占い師は月の夢を見る4
『ぶっ殺してやる!』
物騒なセリフと何かの壊れる音に、僕は思わず顔をしかめた。
「あんまり大きい声出さないでくださいよ。電話越しとはいえ、尾行中なんですから」
『バッカじゃないの! 落ち着いてられるわけないじゃん! 無理だから! あたしも今からそっち行くから!』
「絶対面倒くさくなるんでホントやめてください」
僕の言葉に、電話の向こうのももこさんは『ちっ』とアイドルらしからぬ素の舌打ちをかましていた。人気が命の職業で再起を目指す人がこんなことでいいのか。
ストーカーをストーキングするという支離滅裂な状況を作る上で、僕はまずももこさんに事の次第を説明した。たぶんあの人が一番玲さんのことを心配しているのと、何かと伝を持っていそうでいざという時は何とかしてくれそうだと思ったからだ。そして僕自身、少しだけ気を紛らわせたいというのもあった。一か八かの逆ストーキングだから、頼れる人を近くに感じて自分の背中を無理矢理押そうという魂胆だ。案の定効果はてき面で、いつもどおりのももこさんの声を聞くと気分が少し楽になった。声量がすごくてバレないか心配だけど。本当、「玲さんのことでいろいろ相談するかもしれないので」とか言ってももこさんの番号を聞いておいてよかった。
『で、どうなの? 大丈夫そう?』
ももこさんがため息混じりに言った。
「とりあえずは。向こうも気づきそうにないですし」
電話を耳に当てて夜道を歩く僕の前には、いつもより歩幅の大きな玲さん。そしてその二十メートルくらい前方には、ネイビーのダウンジャケットと黒のスラックス、青のワークキャップを身に纏った小柄な男。その隙間からは染めているのか、離れていても目立つくらいボサボサの金髪がはみ出している。身に着けているのがどれも暗い色なのと、背中を丸めながら時折周囲を見回す仕草や中途半端な金髪がいかにもという感じだ。駅で影が見えた時はかなり気後れしたものの、実際の背格好が想像をかなり下回っていたことや、自分たちが優位に立っているというのもあって、今はもう大分落ち着いていた。
『ところでさ、あんたたちどこまで追うつもりなの?』
「え?」
まったく考えていなかったことで、つい素っ頓狂な声が出てしまった。
『何?』
「……えー、最後まで?」
『そいつの家までってこと?』
「そうなりますか?」
『いや知らないわよ。ていうかそれはダメ。リスクが大きすぎるわ』
「いや、でも……」
『何のためにあんたを玲につけたと思ってんのよ。ちょうどいいところで切り上げて帰って』
「そうは言っても、玲さんがどんどん進んでて……」
『止めろ! あの子がアホなの忘れたの!』
またボリュームを上げてくるももこさん。そのあともうるさかったので、僕は携帯のスピーカーを手で塞ぎながら前を歩く玲さんの肩を叩いた。
「玲さん、乗っておいて言うのもあれなんですけど、どこまで追うつもりですか?」
「んー、まだわからないですけど、この道私の帰り道と一緒なんですよね」
「はい?」
またも素っ頓狂な声が出てしまった。
「あの、もう一回いいですか?」
「この道、私がいつも使ってる道なんですよ。ここらへんのことなら私何でもわかりますよ」
「え、完全にですか?」
「完全にです」
「間違えてるとかじゃなくて?」
「いや、いつも通る道はさすがに間違えませんよ……」
嫌な予感がした。今の僕の立場になったら、誰もが同じようなことを思い浮かべるに違いない。もちろんももこさんも。
僕はスピーカーから手を離して、また耳にあてる。
「……ももこさん、聞いてましたか」
『聞いてた』
「どうします?」
『どうするって……』
向こうで言い淀むももこさんの顔が目に浮かんだ。
『そりゃあ、行ってみるしかないでしょ……』
他に選択肢はなかった。このまま追いかけて、玲さんとまったく関係ない場所に行き着けばよし。だがもし仮に玲さんと大なり小なり関係のある場所に着いてしまったら――そう、例えば同じアパート、とか。
