ロスト・ファイターズ2
「少女漫画……って、あの少女漫画ですか?」
「そうそう、あの少女漫画」
僕は耳に入ってくる言葉を何度も反芻して、その度に驚いてを繰り返していた。
「え、え……えぇー……」
「フフン、見慣れた反応だな、少年。確かにこの見た目で少女漫画家と言ってもなかなか信じてはくれないだろう。現に海外の入国審査では一度も『私は少女漫画家だ』と言って通されたことはない」
「じゃあなんで言うのよ」
「俺はあくまで少女漫画家であることを誇りにしている。それに自信もある。身分を偽ってその場を凌ぐ理由などどこにもない」
「いやあるじゃん。国に入れてないじゃん」
僕の中の違和感を置き去りにして、男――棚町さんは声高に笑う。
急に紹介されても、という戸惑いはひとまず置いておいた。店長がわざわざ紹介するような人が、この店に深く関わっていないわけがない。ということは、僕以外のこの場の人間が何も知らない、なんてことはまず考えられない。何かしらの意味のある邂逅であると、僕は自分の中だけでとりあえず結論づけた。僕も成長したものだ。
棚町さんは視線をももこさんに移した。珍しく縮こまっていたももこさんは、わずかに頬を染めて小さく会釈した。
「お、ももこも来てたのか。最近はどうだ、元気にやってるか?」
「……ま、まあ、ぼちぼち」
「何、あまり芳しくないのか? なんだよ、だからいつも俺に相談しろって言ってるだろ。お前は少し他人に慎重になり過ぎるところがあるからなあ。困ってることがあるなら何でも……」
「大丈夫、大丈夫だから! 順風満帆だから! ホントに!」
大股で近寄ってきた棚町さんを、ももこさんは両手で制する。しかし制してはいても、体は仰け反り、顔も何故か僕の方を向いていて、しかも満更でもなさそうに赤い。どうにかしろと訴えられている気もするが、嫌ではないのなら手を出すだけ野暮というものだ。
「で、今日は何しに来たのよ? まさか本当に寂しかったの?」
店長が嫌味ったらしく言うと、棚町さんは真っ白な歯を見せながら、
「ご無体だな。用がなければ店に来ちゃいけないのか?」
「少なくとも一杯くらい注文してくれなきゃ、できるだけ帰ってもらいたいわね」
「む。それもそうだな」
店長がカウンターの上にメニューを広げると、棚町さんは素直に腰掛けた。一方で、おもむろに隣に座られたももこさんはひっそりと棚町さんとの距離を取っていた。素直じゃないなあ。
「では、コーヒーをいただこう」
「ブラック?」
「もちろんだ。男らしくストレートに」
「そんなんでよくその仕事できてるわ……」
店長はメニューを下げると、踵を返してキッチンに入っていった。
取り残された僕と、さっきからストローに口を縫いつけて顔を伏せているももこさん、そして異様に眩いオーラを放つ棚町さん。店長が抜けたあとのこの布陣は、僕にとっては酷だった。切り出す話題もなく、もやもやと言葉を模索するフリをしながら、皿とふきんに手をかける。
「この店も相変わらずだな。商売っ気がない」
誰にともなく放った棚町さんの言葉を、僕はそれに心の中で同意を示しつつも、聞こえない体で流していた。
たぶん、自分とは一線を画す棚町さんの雰囲気に気圧されている。ももこさんの、いつもは小気味よく辛辣な言葉を放つ口も今は真一文字に閉じられている。そういう要素が相まって、どうにも口が重たい。棚町さんを見ると、その目は少しつまらなそうに店内を流し見ていた。それに僕は安堵した。ああ、まったく。いつか自分が社交的などという自己評価を下したことが恥ずかしい。
「あ、亮司さん! お久しぶりです!」
ももこさん越しに、快活な声が届いた。
