ロスト・ファイターズ3
駅に着くと、僕と同じ目的と思われる男女の群れが改札前にどっとたむろしていて、急に足が重くなった。これから僕もこの仲間入りをするのだと思うと、改札がまるで文化の国境であるような気がして、ICカードがパスポートに見えてくる。
だが大衆の浮かれ気分にあてられてしまったのだろう、改札を出た瞬間に一八〇度景色が変わった。まるで勝ち組の楽園、選ばれし者だけが佇むことを許された天啓の地である。向かいにある店の服が全てドレスに、エスカレーターが螺旋階段に見える。まさにロマンだ。僕の努力が実を結んだのだ、と少し満足しかけて、太ももをつねる。早計だ。メインはこれからだというのに。
それくらいの熱気というか、未知の高揚感がじりじりと肌を焦がしている。なんだか感慨深いものがあった。僕もやっとここまで来たのだと、周囲に溶け込むように浮かれている。
見渡すと、まだ僕の目当ての人は来ていないようで、少しほっとした。携帯に視線を落とす人の群れに僕も混ざり、腕時計を見る。午前十時四十分。予定通りだ。玲さんはたぶん、二十分後に姿を見せるはずである。
そう、僕と玲さんは家の最寄り駅が同じにも関わらず、今日に限って目的地にそれぞれ集合することになっている。言うまでもなくあの二人が原因だ。
僕が玲さんから承諾をもらうと、棚町さんが「そうと決まれば準備が必要だな」とか言い出した。その『準備』とやらを、ももこさんが嬉々として引き受けていた。その『準備』が一体何なのかは、何故か僕だけ知らない。尋ねようとしただけでももこさんにものすごく睨まれたから、そこで引いてしまった。当事者であるはずの僕が蚊帳の外なのは釈然としないが、どうせ知ることになるだろうと思えばそれほど気にはならなくなった。たぶん僕が関わってもどうしようもないことだと思う。結果は出たのだから、あとは先のことに集中するだけでいい。
改札の中の、ホームに続く階段から次々と人が湧き出てくる。あとニ、三周もすれば、その中に玲さんの姿も見えてくるだろう。緊張に近い、病欠明けの登校初日のような、不思議な高揚感が胸を満たしてた。
改札から出る男女の群れがこちら側の男女の群れと合体する。それぞれが目的の人の前に向かい、「待ったー?」「いや、俺も今来たところ」などとパソコンで「ま」を打てば予測変換されそうな定型文を口にしている。本当にそんなことを口にする人がいるのかと、僕はそういう演技でも観ているかのような錯覚に陥った。
「……?」
ふと、改札を通る人の群れの中に、見覚えのある顔が見えたような気がした。
「ね、あの子すごい綺麗……」
「ホントだ。外国人かな?」
日本人らしいミーハーな会話をする近くの男女の見ている先が、僕と重なっていた。
美しい栗色の髪と、人混みの中でも一等星のように輝く笑顔。それがなんとなく僕に向いているような気もするが、自惚れるなと自分に言い聞かせる。だが何やら手を振っているようにも見える。僕に向かって。……僕に?
「潤さーん!」
見間違いではなかった。
ブンブンと手を振る玲さんが、周囲の視線を引き連れながらこちらへ向かってきていた。
「お待たせしました!」
「いえ、僕も今来たところで……」
言ってから、人のことは言えないなと思った。
少し前の僕ならそんな遣い古された言い回しをどうして好んで用いるのかと自分を棚に上げて揶揄していたところであるが、なるほど、この立場になってみると自分が根本的に間違っていることに気づく。好んで用いているのではなく、それしか口にできなくなるのだ。電車の中で緊張しながらあらゆる場面を想定し、シュミレーションを完璧にしてそれをなぞろうとしても、その人の姿を見るとそうして用意した一切合切が霧散していく。
その間、玲さんに集まっていた視線が今度は僕に向けられた。羨望に近いむず痒さがあって、それを向けてくる彼らが少し心配になった。彼女の目の前で他の女性に目移りしていいのか? まあ確かに玲さんはそれだけの輝きを放ってはいるが。そうやって他人と比べることで、少しでも心を落ち着かせようとしていた。
いや、冷静ではあるのだ。ただ玲さんを迎える心の準備ができていなかったから、正直言葉が見つからないと言った方が的確かもしれない。ただ待ち合わせている人が、ただ少し早く来ただけで、こんなにも動揺してしまう。これがデートというものか、と僕は身に刻み込んだ。
