小十郎 その二
小十郎 その二
その晩、小十郎は志乃と美代に、左門との縁談話がまとまらなかったことを告げた。
「それは残念でしたね。けれど仕方のないこと、だれのせいでもありません。そのうちにまた良い話が来るでしょう」
いくぶん気落ちした様子で志乃は言った。が、哀しくも不運に慣れてしまっているせいか、どこかでこうなる事を予感していたのかもしれなかった。
「だれのせいでもない、はたしてそうでしょうか。父上が不始末を起こさねば、美代も嫁に行けたはず。そして減封されなければ、私たちもこのような貧乏暮らしをせずに済んだのではないですか。母上も、叔父や叔母や親戚すじから皮肉を言われることもなく、心安らかな日々を過ごせたでしょう」
やりきれない思いにかられた小十郎の口からつい、愚痴がこぼれ出た。
「父上を悪く言ってはなりません。もう済んだことなのですから」
志乃は小十郎をたしなめながら、しずかに目を伏せた。
郡代を務めていた父の久兵衛が、年貢の記録を改ざんしていたとして減俸の沙汰が下ったのが3年前。処分としては軽いほうだが、それを境に久兵衛は病床についてしまい、一年後にはあっけなく世を去った。
その後、家督をついだ小十郎に、世間の風は冷ややかだった。
小十郎には許嫁がいたのだが、父の件でそれも白紙に戻された。
相手は近くに住む幼馴染で、佐登という娘だった。子供の頃から気心の知れた仲であり、いつかは夫婦になるのだろうと、二人とも幼心に感じ取っていたものだが、思わぬ出来事により、固かった二人の縁は手の届かないところへ遠ざかってしまった。
今でも道ですれ違う程度には顔を合わせることがあり、佐登がそのたびに何か言いたそうにこちらを見ているのを知ってはいたが、小十郎は目も上げずに通り過ぎた。
いまさら話すことなどなにもなかった。
それに、風の便りに佐登がどこかへ嫁ぐらしいことも聞いた。
なにもかも変わってしまったのだ、小十郎は徐に立ち上がり、部屋の障子を開けて夜空にかかる月を見上げた。
それからひと月ほど後、師範の菅野康助から、他流試合を取りおこなうとの達しが皆にあった。他流試合は年に数回ほど催されていたが、小十郎の剣腕は並み程度、今回も己の出番はないだろうとさして気にも留めてはいなかった。
いつも通りに稽古を終えた帰り道、佐登の家の近くを通りかかったとき、薄闇の中を数人の男がこちらへと歩いてくる。佐登の家から出てきたようだ。前を往く二人が話す声がしんと静まり返った小路に響き、聞くともなく小十郎の耳に入った。
「祝言は早いに越したことはない」
「ですが父上、本人がなかなか承知しないのです」
「結納金でもたんまりくれてやればよかろう」
「しかし、それでうんと言いますか……」
「親の命には逆らえまい」
「なるほど。ではそちらはお任せします」
道脇によけてややうつむき、一行をやり過ごしながらすれ違いざまに小十郎は先頭の二人の顔を見た。どこかで見た顔だと思ったら、若い方の男は小十郎の上役、猪熊大二郎だった。猪熊はあまり良い人柄とは言いがたい人物で、小十郎のような軽輩の者にはなにかと横柄な態度を取り、当然評判は悪い。話から察するに、猪熊が佐登の縁談相手のようだ。
彼らは話に夢中で、小十郎に気づかず通り過ぎていったが、小十郎の胸にはなんともいえない不快感が残った。
翌日、登城した小十郎は、猪熊が他流試合で対戦する相手道場に在籍していることを知った。猪熊本人がそう告げたのだから間違いない。
昨日猪熊親子の話を訊いてしまった小十郎は、できるものなら猪熊を打ち負かしたい心境にかられたが、それが想いのかなわなかった佐登に対する未練かもしれないと思うと、己が女々しく感じられて、すぐにその考えを打ち消した。
その日の稽古は荒れたものになった。こうでもしなければ、すぐに佐登のことが頭にちらついてしまう。周りはどうしたのかと心配してくるが、何と応えようもない。尤も、いくら荒れたところで急に強くなるわけでもなく、逆に集中力を欠き、無駄に動いて小十郎はさんざんに打ち負かされた。
体中アザだらけにして道場を出た小十郎が家の前まで来ると、門前に佐登が佇んでいた。
小十郎に気付いた佐登は、沈痛な面持ちで彼を見、何か言おうとしたがそのまま俯いてしまった。
「何か用か」
「いえ、あの……」
何かを言いかねているのはたぶん輿入れに関係することと思い、先に小十郎が口を開いた。
「縁談だそうだな。おめでとうござる」
祝の言葉を述べると、佐登はぴくりと身を固くして寂しそうに言った。
「まだ決まったわけでは……」