トレイの上に崩れそうなほどの皿や器を抱えた玲さんが、棚町さんにいつもの溌剌とした笑みを向けていた。棚町さんも「おー玲! 久しぶりだな!」と軽快に答える。とりあえず玲さんに感謝だ。
「今日はお休みですか?」
「たまには顔を出さねばと思ってな。人は簡単にものを忘れる生き物だ」
「亮司さんを見て忘れる人はいないですよー」
言いながら、玲さんはよたよたと普段の半分くらいの歩行速度でカウンターに回り込もうとしている。
カタ、カタと歩を進める度に不安を煽る玲さんを見かねて、僕は上半分の器をごっそりとその手中から奪い取った。
「あ、すいません……」
「いえいえ」
なんて言いつつ、奪った分を流し台に置くと、血が顔に集中するのを感じた。立派なことじゃないか、よくやった、今のはファインプレーだぞ、と前向きな僕が耳もとで囁く。そうではないのだ。つまり僕の、こういうささやかなことしかできない肝の小ささがいけないのだ。もう一回りくらい大きければ、今年のクリスマスくらい軽い言葉で独占できそうなものを。
「り、亮司さん! 何か食べますか? お腹空いてそうですよ?」
「いや、さっき食べてきた。ステーキを二枚。そんなに腹を空かせてるように見えるか?」
「いや、えっと……」
僕に続いて残りを流し台に置いた玲さんが、何故か急に話題を振って撃沈していた。ていうか棚町さんは本当に何しに来たんだ。
「そ、そうですか。あ、じゃあ私、ちょっとお掃除してきますね!」
少し上擦った声を紛らわすように、玲さんは早足にカウンターを離脱して、そのまま逃避行のように外へ出ていってしまった。
行って、しまった。玲さんこそ、こういう時に上手い具合の空気を作り出してくれる人だと思っていたのに。いや、いつか「頼ってくれ」と大見得を切った僕が玲さんを頼ろうとしてどうするんだ。僕だって店員の一人だろうに。僕だって……と、思いながら、一方では挙動不審だった玲さんのことを気にしていた。
僕にだって、今の玲さんの尋常ではない様子が僕のせいだということはわかる。ただあの様子がいいものか悪いものかに関しては、悔しい限りである。判別がつかない。だからこそ、そこに甘んじて僕は頭の中だけで早急にいい方であるという結論を出そうとする。真実の前では無意味であるかもしれない、自分勝手な結論を。心の水底から湧き上がる不安を押し込めるにはそうする他ない。きっとあれは照れ隠しだ。そうに違いない。
「ふむ」
同じく玲さんの行方を見ていた棚町さんが呟いた。
「なるほどなるほど。ははー、そうかそうか。よし、よし」
神妙に何度も頷き、満ち足りた顔で僕に振り返る。
「少年、名前は?」
「も、百瀬潤です」
「潤か。いい響きだ」
道を歩いていれば一日に二、三回はすれ違いそうな名前だと僕は自負している。
「ところで潤、お前は玲のことを好いているな?」
予想以上に鋭さのある。
「な、何故……」
「わかりやすいからな。異様に」
この状況で動揺せずにいられるのなら、そいつを今すぐここに連れてきてこの先の言葉を代わりに聞いてもらいたい。
事実は常に残酷だ。とりわけ今日は特に残酷だ。店長と棚町さんに僕の恋慕が筒抜けだったというワンツーパンチの前に僕の膝は瓦解寸前だった。知られていたことのショックよりも、僕のこのどうしようもなく隠し果せることのできない能力の低さを呪った。仕事が仕事ならばあるいはにべもなく解雇となっていたかもしれない。
「まあ、間違ってはいないですけど……」
「そうか。では進展のほどは?」
「……いや、まあ、ぼちぼち」
「童貞か?」
ももこさんが盛大にむせた。これは酷い。
「な、なんで急にそんなこと……」