「潤さん、早かったですね」
「玲さんこそ……」
玲さんはメイド服ではなかった。ライトブラウンのチェスターコートと赤地チェック柄のスヌードが目を引くが、それでも普段の玲さんよりは数段地味だ。物足りなささえ感じる。メイド服という玲さんとイコールで繋がる要素がなかったがために、気づくのが遅れたのかもしれない。
しかし地味でも、物足りなくても、玲さんの素の魅力はそれらを補って余りある。いつか最寄り駅で注目を集めていたのはメイド服にではなく、こういうことだったのかもしれない、と僕は一人納得していた。具体的にどういった魅力かは筆舌に尽くしがたいところではあるが、そういった何かが玲さんにはあるということは周囲の人々の反応を見るだけ明らかである。
「……っき、今日は私服なんですね」
「え? ああ、これは」
玲さんはメイド服の裾を持ち上げるように、チェスターコートのポケットに指をかけて持ち上げた。中は白いセーターとギンガムチェックのミニスカートだ。いよいよ玲さんの面影がない。
「ももこちゃんが勝手に選んで勝手に着せたんですよ。私はメイド服で来るつもりでした」
『準備』とはそういうことか。ももこさん、グッジョブ。
「服だけじゃなくて、お化粧もしてもらったんです。私普段はそんなに凝ったりはしないんですけど。そのおかげで朝からバタバタしちゃいました」
苦笑いしながら頬を掻く玲さんは、確かにいつもより化粧が厚めだった。いや、厚めといっても普段の玲さんと比べたらということであって、化粧なんて生まれてこの方したこともない僕が少しも違和感を覚えないほどに、玲さんに馴染むようなちょうどよさが保たれている。ももこさんは化粧が上手いらしい。
「に、似合ってますね」
「え?」
自然と声に出ていた。一番驚いたのはたぶん僕だ。
だからといって、ここで引いてしまっていい理由にはならない。周囲のざわめきを都合のいいように解釈して、自分の背中を押させた。
「似合ってます。服も、化粧も」
「……あ、本当、ですか?」
「はい」
「あ……え、えへへ、なんか照れますね。なんか……嬉しいです。ありがとうございます……」
「いや……」
玲さんの顔が妙に赤くて、それが僕にも伝染する。社交辞令と取られてもいいような言葉を、玲さんは言葉の意味そのままに受け取ってくれたようだった。
次の言葉が見つからず、お互いに黙り込んでしまう。こういう時に言うべきことを、隣の男や、その隣の男は知っているのだろうか。
「とっ、とりあえず、どこか行きますか?」
そうこうしているうちに、先手を玲さんに取られてしまった。
何をやっているんだ……と、打ちひしがれる間もなく、僕はあることに気がつく。
どうにかそう見えないように繕ってはいるが、僕を覗き込む玲さんの顔はひどく強ばっていた。
緊張か、今僕が褒めてしまったから調子が狂ったのか。理由はともかくとして、僕は、どこか浮き立つ心を自分の中に感じた。
気持ちが動きかけてる――そう言ったのは棚町さんだ。彼を信じようとする僕の意思とは無関係に、その言葉自体が持つ引力が、僕の頭を面白いように引きつける。誰の口から発せられたとしても、同じように引きつけられる気がする。
その言葉に押された理想と、今の玲さんの様子が重なった。……ああ、なんだ。僕は、玲さんを見上げすぎていたのかもしれない。
「……はい、行きましょう」
僕が笑いかけると、玲さんは一瞬呆然として、すぐに溌剌とした笑顔を取り戻す。
いつもの玲さんに戻った。それが嬉しくもあり、どこか寂しくもあった。
午前十一時という時間も時間なので、僕たちはまず昼食を取ることにした。
「何か食べたいのありますか?」
「なんでも食べたいですね」
駅舎から横に伸びる長い通路の両端に設置された『動く歩道』に揺られながら、僕は玲さんの返事に苦笑した。
「それは反則ですよ……」
「ももこちゃんが言ってました。『今回は潤に任せておけばいい。奴ならやってくれる』って。……だ、だから、なんでも食べたいです。正直に言ったまでです」
「んー……」