なおも続けてなにかを言いたそうな様子だったが結局は口を閉ざしたままで、間を持てあました小十郎が辞して家に入ろうとしたとき、数間先の角から誰かが姿を表した。猪熊であった。
「佐登殿の屋敷を訪ったらこちらだと言われたゆえ、参った。しかし佐登殿、春には祝言をあげる身でありながらほかの男の家を訊ねるなど、さようにふしだらな真似をされては困りますな」
「まだ正式にお返事申し上げたわけではありません」
佐登は毅然と猪熊を見返して言う。猪熊は、応えながら無意識に小十郎の後ろに半歩ほど下がった佐登に鋭い視線を送った。
「だが、すでにお父上からは良い返事をいただきましたぞ」
狡猾そうな笑みを浮かべる猪熊を前に、佐登は言葉を失い、唇を噛んで俯いた。
「さあ佐登殿、帰りますぞ。持田、家の前で騒がせたな。家人にはよしなにお伝え願いたい」
ぶしつけに近づいた猪熊の手が伸びて、腕をとられた佐登の悲しげによせられた柳眉を、小十郎は見た。
「お待ちくだされ、猪熊様」
自分でも知らないうちに猪熊を呼び止めていた。
「……なにか」
先程よりも悪意に満ちた猪熊の顔に、小十郎はたじろぎ、すぐに呼び止めたことを後悔した。ここで悶着を起こしては、これまでの辛い毎日が無駄になってしまう。微禄とはいえ、首がつながっているだけまだマシであるのに、もしも上役である猪熊の機嫌を損ねて役を取り上げられることにでもなれば、母や妹はどうなるのだ。
「持田、言いたいことがあるならはっきり申せ」
あざ笑うように猪熊が口を歪める。腕を掴まれたままの佐登が、猪熊の背後から小十郎に何も言うなと言うようにそっと首を振った。すると、小十郎の頭から迷いが消えた。
「猪熊様、佐登殿は私の母に針事の用があって参られたのです。やましい事はつゆほどもありませぬゆえ、その手をお離しくださいませぬか。帰りはそれがしが送りますので、どうぞお先にお帰りください」
流れるように口から言葉がでる。
上役も己の立場も大事だが、今はそれよりも、もっと大事なものがあった。
「帰れと申すか、なんと無礼な。きさま、わしにたてつくのだな」
猪熊は小十郎の態度に腹を立てたようだ。
張り詰めた空気が流れ、引くに引けない状況になったと小十郎が感じたそのとき。
「そこにおられるのは持田殿ではないか」
殺気立つ空気を壊すように、小十郎の背後から声をかけてきたものがいる。坪内左門だった。
「ちょうどよい、貴公に用があったのだ。だが、なにやら取り込み中でござるかな? 邪魔をしてしまったなら申し訳ない。そちらの用向きがすむまで、それがしはここにて待つゆえ、どうぞ話を続けてくだされ」
力の抜けるような呑気な言い様に、猪熊もすっかり拍子抜けしたようで、ふぅと息を吐くと
「今日のところは帰るといたそう。だが持田、覚えておれよ。試合の際はそこもとにお相手願う」
そう言って佐登の腕を離し、背を向けて去っていった。
思わぬ左門の登場により、ともかくはこの場が収まったことに安堵した小十郎は、はぁと深く息を吐きだした。
「すまぬな。なにやら剣呑な様子でござったゆえ、つい邪魔立てしてしまった」
頭を掻きながら詫びる左門に、小十郎はかぶりをふった。
「とんでもございません。それどころか助かりました」
礼を言ったあとで、まあ茶でも一服、と左門と佐登を家へと案内した。
畳の擦り切れた和室で、小十郎は左門に、猪熊との経緯を説明した。佐登は久しぶりに会った美代と別室で話し込んでいる。
「なるほど。では試合の折は、あの御仁と立ち合うことになると見てまちがいないな」
「おそらくは。しかし猪熊様は一刀流の遣い手と聞きますゆえ、私など手も足も出ないでしょう」
「なんの、勝負はやってみなければわかりませぬぞ」
「正直言って剣には自信がありません。それに負けても身から出たサビですし、仕方のないことですから」
うぅむ、と腕を組んで天井を見上げた左門だが、実際、猪熊と小十郎との力の差は最初に見たときからわかっていた。
と、失礼します、と声がかかり、襖を開けて志乃が茶を持ってきた。志乃は左門の前に湯のみを置くと、道場で小十郎が世話になっている旨を謝し、また先日の縁談の件をわびて頭を下げた。
「その節は大変ご無礼申し上げました」
「いやいや、元はと言えば誤解を招いたそれがしが悪いのですから、さようなお気遣いは無用です」
そう言って、志乃に勧められるままに左門は茶をすすったが、その行きどころがいけなかったか、盛大にむせ返った。驚いた志乃が、
「大丈夫ですか? 少々熱すぎましたでしょうか、申し訳ありません」
