第5章 確信
綾香はうずくまり泣いていた。涙が止まらずに溢れ出し泣き止もうとするが
どうしようもなく、こぼれる涙をハンカチでおさえてからうずくまった自分
の足を見た。
(歩こう。何処か人の居ない所に行こう)そう思った時また涙が頬を伝った。
ふと見ると直ぐ目の前に汚れた歩道には相応しくない光沢をはなつキャメル
色の革靴があった。ゆっくり上を見上げる。そこには仕立ての良いスーツを着
た背の高い大きな男が立ってこちらを見下ろしていた。長い足長い手、広い肩
そして日本人離れした堀の深い顔、その鋭い眼差しには見覚えがあった。
「あ!」
顔を下に向けて伝う涙を慌てて拭くと綾香は立ち上がってもう一度顔を見た。
「えっと、城川さん?」
綾香を見下ろす瞳がとても切なくて優しげで戸惑った。
(泣いている所見られちゃった。どうしようって、どうしてこんな所に居るの?!)
困惑しながら堅の瞳に釘付けになった。さっきとはまるで違う深く寂しい顔そして
優しく包み込んでくれそうな瞳の光。
「ぐっ偶然だな、なんか居ると思ったら高橋さんか」
その表情とは裏腹に堅が不躾に言葉を発する。綾香は驚き一度俯いてからまた顔を
上げて堅を見た。その瞳はまた意地悪そうな、それで居て見下したような顔に変わ
っていた。
「あ、そっ。居て悪かったわね!居るって失礼な」
と小さく呟くと途端に恥ずかしくなって顔を逸らした。
(こんな人に泣き顔見られて恥ずかしい!!)
「じゃぁさよなら!」
そう言って横をすり抜けようと歩き出した。その瞬間堅が綾香の右腕を掴んだ。
「?!」
驚き堅の顔を見ると少し仰向けに顔を上げていて鋭い眼差しは一瞬見下してい
るようにすら見えた。
「いっ、いきなり何?!」
堅は慌てて手を離して視線を彷徨わせる。
「あっすまない」
突拍子もない行動に出ている堅が一番戸惑っているように感じた。
「私に何か用でもあるの?」
堅は目を丸くさせると眉を顰めてまた視線が彷徨う。それを見て直ぐに言いな
おした。
「まっ、そんな訳ないっか」
(なんか変な人。突っかかって来るし。かと思えば寂しそうな顔するし)
そう思ってまた堅の顔を見た。
「車で通ったら!その・・泣いていたから・・」
少し大きな声で話し出したかと思うと口をこもらせて黙り込んだ。
(えっ何?車でって、車で私を見かけて?降りてここまで来たの?)堅の言っ
ている事を頭で理解する前に、胸に熱い物がこみ上げてくるのを感じた。
堅は視線を逸らして照れくささを隠そうと口元に手を当てる。
(何を言っているんだ!僕は)恥ずかしくなり慌てた。
「いや、じょうだ」
冗談だと言い掛けてその瞬間口が止まった。綾香の瞳から涙が溢れていたから
堅はどうしようもなく切なくなった。(如何してだ!どうしてこんな気持ちに
なるんだ。彼女が泣いていると僕は)
この一月の間付きまとう得体の知れない感情にやっと気が付いた。
(始めは周りに居ないタイプで気になって、だがもしかして僕は彼女が)
複雑な心境で彼女を見ると、綾香は下を向いてハンカチで瞳を覆い少し間を置