玲さんは確か一人暮らしだったはずだ。ということはほぼ確実に賃貸で、集合住宅。可能性は十分にある。そんな悪夢のような光景なんて見たくもないが、もし仮にそうだったとしたら、このまま玲さんを家に帰らせるわけにはいかなくなる。そうじゃなかったとしても、これだけ家路が同じなのだとしたら、必ずこの先どこかで生活に支障が出てくる。まずは玲さんの安全が最優先だ。
「了解です」
『とりあえず、いったん電話切るわ。で、結果がわかったら教えて。どうするか考える』
「わかりました」
『じゃ、またあとで』
ブツッ、と通話が切れた。僕は携帯を上着のポケットにしまい、ちょうど僕に振り返った玲さんに耳打ちする。
「とりあえず行きましょう。行かないことにはどうにもならないです」
「それはいいですけど、そこまで心配することもないんじゃないですか?」
「?」
僕が頭に疑問符を浮かべると、玲さんは歩調を僕に合わせて隣を歩き始めた。
「だって、あの人が今から家に帰るかどうかなんてわからないじゃないですか。それに私をいつも追ってるなら、私たちと目があったあとにいつもの帰り道を選ぶって、考えにくくありませんか? もし同じところに住んでたら、なおさらだと思います」
「なるほど……」
確かに、そもそもあの男が家に帰るという確証はないし、僕たちに気づかれているのにのうのうと玲さんの帰り道でもあるこの道を歩くようなことはしないのかもしれない。どこかに逃げようとしていて、玲さんの帰り道と一致しているのはただの偶然、という可能性もある。
でも、そんな可能性が残っていたとしても、僕の嫌な予感はそう簡単に拭い去れるものではなかった。今ここで理想論をするりと受け入れてしまうのは、あまりにも軽率だった。
「でも玲さん、やっぱりちゃんと確かめましょう。念には念を入れて」
「んー、まあ潤さんがそこまで言うなら私は別にいいですけど。そもそも私が言い出したことですし」
未だに飄々としている玲さんは「潤さんもももこちゃんも心配しすぎですよー」と軽い調子で笑っている。本当に度胸があるというか、肝が据わっているというか。
だが一方で、僕はどことなく不安を感じていた。玲さんがこの一件の、他でもない当事者として、人並みに恐怖することがないということに。まるでその恐怖をまだ知らない子供のようだ。もとからあったものが欠如したのではなく、そもそもそんな感情を持ちあわせていないというように。だからこんなにも無邪気かつ楽天的でいられるのではないか。しかし恐怖を知らない人間などいるのだろうか。もしあらゆる恐怖を知り得ないのなら、むしろそれが恐怖だ。玲さんだって知らないわけじゃない。ならば、彼女の中で、今こうして起こっていることが僕たちとは違う作用をしているのではないか。捉え方が異なれば、感じ方も異なるというものだ。それはたとえば、何か特別な、やむにやまれぬ事情によって……。
また玲さんの過去が気になり始めたところで、僕は軽く頬を叩いた。そうやってすぐ過去を探ろうとするのはやめよう。今はそれよりも重要な問題が目の前にある。
夜道を歩き続け、数分後。
「あ」
玲さんが急に立ち止まった。
「どうかしましたか?」
「……えっと……」
苦笑いを浮かべる玲さんの視線の先にあるのは、少し年季の入った「いかにも」な印象のアパートだった。
周囲を見ると、いつの間にか住宅街に入り込んでいた。他の家々に溶け込んでいて目立つことはないが、丁字路の丁の時に乗っかるようにして、僕たちが来た道の方にドアをいくつも向けている。
「あの男の家、あれですか?」
玲さんがこくりと頷いて指を差した。その延長線上には、建物の横にある銀色の階段をのぼるあの男の姿。そそくさと二階に上がった男は、階段から二番目に遠い部屋の扉を開けて中へ消えていった。
「……で、玲さんの家は?」
肝心なことを聞くと、隣でアパートを見続けていた玲さんがゆっくりこちらを向いた。苦笑いのまま。
「……あそこです」
「……」
なんとなく予想はしていた。しかし実際に突きつけられると現実に絡めとられたようで、胸のあたりが苦しくなった。
僕はわずかに残る希望をたぐり寄せるように、もう一つ玲さんに尋ねる。
「へ、部屋はさすがに遠いですよね……?」
「……隣です」
頭が熱を帯びた。
