ロスト・ファイターズ1
雪が雨に変わった。
それは単純な気温の上昇だろうか、それとも季節の変化だろうか。ともかく、なるべくしてなった。そんな、冷たい雨。
手に降った凍りかけの粒は、体温で完全な水滴となり、僕の表皮をなぞるように落ち、地面へと吸い込まれていく。
ひとつ、またひとつと染み込むそれらは、僕のもとではないどこかで形を成してひとつの生命体を創り出すように、僕を経てそこに集まっていた。
あるいは、僕がそれらをこの手で受け止めようとしているからかもしれない。そういった摂理に、僕が手を出したいだけなのかもしれない。そこに降るはずの雨粒を握れば何かが変わるかもしれない。そう思って、手を伸ばしては、肌を伝って落ちていく。
それは、運命だった。
落ちる場所は変わっても、地面に吸い込まれることに変わりはない。その末路に対して僕はあまりにも無力で、無知だ。
寒い。
空気ではなく、この手に落ちる雨ではなく、僕の体の、どことも言えぬ部分が、そこにあったものを丸ごとくり抜かれてしまったように、空虚な寒さを感じている。
見ると、夥しい数の雨粒が、空から降っては僕の前を過ぎ、無惨にも地面と同化し、泥となる。
それのひとつも、僕は救い出せない。いや、そんな運命を「悪」だと決めつけ、救おうと考える僕の思惟が「偽善」なのかもしれない。それらは僕に対して語りかける術を持たない。是か非かも、それらは運命について語ることはない。
ただ僕は、それらが運命に身を任せているのを見ていられなかった。僕の手で、行く末を変えてやりたかった。
空を仰ぐ。雨は僕の顔を伝って、体を流れ、また地面へと帰結する。
諦めることは、できそうにない――
「あー、もうすぐクリスマスねー」
「はい、クリスマスですね」
「……」
ももこさんが緊張感なく放ち、玲さんが復唱したその言葉に、僕の体は氷の張った冬の湖に投げ込まれたように固まった。
ももこさんが僕にチラチラと目配せしている。何かを促しているようだ。僕はそれをまるで気がついていない体で流しながら、忙しなく皿を拭き続ける。十五枚を三回ローテーションし終えて、次は四回目だ。磨きながら光を反射する皿の中に時折、一歩半隣にいる玲さんの穏やかな笑みが映る。
「ねえ、潤はさ、なんかしないの? クリスマス、どうせ暇でしょ?」
「い、いや、えっと……」
汗が頬を伝う。暖房はほどよく室温を保っているのに、僕の体温は急激に上がる。胸のあたりが何かに下から押し上げられて、苦しくなる。そんな僕の様子を、ももこさんは不気味に微笑んで見ていた。その表情に覆われた内心が荒れた海のように穏やかではないことは知っている。それが僕のせいであることも。
「玲は?」
「んー、一応お仕事の予定なんですけど」
僕を見限ったももこさんは、標的を玲さんに変更したが、玲さんの答えを聞いてすぐ、目だけで僕を睨んだ。言わんとしていることは伝わってくる。それが僕への誹謗であることも。
ももこさんは鼻でいっぱいに息を吸い、それに気だるさを混ぜて勢いよく口から吐き出した。
「どうかしましたか?」
「別に……。かわいいわね、クリスマスバージョンのメイド服って」
「おぉ! わかってくれましたか!」
明らかにいい加減なはぐらかし方なのに、玲さんは嬉々としてスカートの裾を両手でつまんで、体を右に左にと捻ってみせた。それにあわせて扇形に広がるスカートの部分がひらひらと揺れる。
クリスマスが近いということで、玲さんのメイド服はいつものモノトーンカラーではなく、深みのあるワインレッドを基調とした上品なものになっていた。玲さんが持っている裾には白いファーが二段についていて、肩にはその服と同じテイストのポンチョを羽織っている。襟やそれを締めるリボン、袖口は十字架をモチーフにしていて、玲さんの容姿も相まって、まるで異国の高貴な城に仕える侍女のようだった。……なんて、たぶん僕は逃避している。
「自信作なんですよー! それを見抜くなんて、やっぱりももこちゃんはさすがですね!」