いて顔を上げた。
「あはっ。たく!冗談が過ぎるよ!」
そう言いながら無理して笑って堅を見るとその顔がまた切なさで溢れていて一瞬
胸が突きあがり目を逸らす。
(やだ、なによこの人、意地悪言ったりするくせに)
「じゃぁ用が無いなら行くから」
どこか後ろ髪を惹かれる想いで背を向けて歩き出した。
「良かったら夜景でも見に行かないか?」
綾香の足がゆっくり止まり背を向けたまま黙り込む、数秒置いてから静かに
口を開いた。
「あの展望台ってまだ工事中?」
「うわぁ〜すごい。綺麗〜!」
薄暗いホールに綾香の声が響く。
「直ぐ下のレストランと共にあさってオープンするんだ」
夜景が凄く綺麗で、大きな窓に寄りかかり綾香ははしゃいでいた。
さっきまでの
泣き顔は何処かに消えうせ今はコロコロと笑っている。堅はホッと
していた。薄暗
い部屋とは対照的に眼下に広がる見渡す限りの夜景はまるで宝石箱
を開けたかのように煌めいて綾香の顔をうっすらと照らしていた。
綾香は深呼吸すると堅のほうを見た。
「ありがとう」
堅の表情は優しくそしてまた何処か寂しげだった。
(幾ら母さんに似ているとは言え、こんな庶民的な女に惚れるなんて有り
得ないそれに・・どうせこの子も僕が関村と知ったら態度が変わるに決ま
っている)
(今までの女はみんなそうだった。だから割り切った付き合いしかして来
なかった)
(ある女は僕を退屈でただの図体のでかい男だと言った)
【お金が無きゃ付き合わないわよ】
そしてある女は【すごいでしょぉ?関村の御曹司よ?私の彼氏なの】
そう自慢する僕はステータスシンボルでしか無かった。
(そうだ、この女も同じなんだ。だからもうこんな気持ちは終わりにしよう)
心の中でそう決めると鋭い眼差しで綾香を見る。
綾香が夜景に見とれながら口を開いた。
「いい眺めだね〜でも・・いいの?ここ・・入っても?」
「いくら工事関係者でも怒られない?」と心配そうに訊ねる。
堅は少し沈黙した後に表情が変わるであろう綾香から視線を外し、夜景を
見て静かに口を開いた。
「ここ自社ビルだから良いんだ」
「え?」
「僕の名前は関村堅、このビルのオーナーで関村グループの代表をしている。
君には城川と言ってしまったけど・・」
そういい終わると堅は瞳を閉じた。
(【え〜〜〜ほんとぉ?!すごぉ〜〜い】きっとこんな風に言うんだ)
「あはは、まさか!」
いきなり笑い声がした。瞳を開き横目で見ると綾香と目が合ってから
「ほんと・・?」と疑い深げに訊ねる彼女に黙ってうなずいた。
「へ〜。まぁ身なりからしてお金持ちかなって思ってはいたけど?」
「まさか大企業の社長さんとはね〜。関村グループって航空会社とかIT
関連とかホテル、レストランとか。あとはぁ〜海外でも事業しているんで
しょ?よくわかんないけど」と苦笑いした。
綾香の反応に拍子抜けした堅は驚く。
(いつもならここで女ははしゃいで、僕に話しかけるのに【え〜〜〜すご
ぉいうれしぃ〜こんな人と知り合いだったんだぁ】媚びた眼差しで下品な声で!)