ももこさんにティッシュを差し出しながら棚町さんを見ると、恥ずかしげもなく言い放った顔が妙に興味津々という色を発していて、背筋が凍った。この人は僕の何が聞きたいのだろう。ただ弄んでいるだけなのか、それとも少女漫画家という奇異な職分を活かして相談にでも乗ってくれようというのだろうか。どちらにせよこの人に頼むという選択肢自体僕の中では既にあってないようなものだった。僕は棚町さんの言葉から逃げるように、ももこさんから受け取った使用済みティッシュをゴミ箱へ――
「俺が協力してやる」
捨てようとしたところで、つい手を止めてしまった。
「この棚町亮司が協力してやる。初めにそう言っただろう」
「……」
白状しよう。
僕はその言葉に魅力を感じてしまった。それまでの棚町さんに対する一切が無に帰して新たに塗り替えられそうになるくらいには、僕は一瞬でその言葉の虜になっていた。それだけ僕も、今の状況が火急であることは知っている。
この人の表皮から放出される熱量と胡散臭さが、店の空気に溶けて充満していた。知らず知らずのうちにそれを吸い込んでしまったら最後、脳髄まで支配される。
棚町さんは笑う。どこまでも根拠のない自信に満ちた笑みであるのに、その後ろには僕に見えない大きな何かが渦を巻いているように思えた。その姿が、なんとなく店長と重なった。
ドアベルに背中を押されて外に出ると、玲さんが竹箒を持って一心不乱にわずかな落ち葉を掃いていた。
「玲さん、あの」
「はいっ!」
呼びかけただけでそこまで驚かれるとは思っていなかったので、僕も少し声が詰まる。振り返ってくれたのは幸いだった。玲さんの恐る恐るといった表情を見ているおかげで「あ、僕はここまでじゃないな」と安心できる。しかし何に玲さんがこんなに怯えているのかは甚だ疑問である。
「掃除は僕が代わりにやるので、玲さんは中をお願いします」
「え、でも……」
「棚町さんが積もる話があるって。久しぶりに会ったんだし、少し話してきてください」
「い、いいんですか? 外寒いですよ?」
知っている。だがそんなもの百も承知だ。
「大丈夫です。僕陸上やってたので、寒さには結構強いんで――っぶシュンッ!」
「痩せ我慢にしか見えないんですけど……」
「だ、大丈夫です。本当、全然」
「手が震えてますよ……」
僕がその手を差し出すと、玲さんはしぶしぶ竹箒をそこに置いた。元植物とは思えない冷たさが掌を貫いた。
「れ、玲、さん」
僕は竹箒を、手の震えが止まるくらい力一杯握る。それで震えは止まった。
止まるのだ。この凍てつく寒さが震えの原因ではないから。
「あの……ちょっと相談が……」
そうだとしても、やはりそう簡単に思うようにいくはずがない。手の震えは止まっても口が思い通り動くとは限らない、というのは、今やってみたからわかる。難易度の問題ではない。恐らく僕の場合は頭の中の構造的に無理なのだと思う。
玲さんはすこぶる怪訝な顔をして、僕の言葉を待っている。しかし彼女の顔を見る時間が経過するのに比例して、僕の心臓の一つ一つの鼓動が肋骨に直撃しているのではと錯覚するくらい強く感じる。青春の甘さなどそこには微塵もなく、暴力的なまでに、そして僕の意思とは関係なく、ただ僕の決断しかねている心を阻害する。
ああ、ダメだ。これ以上は肉体的にも、精神的にも限界だ。
そう思いかけた時、どこからか病的に熱い視線を感じた。
棚町さんとももこさんがカーテンの隙間から僕のことを覗き見ていた。
「っ……」
「潤さん?」
緊密な空気が流れているからか、玲さんはそこに生じたわずかな綻びさえも見逃してはくれなかった。
「あ、いや……」
「相談って……?」
「……それは、その」
少しだけ距離を詰めてくる。それが嬉しいのか嫌なのかも今の僕にはわからない。
戸惑う哀れな僕を三人が一斉に見ている。矢のような視線のいずれにも応えることができそうにない。たった一言を口にすれば良し悪し関係なく結果は見えてくるであろうに、そのたった一言さえも鼓動に邪魔されて喉を上がり切らない。
