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占い師は月の夢を見る3

 夜のとばりに世界が包まれ、街灯と、ごくたまにすれ違う車やバイクの無機質な光が世界を照らす。人通りも少なく、シャッターに囲まれた道を、僕はいつもより少し歩幅を狭めながら歩いていた。駅前の大通りから外れていることもあってか、レインダンス周辺の店はどこも午後八時には閉まってしまう。うちを含め、午後九時まで開いているところなんてのは片手で数えられるほどだ。早々に駅前に移ってしまえばもう少し稼ぎも増えるのではないかと、いかにも素人が考えそうな、何の捻りもない案が浮かぶが、あの店長のことだから、忙しくなると玲さんとのコミュニケーションがおざなりになってしまう、なんてことを考えていそうで、よく考えたら僕もそれがいい、むしろそうじゃないと困る、という結論に至った。現状維持が時として別の現状の打破に繋がる。店長を礼賛してもいいと思った。

 傘に打ちつける雨の音が、そうやって僕の思考を本筋から遠ざける。特別激しいわけでもないのに、傘に当たって弾ける水の音が本題から逃げるよう急かしていた。もしかしたらそうやって僕自身が気を紛らわせているのかもしれない。

 僕の少し後ろを歩く玲さんが、距離以上に遠く感じる。

 レインダンスから駅までは歩いて七分ほど。今のところ、玲さんとは一言も交わしていない。声はかけたが、返ってこない。僕の勇気を無下にしながら、玲さんは僕が歩いたあとの地面を眺めつつ、しかし同じ歩幅で濡れたアスファルトを蹴るように歩いていた。このままではいけない。それはわかっていながら、僕は雨の音につられてまた店長を讃えようとする。そうじゃない。やるべきことはわかっている。今やらずしていつやるのか。そうして自分に喝を入れる。やっぱり店長は立派な人だ。

 二人分の雨を踏む音を何度も繰り返し聴いているうちに、大通りと平行にある駅前の商店街に差しかかった。ここを行ってしまうと少し遠回りになるので普段は通らないが、屋根がある分、無駄に濡れることを避けられる。折り畳み傘は所詮折り畳み傘程度の性能しかない。

 そうやってまた僕は自分の行動に言い訳をする。本当は、傘が僕たちを隔てているような気がして、取り払いたかった。自分から渡したくせに。

「こっちから行きましょうか。雨、できるだけ避けたいですし」

 僕の建前に、玲さんは僕を見ずに小さく頷いた。

 商店街に踏み入ると、雨音がはるか上空から聞こえるようになって、店長が僕の中から出ていった。傘についた水滴をはらって、畳む。冬の雨は冷たかった。

 通りはまるでゴーストタウンだった。大通りと競いあうようにして並んでいるからか、それとも高齢化の影響か。どちらにしろ、人の影がまったく見えない。シャッターも閉まっている。どこかと同じような寂しさがあるが、今の僕には好都合なことこの上なかった。

 玲さんは相変わらず顔を伏せて、僕の一歩半後ろをついてきている。傘があってもなくても、この距離は変わらなかった。

「玲さん」

 返事はない。僕は続ける。

「ももこさんと知りあったのは、どれくらい前ですか」

「……」

「玲さん」

「……ずっと前です」

 のっぴきならない答えだ。それでも返事がもらえたことで、少しだけ胸が高鳴った。

「ずっとって、どのくらいです?」

「……忘れました。小さい頃です」

「具体的には?」

「あの、どうして急にそんなことを聞くんですか?」

 もっともな質問だった。僕は少しだけ逡巡してから、申し訳ないと思いつつ、嘘をつくことにした。

「ももこさんが何歳なのか、ちょっと気になって。この間は教えてもらえなかったし、玲さんなら知ってると思ったんです」

「……ももこちゃんは非公開にしてるので、私からも言えません」

「そうですか。それは残念です」

 自分勝手だなあ、と思った。ここまでも、これからも。ももこさんの一件で、僕は自分がいかに自分の都合のいいように動こうとしているかを思い知った。だが、「結果的によかった」というのは、まさに結果論でしかない。「過程」を大切にしない人間が、結果だけ見ても何も得られない。