なんてことを吹き込んでくれたんだ、と一瞬ももこさんを呪った。歯を見せて意地悪く笑うももこさんが頭の片隅に現れる。が、すぐに掻き消す。確かに僕が誘ったことだし、僕がエスコートするべきなのは道理だ。むしろ感謝すべきなのかもしれない。
とはいえ、どうしたものか。念のためジャンル別に調べていくつか見当をつけてはいるが、いざ入るとなると迷ってしまう。なんでも食べたいという玲さんの言葉を鵜呑みにするか、それとも実は食べたいものがあって言い出せないだけか。
僕が眉根を寄せてあるかもわからない正解を探していると、
「きゃっ」
不意に聞こえた悲鳴。玲さんが視界から消える。
一拍置いてから、状況を理解する。玲さんが動く歩道の終点で躓き倒れかけたところを、僕は反射的に腕を掴んで引き上げていた。
「だ、大丈夫ですか!?」
「あ、はい、大丈夫です……」
気の抜けた答えを返してくる玲さんは、とても顔面殴打の危機を回避したようには見えない。
「考え事ですか?」
「いえ、たぶん靴がいつもと違うから、慣れてなくて……」
足元を見ると、玲さんは確かにいつものブーツではなく、底の平らなムートンブーツを履いていた。
「ああ、なるほど……」
「あ、でも大丈夫です。もうちょっと歩けば慣れると思います。いや慣らします。それより潤さん……」
「はい?」
顔を上げると、確かに僕を呼んだはずの玲さんが何故か僕から目を逸らしていた。
「どうしました?」
「どうしましたとか、なんというか、その、えーっと、えー……この、あれです、その……」
「?」
「てっ……てててて、手が、その……」
「手? ――!」
気づかなきゃよかった。
僕の右手は玲さんの左腕を持っている。それはいい。一方の左手は、なんというか、回っていた。物理的に、こう……玲さんの、腰に。
「あっ!? すすすすみませんっ!」
「いえ、私が無用心だったから……」
尻すぼみになる玲さんの言葉と、上気したその頬が印象的で、僕の顔も、玲さんの腰を支えていた手も熱を持ち始めた。
初めて触れた。事故だし、服の上からなのに、異様なほど熱を感じた。その熱が離しても手に残っている。
「……早く行きましょう、潤さん」
「えっ?」
もじもじ、と体を揺らす玲さんの低くなった声のトーンが、僕の心臓を締め上げる。敏感になっている。
だが、
「い、いたたまれません……!」
「はっ! ああ! そうですね!」
追い越していく他の人たちの奇異の視線が痛い。そりゃあんな一連の行動を見れば誰だって何事かと興味を引かれるだろうよ。
「い、行きましょう」
まだ少し足が浮つく。そう簡単に本能は体を手放してくれない。
真っ赤な玲さんがついてきているのを確かめつつ、僕は動く歩道を避けて歩く。玲さんの身にまた何かあるのは心臓に悪いし、むしろ今の僕こそ玲さんのように体勢を崩しかねない。普通に歩いていて不安になるくらいには、今は自分の体の制御に自信がない。
左手が、何か言いたそうに熱いままだった。
僕は左だけ拳を握る。これ以上は後にしてくれ。今は目の前のことに集中するべきだ。この熱は、そのうちちゃんと考えればいい。その時また思い出せばいい。
ただ……。
玲さんの、この左手に預けられた重さが予想を大きく下回っていたことは、どうしても気になった。
「玲さん」
振り向くと、玲さんは口を真一文字に閉じたまま僕を見上げた。
「ハンバーグ食べませんか」
他にも選択肢はあっただろうに。
この時ばかりは、いつか店長のハンバーグを美味しそうに頬張っていた玲さんをひとえに恋しく、想いを馳せた。にわかに感じた不安を払拭するためには、ハンバーグ以外を選択する余地はないと思ったのだ。
「おぉ……」
向かいに座る玲さんが驚嘆しつつ、店の中をぐるりと見回した。
僕たちは動く歩道の通路を抜けて、少し歩いたところにある小さなステーキハウスを選んだ。小さい、のは間違いないのだが、そこはやはりおしゃれな街の筆頭に挙げられる土地柄のためか、とても肉料理を前面に売り出している店とは思えないほど小綺麗な空間だった。明るい木目調と要所の緑が目立つ、どちらかというとカフェのような内装だ。うちと看板を取り換えてほしい。
「綺麗ですね……本当にお肉出てきますか……?」
僕が考えていることと同じことを口に出す玲さんの目には、希望と疑念が混在していた。
「大丈夫ですよ。メニューはがっつり肉々しかったじゃないですか」