その時、棚町さんの口が動いた。
一瞬僕の惨めな姿を見て我慢できず吹き出したのかとも思ったが、その目は変わらない熱量で僕を見据えていた。何かを訴えかけようとしている。そして言い終わったのか一度口を結ぶと、今度はゆっくりと、そして声が聞こえてきそうなくらい大袈裟に、一文字ずつ口を動かす。
「――!」
わかってしまった。僕は読唇術の才能があるかもしれない。
萎れかけていた自信が水を与えられ、再びの精神的支柱となって僕を支える。
僕は意を決した。それをするに足る外的(?)要因は、さっき棚町さんから確かめた。それが今目の前に転がっているのだから、あとは僕がやるかどうかだ。
「玲さん」
僕の語気の変わりように、玲さんの肩が少し跳ねた。
「……は、はい」
「……クリスマス、なんですけど」
この世界の何もかもが、僕を追い立てるように静けさを生んでいる。唯一忙しなくしているのは僕の心臓だけ。玲さんの光を集めて流し込んだような瞳も、今はじっとその中に僕を捉えている。
一度言おうとして、口ごもる。もう言葉は口の中にある。あとは吐き出すだけ。
「一緒にどこか行きませんか」
心臓が止まった。ような気がした。
「え……」
豆鉄砲を食らった鳩顔の玲さんは、変わらずに僕のことを見続けている。珍しくその真意は掴めない。
「クリスマス、ですか?」
「はい」
「誰が?」
「玲さんが」
「誰と?」
「僕と」
「みんなで?」
「……っふ、二人で」
漠然とした嫌な予感が胸中に満ち始める。この問答が向かっているところは、いい方に予測できない。現実と理想の反応にギャップがありすぎる。
「え、っと……」
玲さんは俯いた。何を迷っているんだ、とは思う。たった一言で見えてくるのは、僕が結果に対して一言で出現してほしいという僕の利己的な考えそのものだった。ともかく、答えは欲しくもあり、欲しくもなかった。僕の心を支えていた自信などもうどこにもなかった。いっそ今の一連の流れそのものが時間の中から欠落してしまえばいいとさえ思った。
「……お、お誘いは嬉しいです。本当に」
その言葉に偽りはない。玲さんはいつだってそうだ。
その先は僕でもわかる。もう耳を塞ぎたい。
「でも私、イブも当日も仕事で――」
ぴたり、と時が止まったように、玲さんは固まった。いや元々大して動いていたわけではないが、呼吸を感じさせなくなるというパントマイムのような固まり具合に僕は困惑した。
「玲さん……?」
呼びかけても返事がない。と思いきや、大きな音に驚いた猫のような速さで顔を上げた。意外にも、その両の頬は一際色の濃い秋の夕暮れのように火照っていた。
そして何より、夕焼け空の中に浮かぶ太陽のような双眸が、一心にこちらを見ていた。
吸い込まれそうなほど綺麗であったが、その視線の意図がさっぱりな僕は、照れ隠しの意味も込めてなるだけお茶目に小首を傾げた。
「……ちょ!」
「?」
「……っと、て、店長に、聞いてみます……かね」
真っ赤な顔でたじろぐ玲さんは目を荒れ狂う大海原に泳がせながら、何やら自問自答している様子だった。そして結論が出たのかこくこく、と頷くと、駆け足で颯爽と店の中へ戻っていってしまった。
取り残された僕は無論玲さんの今の様子についていけていないから、呆然と立ち尽くすしかない。見ると、棚町さんとももこさんはすこぶる悪趣味な笑みを浮かべていた。それが僕の今の状況を見てか玲さんの行動を見てかはともかく、その意味するところが僕にとって悪いものではないということは容易に予測できる。いつも僕の軟弱加減に頭を抱えているももこさんが珍しくにやついているのだから、彼女が僕の後ろ盾である限り、その笑みが指し示す事実は僕にとっても悪いものではないはずだ。
