第7章 想い(1)
堅はシャワーを浴びてミネラルウォーターを口にすると鏡の前に立ち、自分の
体をジッと見た。忙しくても毎週プールで2キロは泳ぎジムにも通い健康管
理を怠らない、無駄な脂肪の付かないしなやかで筋肉質な体だった。
普段は服装などあまり気にしないが今日は違っていた。
(もしかしたら逢えるかもしれない)
そう思うと毎日作業的にこなしていた服選びも楽しく感じだ。
最高級のカシミアで出来たグレーのインナーはネックのVが深めに入っていて
個性的な襟があしらってある。堅の厚い胸板を覗かせる。それに洗いざら
し感のある上質の綿で出来た白に近いグレーのジャケット。パンツを合わせて
少し色の薄いブラウンが綺麗な光沢があまり出ない革靴を履いた。身支度が
整うとリビングにある引き出しを開ける。
10台ほどの高級車の鍵が並んでいる。鍵の上を人差し指でなぞるように迷わせる。
(今日は街の中を走ることが多いかもしれないな・・・)
その中でも比較的小回りの利くBMW M5の鍵を手に取った。
住まいの地下には専用の駐車スペースがある。駐車場には堅以外の人間が無
断で入れないように厳重な警備システムが備わっていた。
部屋から直通のエレベーターを使い地下に降りて車に向かった。駐車スペースに
はたくさんの高級車が持ち主が来るのをじっと待っているかのように整然と並ん
でいた。
静まり返った駐車場の壁は打ちっ放し加工が施してあるコンクリートで靴音が壁
に反響して響き渡る。目当ての車の前で立ち止まるとポケットの中から鍵を取り
出し運転席へと乗り込む。メタリックなボディと人間工学に基づきデザインされ
た車内。メリノの気品あるレザーシートが体を包み込むようにフィットした。
エンジンの音が鳴り響く(何処へ行こうか・・)車をゆっくりと発進させた。
専用の出入り口には10m間隔で2重の鉄の扉があり監視カメラが目を光らせている。
数年前、超伝導技術の開発が成功した際に他の企業スパイが家に侵入した事が
あって警戒のために取り付けたものだった。世界の歴史を塗り替えるほどの科学
技術の大きな進歩その開発に成功している堅には他の企業家よりも厳重な警備が
必要だった。街に出ると以前綾香に出会った場所へと車を走らせた。
(以前。綾香が泣きながら歩いていた場所。あそこならもしかして逢えるかもしれない)
街中でも一際輝きを放ちながら堅の車は優雅に走り抜けた。
(思えば名前以外何も知らないな。年齢も住まいも)
一瞬切なさを感じたが綾香を思うと自然に顔が緩んだ。
綾香は土日休みの交代勤務無しで働いていた。介護施設とはいえ勤めている会社
では夜間交代は男性スタッフが勤務するのが決まりのようになっているのだ。土曜
の昼過ぎ携帯電話を手にしてメールをチェックする。
(昨夜。とうとう連絡来なかったなぁ)
嫌になるほど静かな携帯電話を握り締めて功一の事を考えていた。
(あれからメールしたけど。結局連絡が無かったな)
そう思うと寂しくてたまらなかった。
(あ。メール!)
