占い師は月の夢を見る5
店の入口を開けたまま、僕と玲さんは立ち尽くしていた。冷気が僕たちの背中に当たりながら、僕たちより先に店の中へ入っていく。
カウンター近くのテーブル席には腕を組んでしかめっ面をしたももこさん、カウンターの中には眉をひそめた店長。そして二人に挟まれるように丸椅子に座っているのは、紛れもなく昨日僕たちが追っていたあの男。
不安も何もかも、昨日まで感じていたものがすべてどこかへ行って、頭が真っ白になった。
「ももこさん……」
目を向けると、ももこさんは僕たちを一瞥してからまた男を睨めつけた。
僕は店に足を踏み入れた。続けて玲さんも入ってくる。玲さんのスカートの裾まで入りきるのを待ってから、僕は静かにドアを閉めた。
「これ、どういう……」
「出頭させたのよ。あたしの人脈を駆使して」
けろっと言うももこさんだが、それにしても早すぎた。電話を切ってからまだ一晩しか経っていない。
カウンターに座る男は、昨日の服装とあまり変化がなかった。上から下まで性格を表したような暗い色。頭の位置が低いのはただ猫背だからというだけではなさそうだ。そんな中でひときわ目立つのは、やはり帽子からはみ出す金髪。しかし、昨日よりも近くてよく見えるからわかった。手入れこそ甘いが、発色は街中で見かける日本人の金髪の人工的な雰囲気を感じさせない綺麗なものだった。どうやら染めているわけではないらしい。
異様な空気だった。僕だけが、まったくのアウェーであるように思えてくる。
「何とか言いなさいよ、アイル」
ももこさんの重たい声に、男の肩はびくっと跳ねた。
アイル……? 日本人にしては随分とポストモダンな名前だ。髪の色もそうだが、もしかするとこの国の人間ではないのかもしれない。
アイルと呼ばれたその男は、散々自分の中で葛藤した様子で、ゆっくりとこちらを向く。
「……!」
その顔は、まるで子供だった。
大きな双眸の中に浮かぶ瞳は爽やかな青色で、輪郭も幼さを感じさせる緩やかな曲線を描いている。『男』というにはあまりにも幼く、あまりにも中性的な、いや、まるで女の子のような顔立ち。敵愾心や猜疑心をことごとく打ち砕くような、ある種の武器になり得る見た目だった。こんなに派手な外見をしていながら、何度も店に来ていたのに、どうして僕は今までその存在を知らなかったのだろう。
「あ……えっと……」
おまけに声も青臭い。変声期前の中学生のようだ。それに、流暢に日本語を話したということはやはり日本人なのだろうか?
男は僕を見て、すぐに玲さんを見て、それから目を右往左往させた。動揺しているばかりか、自分が置かれている立場を理解して途方に暮れているようにも見えた。
「何のためにあたしがあんたをここに連れてきたと思ってんのよ」
「そ、それは……」
「言い訳とかいらないから」
ももこさんの声音は普段の数倍は辛辣だった。言葉の節々に棘のような怒気が滲み出ているというか、漏れてしまっているというか。
ただひとつ違和感があるのは、二人が昨日の今日で知りあったような話し方ではないことだ。ももこさんは男の名前を知っているし、そもそも玲さんを危険に陥れた張本人が目の前にいるのに、いたって落ち着いている。それは店長も同じだ。ここにいるということは、恐らく玲さんの意思に反して事情を知ってしまったと思っていいだろう。だからこそ、あれだけ玲さんを溺愛していた店長が、この男を前にして、こうして落ち着いているのが解せなかった。
「ももこさん」
「何よ」
落ち着いてはいるが、その声はやはり怒気を孕んでいた。
「その……知りあい、ですか?」
「……まあ、そんなもんよ」
なるほど。伝も何もない。ももこさんの知りあいなら話は早い。
「店長もですか?」
「……まあね」
それで合点がいった。二人ともこの男のことを知っていたから、あくまで落ち着いていられる。二人の顔に少し戸惑いが混ざっているのも、身内であるこの男が同じく身内である玲さんを脅かしたからだと悟った。
「れ、玲ちゃん、久しぶり……でも、ないか。いつも来てるもんな」
男は苦笑いしながら、あたかも親しげなセリフを言った。