そう自分に言い聞かせ、玲さんを待つ。「待っていてください」とは言われていないが、置いていかれた僕が何をすべきなのかは推して然るべしだ。
そう、僕は待っている。玲さんと、正確に言えば彼女が持ってくるかもしれない僕の期待に応える結果を。
誘った時とは異なる緊張感があった。もしくは高揚感と言い換えてもいい。僕のターンは終わったのだ。玲さんを追いかけたところで、僕は玲さんが手にした回答に何ができようか。むしろそこはもう僕が立ち入る領域ではないようにも思える。玲さんが僕の心を写し込んだ言葉に対してどう思うかを見届けるために、僕はここで竹箒を持って立っている。その義務が僕の双肩にはあるのだ。
しばらくすると、ドアベルが鳴った。玲さんが真っ赤なまま俯き加減に出てきて、ちらちらと僕を見る。
「あ、あの――」
「シフト、大丈夫でした」
僕の声を遮った玲さんは、一度も僕に目を合わせることなく僕の目の前までやってきた。
「亮司さんとももこちゃんが代わりに入ってくれるって言われました」
「じゃあ……?」
頬は紅より赤くなるものなのかと感心した。
「えっと……よろしくお願いします」
できるだけ恥ずかしい心音は見せないように、というのが、体よく言えば僕の美学、俗に言えば僕の見栄であった。
たぶんこの時、僕は初めて、歓喜に押されて表情を隠すことを忘れていた。本能が理性を上回ったのだ。嗚呼人生よ、素晴らしきかな。天は僕に味方をしてくれた。僕がやってきたことは間違いなどではなかったのだ。感動にも似た喜びが、足の裏からせり上がってくる。
――だから、他のしがらみなどは一切、頭の中から消え去っていた。
結局僕は、自分勝手なままだった。たった三十分前に握らされた運命の轡に、喜びに塗れた僕が意識を向けられるはずがなかった。
「とにかく誘えばいいんだよ」
「は?」
あまりの大雑把さに、僕は反射的に語気を強めていた。
「誘えばわかる。考えるより行動だ。今の潤にはそれでいい」
棚町さんのいまいち中身を伴わない指南が、彼のただならぬ雰囲気に押されて「ち、ちなみにどうすれば玲さんをクリスマスデートに誘えますか……」なんて口走ってしまった僕をものの数秒で後悔の念に沈めつつあった。
棚町さんは店長が今さっき置いていったコーヒーを啜り、うん、うんと頷く。
「有料だったらいくら安くてもぼったくりですよ……」
「失礼な。俺は事実を述べたまでだ。なあ、ももこ?」
急に振られたももこさんは仏頂面ながらも、少し頬が染まっていた。
「……この人は、あたしを少女マンガの世界に放り込んだ張本人よ」
「人聞きが悪いなあ。またサイン書いてやろうか? ん?」
「……考えとくわ」
棚町さんがももこさんの師匠というのはどうやら本当らしい。こんなに頭の上がらないももこさんは初めて見た。
「とりあえず聞いときなさいよ。そこら辺のエセ占い師にお金払うよりよっぽど生産的」
「それ、褒めてるんですか?」
「褒めてるわよ」
ももこさんが顔を背けると、棚町さんが僕にウインクをしてきた。表現はともかく、ももこさんがこんなに他人を持ち上げるのは新鮮で、少し滑稽だった。確かにどこぞのストーカー占い師に比べたら棚町さんの方が断然マシではある。
しかしながら……まあ、棚町さんのことをよく知りもせず先走った僕も僕だが、正直棚町さんの助言はそのまま丸めて川に流してもいいくらいのものだ。今時の小学生の方がまだ有意義なお言葉をくれそうである。棚町さんの言葉と雰囲気の虜になっていた僕は既に消え去った。
「俺はこれでも恋愛を描くことを仕事にしているからな。人よりはそういう感情に聡いつもりだ」