「確かに……」
神妙に頷く玲さんの後ろで、来客を報せるベルが鳴った。
スタッフがすぐにかけ寄り、入ってきた男女の客に何かを告げながら恭しく頭を下げている。客は苦笑いすると、踵を返して店の外に出ていった。
「……人気なんですねぇ」
「有名店らしいですからね。早めに入ってよかったです」
感慨深く呟く玲さんの視線の先には、道路に面したテラス席の柵に沿って並ぶ男女の列がある。先頭から一組ずつ入店してはいるものの、抜けた分が次々と機械的に補充され、列が途切れることはない。
実際、僕たちがここに来た時も、昼前にも関わらず入店まで十五分くらい並んだ。そういう層にうけて常にこれほどの人気なのか、クリスマスだからかは知らないが、若い男女の組み合わせが九割八分くらいを占めている。席も、それを見越してか九割八分が二人席である。
考えることは誰も彼も一緒ということだ。そこに自分も入っていると思うと、もう一段粋なことができなかっただろうかと己の引き出しの少なさを僅かばかり悔いた。とはいえ……。
「おぉ……見てください潤さん。このミル、岩塩って書いてありますよ。おっしゃれー……」
玲さんのこの期待と好奇心の滲み出る顔を見ていると、僕の選択はそれほど悪くはなかったような気もする。
僕のどちらかというと利己的な判断を、玲さんは意図せず「いいですね! そうしましょう!」とばかりに態度で肯定してくれる。僕が悔恨に苛まれても、一笑に付してしまう。そのおかげで僕の心の片隅には根拠のない自信が確かに芽生え始めていた。
ほどなくして、笑顔を貼りつけた痩身の男性スタッフが、肉の焼ける香ばしい匂いを振り撒くワゴンを押しながらやってきた。
「お待たせしました。こちらがデミグラスとおろしポン酢ですね」
そう言うと、僕の前におろしポン酢、玲さんの前にデミグラスの鉄板をそれぞれ置き、続けて平皿に盛られたライスを置く。
玲さんの目は案の定、それはもう一等星のように眩い輝きを放っていた。そして早速フォークに手を伸ばそうとしたところで、
「紙エプロンをご利用ください。せっかくの日にお召しものが汚れてしまうのは勿体ないので」
スタッフはどこからともなく取り出した二つの紙エプロンを、笑みを湛えたまま僕たちに差し出した。
少し呆然とする。すぐ我に返って会釈をすると、スタッフもまた頭を下げて、僕たちに背を向けて行ってしまった。
「す、すごいですね……」
玲さんは紙エプロンを手にした瞬間のまま、スタッフが行った方を向いて惚けていた。
なるほど、確かにすごい。正直驚いた。これがおしゃれな街のおしゃれなサービスかと畏怖した。あんなに翳りのない営業スマイルは――いや、実際は営業スマイルですらないのかもしれない。本心からの笑顔を意図的に引き出す特殊な訓練をしているのかもしれない。いや待て、それってつまり営業スマイルか。
ともかく、さながらホスピタリティの化身だ。己の上位互換のようなものだ。僕だって曲がりなりにも接客業をしているのだから、あの笑顔とサービスを提供することがどれだけ難しいか分かるし、今それを享受しているからどれだけ喜んでもらえるかが分かる。
でも、いやだからこそ、ほんの少し胸がざわついた。
「は、早く食べましょう。冷めちゃいます」
なんて器の小さい男なんだ。接客だと割り切るべきだということも、玲さんの惚けた視線が別段色づいたものでないことも、ちゃんと分かっているはずなのに。
「潤さん? どうしました?」
「な、なんでもないです、なんでも……」
歯切れ悪くはぐらかすのが精一杯で、そんな自分が恥ずかしい。
僕の言葉を鵜呑みにした玲さんは、嬉々としてハンバーグに目を落とし、ちょうどいい焦げ目のついたその表面にナイフを入れる。満面の笑みなのに、その笑顔は確実に僕と玲さんとの空間の中でのものなのに、僕はそれを素直に喜べずにいた。溢れる肉汁も、湯気も、目に見えるだけですぐに霧散する。
自分でも分かるくらい嫉妬深くて、それが情けない。あんな些細なことで……自分でも驚くほど、本当に小さなことで心が揺らぐ。アイルの時もそうだった。後ろにあるものを無視して、今起こっていることだけを切り取ってしまう。スタッフのあの言動は素晴らしいもので、同じ接客業として玲さんが憧れの視線を持っている、という、恐らく事実であろう別解を選べない。目の前で起こったことを単純な男女の構図に当てはめてしまう。
