが、そんなところにはまだ片足もかかっているか怪しい状況なのだ。
「洋服屋さんがいっぱいですねぇ」
「そ、そうですね」
体が重い。うろうろしている本物カップルへの羨望や劣等感と、ここが勝負の分かれ目というプレッシャーとの板挟みで押し潰されそうだ。頑張らねば。
「見たいお店があったら言ってください」
「潤さんもですよ!」
「え?」
玲さんは頬を膨らませて怒っていた。
「当然です! 今日は私の日じゃなくて、私と潤さんの日です。私だけ優遇されるのはどうかと思います!」
「はい……はい?」
咀嚼して、吟味してようやく、じわりじわりと玲さんの言葉の芳しさに気がついた。
「今日の潤さん、変に私に気を遣ってるじゃないですか。分かりますよ私には。……嬉しくはありましたけど」
「? すみません、最後の方よく聞こえな――」
「とにかく今日はっ! そういうのナシでいきましょう! はい返事!」
「は、はあ……」
大股で歩き始めた玲さんの横顔は、怒っているにしては柔和で、妙に赤かった。
気を遣っているつもりはなかった。ただ上手く立ち回らなければという意識はあった。それが変に作用して、むしろ玲さんに気を遣わせてしまっていたのなら問題である。そんな一切合切を吹き飛ばす何かが必要だ。
そのために何をすべきかは、もう分かっている。
「あ!」
突然声を上げた玲さんの目は、ある洋服屋に向いていた。
玲さんがちらり、と僕を見る。僕は小さく笑って頷く。すると玲さんの顔が喜びに満ち、すぐにそれを隠すように口を結んだ。
人の流れを横断して店に近づくと、他の店とは一線を画す光量が目に染みた。
「潤さん見てください! フリフリですよ!」
興奮する玲さんの言う通り、店の中はこれでもかというくらいフリフリのレースをまぶした洋服が所狭しと並んでいた。どうやらゴシックロリータ系の店らしい。
「フリフリですね……」
「行きましょう潤さん!」
「え、ちょっ」
玲さんに手を引っ張られ、ついに足を踏み入れてしまった。僕が入れるような場所じゃないと気が引けていたのに。
店の中は外から見るよりも遥かに煌びやかだった。天井から三段重ねのシャンデリアが吊り下がっている店なんて初めて見た。前後左右にずらりと、もはや何かの衣装のような域に達している洋服。それぞれのインパクトが強すぎて目が眩む。
「潤さん潤さん! これかわいくないですか!?」
玲さんが見せてきたのは赤と黒のチェックを基調としたシックな、膝丈くらいのドレスだった。いや、ドレスというのはそう見えただけで、ここではこれがオーソドックスな型なのかもしれない。肩の部分には同じ柄の、丈の短い上着がかかっている。
「お、おぉ……」
「かわいくないですか……?」
「いえ! かわいいです!」
それは間違いないのだが。
「すみません、こういうお店来ることないので、少し緊張してます……」
「なるほど。大丈夫ですよ。私も初めて来ましたし」
玲さんは生粋のフリフリ好きだ。フリフリの化身だ。
「かわいいですよねー!」
びくぅっ、と玲さんの肩が跳ねた。
声の主は玲さんの背後にいた。玲さんが振り返ったことで僕もやっと見えた。
「そちらすごく好評なんですよー。お客様なら絶っっっ対似合うと思いますよ!」
玲さんをも凌駕し得る満点の笑顔で、この店の中でしか馴染むことがないであろう服を着た女性店員が玲さんに詰め寄っていた。
髪はワインレッドで、元の顔が全く分からないほど濃いメイクをしている。見た目がさっきの甲高い声とどうにも釣り合わなくて少し戸惑った。
「私普段はお客様にあんまり声かけないんですけど、でもお客様は違います! 是非試着してください! 個人的に着てるところを見てみたい!」
そんな自分勝手な。
「いいんですか!?」
食いつきがいいな。