気まずそうに話し、それでいて自分と玲さんを結びつけている男の姿が気に食わなくて、僕は少しだけ玲さんの前に出た。男は自分を睨みつける僕に玲さんを隠されて眉をひそめた。しかしすぐやるせない顔になる。分別はいいらしい。男にとってここは牢獄だ。思いどおりの行動はもう起こせない。そういう状況もあって、僕は絶対的な自信で玲さんの盾になっているつもりだった。
「――アイル、くん?」
そんな僕の自信を、よりによって玲さんに打ち砕かれた。
僕の背後から顔を覗かせた玲さんは、男の方を見ながら目を丸くしていた。
「そ、そうだよ! ボクだよボク! よかった、やっと気づいてくれたんだね! いつも目の前に座ってるのに全然思い出してくれなくて……! 駅で待ってても全然話しかけてくれないから――」
前のめりに話す男の声が止まった。立ち上がったももこさんが男を手で制して、冷たい視線を送っていた。
「あんたさあ、自分の立場わかっててそんなこと言ってんの?」
「いや、でも……!」
「でもも何もねぇんだよ」
ももこさんは制していた手で男の胸ぐらを掴み、引き寄せる。不意のことで僕たちは面食らった。それ以上に、男は怯えた顔でももこさんの剣幕を見上げていた。
「あんたはもうこっち側の人間じゃない。取り返しのつかないことしたのよ。わかってる?」
「でもボクは……」
「しつこいな。さっきから何度も何度も、いい加減に――」
ももこさんがもう片方の手を振りかざした。その手が男の顔面を捉える寸前で、店長がももこさんの腕を掴んだ。
ももこさんより一回り以上も太い腕は、華奢なももこさんの殴打の勢いをいとも容易く止めた。それでもなお力を込め続けるももこさんを、店長はカウンター越しに平然と見据えていた。
「落ち着いてももこ。アンタがそこまですることじゃない」
「いいでしょ別に! こいつ一発ぶん殴ってやんなきゃ目ぇ覚まさないから……」
「それじゃあ玲は喜ばない」
はっとして、ももこさんは振り返った。
玲さんは目を細めてももこさんを見据えていた。いつもは溌剌とした笑みが眩しいその色白の顔には、今までももこさんに向けられることのなかったような、憤慨にも悲哀にも見える複雑で生々しい表情が貼りついていた。
「ね?」
ももこさんは苦渋に満ちた顔で男から手を離して、後退りするようにもといた椅子に座った。男も力が抜けたようで、俯いて静かに丸椅子に腰かける。
静寂が満ちた。店長も、玲さんも、アイルと呼ばれた男も、今しがた激昂したももこさんでさえ、口を開いてくれそうになかった。僕だけが置き去りにされたみたいだった。ここに来た時のあのアウェー感の正体がようやくわかった。この人たちは、みんな僕の知らないところで繋がっている。
そうなると、やはりどうしても、戒めていてさえ、気になってしまう。もっと俗に言えば、玲さんがこの男の名前を呼んだところで胸が痛くなったし、男が如実に関係性を裏づけるようなセリフを返したおかげで憤りを覚えた。解せない。玲さんは決して僕のものではないのに、この男に、目の前で玲さんを横取りされたような気がした。今の立場は僕の方が断然いいに決まっている。一方でこの男は崩れかけた岸壁の淵に立っているようなものだ。なのに、僕自信の力が及ばないような強い劣等感があった。
「……玲さんも、知りあいですか?」
そんな感情は払拭してしまえ、と思いつつ玲さんに聞く。
「……はい」
だが、そう簡単に拭えるものではなかった。
玲さんは重苦しい曇天のような思いつめた顔をしていた。また嫌な質問をしてしまったか、という不安がよぎった。ここにいる中で、僕だけが知らない何かがある。たぶんそれがこの男も含めた玲さんたちの繋がりだ。それは十中八九、玲さんの触れられたくない過去にも直結するだろう。僕が僕の意に従って踏み込むようなことではないのは、この数日のことで嫌でもわかった。でも、気になってしまう。どちらにも身を振れない窮屈なジレンマが、頭の中で渦を巻いていた。
「聞いても、大丈夫なことですか?」
「……大丈夫です。大丈夫なんですけど、その……」
玲さんは顔を伏せながら、何かを訴えるようにももこさんに何度も目を配った。
「いいの?」
「私じゃ、たぶんまだ言えないので……」
玲さんの重く、小さな声に何かを察したらしいももこさんは、仕方ない、とでも言いたげに小さく息を吐いて、立ち上がった。
「わかったわ。ならあたしから――」
「ボクが教えてやる」