「あ、そうなんだ。いや別に褒めただけなんだけどね」
ひらりひらり、と視界の端で揺れる艶めいた布に気を取られて、僕はつい玲さんを見てしまう。
同じタイミングで、玲さんも振り向いた。一瞬きょとんとして、それからすぐ、優しい笑みがこぼれる。息が詰まった。まともに愛想笑いもできない。自分でも嫌になるほどのぎこちなさで無理やり口角を押し上げて、鳴り止まない鼓動を包み隠そうと玲さんから目を逸らす。
やはり怪しかったか、玲さんは腰を曲げて僕の顔を覗き込んだ。その追撃に対抗して、僕もさらに顔を背ける。三回くらいそれを繰り返すと、玲さんの方が折れた。僕の勝ちだ。いやどこがだ。
「すいませーん」
「はーい」
フロアからの呼び出しがピリオドを打った。玲さんは僕を訝しそうに見ながらも、カウンターから出る頃には溌剌とした笑みを引っ提げていた。
「おい」
高音なのにドスの効いた味のある声だ。その一言には情報量がありすぎる。それはもう、彼女が今どんな顔をしているのかさえ手に取るようにわかる。だから見ない。
「……はい」
僕は素直に皿とふきんを手放し、ももこさんの前に移動した。
「何が『どうせ暇でしょ?』だよ。どうせ暇でどうすんだよ」
「いや、それ聞かれたの正直僕もなんか不満で……」
「そんな同情してくださいみたいな顔してもダメだから。自業自得だから」
ももこさんは大きく嘆息して、カウンターに置いてある小さなクリスマスツリーの飾りを指でつついた。
「まったく……。だから早く誘えって言ったのに。クリスマスデート」
あえてその名を口にしたのは、僕を萎縮させるために違いない。
玲さんだけでなく、店内は一様にクリスマス仕様になっている。入口近くには毎年活用しているという、僕より少し小さいくらいのそこそこ大きなクリスマスツリーがあって、オーナメントの数々が暖色の光を受けて反射している。壁や窓、テーブルやカウンターに至るまでが小物やリースで飾りつけされ、ハロウィンの時のそれが物足りなく思えるほどだった。店長の気合いの入りようが窺える。まあ飾りつけをしたのは今回もほとんど僕と玲さんだが。
そんな折に、ももこさんは僕に囁いたのだ。「クリスマスに玲をデートに誘え」、と。
そう簡単に上手くいくはずがない。上手くいってしまったら、それはそれで困る。誘えと言われてじゃあ誘いますと二つ返事で行動に移せるわけがないし、仮に移せたとして、聖夜の予定を埋めてしまったことに対してプランの用意やら心の準備やらが上手く進むわけがない。いや夜とは限らないけれども。とにかく、言われてすぐに誘えるのなら、ももこさんに言われずとも誘っているはずだ。
もちろん、僕だって宗教には緩い日本人のはしくれだから、クリスマスが目前に迫る中で、特別思うところがなかったわけではない。ただ決心はそれとはまた別物で、思うだけ思っておいて 正直、玲さんの方から何かはたらきかけてくれるのを期待して待っていた節もあった。そんな希望的観測に身を委ねること自体甘すぎるというのに。そういう意味では、ももこさんのおかげでスイッチが切り替わったとも思える。ただ始動が遅い。すっかり様変わりした店内の雰囲気までもが僕を急かしているように感じる。
「簡単に言いますけど、逆にできると思ってるんですか?」
「なんで逆ギレ気味なのよ。できるできないで考えるんじゃなくて、自分の手で掴み取るくらいの意気で行けってことよ。やらなきゃ何も始まらないわよ」
「もっともなこと言わないでくださいよ。僕には僕のタイミングがあるんです」
「じゃあ来世に期待するしかないわね」
「いくらなんでも死ぬまでには決めますけどね?」
「どうだか」
ももこさんはカフェオレをグラスの半分ほどまで吸い上げると、粘っこい視線を僕に向けた。
「玲への気持ちを大事にするんでしょ? 言っとくけど、大事にするってことは『危険に晒さず腹の中であたため続ける』ってことじゃないからね?」
「そ、そんなことは……」