予感が的中した上に、それ以上の現実がそこにはあった。ここまで悪い予感がそのとおりになったことはない。こんなにも悪い方向へいくものかと、この現実に疑いをかけるくらい僕は動揺していた。
何かの間違いであってほしい。そんな僕の土台のない希望を、玲さんがまた揺るがせた。
「私角部屋で、隣は一部屋しかないじゃないですか。それであいさつに行ったことあるんですけど、全然反応がなくて。もう随分住んでるんですけど、隣の人と一度も会わないから、実は誰も住んでないんじゃないかって思ってて……」
玲さんには一度も会っていなかった。隣人としての自分を見せていない。だから堂々と彼女の勤め先で手紙を渡せる。それでいて自分は一方的に玲さんの近くにいることができる。この構図はあの男にとって最高の条件だったことだろう。
どす黒くてやり場のない感情が、異様な速度で腹の底から湧き上がってきた。自制心はある。それゆえにもどかしい。何の力もない僕だから、今からあの部屋に押し入ったとしても何もできないのがわかってしまう。ももこさんと菅野さんの一件とは違う。これは人格が僕たちとあまりにも異なる危険な人物を相手にする。だから何が起こるかわからない。そういう自制心と恐怖に縛られて、この感情が体の中で渦巻き、はけ口を探していた。
「潤さん、とりあえずももこちゃんに連絡した方がよくないですか?」
玲さんに言われて、僕はすぐに上着のポケットから携帯を取り出し、ももこさんに繋ぐ。
『もしもし』
電話に出たももこさんの声音は少し強ばっていた。僕はついそれを気にしてしまって、努めていつものように振舞おうとした。
「ももこさん、残念ながらもう……」
『最善を尽くした医者みたいなこと言うな。で、どうだった?』
「……ビンゴでした。しかも隣の部屋です」
『……なるほどね』
大きくため息をついたももこさんは、しばらく沈黙したあと、
『そいつのさ、外見教えてくれない?』
「外見ですか?」
『あたしもちょっと調べたいからさ』
ごもっともだと思い、僕はももこさんにあの男の特徴をかいつまんで教えた。
『――小柄で金髪ねぇ……』
「心当たりでもあるんですか?」
『……まあ、なくはないわ』
「?」
いつも余計なまでにストレートな物言いをするももこさんにしては珍しく、含みのある声だった。
ももこさんはまた大きく息を吐いて、何やらぶつぶつと小さく呟いた後、再度大きな息を吐いた。
『……仕方ない。今日はあんたの家に玲を泊めてあげて』
「は?」
つい大きな声を出してしまったものだから、聞き耳を立てていた玲さんがすごく驚いていた。
いや、そんなことよりも、またももこさんが何かよくわからないことを言い始めたな。
「それは新手の罰ゲームですか?」
『違うわよ。ていうかなんで罰なのよ。いい? 泊めるって言っても、今回はあんたのためじゃないからね? 正真正銘、玲の身の安全のためだからね?』
「身の安全ですか」
『そうよ。だから玲に手出したらそいつじゃなくてあんたをぶっ殺すから』
「殺してください」
『待って、あんた今何を想像した?』
混乱していて、自分でも何を言っているのかよくわからなかった。
僕はひとつ大きく深呼吸をして、頭も体も落ち着かせた。幾分か楽になった。大丈夫だ。玲さんが僕を見て少し戦いているが、僕は大丈夫だ。
「すいません、聞こえなかったので最初からお願いします」
『現実逃避が甚だしいな。……じゃなくて』
ももこさんは小さく咳払いをした。
『今日、この状況で、玲をこのまま家に置いて帰れる? あんたといるところを見られて、それでも何もないまま明日も無事に会えると思う?』
「それは……」
わかっている。ももこさんの言うとおりだ。この状況が判明してから、玲さんを家に返す以外の方策を考えなければならなかった。最悪の事態になるかもしれない可能性が、今ここで、確実に膨らんでいる。
とはいえ、それで僕の家というのは……。
「……店長の家とかじゃダメですか」
『ダメじゃないけど、あたしも玲もあの筋肉の家なんて知らないわよ』
「そうなんですか?」
ふと玲さんを見てしまい、玲さんが首をかしげた。
『あの人、結構プライベート大事にしてるから。そこだけはあたしも玲も踏み込んでないわ』