ももこさんの声が詰まった。
「あいつはボクと玲ちゃんのことを知りたいんだろ? ならボクが言った方がいいじゃないか」
「アイル……!?」
男は、さっきまで力なく俯いていたのが嘘のようにすっと立ち上がって、青い瞳を三分の二ほどに狭めて僕を見た。
「あんた、何考えてんの……!」
「ももちゃんは黙っててよ。あいつはボクと玲ちゃんの邪魔をしたんだ。わからせてやるべきなんだよ」
僕は僕を見る青い瞳が恐くなった。平衡感覚を失ったように頭がくらくらする。
ようやく、この男が僕の敵だということを頭が理解してきた気がする。ここでは、というよりここまでは僕の方が優位だという優越感にまざまざと支配されていた。浅はかだ。昨日の今日で、この男が僕のことを蔑ろにするわけがない。
「お前がどう思ってるか知らないけど、ボクたちはお前が考えてるよりもずっと深いところで繋がってる」
「……深いところ?」
僕はその言葉にいい意味をまったく見出せなかった。
「僕たちは『学園』の出身なんだよ」
「……?」
「なんとなくわかるだろ? そういうニュアンスだって」
そう言われた途端にわかった。そこに模範解答を示すように、男は抑揚のない声で答えを告げる。
「施設だよ」
頭を撃ち抜かれたような気がした。
いや、正確にはもっと前からどこかでわかっていた。無意識のうちに、可能性の一つとしてその事実があることを知っていた。でも信じようとしなかった。目を逸らしていた。
どうして? 触れちゃいけないと思ったから? 違う。僕は玲さんがそういう出自であること自体を疎ましく思っていたんだ。どこかでそうであってほしくないと願っていたんだ。いつしか僕は、玲さんの外面だけを切り取って、彼女の内側にある僕の知らない――いや、目を背けたい玲さんの一部分を自分に関係ないと切り離していたんだ。その方がよっぽど不謹慎なのに。
「ボクたちはみんな『学園』の出身なんだ。のうのうと生きてきたお前とは違う。お前じゃボクたちの辛さは理解できない」
「違うでしょ」
ももこさんが語気を強くして言った。
「裏切ったくせに……あんたと一緒にしないで」
「裏切ってなんかないさ。ボクだって辛い。そういう星のもとに生まれたのは、ボクも一緒だよ」
幻想めいた言い回しに、ももこさんは眉根を寄せた。
「だから玲ちゃんの隣はボクこそが相応しいんだ。お前じゃない」
その言葉には力がこもっていた。まさに誰もが思い描くようなストーカーの言説だったが、それに僕はまんまと丸め込まれてしまった。
ももこさんも店長も玲さんも、男の並べ立てた現実を否定しなかった。この男は本当に、少なくとも僕よりは玲さんたちのことを昔から知っている。そして僕よりもはるかに深く繋がっている。今度は逃れる縁のない劣等感を超えた何かが、胸を埋め尽くした。
「――なんで」
ふと、玲さんが重く呟いた。
「なんで、私なんですか?」
あまりにも根本的だったから、その質問自体に僕たちは驚いた。それでもそれを放った玲さんに他意は感じなかった。どこまでも純粋な疑問を言葉という媒体に変換したにすぎなかった。
「なんでって……」
「好きだからでしょ」
ももこさんが間髪入れずに釘を刺した。
「あんたを見てるとイライラするのよ。手紙渡したり店に来ては玲の前に座ったりするくせに、怖気づいて顔もろくに見せなかったんでしょ。だから玲には気づかれないし、こうしてあたしたちから逆に追われるのよ。所詮あんたはこんなストーカーまがいのことしかできない。昔っからそうだったわ。最後まで踏み切れないのに強がって、空回りして――」
「ももこ」
店長の一言でももこさんはすぐに黙り、小さく舌打ちして顔を背けた。
「でも、確かにももこの言うとおりよ、アイル。アンタのしたことは、少なくともアタシたちにとっては看過できるものじゃないわ」
「真中さん……」
どうしてわかってくれないの? と言わんばかりの面持ちで男は店長を見た。店長から伝わってくるのは怒りではなく無念さだった。身内であるがゆえの情けが少し混ざっている気がした。
「ねえ、どうしてストーカーなんてしたの? どうしてそんな回りくどいことしたのよ?」
「……違うよ、真中さん」
男が感情を押さえつけるように呟いた。
「違うよ……ストーカー? ボクがストーカーだって? 違うよ。そんな低俗なものじゃない」