言われなくてもわかっている。ストーカー騒動後に心に決めたのは、玲さんへの気持ちを糧にして前に進むこと。そのために自分を信じること。自分の選択を信じること。そのはずだ。要は考えるより行動。行動してこそ意味がある。行動しなければ無いも同然。僕自身が行動した方がいいと思っている以上、この気持ちを額縁に入れて飾っておくなんてことはできない。
そうやって頭で考えても、実際に行動に移すには理屈とは別に、度胸がいる。それはたぶん、経験値や自信を含んでいる。そしてそこに僕自身の手が届いているかというと、首を縦に振れない。
「ま、別に玲自身はクリスマスだろうがなんだろうが関係ないみたいだし。あんたの問題だから最終的にはあんたが決めればいいと思うけど」
「決めるっていうのは……?」
「誘うかどうか」
「そこから言われちゃうと、着々と進んでた心の準備ゲージがばっさり減っちゃうんですけど……」
「たかだかスポイト一滴分くらいしか溜まってないのに?」
今日のももこさんの舌はとても好調だ。たぶん僕が完全に劣勢だからだろう。自分のせいだけど。
そうして僕が辟易していると、ぽんぽん、と肩を叩かれた。反応して振り向くと、頬に何かが突き刺さった。
「あら? 潤ちゃん大丈夫? ちょっと古いイタズラだったかしら?」
痛みのあまり頬をおさえて蹲った僕を見下ろす店長からは、悪気の欠片も感じられなかった。何気ない顔で、僕を餌食にした人差し指をくいくいと動かす。爪が刺さったとかではなく、本当に木の棒か、あるいは鉄パイプが骨にまで響いたような感覚だった。些細なイタズラなのに威力が高い。生まれたばかりで加減を知らないサイボーグか。
「仕事はいいの?」
「休憩よ。働き詰めじゃあアタシもさすがに疲れちゃうもの」
「そんなとこ見たことねぇー」
「見せてないだけよ。で、何の話してたの?」
店長は不敵な笑みで僕とももこさんを交互に見ながら、奥から持ってきたらしい丸椅子に腰かける。店長の体躯で一本足の椅子が軋む。
「恋愛相談」
「へぇ、ももこもそういう話ができるようになったのね」
「あんたの中のあたしはいくつで止まってんのよ……」
「アタシからすればアンタも玲もずーっと子供だからね。それで? 誰の恋話?」
「そこのヘタレ」
顔を上げると、顔だけひょっこり出したももこさんと店長が僕を見ていた。目の前で僕を抜いて僕の話をされるのもいい気はしないので、鈍く痛む頬をさすりながら立ち上がる。
「玲のこと?」
「そう」
「そうです……いやいやいや」
危うくももこさんに引っ張られるところだった。
「ちょっと待ってください、なんで店長が知ってるんですか? 僕言ってないですよね?」
「え、逆にアタシが知らないといつから錯覚してたの?」
無力だ。僕はなんて無力なんだ。
「残念ながら、潤ちゃんが初めてウチに来た日からお見通しよ」
「ど、どうして指摘しなかったんですか……?」
「なんか言っちゃうと潤ちゃん調子狂っちゃいそうじゃない。玲みたいなのが二人になったんじゃアタシの手に負えないもの」
「はぁ……そうですか……」
「ま、潤ちゃんって結構わかりやすいしね」
自分の口からは何も言っていないのに、他人から自分の恋心を察されること以上に羞恥心を感じることがあるだろうか。少なくともこの世には存在しないのでは、なんて思うくらいには今の僕の調子は狂っていた。
ただ、いつかももこさんに指摘された時のように、恥ずかしがって勢いのあまり否定するなんてことはもうなさそうだ。今は幾分か余裕がある。それはたぶん、僕自身の玲さんへの気持ちに対する態度が変わったから。他でもない僕が自信を持つことができたから。気の持ちようだったということだ。何もかも。
……それにしても、店長はどこまで僕のことを見通しているのだろうか。このいやらしい笑みを見ていると、自分の言葉で身を守ろうとしても徒労に終わってしまいそうだった。
「で、どういう話? アタシも混ぜてよ」