「そうですか……」
『とにかく、癪だけど今はあんたが頼りだから。ここまで状況が動いたんだから、決着はすぐつくわ。それまであんたが玲の傍にいて。何かあったらあたしもなんとかするから、すぐ連絡して』
傍にいて、なんて甘ったるい言葉に気を取られながら「は、はい」と返事をすると、ももこさんは『じゃ』とだけ残して電話を切った。
僕は携帯を耳から離して、玲さんを見る。やっぱり何も知らない顔だ。今の通話が聞こえていないから当たり前だが、この無防備な表情が、僕の心を池に浮かぶボートのように揺らした。
急に息が苦しくなる。と思いきや、それは高揚感のようにも思えた。自宅に女子を招くことによる純粋な罪悪感と、それが玲さんであるという不安に近い高揚感。そして、今このアブノーマルな状況に身を置いているという緊張感。そのすべてが混ざりあって、普段の僕ではない、どこか異国の王子様を身に宿しているみたいだった。
「……玲さん」
「はい?」
「今日はうちに泊まってください」
顔が赤いと思う。鏡を見なくても熱でわかる。顎の下から頭のてっぺんまで、過剰な量の血液があまねく供給されている気がする。
玲さんは「へ?」と気の抜けた返事をして、固まった。目をしきりにしばたたかせて、じっと僕を見ている。そりゃこうなるだろうよ。
僕と玲さんの一日は、まだ終わりそうになかった。
僕と玲さんの家はさほど離れてはいなかった。五分も歩けば僕が日頃使っている銀杏臭い通りに出て、コンビニに寄り、また五分も歩けばすぐに僕のアパートに着いた。
玲さんのところよりも幾分か新しく、その分外装が綺麗だったり、玄関の形がモダンだったりする三階建てアパート。僕の部屋は建物の横にある階段をのぼって二階にある。ただ、今日はいつもより多く階段をのぼっている気がした。コンクリートの階段を上る足音が僕に続いてもう一つあるのが不思議だった。
ちなみに道中は二人とも沈黙。とはいえ、決して数日前のようなネガティブなものではない。ネガティブなものではないのだが、理由があって沈黙しているのは事実だ。だからコンビニの前で唯一した主だった会話も、
「い、いろいろ買うので、外で待っていてください」
「あ、はい。あ、寝巻きはあるので……」
と、ひどくたどたどしいものになってしまった。
コンビニから出てきた玲さんの、眉をハの字にして耳まで赤くした顔が僕を見ると、沈黙により一層拍車がかかった。会話で気を紛らわせることもできないため、玲さんが手に持つレジ袋の中身もつい予想してしまう。あまりにも急だったし、玲さんは女の子だ。たぶんアメニティとか、化粧関連のものとか、し……下着とか。こんな時間にコンビニで泊まりの用意をしていって、しかも外で男が待っていて、その上玲さんはメイド服なんて、間違いなく店員はあらぬ方向へ勘違いをしたに違いない。心配で外から店内を覗いた時、偶然あったレジを打つ店員のあの目を忘れられない。もうあのコンビニ行けない。
回顧しているうちに、部屋の前に着いた。
「ここです」
鍵を開ける前に、僕は大きく息を吸った。
大丈夫。今朝は珍しく掃除をした。間がいい。何も心配することはない。普段どおりでいい。いつもの僕でいることが大切だ。
ふと後ろに立つ玲さんを尻目に見ると、一瞬目があってから、あわあわとあちこちを見て、俯いた。耳が赤い。玲さんもこんな調子だし、ここは僕がしっかりしないと。
鍵を開け、ドアノブを引く。
「痛っ」
しかし急くあまり、ドアの角に頭をぶつけた。ドアを開ける前に中へ入ろうとしていた。
痛くて、今度は羞恥心に苛まれた。我慢しながら玲さんを見ると、口に手をあてて肩を震わせていた。顔は見えないが絶対笑っている。
「だっ……だいじょぶ……ですか……っ」
「もういっそ清々しく笑ってくださいよ」
玲さんは激しく首を横に振る。恐らく玲さんなりの配慮なのだろうけど、逆にものすごく不完全燃焼感がある。いや、狙ったわけじゃないけど。
気を取り直して、今度は細心の注意を払って開けた。中に入ると、いつもは気にならないのに、部屋に置いてある消臭剤の爽やかな香りが仄かに鼻をついた。
「お、お邪魔しますっ」
