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占い師は月の夢を見る アフター

 男は結局警察に行くようなことはなく、翌日にはもう玲さんの隣の部屋を出ていった。

 とはいえ、身寄りのない男にとって、部屋から追い出されることはホームレスになれと言われるようなものなので、結果的には店長の友人宅に預けられることになったらしい。らしいというのは、もちろん僕が男の姿をあれ以降見ていないからで、ももこさんから聞いた話を鵜呑みにしているからだ。好きこのんであの男に会いたいと思うようなことはない、と思う。たぶん。

 玲さんもすっかり調子を取り戻した。あれから三日経ったが、玲さんからはもうあの弱々しい、触れると崩れてしまいそうな脆さは感じなくなっていた。いつものように溌剌とした笑顔を輝かせながら、洗い物をしたり、掃除をしたり、客にコーヒーをかけたりしている。

「カフェオレです」

「ありがと」

 日常に戻ったといえば、そうなる。危機が去ったといえば、まあそれも間違いない。

 僕はカウンターに座って早速カフェオレを飲むももこさんの淡白な感謝を受け取ってから、小さく息をついた。

「湿気たツラしてんじゃないわよ。不味くなるじゃない」

「それは……すみません」

 三白眼で僕を睨むももこさんは、喉の奥で少し唸ってから、「けっ」とつまらなそうに吐き捨てた。

「も、ももこ、百瀬さんは仮にも店員さんだよ……」

 そのももこさんの隣に座る黒髪で穏やかな雰囲気の女性――新田さんが、あわあわとももこさんの言動に慌て、僕に「すみません……」と陳謝してきた。僕としてはいつものことなので、「いえいえ」とこともなげに返す。新田さんがレインダンスに来たのは今日で二回目だった。ため息をつきながらコーヒーを啜る彼女を見ると、案の定ももこさんに振り回されていそうでつい同情してしまう。

「いいのよ別に。こいつの諸行動のイニシアチブはあたしが握ってるから」

「どういう関係なの……」

「そういえば潤。あんた、玲に手出してないでしょうね?」

 ストローを咥えながら詰問してくるももこさんの目は、異様に鋭い光を放っていた。

「出してないですよ。それどころじゃなかったですもん」

「まあそうよね、あんたヘタレだし。そうじゃなきゃあんたの家になんか泊まらせたりしないし。信頼信頼」

「信頼信頼」

「……ねえ、あんたさ」

「はい?」

「何かあった? 気味悪いわよ?」

「え、そうですか?」

 あのももこさんが心配そうな声と顔を僕に向けていた。僕は一体どんな顔をしていたのだろう。

 僕は冴えない頭をリセットするように外を見た。寒色が染め上げる昼下がりの景色に、雪がほんのりとちらつきはじめていた。

 フロアの奥から「おぉ!」という歓呼の声が耳に届いた。玲さんだ。こっちでは十二月の半ばに雪なんて珍しいから、思わず声が出てしまったに違いない。近くの窓のカーテンの隙間から外を覗く玲さんは、無垢な少女然としていて、その表情には外の様子とは違って晴れ上がった空のように雲ひとつなかった。

「おーい」

 呼ばれるがままに、僕は玲さんからももこさんに目を移した。

「あんた本当に大丈夫? マジでどうかしちゃったんじゃない?」

「そんなことないですよ」

「あるわよ。その皿いつまで拭いてんのよ」

「えっ」

 見ると、僕の手にはふきんと、鏡のように輝く一枚の皿。

「……いつからですか?」

「あたしのカフェオレ出してから」

 僕は手に持った二つを台の上に置いて、眉間を揉み、嘆息した。

 危機は去ったし、日常にも戻った。年末が近くなるにつれて徐々に忙しくなっているのを除けば、外面上は普段のレインダンスに戻っているし、僕たちもそれに準じていつものように仕事に勤しみ、ももこさんたちは店を訪れ、こうして他愛のない会話をしている。