どうしても感じてしまう。
頭が恋に支配されている。
「おぉ! 美味しい! 潤さんこれすごいですよ! ちょっとあげます!」
玲さんは一口大に切ったハンバーグを、ソースが混ざらないよう僕のプレートの片隅に置いた。
深みのあるワインレッドに包まれた一切れに、僕の心は少し跳ねた。
「い、いいんですか?」
「はい! その代わり……」
玲さんの物欲しそうな視線が僕の手元に落ちる。
「……はは、了解です」
「いいんですか!?」
「もちろんです」
僕はハンバーグの端から数センチをナイフで切り離し、大根おろしと大葉を飾り、玲さんがしたのと同じようにソースが混ざらないよう、玲さんのプレートの片隅に置いた。
双眸に星を瞬かせ始めてしまった玲さんは、「ありがとうご〇※$△! □¥%#&〇$!」と言いながら僕の差し出した方の肉を口に放り込んだ。後半はもう何を言っているのか分からなかった。
「僕こそ、ありがとうございます」
いつもの調子の玲さんを見ているだけで、さっきまでのもやもやはほとんど晴れてしまう。我ながら単純な性格をしている。
だからこそ、こういう時は非常に助かる。冷静に考えれば尾を引いて不貞腐れるより、玲さんとのこの水入らずの時間を堪能する方が生産的で魅力的だ。そうするべきだと思うし、そうしたい。
玲さんからもらったデミグラスハンバーグにフォークを刺す。玲さんの食べっぷりは見た人の食欲を促す効果がある。まんまと影響を受けたせいで、元々空いていた腹が早く食べ物を寄越せと小さく鳴いた。
フォークを口に引き寄せると、ソースの豊潤な香りが匂い立った。
「んーっ! こっちも美味しいですねー!」
玲さんに目を遣ると、笑顔満点でライスを口に運んでいる。なんとなく、頬いっぱいにドングリを貯めたリスを思わせた。僕の眼前にある一切れがどこか特別なものに感じられた。
ゆっくりと、口に運ぶ。唇を閉じた瞬間に、ああこれは、と頬に小さな痛みが走った。
玲さんの様子も頷ける。疑いの目を持っているわけではないが、普段向かい合って店長の手料理を口にする機会がないからか、玲さんの反応が少し過敏に思えてしまっていた。だがそんな考えも吹き飛ばすくらいの、納得の美味しさだった。
……美味しさだった、のに。飲み込むと急に虚しくなった。たった一口、たった一口なのだ。それが特別だった。かといって、もう一度交換しませんか、なんてことはしない。正直したくてたまらないが、それをするとももこさんに怒鳴られる気がする。
「美味しい、美味しいですねぇ……」
もう既にハンバーグ半分プラスアルファを胃に沈めた玲さんは悦に入って、甘い息を吐いていた。
「喜んでくれたなら何よりです」
僕が言うと、玲さんはいつもの溌剌とした笑みで僕を見た。頬が赤い。
そして小さく、僕の意に応えるように頷いた。
それだけでもう、口の中のハンバーグの余韻さえも消し飛んでしまった。この笑顔の破壊力たるや。胃の底から湧き上がる嬉しさと床をすり抜けてしまいそうな浮遊感に戦々恐々としつつ、慌てて玲さんから目を逸らす。
ナイフを使うのも忘れて肉を切り、口に放り込む。
味がしないのはどういうことだろう。あのスタッフめ、謀ったな。
会計は僕が出そうとしたのに、玲さんが「私も出したいです! 出さなきゃ気が済みません!」と頑固なものだから、一割負担から徐々に上げていって結局四割負担で了承してもらった。元々格好つけようと思って多めにお金を持ってきていたのに、会計後あまり減っていない財布の中を見ると嬉しさと情けなさが同時に押し寄せた。押し返せていれば僕の小指の爪先ほどの男気にも箔がつくというのに。
口の奥にほろ苦さを感じながら店を出ると、冬らしい低い太陽が冬らしくない眩さで頭上にあった。喧嘩を売られているような気がした。
「少し歩きますか。この辺りは結構綺麗に整備されてるんですよ」
「おぉ! いいですね!」
すっかり上機嫌な玲さんが先んじて歩き始めたので、僕も慌ててその後を追って横に並んだ。
店からまた少し歩くと、地面がアスファルトから赤や茶のレンガで覆われた欧風の広場へ出た。一帯が同じように舗装をされていて、異国情緒というものを存分に醸している。