「玲さん」

「……はい」

 今度はちゃんと返事をしてくれた。僕のしつこさに懲りたのかもしれない。本当にそうだとしたら、それはそれでちょっと心苦しいが。

「玲さんは……」

 言いかけて、止まった。

 あれ? と、自分でもそうしたことに驚いた。

 僕はあろうことか足踏みした。昼間僕に向けられた玲さんのあの剣幕が、脳裏をよぎった。

 何を聞こうとしたか。無論、恐らく玲さんの、一番触れられたくないところだ。それを明らかにして、僕たちの関係ごと変化させたかった。今の玲さんを形成してきたものを知って、自分の思うようなかたちに変化させようとした。

 でも、これはももこさんの時とは違う。そうすることが本当に正しいのだろうか。それをしてしまって、僕たちは本当に今までの関係に変化を生むことができるだろうか。できたとして、いい方向に傾くだろうか。

 これは、そうだ。恐い。僕は恐かった。今までの関係を崩すことが恐くて、関係が悪化するリスクを背負うことが恐くて、足踏みする。現状よりもっと悪化したら、これまでのようなバイト仲間という関係にさえ立て直す自信がない。

「何ですか?」

「……玲さんは、どんな子供でしたか?」

 結局僕は、ここぞというところで優柔不断で、やはり、自分勝手だった。

 逃げてしまった。僕から進んで暴こうとしておいて、怖じ気づいてしまった。情けなくて、僕は少しだけ歩幅を広くした。

「どうしてそんなこと聞くんですか?」

 玲さんの、玲さんらしからぬ冷めた声が、僕の足首を掴んだ。

「いや……」

 玲さんは逃がしてくれそうになかった。僕たちの仲が今こんな状態だから、他愛のない会話から修復していこうとしているのだろう――質問したあと、玲さんがそんな感じに捉えてくれれば正当化できるかもしれなかったのに。僕の精神状態はさっきとはまるで違った。頭がうまく回らない。

「……よく、覚えてないです」

 僕が困窮しているのを察してか、玲さんの言葉には少しだけ温かさが戻っていた。

「ももこちゃんと出会う前のことは、私も小さかったので覚えてません。ももこちゃんと出会ってからは、明るくなったと思います。もともと暗かったって、ももこちゃんにも店長にも言われてたので」

「そうですか……」

 なんとなく、気を遣われている気がした。その言葉の温かさは、いつもの玲さんから感じるものとは違った。

 それでも教えてくれたのは、やっぱり玲さんが優しいからなんだと思う。それが情けだとしても。こんな状況でさえ、結局玲さんはいつも優しい。僕はその優しさに甘えて、少しだけ落ち着くことができた。

「玲さんが暗かったなんて、考えられないですね」

「……そうでしょうか」

「はい。少なくとも今の玲さんにはそんな面影ないですよ」

「……そうですか」

 嬉しそうな声だった。程度こそいつもより大分控えめだが、確かに喜びが含まれていて、それを聞いた僕も条件反射的に口の端をつり上げていた。

「あれ、そういえば」

 ふと思い立ったことを、僕は喜びが声に出ないよう気をつけながら言った。

「玲さんは、店長とも昔からの知りあいだったんですね」

 あの仲のよさは店長とバイトなどという弱い繋がりでは説明できないものだと常々思っていたが、旧知の仲ならば、なるほどあの良好さも頷ける。しかも店長から玲さんへの一方通行ではないところがミソだ。仕事以外にも何か強い関係を持っているに違いない。しかしこういう時、店長が男なのにやましい想像が浮かんでこないというのは、やはり店長の人間性の賜物だろうか。違うか。