「もちろんですよ! それにほら、お客様がお持ちの服、私が着てるのと一緒ですよ!」
「おぉ、本当ですね。やっぱりかわいい――」
そこで、玲さんの動きが不自然に止まった。
「? どうされました?」
店員もどうやら玲さんの変化に気がついたようだ。僕からは見えないが、顔を覗き込む彼女の怪訝な表情が今の玲さんの様子を物語っていた。
「玲さん?」
僕が呼びかけても返事がない。続けて玲さんの肩を叩きながら、
「玲さん」
「あ。はい」
僕に振り返った玲さんの顔は案外けろっとしていた。
「どうしました? 大丈夫ですか?」
「あ、大丈夫です。服にちょっと見惚れちゃって」
そう言って微笑む玲さんは、やはりどう見ても普通だった。……何だったのだろう。
「とりあえず試着されてみてはいかがですか? 絶対似合いますし!」
スカートの裾を持ち上げてみせる店員が再度催促すると、玲さんは少し眉根を寄せた。
「い、いやでも、ちょっと高いですし……」
さっきはあんなに食いついていたのに、掌を返したように渋る玲さん。
そんなにか? と近くにあった一着の値札を見てみると、四捨五入して六桁だった。……ほほう、確かにこれは迂闊に触れない。
しかし。
「試着だけならしてみてもいいんじゃないですか?」
「えっ」
これは僕にとってのチャンスでもある。玲さんが値段で渋っているのなら、クリスマスプレゼントということにして僕がそこを補完してしまえばいい。そのためには試着が必要である。
面食らった様子の玲さんは僕と服を交互に見る。迷っている。仕方がない。僕だって諭吉が数人飛ぶような服をおいそれと試着なんてできない。
でもここはどうにか着てほしい。僕がプレゼントして玲さんが喜ぶという、最高の結末のためにも。
「大丈夫ですよ。店員さんの言う通りきっと似合いますから」
「で、でも……」
「大丈夫です」
僕の言葉が効いたのか、玲さんは少し項垂れた後、
「……分かりました。着てみます」
苦笑いを湛えた顔で僕を見た。頬がうっすらと赤くなっていた。
「ありがとうございます!」
別に買うと決まったわけではないのに、店員もすっかり喜んでいた。
そのまま店員に促されて、僕たちは店の奥にある試着室に向かった。そこもまたおよそ普通の洋服屋にあるような試着室ではなく、枠はピンクや白のバラで彩られ、カーテンには空から降りてきた天使の刺繍が施してある。隅から隅までよくもここまで統一できるものだ、なんて唖然としたが、よく考えれば僕のバイト先も同じようなものだったので、心の中で天使に謝罪した。
「じゃあ、行ってきます」
「はい」
フリフリを握り締め、玲さんはムートンブーツを脱いで試着室に入った。間髪入れずに店員がカーテンを閉め、靴を整える。
僕は試着室の前にあるこれまた西洋風の派手な椅子に腰かけ、ひとつ息をついた。
「素敵な彼女さんですね」
「えっ!?」
横に立った店員が敏感な言葉を吐いたので、盛大に声が裏返ってしまった。
「違うんですか?」
「え、あー……。はい、まあ、その一歩手前というか……お恥ずかしい」
「あら、そうでしたか。失礼しました。でもクリスマスの予定を入れられたなら脈アリなんじゃありません?」
「はは、そうだといいんですけどね」
本当に。心からそう思う。
「でも、本当に素敵ですよ。お洋服がよく似合いそう。あんなに綺麗な栗色の髪、初めて見ました」
そう言う店員の横顔は心底楽しそうに見えた。
僕の連れがこんなに褒められている――なんて浮かれた考えが過って、鳩尾のあたりがきゅっと上がった。
「あの、ありがとうございます」
「何がですか?」
「その……試着室を貸していただいて」
「フフ、なんですかそれ。ここはお洋服屋さんですよ」