冷たい声だった。何者も寄せつけない、凍りつきそうな声。
男はこちらを向いた。キャップのつばの影に目もとを隠しながら、小さく口角を上げた。
「ボクはずっと暗闇の中にいたんだ。深海のような深い闇。上がろうとしても上がれない。足首を掴まれて、どんどん底へ引きずり込まれる。逃れようのない闇。先が見えていた。ボクには決まった道を歩むしかないんだって」
「……何が?」
冷えた笑みがひどく不気味だった。僕が怪訝な顔をすると、男は影の奥から青い瞳をちらりと覗かせて、端的に告げた。
「『学園』はもうないんだよ」
男と僕を除いた三人の顔が、一気に強ばった。
「もう十三年も前の話さ。学園の経営母体は倒産、行くあてもなかったボクたちは散り散りになった。その中で唯一、ボクだけが、とある大きな会社の社長に拾われたんだ。そう、ももちゃん。これは運命だ。裏切りじゃない」
名を呼ばれたももこさんは男を一瞥するだけで、何も言わなかった。
「不覚にも安心したよ。これでボクもあたたかく暮らせる。普通の人みたいに暮らせる。待っていたんだ。学校で他の奴らがそうしてたみたいに、ボクだけを大切に思ってくれる人のところへ帰る日を。そうやって普通の人みたいに――家族ができるって」
その単語に異常な反応を示したのは、僕だけじゃなかった。
「この……!」
男に殴りかかりそうになるももこさんを、カウンターから慌てて出てきた店長が羽交い締めにして止めた。
僕は少し固まった。突拍子もなく吐き出されたその言葉がまだ宙を舞っている気がした。だから隣から聞こえた、どさっ、という音にも上手く反応できなかった。
「玲さん!」
一緒に帰った初日の商店街と同じだった。いやそれ以上だ。床にへたり込んだ玲さんは小刻みに体を震わせ、虚空を見つめて脂汗を浮かべていた。顔も蒼白だった。僕がしゃがんで肩に手をかけても、震えは収まる気配がない。
「でも違ったんだ」
男は自分だけを見ているように続けた。
「ボクはそいつの家の数ある部屋のひとつに入れられた。そこはそいつの好きなものを入れておく部屋だった。見渡す限りの人形とフリルだらけの服の山。気味が悪かった。生活感なんてない。そこでようやく感づいたんだ。あいつにとってボクは、ただの趣味のひとつに過ぎないんだって。家族なんかじゃない、モノだ。それから来る日も来る日も、あいつの好きなように服を着させられて、抱きしめられて、同じベッドに入った。時たま外食に連れていかれる時もそんな服。娘を装うことを強要された。嫌がると殴られた。許可なく部屋を出ると蹴り飛ばされた。本当、どうにかなりそうだったよ。いっそ殺してやろうかとも思った。でもボクには身寄りなんてない。このままここで暮らしていくしかないと思った。じゃなきゃその日の食事もままならなかったから。心底呪ったよ、どうしてボクはこんな運命なんだろうって」
ふうっと息を吐き、天井を仰ぎ見る。
「……あれはそんな生活が……いや、軟禁が続いてから四年が経ったくらいだったかな。見つけたんだ。例の如く連れていかれた夕食の帰り、車でたまたま通ったこの店にいた」
ゆっくりと、男はその顔を玲さんに向けた。
「それが玲ちゃんだった」
息を荒くする玲さんは、すっかり弱々しくなった目で男を見上げた。
「久しぶりに玲ちゃんを見かけた時、ボクは夢を見ているようだった。暗闇の中から月を仰ぐ感覚。そう、玲ちゃんは僕にとって月のように輝いて見えた。麗々としつつ溌剌な笑顔を振りまく玲ちゃんは、ボクの生きる導標になったんだ」
顔も声も、穏やかだった。
「それからは逃げることだけを考えた。後先なんて考えず、ただあの地獄から抜け出すために。結果的には年単位の時間がかかったよ。でもその時間で、ボクは知識を手に入れた。酒を飲ませて泥酔させて、隙を見て家を飛び出して、その時拝借したあいつの財布で身辺を揃えた。仕事も自由がきいて話題作りにもなって、それでいて興味があった占い師を自営で始めた。でも一番大きかったのは、ボク自身がボクの運命を変えたかったんだ。そのためには玲ちゃんの力が必要だった。玲ちゃんがいれば、ボクは何でもできると思った」
「……どうかしてるわ、あんた」
ももこさんが僕の心中を代弁した。こんな人間が今目の前にいるという事実が、僕には強すぎる刺激だった。嫌悪よりも恐怖に近い。