「……?」

 なんとなく、違和感があった。

 玲さんの返事がない。いや、それ以前に玲さんの足音がいつの間にか消えていた。

「玲さ――」

 振り返ると、僕のすぐ後ろをついてきていた玲さんは、十メートルくらい後方で立ち止まっていた。嫌な予感がして、僕は慌ててかけ寄る。

 玲さんは放心していた。というより、何かに怯えるように虚空を見つめていた。

「れ、玲さん? どうかしましたか……?」

 その視線に僕が割り込むと、玲さんはすぐに我を取り戻した。しかし僕と目をあわせようとせず、あちこちに視線を彷徨わせる。

「あ、いや……えっと、なっ、なんでもないので……」

「大丈夫ですか?」

「は、はい。本当に何でもないんです。本当に……」

 尻すぼみに声が小さくなって、表情も比例して暗くなっていく。ただ暗いわけじゃない。暗いのに、諦めたような小さい笑みを浮かべていて、辛そうだった。

「ごめんなさい、不躾でしたか……?」

 またやってしまったか、と罪悪感に(さいな)まれて、謝らずにはいられなかった。そして一度足踏みをしてしまった代償は大きい。玲さんの顔を見ると、僕はもう何も聞く気にならなかった。

「全然、何でもないです。謝らないでください。潤さんが悪いわけじゃないですし」

「いや、でも……」

「気にしないでください。本当に大丈夫なんですよ? 心配かけてごめんなさい。このとおり、私はもう平気です」

 腰に手をあてて鼻を鳴らす玲さんは、確かに、もとの玲さんに限りなく近かった。半日続いていたあの憂いた表情も、今はどこにもなかった。いつもどおりの玲さん。に、近いというだけ。無理をしているのは明らかだ。これだけ大丈夫大丈夫と連呼されて、本当に大丈夫だと思うわけがない。

 でも僕は、それを受け入れるしかない。僕が真実を求めるがゆえに玲さんに何かを言って、せっかく貼りつけた仮初の玲さんを剥がしてしまうのが、恐い。

 だから疑念を抱き、邪推してしまう。ももこさんの年齢を聞いた時は大丈夫だったのに、とか、店長と何か浅からぬ因縁があるんじゃないか、とか。もしかしたら僕の知らない暗い部分が二人の間にあるんじゃないか、とか。考えれば考えるほど悪い方向に行ってしまって、なんとなく僕の中での二人の関係がそういう風に上書きされてしまう前に、僕は考えるのをやめた。というより、今は気にしないことにした。正直に言えば、もう袋小路なので諦めた。これ以上問い詰めても、いいことなんて何もないと思った。

「さ、行きましょう」

 玲さんが先陣を切って歩き出す。絹糸のような栗色の髪が僕の鼻をくすぐった。




 その日は、お互いの家の最寄りである駅を出てからすぐに解散となってしまった。

 僕はももこさんの言ったとおり「家まで送りますよ」と言ったが、玲さんは笑って「ここまでで大丈夫です」と言って惜しむ気配もなく去ってしまった。煙に巻かれた気分だった。少し肩を落とした僕は、ある程度落とし終えると、ひとつため息をついて家路についた。不思議と玲さんを追いかけようという気にはならなかった。

 その翌日も、そのまた翌日も、僕と玲さんは何とも言えない距離感のまま、シフトが終わっては一緒に帰りを繰り返した。その間も、今までどおり会話はできるようになったとはいえ、険悪になる以前のようにはいかなかった。むしろ一定の距離ができてしまった気がする。ギクシャクするよりも嫌な、限りなく改善し得ないような距離だ。

「潤さん、レジお願いします」

「了解です」

 そんな事務的な会話も、これまでの朗らかな笑みはそのままに、紙を一枚挟んだような、もどかしい感覚があった。業務なのだからそれくらい普通なのかもしれないが、それが普段の会話でも感じられてしまうと、もうどこにも抜け道がなく、妥協しながらやっていくしかないとさえ思えてくる。その先の展望も霞んで見えなくなる。僕と玲さんの関係はここで終わりなのだと、何かが訴えかけているような気がする。