言っている僕もよく分からなかった。でも何を言いたいかではなくて、何を伝えたいかが昂った結果だった。喜びを何かにかこつけてお返ししたかった。
「……私たちって、奇異の目で見られるじゃないですか」
「え」
また裏返った。
「分かってるんです。みんなが着るようなお洋服じゃないことも、目立って仕方がなくて、時にはからかいの的になることも」
近くで見ると、店員の伏せた目元が綺麗に縁取りされていて、濃いと思ったメイクも神秘的に見えた。
「でもそんなのは関係ない。好きだから。お洋服が好きだから、こうして着てるんです。それと同じような気持ちを彼女さんからも感じました。たまに冷やかしでお店に来る人もいるんですけど、彼女さんは違います。本当にお洋服に憧れて、袖を通すことに幸せを感じる。私たちと同じです。私たちと同じ、好きなものを本当に好きな人」
僕に振り向いた店員は、僕の背中を押すように笑いかける。
「羨ましいです。こんなに真っ直ぐで素敵な人が傍にいて」
ただただ言葉通りの表情だった。メイクがメイクに見えなかった。
これは玲さんの力だ。玲さんの表情も、姿勢も、一挙手一投足全てが波のように影響を与える。まるで玲さんを中心に世界が回っているみたいだ。それに僕も巻き込まれている。
波紋が心臓に及んで、玲さんの方へと引きつける。彼女の前では僕も店員も、誰も彼も同じなのだ。等しく玲さんに惹かれてしまう。
「まあ、魅力的……ですからね」
僕ではこれくらいでしか表現できない。しかしもっと複雑で、もっと高尚なものが玲さんにはある。
「……あの」
「はい?」
「とりあえず、彼女さんって言うのやめてもらえませんか。不甲斐なさに押し潰されそうです」
「あら」
そうして店員と談笑していると、カーテンが開いた。
「お、玲さん――」
期待していた。そう、僕だって店員と同じように、フリフリを着てより一層魅力的になった玲さんをこの目で見られるのを期待していた。
だがそんな僕の淡い期待は、元の服を着た玲さんによってひらりと躱されてしまった。
「あら」
「玲さん?」
手にフリフリを携えてムートンブーツを履く玲さんは、あと一歩で満足しそうな、口惜しい苦笑いを浮かべていた。
僕が椅子から腰を上げようとした途端、一足先に店員が玲さんに駆け寄った。
「サイズ合いませんでしたか? もしよろしければ他のサイズを……」
「あ、いえ、サイズはぴったりでした。やっぱりかわいかったです」
「じゃあ他のお洋服を試着してみては……」
「今日は大丈夫です。ありがとうございます」
そう言ってフリフリをそっと店員に手渡す。あんな表情をされたらもう薦めるのも憚られるだろう。店員の顔が心からもどかしそうに歪んでいた。
玲さんは僕の前まで来ると、僕が何か言おうとするのを察したのか、先んじて口を開いた。
「すごくかわいかったです。お洋服ってやっぱりいいですね。さ、次行きましょう」
存外淡白だった玲さんの声が、躱されてもまだ燻っていた僕の期待に拍車をかけた。
「いいんですか?」
「まあ、やっぱり高いので。今の私には手が出せません」
「でも……」
「着れただけでもよかったです。もっとたくさん着てみたいですけど、何度も試着するのは流石に気が引けますし」
あわよくば、と少しは思っていたが……。
玲さんがここまで言っているのに、僕が素直な欲望でこれ以上粘るのはお門違いだ。一先ず着ることはできたのだから、それで玲さんがいいのならいいのだ、と言い聞かせた。
しかし――こういうところは、我ながら本当に目聡い。
店員に一礼して店を出る瞬間、一瞬だけ、玲さんは店員の持つ服を見つめた。
無垢な羨望だった。憧憬が滲み出た眼差しで、名残惜しそうにフリフリを瞳に映した。
僕はほぼ迷いなく動いていた。
「あの」
フリフリを戻そうとしていた店員は、もう退店したはずの僕が話しかけたせいで小さく飛び上がった。