「どうかしてると言われてもなあ……。ボクはボクなりにがんばったんだ。いつあいつに見つかるかわからない恐怖もあったしね」
男は立てた親指でキャップのつばを押し上げた。
そこで納得した。男のこの地味な服装も、特徴的な顔立ちと髪を隠すようなワークキャップも、引き取られたその人の目から逃れるためだ。だから僕も働いていて特に気にすることはなかったし、気にすることができなかった。
「それからレインダンスに通い始めた。でもボクから名乗ることはできなかった。身を隠しているから大っぴらに会いになんて行けないし、もし玲ちゃんがボクのことを覚えていなかったら――そう考えるだけで、その時の玲ちゃんの眼差しを想像して恐くなった。だからその分、どうにか玲ちゃんに気づいてもらおうと努力した。手紙も渡した。駅で帰りも待った。少しでも近くにいるために部屋も玲ちゃんの隣を借りた。でもなかなか上手くいかない。そんな時に現れたのが――お前だよ、百瀬潤」
もし殺人犯に包丁を突きつけられたら、こんな気分かもしれない。それくらい、僕は男から向けられた鋭い双眸の光に恐れ戦いた。
「お前がここに来てから、玲ちゃんは余計ボクを見なくなった。お前が来てから、玲ちゃんの笑顔がまた明るくなった。もう『学園』に入った頃の玲ちゃんの面影なんてどこにもない。本当に明るい笑顔」
一歩、詰め寄る。
「でも、それはボクの力じゃない。ボクの目の前でお前がやったことなんだ」
また一歩。
「わかるか? 自分の目の前で、自分の大切な人が、自分を差し置いて、他の男と前に歩いていく虚しさが。何の後ろ盾もないボクが、何不自由なく生きてきたお前に簡単に負ける悔しさが。苦労を知らないお前に、これまでの努力を踏みにじられる苦しみが……」
「ちょ……アイル!」
ももこさんの声が遠く聞こえた。
足が床に縫いつけられたように動かなかった。上背のない男が僕の全身に影を落とすくらいまで近づいても、僕は後退りすることすらできなかった。
だから、僕はそのまま、何も抵抗することなく胸ぐらを掴まれていた。
「どうしてお前なんだ……! どうしてボクじゃないんだよ……! ボクだって玲ちゃんの隣にいたい! それだけなのに、どうしてボクはこんな運命なんだ! どうして希望を持たせるんだよ! 最初からこんな思いをするって知っていれば、こんな……こんな……!」
男は声にあわせて僕の体を揺らした。棘のような言葉が雨のように降りかかった。
抵抗を、する気力もなかった。
男の目には涙が溜まっていた。
「ボクはただ、幸せになりたいだけなんだ……!」
青い瞳から零れ落ちる水滴が、床に小さな染みを作っていく。
深い水底を覗き込んだような、漠然としつつも強大な恐怖に駆られた。そこから手が伸びてきて、引っ張り込まれ、息ができない。足が竦む。これはももこさんの時以来だ。でもあの時と決定的に違うのは、この男の怒りの矛先が何の混じり気もなく僕に向いていること。そしてその怒りゆえに大粒の涙を零していること。
脳が沸騰している気さえする。口の中が干上がったように渇く。呆然と男を見るだけで、今の僕には何かを声にするだけの気迫も、その何かを成すための思考回路も廃れていた。
「アイル、くん……」
その時、玲さんの震える声が僕たちの間に割って入った。そしてそっと、白い手を僕のシャツを掴む男の手に置いた。僕も男も、驚きを隠せなかった。
「玲……ちゃん……」
「……ダメです、人を怨むのは……。それじゃあダメなんです……。アイルくんは、私の知ってるアイルくんは、そんな人じゃなかった……」
男は青い瞳が丸く見えるくらいに、その大きな目を見開いた。
「誰よりも優しかった……。それは私も、ももこちゃんも、店長だって知ってます……。でも今は違う。今のアイルくんは、アイルくんじゃありません……。」
息を切らして諭す玲さんは、弱々しくも精悍な表情で男を見つめていた。
それに気圧されたのか、男は僕のシャツから手を離し、倒れそうになる上体を支えるように一歩、二歩と退いた。
玲さんは徐々に生気を取り戻していき、比例するように眼光鋭く、さらに続ける。
「自分の目的のために人に迷惑をかけるのはダメなんです……。その目の中には、アイルくんがいません。まるで、アイルくんを連れていったあの人みたいです……」