「あの……」

「はい?」

「一万円なんですけど……」

「えっ」

 トレーには五十円と十円が一枚ずつと、一万円札。レジに表示されているのは「1060」で、僕の手には五百円玉。打ち間違いだった。

「もっ、申し訳ありません……!」

 僕は危うく渡しそうになった五百円玉を引っ込め、九千円分の紙幣と、続けて五百円玉を再度手渡す。そこで僕は初めて、相手が若い女性だったことに気がついた。もう一度頭を下げると、女性は「いえいえ」と柔和な笑みを残して店をあとにした。

 僕はお金をすべてレジにしまうと、レジ台に手をついて深呼吸した。

 仕事に集中できていないのは僕自身わかっていた。だが集中しなければ、と思うほど不安が大きくなって、気づくとそれが頭を埋め尽くしていた。このまま何もかも終わってしまいそうな不安。自分の無力さに対する不安。振り向くとそこに玲さんはいるのに、その瞳には僕が写っていないという不安。その不安は、恐怖ですらあった。

 聞きたかったことも聞けていない。あれだけ息精張っておいて、よくも容易く断念してくれたものだと、僕は僕を責め続けた。

「潤さん、外の掃除お願いできますか?」

「あ、はい」

 僕は「ありがとうございます」と笑った玲さんに苦笑いを返して、店の外に出た。

 冬らしい鼠色の曇り空が、僕の上に重くのしかかった。すうっと息を吸うと、冷気が鼻腔に刺すような刺激をもたらした。僕は、この世界の何ものをも敵のように感じていた。それはこの空気であり、この空であり、そしてこの選択の数々だった。

 そして、玲さんより二時間早く上がった僕は、いつしかの玲さんと同じように、店の隅に座って、また冷たい雨の降る冬の空をひたすら眺めていた。




 あの時と同じルートを選び、寂れた商店街を抜けると、雨が止んでいた。今度は雨上がりの生々しい匂いがした。

「雨、止みましたね」

 玲さんが言った。

「そうですね」

 僕はぎこちない微笑を浮かべていた。

 そこから少し歩いていくと、駅舎が見えてきた。時間が時間だからか人はまばらだ。僕はリュックからパスケースを取り出して、前を行く玲さんと同じ改札を通る。玲さんが僕と同じようにICカードの入ったパスケースをタッチしていたのが、なんだか妙に新鮮だった。

 時々視線を感じるのは、玲さんの服装に対してだろう。玲さんも慣れているのか、特に気にした様子はない。一方の僕はそういった経験がないので、視線が集まっているのは玲さんなのに、いやに気にしてしまう。

「慣れっこですか? 見られるの」

「まあ、いつものことなので」

「……そうですか」

 味気ない返事が、僕の頭を揺すった。

 乗客の少ない上り電車に乗って、いつものように隣同士に座る。ふと目に入った中吊り広告にアイドル特集みたいな見出しがあったが、僕も玲さんも特に触れることはなかった。少なくとも僕は触れる気にならなかった。僕たちはこれといった会話もせず、互いに牽制しあうような空気のまま、しばらく電車に揺られた。

 どうしたらいいのかわからなかった。三、四日もこんな状況が続いて、僕は何をするのが正解なのか、何が僕の取るべき行動なのか、一向に見当がつかないままだった。ただ、決して現状を維持しているのではなく、悪い方向に着々と進んでいるのは明確だった。