一際高くそびえるビルが建ち、その周辺を商業施設や路面店が固めている。それさえもレンガ造りだ。全体的に広場の中央を中心にしてすり鉢状になっており、その中央まで行けばビルの地下街にも行ける。所々にベンチや植木、ワゴンショップなんかもあり、それこそヨーロッパの街中の広場を彷彿とさせた。昼時だからか思っていたほど混み合ってはいないが、まあそこそこにごった返している。
「おぉ……」
やっぱり今日の玲さんはいつにも増していい反応をしてくれる。
「すごい、綺麗ですね……」
「すいません、人ばっかりで」
「いえ全然……」
忙しなくあちこちに目を配る玲さんの顔は晴れ渡っていて、僕の心配は杞憂に終わる。連れてくるだけでこんなに喜んでくれるのは子供か玲さんくらいではないか。
「あっ!」
僕がその声に反応した時には、発信元の玲さんはもう走り出していた。
「えっ、ちょっ、玲さん?」
人混みの隙間を潜り抜けていく玲さんはみるみるうちに遠くなっていく。僕はまた慌てて後を追った。
何度か人にぶつかりつつもやっとの思いで追いつくと、
「見てください潤さん!」
髪の乱れもそっちのけで、玲さんは天晴れな笑顔を僕に向けた。
「ど、どうしたんですか、急に……」
「見てください! すごいですよ!」
玲さんが指を差して、それこそ子供のように小さく跳ねる。
僕は軽く息を整えてから、言われた通り顔を上げた。
何が玲さんの心を踊らせているのかは、全く以て一目瞭然だった。
ツリーだ。僕たちの前には、まさに自分が今日の主役とでも言いたげに、巨大なクリスマスツリーがどっしりと佇んでいた。
「大きいですね……! こんなに大きなクリスマスツリー、初めて見ました……」
「それはよかったです。まあ僕も初めてですけど」
見上げるほどに大きなそれは、通常のツリーの数倍はあろうかという数のオーナメントと、頂点に相応しい輝きを放つ星が際立って美しかった。太陽はまだ昇っているのに、そこに鎮座するだけで周囲を聖夜の雰囲気一色に染め上げていた。
「綺麗です……」
玲さんが頂点の星のように表情を輝かせたまま、引き寄せられるようにツリーに歩み寄る。
鉢の幅を優に超えている下辺の枝はさながら屋根のようになっていて、その下にもまたオーナメントが吊り下げられている。玲さんはその屋根の下からツリーを仰ぐと、傍にあった赤いボールのひとつに手を添え、少し回してみせた。
その姿が、僕には妖精のように見えた。比喩だが、それはそれとして、それ以外に今の玲さんの神秘的な印象を上手く表す言葉がなかった。
玲さんがツリーに引き寄せられたように、僕もまた、妖精に唆されて心を奪われてしまった人間のように、玲さんの傍へ自然と向かっていた。
「なんだか幸せです」
玲さんは言葉通りの表情を浮かべて、深い赤色を覗き込んでいた。
「幸せ、ですか」
舞い上がりそうになる心を抑える。なるべく抑揚をつけないように、平然と。
「はい。潤さん、ありがとうございます」
「僕は何も……」
「いえ、潤さんが誘ってくれたからこうして幸せなんです。だから潤さんのおかげなんです。本当に」
僕は黙ってしまった。碌な返事も返せない。
僕も玲さんと同じ気持ちだ。玲さんが僕の誘いを受け入れてくれなかったら、僕もこうして玲さんの隣に立って、まだ満開とは言えない幸せを感じることもなかっただろう。僕からしてみたら、僕のおかげなどではない。今この時間があるのは玲さんのおかげだ。
……なんて、きっと玲さんも思っている。だから言葉にしてくれる。そもそも論で徳の擦りつけ合いを無言で繰り広げている僕たちは、たぶん周りにいるどんな男女二人組よりも幸せだ。
だから――
「玲さん」
「はい?」
「せっかくなので、買い物しましょう」
その幸せを少しでも膨らませるために、僕はももこさんから伝授された伝家の宝刀を抜かなければならない。抜くべきである。今宵がその時なのである。
幸い軍資金は十分だ。さっきは不覚を取ったが、天はここで挽回しろと言っている。玲さんの四割負担はこの時のための布石だったのだ。
そうして僕は、まだ何も知らぬ玲さんと連れ立ってデパートの中へ足を踏み入れた。
――クリスマスプレゼントという杯を懸けた聖戦の火蓋が今、切って落とされたのである。