男の顔色が驚きから絶望じみたものに変わった。
それは利己的な部分、この男の中のどうしようもなく根源的な弱点だった。男は自分の運命を変えたいばかりに人を――僕を怨んで、道を外れた行為をした。自分の思いのままにしたい人に対して干渉の仕方を間違えた。それは男の言う、「男を連れていったあの人」がしたことと変わらない。欲望に忠実であるがゆえに、その欲望の餌食になる人の人生も、己の人生をも狂わせかねない。期せずして男は最も怨むべき人の気質を無意識のうちに踏襲してしまっていたのだ。
僕の中から、いつの間にか恐怖が消えていた。
男に目を遣ると、まるで僕自身を見ているようだった。この男の根底にあるのは僕と変わらない。共にある人を大切に想うがゆえにここに至っている。境遇やここまでの道筋や考え方はともかく、胸ぐらを掴んでいた手が僕のものでもおかしくなかった。じゃなきゃ、一度はストーカーと呼ばれた男がこんなに顔を涙で濡らすわけがない。
腰が砕けた男は、力なくその場にへたり込んでしまった。
「ボクが、あいつ……? そんな馬鹿なこと……」
「そのとおりよ」
すっかり落ち着きを取り戻したももこさんが、店長の腕を振りほどいた。
「あんたはやることやったのよ。それなりの罰は受けるべきだわ。あんたを連れていったその気持ち悪いヤツも含めてね」
「罰……?」
「そう。ほら、行くわよ」
ももこさんが操り人形のように脱力している男の腕を持ち上げた。
「行くって、どこに……?」
「警察」
男の顔が真っ青になった。
男を見下ろすももこさんの顔は、静かな怒りを秘めていた。ももこさんのことだから、まだ自分の中で解決に至ってないことをもどかしく感じているのだと、僕は勝手に想像した。
「いや、あの」
「何? 口答えできる立場なの? あんた甘すぎるわよ?」
「でも……!」
「うっさいな。いいから早く来いよ。自分のケツは自分で――」
「ももこちゃん」
玲さんの一声で、二人の動きがぴたりと止まった。
随分回復した玲さんは、殺気立つももこさんを柔和な微笑みで見据えていた。
「大丈夫です。警察なんか行く必要ありません」
「……はあ。玲、あんたはまたそんなことぬかして。あんたも甘すぎるのよ」
「でも、私に実害があったわけじゃないですし、私も全然気にしてませんし」
「あのね玲、これはそういう問題じゃなくてさ」
「僕からもお願いします」
言ったあとに気づいた。僕は何を口走っているんだろう。
「……は?」
「あ、えっと、えー、その……」
ももこさんの猛禽類のような目に睨まれて、僕はつい慌ててしまう。
「れ、玲さんを脅かしたのは事実ですけど、玲さんの言うとおり実害とかないですし、別にそこまで事を荒立てなくてもいいんじゃないかなーって……」
「……言いたいことはそれだけ?」
何故か僕が刑を執行されるみたいな言い草だった。
とりあえず一度息を吸った。何を口走っているのかと思ったが、何のことはない、ただ僕の純粋な意見だった。焦りを息と一緒に吐き出した。
「まあ、したことは悪いですけど、それなりのことがあったからで。情状酌量の余地はあるっていうか……」
ちらりと、玲さんを見る。目があった。首を傾げる彼女の顔が、僕の背中を押した。
「……他人事じゃない、と思うんです。僕としては」
「……ふーん」
ももこさんは明らかに疑いを持った目を、平然を装った顔で偽装して僕を見る。
だが、今の僕はそうするしかないと思っていた。ただの情けなのかもしれない。はたまた根は僕と同じな男を許すことで、自分がそうなるかもしれなかった可能性を否定したいのかもしれない。それでも僕は、これを大事にするよりも他に道がある気がした。
「あっそ」
拍子抜けするくらい、ももこさんは思いのほかすぐに男の腕から手を離した。何ごとかと驚いている男を差し置いて、呆ける僕を見据えるももこさんは、ここ最近で一番大きなため息をつくと、
「興醒めだわ。あんたを代わりに連れてってやろうかしら」
不貞腐れたように吐き捨てた。
勝敗も善悪もない気分だった。たぶん、これでよかったんだと思う。
そのあと、ももこさんの嫌みったらしい笑みがしばらく僕に向けられたのは、想像に難くないだろう。