「な、何でしょう?」
「取っておいてもらえますか、その服」
店員は自らが携えている服と僕との間で何度も視線を往復させた。
「できますか?」
「はい、できますけど……」
「じゃあ、お願いします」
「……ああ、なるほど。分かりました」
分かってくれて何よりだ。
僕は店員に一礼し、既に店を出ていた玲さんを追った。去り際に見えた店員の嫌味ったらしい笑みが少し鼻についたが、その時にはもう頭の中には素晴らしい未来しか映っていなかった。
だから、正直、もうここから先の店には一歩たりとも入りたくはなかった。
それからの玲さんは、若干ではあるが気落ちしている様子だった。普通に接していれば普通に返事が返ってくるから取り立てて気にすることでもないのだろうが、あのフリフリの店に入る前と後とではやはり齟齬があった。バッグ、靴、アクセサリーと、様々なものに目移りする玲さんであったが、目移りした挙句に慎ましく手に取り、そのまま戻すだけ、というウィンドウショッピングが続いた。
とはいえ、僕はそれを見て不安になるようなことはなかった。
そもそも玲さんの様子に大きな落差があるわけではないし、それを補って余りある切り札を僕は持っているのだ。
「おぉ、これもかわいいですね」
玲さんは通りかかったファンシーショップの文房具コーナーの中から、簡素な笑顔が描かれた向日葵を引っこ抜いた。……向日葵?
「見てください潤さん、ペンの上に向日葵がついてますよ」
何かと思えば、キャップの部分が大きな向日葵のフィギュアになっている、実用性に限りなく乏しいボールペンだった。いかにもファンシーショップらしい一品である。
「確かにかわいいですね」
「しかも見てください。カチカチすると葉っぱが動きますよ」
ペン先の動きとともに両腕を模した大きな葉をバタつかせる向日葵なんかより、一心不乱にカチカチと指を動かして目を輝かせる玲さんの方が控えめに言って数億倍かわいい。
珍しい……少なくとも本人にとっては珍しいものを手に取ってご満悦の玲さんは、しかし満足したのか、向日葵を元あった場所に植え直した。
「こういうお店もいいですね。近くにないのでついテンションが上がっちゃいます」
玲さんのテンションが上がった時はこんなものじゃ済みませんよ、と言いかけて飲み込んだ。
いつかメイド服について熱く語られた時なんかよりも明らかに緩やかで差のない起伏だが、それを本人が気づいているか分からない。それを無闇に指摘してこの後の展開が頓挫するのを忌避する恐怖心が口を噤ませた。
そそくさと店を出た玲さんは、少し辺りを見回してから僕に振り向いた。
「あの、お手洗いに行ってきてもいいですか?」
時が来た。
「もちろんです」
快諾すると、玲さんは穏やかに微笑み、少し早足で近くのお手洗いへと向かっていった。
早足なのに、僕にはその動きがスローモーションのように見えた。
一歩、また一歩、玲さんが離れていくほどに、心臓の音が早くなる。勝負の時の始まりを告げている。
僕は深呼吸をしてから踵を返した。玲さんと同じく早足でエスカレーターを降り、人混みをかき分けつつ、可能な限り急いだ。
店の前に着き、周囲を確認する。まだ躊躇いはあったが、店の中にあの店員を見つけると反射的に足を踏み入れていた。
「あら」
僕を見つけた店員が、何故か嬉しそうに走り寄ってきた。
「お待ちしておりました」
「ど、どうも」
「お品物はレジの裏に置いてありますので。さ、どうぞ」
促されるままレジへと赴く。店員がカウンターの裏側に回って何やら準備をしている間に、僕はリュックから財布を取り出した。
「どうせ贈り物だと思ったので包装させていただきました」
どうせって何だ。