見ると功一からだった。
(功ちゃんからだ)そう思うと嬉しくなって急いでメールを見た。
From 功一
本文「今日夜、逢える?時間は18時駅前で拾うから都合よかったらメールして」
(ゴメンとか無いのかな、また一方的に時間とか決めちゃうんだ)
ふと思ったが、会えることが嬉しくて急いで返事を打ってから気分転換に本屋に行
こうと出かける支度をする。前回のような事が無いように猫に餌を多めに与えると
あの日の事を思い出した。
(あは。友達かぁ〜)堅の笑顔を思い出して笑みがこぼれる。
(今思えば連絡とか全然知らないのよね。まっ、そのうち何処かで会えるかも)
ハチャメチャな事を言い出す堅を思い出すと相変わらずの彼氏とのすれ違いで疲れ
切った気持ちが安らぐのを感じていた。
膝丈のプリーツ加工のスカートを穿いて桜色のトレンチコートを羽織る。玄関を出
ると春の暖かい風が心地よく、クルリとカールしたセミロングヘアーを揺らした。
ゆっくり歩きながらマダムコレットの事を考えていた。何時だったかコレットは窓の
外を眺め寂しげに手話で語った。
「夫は優しかった。日本に来て彼の両親や親戚とうまく行かなくても何時も気遣って
くれたわ」
「夫の家族は私を見るなり。青い目をしている外国人だと、とんでもない嫁を連れて
きたと」悲しげな目をしながらコレットは続けた。
「でも40年間とても幸せだったわ。フランスに居る両親と分かり合えないのは悲しか
ったけれど」悲しそうな顔からほんの少し笑顔になる。
「寂しい時は歌を歌ったのよ」と楽しげに手を動かす。
綾香が優しく訊ねる「歌?どんな歌なの?」
マダムコレットは心の奥底に埋もれてしまった記憶を見ているかのように柔らかな
眼差しで手を動かした。
「ええ。母がね良く歌ってくれたのよ。私が生まれ育った町では古くから伝わる歌なの」
懐かしそうににっこり笑ったかと思うと途端に悲しそうな顔になる。
「歌いたくても、もうだめねこの耳じゃぁ何も聞こえないの」
「叶うなら。もう一度歌いたいわ・・」
彼女の耳は難聴と老化により補聴器を付けても僅かにしか聞こえなかった。自分
の声の音程すら確かめる事が出来ないのだ。そんなコレットの気持ちが痛いほど
伝わるのを感じ何と言ったら良いか分からず、彼女の手を握り締めて微笑む事しか
出来なかった。
なんとかコレットが歌を歌う術は無いか自分なりに資料や文献を探し始めた。
(私が歌を覚えたら一緒に手話で歌えるかもしれない)
フランス語の分からない綾香ではネット検索に限界があり最近では書店や図書館
に通うのが休日のコースになっていた。綾香の住まいは最寄り駅から徒歩15分。
今日は近くの古本屋を訪ねてみようと通りに出てきたのだ。信号を渡り狭いにぎや
かな商店街へと入り込む。その直ぐ後に堅の車が通り過ぎるがすれ違ってお互い
気が付く事は無かった。書店に入るとフランス語の辞書や古い歌を題材にした文献
を探す。
(見当たらないなぁ〜英語ならあるのに。)
年季が入った机に腰掛けて古ぼけた黒縁メガネを掛けた店主に訊ねる。
「あぁ〜。少し前まであったんだけどねぇ学生さんが買って行ってねぇ〜あ!あそ
こならあるかもなぁ、えっと・・」店主は丁寧に場所を書いた小さなメモをくれた。
その地図を見ながらバスに乗る。 思ったより車内は座席が空いていてすんなり
座れた。
【あの〜最近出来たビルに入っている本屋ならその手の本の品揃えが良いと知り
合いが話していたよ】と笑顔で語る店主の言葉を思い出していた。信号待ちでバス
が止まる。後ろのほうで高校生位の男の子達が騒いでいる。
「あれってBMWのM5じゃね〜?」
「お!すげーかっけーー」
「うぉー初めて見た!」
綾香は男の子の騒ぐ方を見た。バスの窓に張り付くように隣の車線を見ている。
片側3車線の道。バスの真横にシルバーメタリックの明らかに高そうな車のルー
フが見えた。