と、詫びながらすぐさま左門の背を軽く叩くと、すぐにそれはおさまって、左門は困り顔で眉を下げ、かたじけない、と小さな声で言った。
「無礼なことをいたしまして、あいすみません」
志乃は思わず背を叩いてしまったことに恐縮して頭を下げたが、左門はむしろ照れくさそうに苦笑しつつ、なにやら締りのない顔になっている。
「無礼などとはとんでもない。こちらのほうこそみっともないところをお見せして、お恥ずかしい限りです。ともあれ、おかげで楽になりました」
「まあ、恥ずかしいことなどございませんわ。熱いお茶をお勧めした私が不注意だったのです」
「なぁに、茶が熱いのは当然のこと、拙者が慌てものだっただけですから、どうぞ忘れてください」
「そう言ってくださると安心いたします。けれど、次からはお茶が熱すぎないように注意いたしますわ」
「ですからそれは拙者が……」
焦る左門の様子に堪えきれず、くすくすと志乃が笑い出す。左門は一瞬きょとりと目を見張ったが、すぐに膝を叩いて笑い出した。
「坪内様が小十郎のおそばにいてくださるのは、誠にありがたいことですわ」
ひととおり、笑いがおさまると、志乃は安堵の笑みを浮かべて幾度も礼を言い、部屋を下がっていった。
先ほどから何となく二人の話に入り込めない気がしてだまっていた小十郎だが、ようやく終わった会話にやれやれとばかりに、さっそく本題を切り出した。
「坪内殿、先ほどの続きですが、そういったわけで坪内殿や師範にもご迷惑をかけることになってはと、私は案じられてならぬのです」
「……」
「坪内殿?」
返事がないのを訝しみ、小十郎が眼を上げると、左門は志乃が閉めた襖の方を呆けたように見ている。
「坪内殿、いかがなされました?」
どうかしたかと心配になり呼びかけると、左門はおどろいて振り返った拍子に湯のみを倒した。こぼれた茶が左門の袴にかかり、熱さに一瞬顔をしかめる。すぐに小十郎が志乃を呼ぼうとすると、左門はその必要はないと言い、慌てて自分の袖やら懐やらに手を突っ込んで手ぬぐいを探っていたが、結局は自分の袖でそれを拭いた。火傷でもしてはいまいかと案じる小十郎に、左門は情けない顔で、はは、と笑いながら頭を掻いた。
「ま、まあ、それはともかく、いろいろ事情があるようですから、とりあえず明日から拙者が稽古をつけましょう」
左門はこほん、と咳をひとつし、濡れた袖をまくりあげながら言った。
「坪内殿が?」
「さよう、その猪熊とかいう御仁に備えねばなりますまい。僅かな期間ではあるが、なにもせぬよりはましでしょう」
思いもよらない左門の申し出にありがたく礼を言ったものの、実は左門が剣を振るっているところを見た記憶が小十郎にはあまりなかった。道場には顔を出してはいたが、果たしてどれほどの腕なのかさっぱり見当もつかない。なによりも、仕合まであとわずかな日数しかないことを考えると、はたしてどれほど猪熊に対抗できるのだろうかと、小十郎は不安を拭えなかった。
左門が帰りしな、ついでに佐登を家まで送ると言ってくれたのだが、そこまで頼むのはさすがに気が引け、小十郎が送っていくことになった。偶然にも左門も同じ方向だったようで、道中なんとなく三人で歩くこととなり、そのまま佐登の家まで着くと、小十郎宛に猪熊からことづてがあり、猪熊が試合で小十郎に勝ったあかつきには、無条件で佐登を妻にすると言ってきた。
つまり、引き分けるか、あるいは小十郎が勝たなければ、佐登には選択の余地もないということである。
「なんと一方的な」
左門が眉をひそめて言った。
「佐登殿、すまぬ。私が余計なことをしたばかりに、とんだことになってしまった」
「何を言われます、小十郎様。私のためにしてくださったことではありませんか。それに、どのみち初めからお断りし難い縁談だったのです。小十郎様がお気になさることはありません」
うなだれる小十郎に、佐登はつとめて明るく振る舞う。
佐登の家も小十郎と同様の軽格で、内情は苦しい。猪熊との縁談が決まれば佐登は上士の妻となり、実家にも多少の見返りがあるのだ。それでも、こんなかたちで佐登を追い詰めてしまった自分に、小十郎はやりきれない想いを感じていた。
すると、黙って聞いていた左門が言った。
「要は試合で負けなければ良いのであろう。そうすれば佐登殿も無理に嫁ぐこともない」
「それはそうですが、私の力ではとうてい猪熊様には及びません」
「なに、やってみなければわからぬさ。ともかく、今は出来ることを致しましょう」
――存外、呑気な御仁だ。
簡単に言ってのける左門に、小十郎の不安はいっそう煽られた。
―三へつづく―