調子よく興味津々に訊いてくる店長。なんだかこの人の掌の上で転がされている気分だった。
「それは……」
僕は言い淀んでももこさんを見る。何一つ計画を進められていない僕がそのことを口にするのはなんとなく憚られた。それに別の理由も少なからず。
ももこさんは大きく嘆息して、カフェオレのストローを咥えながら心底面倒くさそうに、
「クリふマふ」
「へぇ。潤ちゃん、玲をデートに誘うの?」
「いや、まあ……はい」
ももこさんが何ら気にすることなく口にするものだから、僕は苦笑いをするので精一杯だった。じんわりと手に汗が滲む。
恐らく店長は、玲さんのことを家族同様に思っているはずだ。保護者的立ち位置だとして、僕がその家族の一人とクリスマスなどという浮かれたイベントに連れ出すことを果たして店長が許すだろうか。よく考えれば、店長にとっては長い間玲さんのいないクリスマスなんてなかったかもしれない。そこから玲さんを、僕みたいな冴えない男が連れ出してしまっていいのだろうか。
「いいんじゃない?」
「はい?」
その言葉の意味を理解する前に、声の明るさが予想を裏切った。
「い、いいんですか?」
「うん。何、そんなに驚き?」
「いや、そんな浮ついたことは許さん! とか言われるのかと……」
「アタシは玲の何なのよ。別にアタシが介入することじゃないし。それに……」
店長はずいっ、と顔を近づけ、吟味するように僕の目を覗き込む。自分の怯えた顔が店長の水色のカラーコンタクトに映り込んでいた。
「アタシも、まあ、潤ちゃんのこと応援してないわけじゃないしね」
こうも、あっさりと……。
人の思考を揺らすのが上手くできるものだ。
一瞬のうちに、強い後ろ盾を得た気分だった。別に何をしてくれるとは言っていないのに、頼りたくなる。特別な力でも持っているのかと錯覚するほどに。
「……ありがとうございます」
「あ、でもね。クリスマスにデートするなら、ちょっとお互い困ることがあるんだけど」
「?」
店長は人差し指でつつい、とキッチンの裏手にあるロッカーの方を指差した。こちらに向けられているロッカーの側面には、紙の束がクリップで挟まれて貼りつけられていた。
あれは何かと、考えたのも一瞬。何の変哲もない、ただのシフト表だ。店長と玲さんと僕の三人分しかないシフト表。
「あ」
そこでようやく、店長の言わんとしていることがわかった。
「イブも当日も、シフト入ってるのよね、二人とも」
「はあ!?」
ももこさんが鬼の形相で立ち上がった。と思いきや、すぐにするすると力なくへたり込む。
「……甘かったわ。あたしもあんたも。なんでさっき気がつかなかったんだろ……」
頭を抱えるももこさんを見て、僕はようやく事の重大さを認識し始めた。
クリスマスが当日に差し迫った今、こんなそもそも論で躓くことになろうとは。土を耕さないまま種を撒いたところで良質な果実は成らない。頭の中が玲さんでいっぱいで、いっぱいになり過ぎるあまり根本的なことを忘れていた。
「ど、どうにかなりませんかね?」
「んー、ちょっと厳しいわね。両方とも予約が入っちゃってるから、二人はいてもらわないと」
「そんな……」
「ていうか予約の電話受けたの潤ちゃんだしね」
「僕は……! なんてバカなことを……!」
「いや仕事だから。そこはやってもらわなきゃ困るから」
油断していた、どころの話ではない。気持ちが変に先行してしまっていたから、その分ショックが大きい。
右往左往しつつ、助けを求めてももこさんを見るが、
「もうあたしにしてやれることはないわね。来年頑張れば?」
と、冷たく突き放されてしまった。
ここまで来ると、もう後悔の念しか湧かない。玲さんを誘うとか誘わないとか以前に、下準備もまともにできないなんて、自分が情けなくて涙が出そうだった。
「まあ、せめて誰か代わりがいるならいいんだけどね……」
あからさまに肩を落とす僕を見兼ねたのか、店長はあくまでも協力的な姿勢を見せてくれている。だがそんな都合のいい人間がいるなら、さっさと店長が切り出してくるだろう。つまりそんな暇人はどこにもいないのだ。そうして万策尽きる。僕のささやかな希望がいとも容易く砕け散った。