(そんなにすごいのかな?でも確かに高そう。車の事は良く分からないけどきっと
高級車よね)まさかその車に堅が乗っているなんて思いもせずに、信号が変わると
シルバーの車はあっという間に加速して見えなくなった。
堅は車を走らせながら考えた。
(久しぶりのドライブも気持ちいいな。いっそ信号のジャングルから抜けてどこかに
ドライブに行こうか)
以前綾香に逢った場所を走ってみたが逢える筈も無く、諦めかけていた。
(頼んでいた時計を取りに行ってから、オフィスに寄って来週使う書類を取って
くるか)綾香に逢えない事でまた何処か仕事の事を考えていた。趣味の腕時計を
老舗の時計店に取りに行くと、オフィスのあるビルに向かう。
最近建てたばかりの35階建てのビルは、5階まで雑居でテナントを入れそこから
35階の最上階まで堅の所有する会社とグループ企業が使っている。最上階のオ
フィスには堅の仕事場があり、デスクワークはそこでこなしていた。ビルの前の路
肩に車を止めると急いでロビーに入る。
オフィス専用の直通エレベーターが備わっており、警備員は堅の顔を見るなり
整列して敬礼した。1人の警備員が管理室から走り出てきて、路肩に止まっている
車の傍で警備を始める。堅は歩きながら警備員を一瞥すると右手を軽く挙げてその
まま止まる事無く通り過ぎる。ジャケットをなびかせながらエレベーターに乗りオフィ
スに向かった。
綾香は目的地に着くとバスを降りた。春の柔らかな風にスカートを揺らしながらゆっ
くりと歩く。先ほど古本屋で書いてもらった地図を見ながら真新しいビルの前に辿り
着いた。一面ガラス張りの入り口は歩道から中を安易に窺う事が出来た。白の磨き
石がピカピカの床は立っている警備員を映し込んでいて、エレベーターがいくつか
左奥にある。見るとビル入り口すぐの右側に大きな書店が入っていた。
「ここだ」
本が沢山あって、ここならあるかもとワクワクした。目的の本を探すとすぐに見つか
り中を開いてみる。フランス語の説明文と日本語に訳された歌や古い歴史が載って
いたが、マダムコレットの住んでいたブザンソンの歌には音符が付いていなかった。
(あぁ。これじゃぁ音が分からない。でもやっと見つけた本だし一応買っておこう)
フランス文学と辞書数冊を手に取りレジに向かう。分厚い本を買ったのでかなり重たい。
入れてもらった厚めの紙袋でさえ破けそうな気がする。重さを我慢してビルを出る
と深い紺色の制服を着た警備員が外に立っていた。
歩道に寄せて止められた車はシルバーメタリックが太陽の光を上品に反射し高級
感を漂わせている。車の直ぐ横にぴったりと張り付くように立つ警備員は眉を吊り
上げて近寄ろうとする不審者がいないか辺りを見回していた。
(あれ?あの車さっきバスで見たやつに似ているかも)
そう思いながら帰り道に体を向けると背中に衝撃が走った。
「きゃっ!」
鈍く突き当たる衝撃に思わず声が出た。手にしていた紙袋が本の重さに耐え切れ
ず紙紐の付け根から破けた。分厚い本が床に散らばる。
「あぁ!」
後ろを振り向くと怪訝そうな顔をした中年のビジネスマンが立っている。ビルから
出てきたビジネスマンとぶつかったのだ。
「ご、ごめんなさい」
ぶつかってきたのは向こうだが、ボーっとしていたのもありお互い様だと思いとっ
さに謝ると大切な本が汚れないように慌てて本を拾い始めた。ビジネスマンは本を
拾う素振りも見せないで綾香を見下ろすと自分が着ているジャケットを見てあから
さまに肩の埃を払った。
「気をつけてくれよ!ったく!」
(なんですって?!)
文句を言おうとカッとなって勢い良く顔を上げて声を荒げた。
「人に!」
「人にぶつかっておいて謝る事も知らないのか?!」
(え・・?!)
声をかぶせる様に男の声がビルのロビーから聞こえた。
振り向くと3メートルほど後ろのほうから見覚えのある男が歩いてくる。
(え?堅?)
「あ!」驚いて声が上ずった。
(どうして堅がここに?)