靴を揃えて部屋に上がると、玲さんも一拍遅れながら同じ流れでついてきた。
「荷物、適当に置いてください」
「あ、はい。ありがとうございます……おぉ」
リビングの入口を潜った途端、玲さんが感嘆の声を上げた。天井から部屋の中をぐるりと、少し紅潮した顔で興味深そうに見回している。
「あの、玲さん……?」
「あっ、ごめんなさい! 私男の人の家に来たの初めてで……。あんまりジロジロ見られたくないですよね、すみません」
「あ、いや、別に気にはしないですけど……」
「でも、こんなこと言うのも失礼かもですけど、すごく綺麗です。ほどよい生活感というか、ちょっと落ち着くというか」
柔らかい笑顔になった玲さんは、レジ袋を近くの壁際に置いた。僕は近くにあったハンガーを手に取って、クロークをかけるよう玲さんに手渡す。
「そんなことないですよ」
僕はつい照れくさくなって、リュックをベッドの脇に置いて、玲さんに背を向けてから上着を脱いだ。
「そんなことありますよ。男の家なんて普通は臭い・危険・汚いの3Kが揃ってるからそんなところに住めるあいつらは人じゃないって教えられましたもん」
「それ剣道部員が聞いたら泣きますよ……。誰に聞いたんですか?」
「店長です」
「……なんというか、戻ってきたブーメランを避けてる感じですね」
「え、どういうことですか?」
なんでもないですよ、と答えておく。玲さんの中では店長の性別があいまいなのだと思う。
それから少し話をして、玲さんはシャワーを浴びにいった。適当にTシャツとジャージの上下とバスタオルを渡して、「お借りしますね」と言った背中を見送ったあと、僕は悶々とする頭を押さえつけるようにベッドに突っ伏した。
そもそもこの部屋はワンルームだし、ベッドもシングルだし、布団は厚めのものが二枚あるからいいとして、やっぱり僕が床に寝るべきだろうとか、でもベッドが臭かったらどうしようとか、そもそも僕はマンガ喫茶にでも行った方がいいんじゃないかとか、でもそれだとももこさんの信頼を裏切ることになるのではとか、頭を支配しようとする煩悩を押さえつけるように優柔不断さを建前にして、なんとか平静を保とうとしていた。もうこの時点で無理だろうけど。
部屋から玲さんがいなくなると、むしろ玲さんの残り香が空気に滞留している気がして、拍動が激しくなる。カーテンレールに下げた彼女のクロークの存在さえそれに拍車をかけた。僕のプライベートな生活圏に好きな人が入ってきたことは、僕にとってはあまりにもイレギュラーなわけで。それだけで、もう二年半は住んでいるこの部屋もどこか別の世界のように感じられた。
怪我の功名? 不幸中の幸い? いや、違う。ただ運がよかっただけだ。でもこれを運がいいと言ってしまうと、玲さんの危機を奨励していることになってしまう。嬉しいことは嬉しいが、戒めは必要だ。ここに玲さんがいるのはあくまで玲さんのため。僕の気持ちは二の次だ。浮かれている場合じゃない。
「……しっかりしろ」
独りごちて、ちんまりしたクローゼットからもう一組寝巻きを取り出し、そそくさと着替える。脱いだ服を廊下にある洗濯機に入れようとすると、浴室から水音が響いてきて、また心臓が跳ねた。
そうしてしばらく自分と戦っているうちに、玲さんがシャワーから戻ってきた。
「ありがとうございました。おかげですっきりしました」
「い、いえ……」
少し濡れた髪と、一回り大きなTシャツとジャージ。メイド服じゃない玲さんを初めて見た。それはそれで感動だが、風呂上がりというのはどうしてこうも男の胸を掴むのか。露出が少ないくせに異様な色気を感じる。
玲さんは脇に抱えていたメイド服一式を、僕が手渡したもうひとつのハンガーにかけて、軽く皺を伸ばす。玲さんの髪が揺れる度に、シャンプーの匂いが香ってくる。日頃使っているのが男女兼用のものでよかった。僕の頭もこんな匂いがするのだろうか。
「ドライヤー、使わないんですか?」
「はい。私は自然に乾かす派なんですよ。どうせ朝もシャワー浴びますし。あ、朝も借りていいですか?」
「いちいち許可求めなくてもいいですよ。使われて困るものなんてうちにはないですから」
「そういうわけにはいきません! 潤さんの優しさに甘えすぎてしまうといけないので!」