 ただ、この間の一件を経て、僕の感情には変化があった。

「まったく……いろいろあって一安心、って時にやめてよね、そういう不穏な感じ」

 そうだ。あの一件を経た今が意味するのは、危機の回避であり、日常への回帰だ。大きな爪痕を残すことなく、いつものように世界は回りはじめた。――外面上は。

 これは、僕がそうしようとしない限り外界に表出することのない、この世界にとってはきわめて小さな変化だ。しかし僕の中では、世界中の白が灰色に塗り潰されたかのような変化だった。

「つまり、僕もあの男と同じなんですかね」

「は?」

「え?」

 驚くももこさんと目があった。そして心の中で呟いたことを声に出してしまっていたことに気がつく。

「あの男って、アイルのこと?」

「あ、いや……」

 間違いない。が、そんな話題をふるつもりは毛頭なかった。

「何よ、あんた自分で他人事じゃないなんて言っておいて、今さら後悔してるわけ?」

「いや、後悔というか……」

 不安だった。

 あの時は、あの男――アイルが僕と同じ行動原理だったことに気がついて、理解不能な行動を起こしていることに対する恐怖が消えた。ただそれはあくまでその場しのぎに過ぎず、もしかすると僕は、自分が正義を背負っていると勘違いしていたのかもしれない。なんだ、僕と同じか、なら恐れることはないじゃないか、と。だが一方では、確かに僕がアイルの立場になっていてもおかしくはなかったわけで、冷静になって今一度考えてみると、僕のこの玲さんに対する感情に対して強く是と頷くことができなくなっていた。正義なんてどこにもないように思えた。

「何が正しいのかわからないというか……」

 それが起因して、僕はこんな性分だから、常々考えてきた玲さんの過去や、ももこさんや店長との関係を考えることに及び腰(・・・)になって、一直線に玲さんのことを見られなくなっていた。それはまさに、白が灰色に変わる感覚。混じり気のない感情の、僕が気がつかなかった脆い箇所から次第に腐っていく感覚。そうして侵食され、次第に感情は形を変えていく。

「僕は玲さんを好きのままでいていいんですかね……」

「……急に何言ってんの?」

「あの男のことを思い出すと、やっぱりどうしても悪い方向に思えてきて……」

「それは、あんたもアイルみたいになるんじゃないかってこと?」

「……」

 僕は頷けなかった。変容は確かに起こっているのに、僕自身はそれを認めたくない。認めたくないのに考え、思い込むほどに望む形からは遠ざかり、意思に反して灰色に変わっていく。自業自得とも呼べるスパイラルは、もう僕の手に負えなかった。

 それは鋼のようなものだと思っていた。決して揺らぐことのない強い感情だと思っていた。なのに、こうしていとも簡単に、容易く、別のものになりかけている。

 もしかすると、あのアイルという男自身、こうした感情の変容があったのかもしれない。僕には終始感情が歪んでいたとは到底思えなかった。何かの拍子に、アイルの元来持っていた感情に腐食が始まって、あんな形にしてしまったのかもしれない。

 三日間、悶々と考えていた。そして考える度に、自分が得体の知れない何かに成り果てていくような恐怖を感じた。

「――バっカじゃないの?」

 それは、腹の底に重く響いた。

「え……」

「違うじゃん、全然。あんたがアイルとか、何言ってんの」

 平坦な口調で、ももこさんはじっと僕の目を見ていた。

 少し間があったあと、ももこさんの大きな瞳が水面のように揺れた。

「……木登りが苦手だったのよ、あいつ」

 ももこさんは記憶の中を探るように、少しだけ目を伏せた。

「『学園』の庭にあったブランコの近くに、大きな木があってさ。よく登って遊んでたんだけど、あいつだけ登れなかったのよ。それをあたしたちはバカにするんだけど、あいつはいつも強がって登ろうとして、結局いつも途中で諦めるの。もう無理だー、助けてーって」

 氷が解けはじめたカフェオレを、ストローで一周混ぜる。

「あいつはあんな髪の色してて、大仰な言い振る舞いするけど、気弱でさ。昔はいつも泣いてた。ていうか、泣かされてた。あたしに。それでも強がるのよ。でも度胸なんてないから、いつも空回りする。その中途半端なのが本当に嫌いでさ、あたし。たぶんあいつを一番泣かせたのあたしなのよね」