ビジネスマンは堅を見るなり姿勢の悪い猫背を勢い良く反らせた。蔑む様に
綾香を見ていた顔が見る見る青ざめる。
「あ!ぁあああ、もっ、申し訳ありません!!」
そう言うと堅に向かって膝に頭がくっつくんじゃないかと思うほど深々と頭を下げた。
「謝るのは僕じゃないだろう?」
見下したような視線で男に言う。
「気をつけてくれよ、彼女は僕の大切な友人なんだ」と堅が冷たく微笑んだ。
(大切・・?)
その言葉が心に響くと先ほどまでカッとなっていた綾香の心が急に穏やかなる。
(ビジネスマンの態度が変わった。今まで意識していなかったけど堅は私の想像を
遥かに超える権力を持っているんだ)ビジネスマンは訳が分からないといった風に
戸惑い綾香と堅の顔を交互に見た。堅の言葉を理解したのか、綾香にくるっと向きを
かえる。
「ごめっ、あ!いやっ!すまない!すみませんでした!」
とパニックになりながら頭を下げた。足元に落ちていた最後の一冊を慌てて拾い付
いた埃を手で払うと綾香に手渡した。それを受け取るとビジネスマンは後ろ向きでペ
コペコしながらエビ反りの様な姿勢で去って行った。
「最低、あんな風に人に態度変える人って好きじゃない」
そう言うと重たくてバラバラな方向に重なった本を持ち替えて堅を見た。思いがけ
ず会えてなんだか嬉しくなる。
「ありがとう」
堅の顔は穏やかで優しい瞳をしていた。微笑むような柔らかな眼差しを一瞬逸らす
と綾香を見た。
「ふっ。誰かさんの受け売り」
「また逢えたな」
(また逢えた)
意識すらしていなかったのに何故か心が温まる気がした。
「うん」大きくうなずいてにっこり笑う。
「でも・・どうしてここに?」
「ここはオフィスがあるんだ」と微笑んだ。
(ここも。堅の会社のビルなんだ)そう思うと苦笑いした。
「重そうだな。持つよ」
「あ。平気もてるから」と微笑みまた持ち替えようと本を動かした。
本が手から滑り落ちそうになり慌てて声が出た。
「あっ!」
瞬間、頬に伝わる温もりを感じると綾香は堅の胸に顔をうずめているこ
とに気が付いた。温もりが包み込まれた体にゆっくり伝わると、微かにメンズ
の物の香水のような香りがした。感じたことの無い暖かさに胸に何か突き落と
されたような衝撃を感じて、本を渡すと急いで離れる。予測していなかった出来
事に戸惑いながらも平静を装った。
体が離れると堅は手渡された本を見る。
「フランス文学?意外にまじめな本読むんだな」と少しからかうように言った。
「読むよぉ私だって!もぉまたそう事言うんだ」と頬を膨らます。
「あはは。冗談だよ、ごめん」
(なんだろう?なんか私変に意識しすぎ)
普段香ってくる事の無い香水のような香りが胸いっぱいに広がっている。なんとな
く気まずい心境になり俯いて何を話そうか考えた。ほんの少しの沈黙が続くと静か
なロビーに心地よく堅の声が響いた。
「これから予定あるの?」慌てて顔を上げる。
「あ。ううん本も買ったし重いから帰ろうかと思って」
「それなら、これからお茶でもしない?」
優しい眼差しに一瞬戸惑ったがうなずいていた。
(お茶くらいなら良いよね)
「じゃぁ 移動しようか」と言うと本を左手で持ち右手でさりげなくエスコートされる。
「車あれだから」と目の前に止まっている車を指差す。
(これってさっきの車。堅のだったんだ)
堅が助手席のドアを開けて優しく促すとシートに腰を下ろした。気品のあるレザー
が張られたシートが優しく綾香の体を包み込む。
(うぁ〜凄い。高そうな車)
そう思って中をキョロキョロ見た。ウォールナット製のインテリア。最高級の素材で
細部まで完璧に作り上げられた内装は綾香を別世界に居る様な気分にさせる。
(なんか、私乗ってもいいのかな?)
戸惑い考えているうちに、堅が運転席に乗り込んで車は静かに走り出した。