第7章 想い(2)
堅は静かなオフィスに入ると部屋の照明をつけて足早に自分のデスクへと
向かう。パソコンを立ち上げると書類の入ったメモリーステックを手際よく取
り出して電源を切った。きちんと片付けられた机の端っこに腰掛ける。
ブラインドを下ろした窓を見ると僅かに光が漏れて室内に入ってくる。
無意識に綾香の事を考えていた。
(逢いたい)
胸のポケットに入っている携帯電話に手を伸ばす、一瞬平尾に調べさせよう
と思ったのだ。太くて長い指先が電話に触れると思い直した様に手を取り出
した。
(いや、ダメだ!こんな事をしたら。街を出てどこかに気晴らしに出かけよう)
思い直してメモリーステックを上着のポケットに押し込むとオフィスを後にした。
エレベーターを降りると警備員がまた堅に向かって敬礼をする。それを一瞥し出
口に向かうと見覚えのある背中が一瞬目に飛び込む。
「!」
我が目を疑った。
鼓動が一気に早くなる。ビルの外側に居る彼女は降り注ぐ日差しに照らされ
ていて透明なガラスを隔てて夢の向こう側に居るかのようにすら感じた。
あんなに逢いたかった綾香が前方に居る。声を掛けようと思った瞬間テナン
トオフィスのエレベーターから降りた男が勢いよく出て行き綾香にぶつかるの
を見た。
(あ!)体が強張った。
堅は思わず走り出し駆け寄りたい衝動に駆られた。良く見ると怪我はしていな
い様だ。思い直して心の中で両足を押さえ込むと綾香を見つけてほんの数秒
で心拍数が極限まで上昇した位の胸の高まりを抑えた。
深呼吸する。息を深く吸い込んでゆっくりと足を動かした。
(こんなにも緊張している自分を悟られたくない)
ゆっくりと近づくとぶつかった中年の男が綾香を怪訝そうに見ている。数メート
ル離れていた堅に聞こえるくらいの大声で怒鳴った。綾香の頬が膨らんで男を睨
んだのを見て走馬灯のように、初めて出会った日の事を思い出していた。
(彼女はきっと言うな)
綾香の口が開いた瞬間。堅も口にしていた。
「人にぶつかっておいて謝る事も知らないのか?!」
驚いた様子で綾香が堅を見た。足を踏み出すたびに心臓から血液が体内に
押し出される瞬間の音が全身に響き渡る。
綾香と目が合う。
この瞬間がビデオのスロー再生のように瞳に入ってくると何とも言えない喜びと
切なさでいっぱいになる。一歩また一歩ゆっくり近寄ると心拍数は驚くほど早く
なっていた。(逢えた。目頭が熱くなりそうになる。こんなにも僕は綾香が)
まるであの日からの1週間が1年にも2年にも長く感じた。
「また逢えたな」
態度には表さないが彼女がどんな反応をするのかまるで見えない触手が全
身から綾香に向かって伸びているような感覚に陥っていた。
綾香は大きくうなずく。
「うん」
満面の笑み。声もしぐさも、一つ一つが愛しい。
綾香の手から本が零れ落ちそうになり、とっさに綾香の手を包み込むように支えた。
必然的に距離が縮まり彼女が腕の中にいる。胸に当たる綾香の体が冷たく固くなって
いた堅の心に暖かく響いた。
抱きしめているような錯覚を振り払いながらも伝わる温もり。そしてかすかに
髪からシャンプーの匂いがした。鼓動が一層強く早く脈打ち音が聞こえないかそれが
凄く心配になる。胸の中で綾香が微かに声を出すと我に帰り本を受け取った。
少し離れて綾香は目を逸らす。治まりそうにない胸の高鳴りを意識しながらど
うしたら良いか分からなくなり手元の本に目をやった。
(フランス語?文学??)
この状況を何とかしようと口を開く。
「フランス文学?意外にまじめな本読むんだ」
(また捻くれた言い方をしてしまったな・・)自分にイライラした。
(普段はこんな風に口にしてから後悔する事なんて無いのに綾香の前だと何故こんな
風になってしまうんだ?!)
すると綾香は頬を膨らました。
「読むよぉ私だって。またそういう事言うんだ」と堅を見上げる。
綾香の顔は少し笑顔交じりで頬が膨らんでいる。その表情が可愛くてたまら
なかった。
「あはは、冗談だよ、ゴメン」
お茶に誘うと心は躍りだすような心境だった。
(少しでも長く彼女と話していたい)
綾香を車に乗せて運転席に乗ろうと車の後ろから回りこむ。ドアに手を掛け
て深く息を吸いこみ運転席に滑り込んだ。狭い車内で思いのほか距離が近く、また
心拍数が上がるのを感じた。