 玲さんを横目に見ると、わずかにかかった前髪の奥から覗く大きな瞳が、反対側の車窓の景色を写し込んでいた。僕はその美しさに少し見惚れながら、その中に僕の姿を探した。

 玲さんの表情は儚げで、手に持ったガラス玉を今にも滑らせて落としてしまいそうな、己の無力さを感じさせる危うさがあった。触れていなければ壊れてしまいそうで、触れていても壊れてしまいそうな、どうしようもない危うさ。しかしそれゆえの神聖で耽美的な空気を纏っていて、この人物が玲さんであることに戸惑った。溌剌とした玲さんも、危うさを秘めた玲さんも、どちらもひとつの肉体に宿っている同じ人の側面であることに、僕は吃驚を禁じ得なかった。

 その時、サイレンのような独特の機械音がけたたましく車内にこだました。

 はっとして外を見ると、いつの間にか電車は僕たちの最寄りの駅に到着していた。

「潤さん!」

 車掌の笛が鳴っているところで、玲さんが僕の手を取った。

 無我夢中だった。僕は玲さんに引っ張られながら慌てて、閉まりそうなドアを間一髪すり抜けた。そして僕たちを吐き出した列車は早々にホームから離れて、追従し損ねた風が八つ当たりするように僕たちの背中を叩いた。

「あ、危なかったですね……」

「すみません、僕ぼーっとしてました……」

「いえいえ、潤さんのせいじゃないですよ!」

 玲さんの息は少し上がっていた。僕も、危機を回避した安堵から汗と動悸が止まらなかった。

 ゆっくりと息を吸い、吐く。注意力散漫も甚だしい。僕は何のために玲さんと一緒に帰っているのか。何故玲さんを護るべき僕が、玲さんに助けられているのか。ボディーガードもへったくれもあったもんじゃない。

 ふと、何かが僕の手を握っているのに気がついた。目を落とすと、玲さんの手がしっかりと、僕の手を握り締めていた。

「あっ……」

 僕が何かを言うより先に、玲さんは慌てて僕を手放した。

「ご、ごめんなさい……」

「いえ……」

 僕を握っていた手を背後に隠し、頬を赤くして俯く。玲さんの手の生身の温もりが、まだこの手に感触として残っていた。玲さんは二、三度深呼吸をすると、頬を上気させたまま乱れた前髪を整えた。

「大丈夫ですか?」

「あ、はい。運動なんてあんまりしないので、ダメですね。体力なくて」

 照れたように苦笑を浮かべた玲さんは、前髪に満足がいくと、組んだ両手を突き上げて、ぐぅっと背を伸ばした。

「さてと。じゃあ行きますか」

 それから手をほどき、くるりと踵を返して、階段の方に歩き出した。

 行かせてはならないような気がした。特急電車が通過するというアナウンスが反響している。ホームには誰もいない。この手にはあの温もりがまだ残っていた。

 玲さんの背中を追いかけるよりも、何かもっと大切なことがある。伝えるべきことがある。僕は何も知らないし、何ができるかもわからない。だが僕は、玲さんに恋をしたひとりの男として、伝えなければならないことがあった。

 危うさを秘めた玲さんにとって、僕はどういう存在であるべきなのか。そんなものは玲さんが直接「こうあってほしいです」なんて言うわけがなくて、何も知らない僕が僕なりに感じ取った玲さんの孔を、僕が埋めなければならないと思った。

 自己満足と言われてもいい。もしかするとまったく見当違いなことを考えているのかもしれない。何が正しいのか、確かめる術はない。ただ、僕が玲さんにとってどうありたいかという自分勝手な存在の肯定だけはしたかった。そうやって玲さんと、新しく繋がっていたいと思った。

 言え。言え。

「玲さん」

 呼ぶと、玲さんは歩を止めて僕に振り返った。

「僕は……」

 声が止まる。だがすぐに、襲ってくる恥ずかしさや緊張をなんとか追いやった。

「僕は、何があっても玲さんの味方でいたいです」

 玲さんの目が丸くなった。

 それをわかっていて、僕は続ける。

「玲さんが過去に何を経験したとか、どんな辛い思いをしたとか、今の僕には想像がつかないですけど……。でも僕は、少なくとも玲さんが思っているよりは、僕のことを頼りにしてほしいと思ってます」