すこぶる快活な笑みを湛える店員の手には、いかにもメリークリスマスな包装紙とリボンに包まれた四角い箱があった。
「私も彼女さんが着ているところを直接確認してはいないので、同じ型とサイズで新しいものをご用意しました」
「あ、ありがとうございます。彼女じゃないですけど」
「時間の問題ですよ」
どうして僕よりもそんなに自信満々なんだ、と思いつつ代金を支払う。やはりやんごとない金額だったが、レシートと品物を受け取るとそんなことが瑣末な問題に思えてきて、むしろこの後起こるであろうことへの高揚感さえ覚えた。
「頑張ってください。当たって砕けろですよ」
「砕けるんですか。応援してるのかおちょくってるのか分からないですけど、まあ、ありがとうございます」
そうして店を出ようとすると、店員は決して浅くはない、しかし特別畏まっているわけでもない不思議なお辞儀をした。
頭を上げた彼女の笑みが柔らかくなっていた。それだけで、彼女の心意気は推し量ることができた。
「ありがとうございます」
プレゼントの入った袋をリュックに入れながら、不意に湧き上がってきた喜びのようなものを言葉にして押しつける。店員は変わらず柔和に微笑んでいた。
脚の回転数を上げてファンシーショップの前に出るエスカレーターを昇ると、店の前に所在なさげな玲さんが眉をハの字にして立っていた。思ったよりも時間が経っていたみたいだ。
僕が慌ててエスカレーターを降りると、玲さんも僕に気がついた。目を見開き、驚きを隠そうともせず、そして目に一杯の涙を溜めた。「あ」「潤さん」「いた!」。
「ああ、潤さんいたあああ!」
「合ってた……」
「何がですか!」
「いえ、なんでもないです」
「なんでもないです、じゃないですよ! てっきりここで待っててくれると思ってたのに、私のことは置いてけぼりですか! 酷いです!」
トイレに行く前の気落ちした様子はどこへやら……というか、その時より今の方が派手にネガティブになっているが、とてもそうは見えない。とにかく元気そうで何よりだ。
「すみません、僕もお手洗いに行きたくなったんですけど、近くのトイレが空いてなくて」
「……まあ、それなら仕方ないですね」
玲さんはさぞかし不機嫌そうに頬を膨らませた。本っ当に不機嫌そうだ。
どうしたものか……と頭を抱えそうになった矢先。
「――え」
面食らった。
いつの間にか、玲さんは僕の上着の裾を握り締めていた。白い指に包み込まれた布が、一瞬僕のものじゃないように思えた。
玲さんは不機嫌そうに明後日の方を向いたまま、時折こちらを横目に見る。僕の様子を窺っているらしい。その玲さんと、裾を握る手は別のもののようだった。
伝わってくる。
そういえば玲さんと初めて出会った日も、僕は玲さんの涙を見た。感情こそ違えど、涙を浮かべる理由はあの時も今も同じに思えた。そして同じ理由で、たぶん無意識的に、この手は僕を繋ぎ止めようとしている。むしろ掴まれたそばから強烈に引き込まれているような気さえする。
僕はひとつ息を吐いた。裾を掴まれて正直嬉しいし、いっそこのまま引き込まれてしまってもいいが、それ以上に心配の方が勝った。僕こそ、この人を離してはいけないと思った。
「じゃあ、気を取り直して行きましょう」
「……分かりました」
僕が精一杯の笑顔を向けると、玲さんは渋々といった様子で頷いた。
「もう勝手にどこか行っちゃダメですよ」
説教を食らっているうちに、気がつけば裾から手は離れていた。
それからはいつもの振り切った玲さんに戻った。一遍の曇りもない玲さんの笑顔を見ているうちに、僕もプレゼントのことを軽く忘れるくらい楽しんでいた。
大方デパートの中を巡ると、時刻はもう十六時を過ぎていた。見るところがなくなってくると自然と足は出口の方に向く。