ただ、こうして不敵な笑みを絶やさない棚町さんは、その滲み出る自信故か、言葉の節々に妙な説得力があった。つい「なるほど」と頷いてしまいそうになる。
「でも、少女マンガってほぼ理想ですよね?」
「現実を知っているから理想が描けるんだよ」
「その現実って一般的に女性のものでは……」
「そもそも、今までももこのことを散々頼ってきて、その師匠である俺を頼れないなんておかしいだろう?」
ぐうの音も出ない。
ももこさんの言葉を鵜呑みにして今のところ上手くいっているであろう僕が、その師匠であるという棚町さんを頼らないというのはいささか愚行である、というのはある。しかもそのお師匠様が直々に僕に手を差し伸べてくれているのだから、これほどの僥倖はない、とも思う。普通なら。
「……百歩譲って棚町さんを頼ったとして、初っ端に「とにかく誘え」なんて言われたら、頼りようがなくなりますよ」
「……ふむ。確かにそうだな。お前が俺のことを訝しむ気持ちはよくわかる。俺もよく職務質問されて実際に絵を描いて納得してもらうことがあるからな」
「え!? そうなの!?」
ももこさんが完全な円形に近いくらいにまで目を丸くした。
「そうだが……お巡りさんが『娘が喜びます!』とか言って嬉しそう絵をポケットにしまってたぞ」
「そんな……」
「娘さんの名前も入れてあげた」
「どうしてそんなに安売りするのよ! あたしは我慢してるのに!」
むしろどうしてそこだけストイックなのか。
「ともかくだ。少なくとも潤、お前が真摯に誘えば、きっと玲は承諾してくれるはずだ。信じろ」
己の信憑性の話に警察が出てくる人間を無条件に信用できると一体誰が思うのだろうか。お天道様が「いいよ」と言っても僕はそう簡単に懐柔されない。
「そこまで言うなら、せめて根拠が欲しいです」
「根拠?」
「僕が誘って玲さんが承諾する根拠ですよ。まるで確約されているみたいな口振りだから、その背景は何なのかを知るのは当然の権利だと思います」
「……根拠、か」
そら見たことか。根拠の提示を求めた瞬間に棚町さんは黙ってしまった。
「根拠なら、まあ……強いて言うならお前だな」
「はい?」
と思ったら、今度は意味不明なことを言い出した。
「お前だよ、根拠は。お前が今までしてきたことが根拠だ」
「……どういうことですか?」
「おいおい、そこまで言わなきゃわからないのか? 」
僕は柄にもなく苛立ちを覚えた。この人は僕の何を知っているというのか。僕からは自身の詳しい情報を口にしたわけではないし、だとしたらさっきの今で僕のことを理解したとか? それこそ胡散臭い超能力者じゃあるまいし。
露骨に感情が出ていたのであろう、棚町さんは僕の顔を見るなりお得意のにやつきを見せた。それが本当の嘲笑のように思えて、不快感が募る。
「お前がこれまで玲にしてきたアプローチは、全部徒労だと思ってるのか?」
「え?」
棚町さんの表情と声が相反していて、戸惑った。
「だとしたら、まあ、お前がそう思うならそうなのかもしれないな」
「ち……違いますよ! そんなわけないじゃないですか!」
「だろう? 俺もそう思うんだよ」
雲を掴むような会話だ。これほどまでに何の生産性も感じさせないコミュニケーションがこの世に存在したとは。
「だからさ」
棚町さんは笑う。
「お前が今までしてきたことは、無駄じゃないんだよ。お前が思う以上に、玲の気持ちは動きかけてる。だからお前が根拠なんだ。もっと自信を持て」
棚町さん独特の、熱を持った言葉だった。
かなり抽象的で、どこか嘘くささがあるのに、まるで事実を引き寄せるような引力がある。
ももこさんが棚町さんを持ち上げるのも、棚町さんが僕に単純明快なアドバイスをしたのも、何より玲さんの様子が少し変だったのも、そういうことだったのかと半ば強制的に納得させられてしまう。そんな僕に都合のいい解釈でさえ、疑いを持つ前にそうだという厳然とした事実が目の前にあるように感じてしまう。僕の自分勝手な結論が棚町さんによって事実になったのだ。