 一度は怖じ気づいた男が何を言っているんだと自分で思ったが、あの時の僕とは何かが違った。

「だから、待ちます。玲さんがちゃんとありのままの玲さんを僕に見せてくれるまで。無理に聞き出すとか、そういうのはしません」

 これはもしかすると、玲さんの仮面を剥がすことになってしまうのかもしれない。玲さんの危うさを露呈させてしまうのかもしれない。

 それでも、僕はそんな玲さんのすべてを包み込んで護るくらいの味方でいたい。それだけは伝えたい。

「僕を信じてください。何があっても味方でいます」

 やっぱり、好きだ。僕は玲さんが大好きだ。それを口にしてしまいそうになって、寸前で堪えた。

 ……いや、堪えてから気がつく。今のセリフは告白同然ではないかと。

 あとの祭りだった。言ってしまったものはもうどうにもならない。顔どころか体中が茹でられたように熱くなった。

 玲さんも、ひときわ大きく開いた目で僕を見たまましばらく動かなかった。その視線に耐えかねて、僕は目を逸らした。明らかに後ろめたさを感じているように。

 何を気取ったことを言っているんだと、僕は自己嫌悪に陥った。勢いに任せていらないことまで口を突いて出たことが、本当に恥ずかしい。死にたい。穴を掘ろう。スコップを買ってこなくては。

「――ふふっ」

 僕の頭があらぬ方向に現実逃避を始めたところで、失笑が聞こえた。他でもない、正面から。

 恐る恐る顔を上げると、玲さんは手で口もとを隠して笑っていた。今にも吹き出してしまいそうになるのを我慢するように。そして落ち着いたところでもう一度ちらりと僕を見て、またクスクスと笑う。

「れ、玲さん?」

 声が上擦った。同時に、背筋を逆撫でされたような悪寒が襲ってきた。

 急に何を口走っているんだこいつは。こってこての決めゼリフでかっこつけたつもりか? あー恥ずかしい。いやむしろこっちが恥ずかしいわ。本気で言ったの? いや悶絶ものだわ。言ったあとに死を覚悟するレベル。

 玲さんの口からは未来永劫出ることのなさそうな罵詈雑言が聞こえてくるくらいには追い込まれていた。それだけ自分の言ったことが恥ずかしくてたまらなかった。

「あっ、ご、ごめんなさい。その、私そんなこと言われたの初めてで、嬉しくて、つい……」

 笑顔をたたえたまま言ったその言葉を、僕は聞き逃さなかった。

「嬉しい……ですか?」

「はい、嬉しいです。とっても」

「嬉しい、ですか……」

 まもなく特急電車が通過します――と少し演技がかった駅員のアナウンスが再びホームに響いた。

 そこに危うさの影はなかった。あるのは、僕がこの二カ月で慣れ親しんだ、夏の太陽のような笑顔だけだった。火照った笑顔に浮かぶ黄玉の瞳の中に、今度は確かに僕を見つけた。

 壁も、紙を挟んだようなもどかしさも、すでにどこにもなかった。僕が手放しかけた唯一の存在の、こうであってほしいという姿が、紛れもない現実としてそこにいた。

「潤さん」

 再三のアナウンスが流れる中で、玲さんは僕の目を見ていた。

 火照った頬が艶やかに、白々としたホームの灯りに静かに映えた。甘く溶け出す雪のような吐息は、音もなく、夜の底に沈む大気のゆるやかな流れの中に放たれて、そして消えた。

「私は――」

 列車が通る。

 風と、車輪と線路が触れる重い金属音が、玲さんの言葉をかき消した。

 何も聞こえない。僕はただ、声を伴わない玲さんの唇の動きを見ているだけだった。ただ必死に、伝えようとしていることを受け取りたかった。

 しばらくすると、玲さんの唇は緩やかな曲線になった。はっとして視線を上げると、そこにはいつもどおりの玲さんの笑顔があった。……いや、いつもよりも美しさを備えた、それでいて明るい、数段魅力的な笑顔。初めて見る、とっておきの笑顔。