まさかウィンドウショッピングで数時間も潰せる……いやいや、楽しめると思っていなかったから、ひとまず胸を撫で下ろした。決して、初めてだから何をすればいいか分からなかったとか、昼食の店のピックアップとプレゼントを選ばせる作戦で昨日から頭がいっぱいいっぱいだったとか、そういうわけではない。
重々しいガラス製の扉を押し開けて外に出ると、デパートに入ったときよりも一面人の群れだった。ずっと歩きっぱなしだったし、この人混みを掻き分けてまたどこかに行くのも億劫だったので、通りすがりのワゴンショップでホットコーヒーを二つ買って、広場の中央に向かう下り坂の背の低い塀に腰かけた。その塀の向こうには坂に沿うようにして石造りの川が流れていて、僕たちの空間に彩りを与えてくれているような気がして嬉しくなった。
「何も買わなくてよかったんですか?」
「はい。十分楽しかったです」
言葉通りに満足そうな玲さんは、コーヒーを啜りながら脚をバタつかせる。
買い物をしようと誘ったが、玲さんは最初から何も買う気がなかったのだと思う。たぶん買い物じゃなくても、この辺をただ歩くだけでも、なんなら別のどこかでもよかったのだろう。いつもと違う一日を過ごすことに意味があった。僕はそういうわけにはいかないが。
「あの、一度戻りませんか?」
上擦り気味の声で玲さんが言った。
「どこにですか?」
「レインダンスに」
少しだけ胸がざわついた。理由はすぐ分かる。二人の時間が終わってしまうことへの寂しさだ。それを紛らわすためにコーヒーを流し込むが、あまり美味しくなかった。
「せっかくのクリスマスなので、夕飯はみんなと食べたいなあと思って。今日ならちょうどももこちゃんも亮司さんもいますし」
玲さんの考えそうなことだ。自分の幸せをただ誰かと、時間と空間とともに共有したいという意思が伝わってくる。きっと本当にそれだけなのだろう。そしてそれが分かってしまうから、僕の寂寥は深く深く進行していく。
だが、雑踏が耳に蓋をする。興味なさげな音なのに、自然とこの寂寥を溶かしていく。
これからレインダンスに向かってもいい。玲さんの特別なクリスマスを、僕だってレインダンスにいるみんなにも感じてもらいたい。でもその前に。
「その前に、ちょっといいですか」
「はい?」
決定的な一打を叩き込むしかない。
僕はリュックの中に手を突っ込み、件のプレゼントを引っ張り出した。
「これ、よかったら――」
と言って差し出した途端、地鳴りのような重い音が耳に響いた。
何事かと坂の上を見る――前にはもう、群衆がものすごい勢いで坂を駆け下りていた。誰もが一心不乱に広場の中央を目指して走っている。さながら銃剣突撃のようである。
雑音にも等しい声をよくよく聞いてみると、なるほど。どうやら著名なロックバンドのゲリラライブが開催されるらしい。しかも今さっき情報が公開されたそうだ。
「えぇ……」
何も今やらなくても……などと自らの運の無さを呪う間もなく、人々は僕たちの前を横切っていく。
聞く限り名前と数曲しか知らないバンドだ。少し興味はあるが、とりあえず、すっかり折られてしまった話の腰と気持ちも一緒にプレゼントをリュックにしまった。
「す、すごいですね……今を生きてるって感じがします」
言い得て妙だ。
「潤さん、ちょっと混ざりたそうな顔してますよ?」
「え、本当ですか」
「はい。行ってみますか? 私もちょっと気になって――わっ」
笑顔を向けていた玲さんが急によろけた。どうやらバタつかせていた脚が誰かとぶつかったらしい。
「ちょっ……!」
後ろに倒れていく玲さんの背中に手を回す。……いや待て、これは。
ああ、ダメだ。これはダメだ。
こんな寒空で、こんなにいい日なのに、どうしてプラマイゼロになるようなことが起こるのか。
――バシャーン。