 自嘲気味に笑ったももこさんは、組んだ腕をカウンターに置いて前かがみになった。顔が見えなくなった。

「でもたぶん、いや、こじつけなのかもしれないけど、あんなに中途半端なのは、外からの影響なんだと思う」

「外から?」

「そう。つまりは、まあ、なんていうのかな……――親、とかさ」

「……そういうことですか」

 ももこさんは小さく頷いた。

天谷(あまや)アイルっていうのが、あいつの名前。ハーフで、母親がイギリス人だったかな。でも夫婦仲はすごく悪かったらしくて、どうにもならないからって『学園』に預けられたの。あたしの聞いた話では、親のくせに自分の子供を嫌ってて、結局離婚したんだけど、どっちも引き取るつもりはないから施設に預けようって話だったらしいわ。とてもじゃないけど、まともな親じゃなかったって。そりゃ性格も中途半端になるわ」

 下唇を噛むももこさんは、まるで自分のことのように話していた。

 感情の変容どころの話ではない。もっと根源的で、もっとどうにもできないことが、アイルの中を埋め尽くしていた。僕が僕自身をアイルの姿に重ねて、勝手に恐怖していることが馬鹿らしくなった。

「だから、あいつが玲をストーカーしたのは、たぶんその性格が原因。気弱で強がりばっかの性格が災いして、自分を連れていったあの変態野郎にも立ち向かうことができなかった。我慢して我慢して、それが限界になった時、玲を見つけた。玲は、『学園』にいた頃はアイルをバカになんてしなかったし、あの頃は今より暗かったから、昔とのギャップがあって、まるで聖女とか、そんな感じに見えたんだと思う。だから『好き』というよりは、『畏敬』とかに近いのかな」

 ももこさんは憂いて穏やかな声音でそう結論づけると、ふと顔を上げて僕を見た。

「別にアイルを擁護するわけじゃないけど、今思えばあいつにもそれなりの理由があって、どうしようもなくなっちゃったんだと思うのよ。本当に、今だからわかるわ。いろいろと偶然が重なって、こんなことになってしまった……」

「……」

「つまりさ。あんたは別にアイルと同じじゃないし、あんたとアイルが抱えているものも、その質からして違うってことよ。だからあんたとアイルが同じだとかってのは、本当にバカげた話。あんたの後ろ盾であるあたしが言うんだから間違いないわ」

 断言とは裏腹に気迫が感じられないももこさんは、左手で頬杖をついて息をひとつ吐いた。

 アイルにとっては自分と、自分の中にあったはずの玲さんの姿が、今の玲さんとあまりにもかけ離れていた。停滞していた自らの現実が、自らの手が及ばないところにあった現実に屈して、異常なまでに憧憬を抱いてしまった。それが、アイルの一連の行動の原動力だった。そしてそれは僕が玲さんに対して抱いている感情とは、ベクトルは同じでも、恐らくまったくの別ものだ。

 すっ、と澱のようなものが心から抜け落ちていった。まるで漂白されたようだった。うだうだ考えていたのを嘆くくらい、不安は跡形もなく消え去っていた。だが同時に湧いてきたのは、やるせなさ。一方的に悪だと思い込んでいた相手がどうしようもない事情を抱え込んでいたことに対する、後ろめたさ。

 ももこさんは僕を確かめるように一瞥すると、視線を右に滑らせた。

「でもね、あんたが他人事じゃないって言ってくれてよかったとは思うわ」

「よかった、ですか?」

「実際は違うけどさ、でもそのおかげでちょっと冷静になれた。あー、こいつにも事情あったっけなーって。それはまあ、お礼言っとくわ」

 ももこさんの顔が紅潮した……のも束の間、すぐ別人のような仏頂面になった。

「で、あんたが今思ってるような、アイルに対して申し訳ない、とかそういうのは、限りなく無駄なことよ」

「なっ、何故……」

「この間と同じ顔してる。後悔してる顔。あんなことするんじゃなかったなーって顔」

 ももこさんの目は侮れなかった。言われて初めて気がついた。僕は今、後悔している。

「意味ないわ。過去は過去。それで終わり。あんたがそれに対してどう思おうとあんたの自由だけど、それを知らなかったあんたがアイルを追い詰めたのはある意味必然。あんたはあんたの意思に従っただけ。結果オーライなのよ」