 頭が熱くなった。心臓がいつもより速く鳴る。あらがうことのできない本能的な現象なのは知っていた。だから、いつもはどうすればバレないかをすぐ考えるのに、今はそこにすら辿りつけない。

 列車が通過して、連れてきた風が僕と玲さんの髪を大きく揺らした。玲さんの笑顔が一瞬だけ栗色の髪に隠れ、また覗かせた時には、いつもの笑顔に戻っていた。

「行きましょう、潤さん」

 玲さんはまた僕に背を向ける。

「は、はい……」

 僕もその背中を追う。

 名残惜しかった。あの笑顔が頭から離れない。どうすればまたあの笑顔を見られるだろう。どうすれば、あの笑顔をまた僕に向けてくれるのだろう。階段を下りる時も、改札を出る時も、そればかりを考えてしまっていた。それくらいに強烈で、印象的で、尊いものだった。

 今、あの笑顔は、僕の目指すものになった。

 玲さんが何を言っていたのかはわからない。でも今は知らなくていい。またあの笑顔を見ることができたなら、あの時何を言っていたかもわかる気がした。

「――あ」

 玲さんが突然立ち止まった。本当に突然だったので、危うく後ろからぶつかるところだった。

「どうしました?」

「あの人です」

「?」

 玲さんが指差した方を見ると、駅舎の入口にある柱の影に、誰かがいた。後ろ姿で、右半身が隠れていてよくわからない。が、一見して性別は判断しかねるが、どちらかというと男の影だ。

 ……男?

 その単語が頭に浮かんですぐ、胸が大きく鳴った。無論、さっきとは根本的に違う意味で。

「あの手紙は、あの人からもらったんです」

 玲さんの端的な発言は、僕の頭を醒まさせるには十分すぎた。

 そもそもどうして僕が玲さんと帰ることになったのか。都合よく自分のことしか考えず、うつつを抜かしていた。店からここまでの道程は僕のものじゃなく、玲さんのものだった。

 ストーカー。

 思いきり頬を殴られた気分だった。現実に引き戻される感覚。それも、最悪の現実に。

「あ、気づきましたね」

 男は僕たちに気がつくと、慌てた様子でその場から離れていった。

「潤さん?」

 気づかれた。それがこの状況ではかなり重たい足枷になったのは、僕でもすぐに理解できてしまった。目的の人物を見つけて、他の男と一緒にいるところを見たのだから、そのあとのことなんて想像もしたくない。

 目を逸らしていた現実を突きつけられた気がして、何か行動を起こさなければいけないのに、何も思いつかない。甘かった。どうにかしないと。最悪の事態ばかりが浮かんで一向に対策が浮かばない。

 一体どうすればいい? どうすれば玲さんを危険から遠ざけられる? どうすればこの状況を――

「――追いかけましょう」

「えっ?」

 僕は思わず振り返った。僕の頭の片隅にすらなかった案を、当の本人が提言してきた。

「お、追いかけるって、それは……」

「だって向こうは逃げたんですよ? ならむしろ私たちの方から追えば、イニシアチブが取れるってもんですよ!」

 自信満々に拳を突き上げる玲さんは、まあわかってはいたが、まるで他人事のような言い草だ。

 とはいえ、玲さんの提案に納得している自分もいた。確かに逃げているのは向こうだし、下手に背を向けてしまうよりも効果的かもしれない。攻撃は最大の防御というやつだ。

「……そうですね。そうしましょう」

 言い切る前に、僕は男が消えていった方に爪先を向けていた。

 ももこさんに任された大役を果たす時がきた。こんなことになって、一般人である僕に何ができるのかはわからない。

 でも、どうなるかわからないのなら、いい方に賭けてみなきゃ損だと思った。


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