「仕方ないでしょ。もう切り替えた方がいいわよ。店の中では一緒にいられるんだし」
「そう簡単に折り合いつかないですよ……」
「大して準備もしてなかったやつが何言ってんのよ。いつまでもめそめそしてんじゃ――」
「そうだッ! ポジティブシンキンッ!」
ももこさんのストローの先が僕に向けられた瞬間、異様に野太い声がドアの方から聞こえた。
その声に聞き覚えはなかった。しかしその声だけで、持ち主がどういう人間かは瞬時にわかった。大方間違ってはいないと思う。
振り向くと、そこには店長と同じくらいか、あるいはそれ以上の体格の堂々とした偉丈夫が立っていた。浅黒く焼かれた肌に、笑っているせいで圧倒的な存在感を放つ白い歯が輝いている。
「い、いらっしゃいませ……?」
「うむ!」
そのあまりにも堂々とした出で立ちに、店員であるはずの僕は思わず引いてしまった。こんなに自己主張の激しい来客は初めてだ。冬なのに半袖のTシャツを着ているだけでなく、席に着く素振りさえ見せることなく僕のことをじーっと見つめている。ギラギラとエネルギーを漲らせている二つの瞳が直射日光のように熱くて眩しい。
「少年よ。俺にはわかるぞ、君のその苦しみが。誰しも一度は抱えるものだ。それは君の人間らしさの証に他ならない」
「はあ……」
「だからこそ! ここは俺が直々に! 君のために力を貸してやるぞ! ハハハ、こんなに幸運なことは――」
「暑苦しいわよ、アンタ……」
男から発せられる凄まじい熱気を、店長が冷ややかな視線で封じ込めた。
「おお? なんだ真中じゃないか。今日も暇そうだな?」
「そう言うアンタこそ、随分と暇そうじゃない。月刊誌だと案外余裕があるのね」
「月刊ではない、隔週だ。それに俺は器用な男だからな。時間くらいいくらでも作れる」
「じゃあわざわざ時間作ってウチに来るほど寂しかったのね」
やいのやいのと言いあう二人は、少なくとも初対面というわけではなさそうだった。しかしお互いに刺々しい言葉の応酬を繰り返しているあたり、別段仲がいいわけでもなさそうだが。
まだ見ぬ常連客だろうか。ももこさんのように、何かの都合でしばらく来店できなかった類の人かもしれない。ともかく、店長と言いあえるだけの年季が入っていることは確かだ。
しかし、この男が一体誰なのかは皆目見当もつかない。体格からして何か体を使う仕事をしていそう、とは予想できるが。
「ももこさん、あの人……」
誰ですか? と問おうとして、やめた。何故かももこさんは、あの男に少しうっとりしている様子だった。普段は微塵も感じることがないからか、その眼差しに少しだけ羨望が混ざっていることは瞬時にわかった。
「あの人はね、あたしの師匠よ」
カフェオレを吸い上げながら、ももこさんは揚々と告げた。
どのあたりがももこさんの師匠なのだろう。ああ見えて病的に踊りが上手いとか? ももこさんと男の共通点を探し出そうとするも、見れば見るほど別の生物なのではないかと思えてくる。
「ごめんね潤ちゃん、急にこんなやつに絡まれて驚いたわよね」
「あ、いえ。別に」
ケリがついたらしい店長は、僕に苦笑いを向ける。男の方は何故か満足そうに胸を張っていた。
「一応紹介しておくわね。この人は棚町亮司」
「真中の親友だ!」
「違うんだけど。この通り暑苦しいやつだから、どうか見逃してね」
「わ、わかりました」
「あ、それと今の仕事はね、少女漫画家」
「へぇ、そうなんで……ん?」
妙に違和感のある単語が聞こえた。聞き間違いも疑ったが、どの単語を聞き間違えればそう聞こえるのか。
「よろしくな、少年!」
この熱さからはかけ離れすぎていて、現実さえ疑いそうになる。
この時ほど人は見かけによらないのだとつくづく思ったことはない。その数秒後には、どうして少年漫画じゃないのかがにわかに気になり始めていた。