「でも……」

「それを後悔するのはともかく、立ち止まるのは、今を否定するのと一緒よ。あんたの選択がなければ『今』はなかったかもしれない」

「それは……」

「そういうことよ。解決して、アイルのことを知って、そうだったのか仕方ない。それでいいじゃない。選択の結果ってそういうものでしょ。もう少し自信持ちなさいよ。うじうじ悩むな」

 棘のあるももこさんの声は、しかしどこか温もりを内包していて、その熱が凝り固まった僕の後悔を溶かしていった。

 店長にいつか言われたようなことを、ももこさんにも言われてしまった。情けない。僕には自信がなかった。自分の選択を、あらゆる結果が伴ったとしても肯定できる自信が。そうして勝手に後悔して、あまつさえ勝手に立ち止まってしまう。最悪な手だ。自分の選択を受け入れることを知らず知らずのうちに拒んでいた。

「……ありがとうございます」

「?」

 玲さんのように、思ったことがそのまま口から出ていた。

 お礼を言われる覚えなんてない、という顔のももこさんを、今度は僕が一瞥して、視線を落とした。

「何が?」

「……今回はももこさんに頼りっきりで、玲さんといろいろあった時も、そのあとも、そして今も、ももこさんの力がなければ、僕は何もできなかったと思うんです。ももこさんの力がなければ、僕はきっとまた自分勝手に悩み続けた」

 今回、状況を打破する一手を提案してくれたのはももこさんだったし、それらはすべて結果的にいい方向へと傾いた。僕の独断で進めていればまず間違いなくこうはいかなかったと思う。そして今も、僕のことを気にかけてくれた。でなければ僕は、いつまでも前に進めなかったかもしれない。

「ありがとうございます」

 僕は純粋に、ももこさんの差し伸べてくれた手に報いるために頭を下げた。本当にももこさんさまさまだと思う。今この時だけは、玲さんと出逢ったことと同じくらい、ももこさんと出逢ったことが大きな意味を持っているような気がした。

「やめてよ、なんか……気が狂うわ」

 見ると、ももこさんは不機嫌そうに口を尖らせつつ、やはり頬を赤くしていた。

「照れることないよ、ももこ。百瀬さんの言うとおりだと思うよ」

 そんなももこさんの頬を、新田さんが意地悪な笑みを浮かべながら人差し指でつついた。

「ちょっ……! 新田! あんたはいつもそうやって……」

「かわいいなあ、ももこは。うふふふふ」

「気持ち悪っ! あんた本当に気持ち悪――だからつつくな! ほっぺを! 指でっ!」

「……」

 僕は目の前の光景に呆然としていた。新田さんはなんて恐いもの知らずなんだ。勝手に同情していたことが恥ずかしい。

 時に、今日の二人の服装はかなりカジュアルで、ももこさんはニットのワンピース、新田さんもPコートに膝丈のスカートを穿いている。この前後が仕事という雰囲気でもなさそうだし、オフの時まで一緒にいるとなれば、それはそれで僕は新田さんに対して見込み違いをしていたということになのかもしれない。

「そういえば、百瀬さんのこと、ももこからいつも聞いてますよ」

 ももこさん弄りをやめる気配がない新田さんは、一転して柔和な笑みで僕を見た。

「僕のことですか?」

「はい。もちろん、玲ちゃんとのことも」

「そ、そこまで?」

「あたしが相談してるのよ」

 ももこさんは頬に埋まっている新田さんの指を握って引き抜くと、くっきりと痕がついた箇所を優しく撫でた。

「……それって、新田さんの受け売りってことですか」

「違うわ! 相談役にも相談役が必要ってことをあんたはわかってない!」

「そうなんですか?」

 僕が新田さんの方を向くと、

「ももこは不器用だから」

「おい!」

 新田さんの安穏とした微笑を見て、なんだかこれ以上ももこさんを追い詰めるのは酷な気がした。

「でも、よく話してくれてます。あれがダメだ、これがダメだって厳しくダメ出しすることもあれば、あれは惜しかった、この調子ならいけるって、まるで自分のことみたいに言う時もあって」