魔法だ。もう魔法以外の何ものでもない。そうして気がつけば棚町さんの言葉を僕の心の支柱として取り込んでいるのだった。安い人間だと自分でも思う。しかし僕が欲しかったのはまさにこういった自信の拠り所であったようにも思う。結局、僕は自信を持っているという自信がなかったのかもしれない。僕が自信を持って玲さんを誘うのに足りなかったもう一歩を、棚町さんが後ろから押してくれた。
「でもさ、シフトの問題はどうするの?」
せっかく安堵に浸っていた僕の頭をももこさんが現実に引きずり戻した。
「シフト?」
「イブも当日も、二人ともシフトに入ってるんだって。本っ当、自業自得っていうか――」
「なら俺とももこが入ればいい」
「は?」
ももこさんはまた目を丸くした。
「俺とももこが入ればいい」
「はあ!? ちょっと待ってよ、急に……」
「い、いいんですか?」
まさに斜め上の発想である。もちろん、代わりに入ってくれるのは願ってもいないことだが、本職における休日の概念があやふやな二人が、仮にも年末の二日間をそれ以外に割くというのは、物理的に難しいはずだ。
「いいんだよ。それが結果的に玲のためになるなら、俺は喜んでそうするさ。ももこもそうだろ?」
「……まあ」
二人の顔は前向きだった。ももこさんも、棚町さんに頼まれたから仕方なく、という風にしてはいるが、たぶんそれとは関係のないところに理由がある気がする。
玲さんのため。
どれだけ玲さんは、この人たちに影響を与えているのだろう。僕の想像もつかないところで、玲さんを中心に世界は回っている。世界の中心たりえる「何か」が玲さんにはあるのだ。
人が他人のために身を削る理由は、恐らく二極化する。相手からの対価があるか、自分自身からの対価があるか。この二人に関してはきっと後者に近い。自己満足と言い換えてもいいが、それよりもっと己を捨てた、そういう概念を超越したものが、原動力になっている。それをさせるだけの「何か」を、玲さんは持っている。
「……ありがとうございます」
頭を下げずにはいられなかった。玲さんのためになる、という希望を、二人は僕に託してくれた。
責任感よりも不思議と喜びの方が大きい。背負っているのに、それは重荷になるのではなく、僕も同意見であると、揚々として踏み出すに足る力が漲ってくるようであった。きっと僕も、玲さんを中心とした世界の一員になりつつある。
「ただし、忠告がある」
ふと、棚町さんが僕に囁いた。
「俺はお前に懸けてる。ももこもだ。そして何より真中も。レインダンスに来てからのお前をみんなが信じてる。だからこそ、お前は自分の肩に乗っているのが何なのかを考えなきゃいけない」
棚町さんの顔からは笑みが消えていた。声も、言葉も、熱さがない。
懸けてる、だなんて。それじゃあまるで、僕が玲さんと上手くいかなきゃ全部おしまいみたいだ。
「だから潤、絶対に玲を悲しませるな。裏切るな。もしそれをしたら――」
当たり前ですよ。
棚町さんが言い終わる前に宣言しようとしたことは、すぐに霧散した。
「――真中は、たぶん、お前を許せなくなる」
何が真実で、何が嘘なのか、棚町さんの言葉をその二種類で判断するのは難しい。ただ、棚町さんを信じた僕の頭と湯が冷めたような棚町さんの声は、それを真実へ着々と近づけていた。
何か言わなければ。そう思った僕を、「すみませーん」という声が遮った。
「し、少々お待ちください」
何を言おうとしたのか、自分でもわからない。
ただ、カウンターを出る時に見えた棚町さんの異様に険しい表情が、少し名残惜しかった。