「……わかりました」
それから僕も軽くシャワーを浴びて、歯を磨いた。僕の歯ブラシの隣にピンク色の歯ブラシが立っていたので、少し驚いた。またリビングに戻ると、玲さんがじっと映っていないテレビを見つめていた。
「見ますか?」
「あ、いえ」
苦笑いして寝支度に入った玲さんを訝しく思いながらも、僕はクローゼットの上の方から厚手の布団を一枚出して、クッションをいくつか重ねて枕代わりにし、床に簡易的な寝床を作った。
「玲さんはベッド使ってください。僕はこっちで寝るので」
「え、でもそれじゃあ潤さんが……」
「いいんですって。玲さんは自分の身を案じてください」
「いや、それニュアンスが違う気が……」
気が引けた様子の玲さんを無視して、僕は床に敷いた布団に潜るという強行手段を取った。するとさすがの玲さんも諦めたらしく、「じゃあ、お言葉に甘えて」と添えてゆっくりベッドに上がった。
それからまたしばらく、というか玲さんの髪が乾くまで、いろいろと話をした。アイドルのことはもちろん、共通項である店長やももこさんのこと、八百屋さんや魚屋さんに行くとおまけしてもらえること、そのせいで店長によく買い出しを頼まれること、そしてよく間違うこと。他にもいろいろ、今までにないくらいたくさん話をした。いつもと違う玲さんに終始緊張しつつ、また過去に触れないよう気をつけつつも、幸せだった。このままずっと続けばいいのに、なんてマンガでしか思わなそうなことを思って、本当にあるんだなーと感心した。本当に、幸せだった。
「そろそろ寝ますか」
僕が言うと、玲さんが小さく頷いた。なんとなく寂しそうに見えた。
僕は電気を消して、それを合図にそれぞれのベッドに潜った。部屋は南側の窓から射し込む青白い月明りでいくらか明るかった。その冷酷なまでに青白い光が染め上げた部屋の空気が、僕の緊張をさらに引き上げた。月の方に玲さんがいる。でも横になってしまってはその姿も見えない。だがそこにいるという事実だけで、僕の心臓を大きく鳴らし続けるには十分だった。
「玲さん」
「はい?」
返事が早い。少し安心した。
「たぶん、すぐ解決しますよ。ももこさんも動いてくれてます。玲さんは最初からあんまり実感がないのかもしれないですけど」
「そうですね。そうだといいです」
「でも、僕は許せないです。一方的にあんなことをするのは、少なくとも僕からすれば最低です。だから――」
「呪いますか?」
言葉が詰まった。
僕は少し体を起こして玲さんを覗こうとするが、その姿は光の影に隠れて見えなかった。
「何を……」
「人を呪ったって、何も得られないです。目を背けろっていうわけじゃないんです。でも、もし潤さんがあの人をどうにかしてやりたい、って思ってしまうなら、それはやめた方がいいです」
平坦な口調だった。言葉に表面化した冷たさだけではない、その奥深くにある思いやりのようなものも感じ取れた。
「じゃあ、どうすればいいんですか……?」
こんなこと被害者本人に聞くことじゃないなと、言ってから思った。
「私なら、現実を呪います。もう起こってしまった現実。逃れようのない現実。誰かを呪うより、過ぎた現実を呪う方が、結構楽になれたりするんです」
「現実?」
起き上がって玲さんを見る。ちゃんとそこにいた。僕に背を向けて、小さな寝息を繰り返していた。
「寝……言……?」
声を発しなくなった玲さんは、何の熱も持たず、静かに眠っていた。
僕はなんとなく玲さんの言葉を反芻しながら、またクッションの山に頭を預ける。
つまり、玲さんとあの男の部屋が隣同士になって、あまつさえストーカーになってしまうというありそうでない現実を呪え、ということなのだろうか。楽になれるかはともかく、それはそれで一つの手段だとは思った。今のところ僕にそうすることができるかは定かではないが。
そんな考えもすぐ、煩悩と緊張によって頭の隅に追いやられてしまった。一向に重くなる気配のない瞼を時折揉みながら羊を数えているうちに、いつの間にか部屋が明るくなっていた。
そして、翌朝。
僕たちがレインダンスのドアを開けると、そこにはあの男がいた。