 顔が熱くなった。同時にももこさんの頬も再び赤みを帯びていた。新田さんの標的は誰なんだろう。

「それを聞いてて、私結構感心してます。百瀬さんは本当に玲ちゃんに対して一生懸命で、ももこもそんな百瀬さんの背中を押すのに一生懸命で。話を聞いてると、まるで学生時代に戻ったような気分になるんです」

 新田さんの浮かべた苦笑にはわずかに寂寥が滲んでいたが、すぐ大人しい微笑みに上書きされた。

「その感情は大切にした方がいいと思います。それは他の誰かのものじゃなくて、紛れもなく百瀬さん自身の、百瀬さんだけが感じ取れるものです。百瀬さんがそれを感じなくなってしまえば、その感情はこの世から消えてなくなります。脆くて、儚くて、でも、だからこそ綺麗なもの。恋ってそういうものでしょ?」

 そのとおりだ、と反射的に思ってしまうくらい、新田さんの言葉は強く胸の中で響いた。

 そうだ。僕は恋をしている。

「くっさいわねぇ……」

「新田さん」

「はい?」

「師匠と呼ばせてください」

「ちょっと待て! あたしの立場!」

 もし仮に、僕の決定が僕のすべてを決めるのだとしたら、それは特権である以前に自由という鎖に巻かれた窮屈な人生だ。

 そういう意味ではなく、僕の人生を豊かにするための選択。数ある選択肢の中から、自らの選びたい道を選ぶことが、僕の内側にも外側にもあれこれ作用して、「僕の人生」というひとつの道を作る。思いどおりになるかどうかではなく、選択をして巻き起こることの是非や喜怒哀楽、後悔をも含めたすべてこそがひとつの選択。その拠りどころで、最後に大きな力を持つのは、他でもない僕自身だ。

 だから僕は、僕を信じるしかない。今僕の中心にあるのは他でもない玲さんへの、僕だけの想いだ。それに責任を持ち、信じて、前に進まなければならない。僕がこの店で働くことを決意した理由を思い出せ。玲さんを想う僕だから、僕の選択で、玲さんを――

「ったく……新田、そろそろ帰るわよ。ほら、今日のコーヒー代はあんたでしょ」

「えー、私ならまだいいじゃん、どうせももこ明日も暇だし」

「突っ込まないから。あたしそんな安売りしてないから」

 二人のやりとりを微笑ましく思いながら、新田さんが差し出した千円札を受け取り、レジで会計をしてお釣りを渡す。その頃には二人ともマフラーを巻いていた。

「ごちそうさまでした」

「じゃあ、また。玲もじゃあね」

 気がついた玲さんが元気に手を振るのを見てから、新田さんはドアを開けた。

「あ……」

 新田さんが漏らした声に反応して外を覗くと、雪がさっきよりも強くなって、辺りに白い絨毯が敷かれつつあった。冷えた空気が店内の空気と混ざった。

「大丈夫ですか?」

「大丈夫です。傘は常備してるので」

 そう言って、新田さんはバッグから折りたたみ傘を二つ取り出し、片方をももこさんに手渡した。さすがマネージャー。

「では」と新田さんが先に出て……ももこさんが、閉まりかけたドアを体で止めた。

「ねえ、潤」

「何ですか?」

「……」

「? ももこさん?」

「何でもない。また来るわ」

 ももこさんはマフラーを口もとまで引き上げて、一度だけ僕を見た。気まぐれか、言おうとしたことを忘れたのか、どちらにせよももこさんにしては珍しく歯切れが悪かった。

 ただ、出ていく直前。

 ドアが完全に閉まる前にふと見えたももこさんの表情は、本格的な冬の寒さに凍てついたように悲哀に満ち、暗い業火に焼かれたように悔恨に満ちていた。

 気づけば、僕はももこさんの身の上を想像していた。ももこさんの言ったことが真実なら、彼女もまたそういう(・・・・)子供の一人だったということになる。そして同時に、それは玲さんにもあてはまることだった。僕はそれより先に考えが至りそうになってから、理性で蓋をした。

「……」

 声をかけられなかった。その表情が何を意味するのか、僕はまだ知るよしもなかった。

 そう。僕はまだ浅はかで、本当に何も知らなかったのだ。





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