「驚かないの?!」
予想外の反応にイライラした。
「え?驚いているけど?だから?」
その反応は拍子抜けするほどアッサリしていた。
「僕が車止めてまで、夜景に連れてきているんだぞ?」
(何を言っているんだ僕は!)そう言って感情を抑えようと口に手を当てた。
「あは。そうだね〜」にっこり微笑んだ。
「それはお礼言うけど」
「でも、お金持ちだから何?」
驚いて口を開けたまま立ちすくむ。綾香はそのまま続けた。
「私あなたとは比べ物にならないくらい一般庶民だけどお金持ちが一番偉いとか
思わないし自分に恥じた生き方してきた覚えはないから」淡々と答えた。
堅はその瞬間、頭を何かで殴られたかのような感覚に襲われた。
「なんてね、恥じた生き方は自信無いなぁ・・」
「さっきも泣いていたしね・・」ぎこちなく笑うと背を向ける。
「ねぇあれってさ、観覧車だよね?乗った事ないのよね〜」
ビルの屋上に据え付けられた大きな観覧車が街のネオンに照らされて浮かぶよ
うに見えていた。彼女の頼り無さげな背を見て恥ずかしく思いながらもどこかに
潜んでいた迷いが吹き飛んでいた。
そして確信した。
(綾香が好きだ)
そう確信した時、臆病になっている自分に気が付く。
(今まで割り切って蔑んで付き合ってきた女達とは違う)
ゆっくりと綾香の背に近づくとどれだけの間感じていなかっただろうかドキドキし
た感情が溢れ出すのを感じた。
「夜景の中で乗る観覧車って綺麗だろうね〜」
そう言いながら綾香が振り向くと思ったよりずっと近くに堅が居る事に気が付いた。
その瞳が夜景に照らされて優しく、そして何処か怪しげに煌めいて見えた。
その瞳に戸惑い俯く、視線の先に羅針盤がクラッシックな色をしている腕時計に思
わず見入る。針のさす時間を見て家で待っている猫を思い出した。
「あ!いっけない〜!もうこんな時間!」
(あっちゃ〜ドタキャンされて落ち込んで忘れていたよお。腹すかせているだろうなぁ)
「猫にご飯あげなきゃ〜やっばぁ〜」
そう言い終わる前に展望室中央にあるエレベーターに向かって走り出した。
「帰るの?」
「あ、うん彼氏にドタキャンされてすっかり忘れてたの」と微笑む。
「関村さん今日はありがとう。バイバイ」
そう言いながらエレベーターの昇降ボタンを押した。
綾香が言った【彼氏】その言葉に足元が一瞬冷たくなるのを感じた。
深呼吸する。(恋人が居るのか、予測していなかった訳じゃなかったが)
そう思いながらゆっくり近づいて話しかけた。
「送るよ」
「え?」
「送るって・・いいよぉまだ電車あるし」
エレベーターが静かに上がってくる。ドアが開いたらまた会えなくなるかもしれない
そんな不安に駆られ堅は短い時間でどうしようか考えを廻らせたせた。
(後数秒で彼女は行ってしまう)そう思うと焦りが襲った。
「高橋さん。ここ気に入った?」
「うん眺めいいしね〜また来るよ、一般公開のときにね」
少し沈黙してから堅は口を開く。
「時々さ、ここで話でもしない?」
綾香は目を丸くした。
「え?」
「話?話ってここで?でもこれからは開放しているしきっとカップルばっかりよぉ〜」
綾香は冗談を聞き流すように笑ってエレベーターの階数表示に視線を向けた。
堅は自分が口走った言葉に納得しようと慌てて続ける。
「ここ公開23時までなんだ、それ以降は閉まるし」
綾香は話しかける堅を見上げて笑いながら
「あはは。変な人!私と?!どうして?」
「お金もちなんだから、相手には困らないでしょ?どうせならもっと綺麗な
モデルさんとか」
仕事の時の計算高い冷静な堅は、まるで人が変わったかの様に言葉を並べ立てた。
「そんなの興味ない。君と、あ!いや、そのっ・・・だめかな?」
そして自分が発した子供のような言い分を理解しようと口ごもる。
「ダメとかじゃないけど、でもどうして?」
堅はすかさず言った。
「友・・・そうだ!友達になってくれないか?」声のトーンが不自然に上がる。
(何を言っているんだ僕は!)
もう何を話したら良いか分からなくなっていた。自分でも驚くほど必死に口を動かし
て戸惑いながら瞳を大きくして黙り込む綾香を見た。
「あははは。面白い人!友達にって面と向かって言われたのは初めてかも」
「でも〜、話合わないんじゃない?その、お金持ちの世界って良く分からないし」
突然友達になってといわれた言葉に戸惑いながらこたえた。
堅は冷静になろうと静かに綾香を見た。綾香もそんな堅を見て黙り込む。展望室に
エレベーターが到着しドアが開く、滑るように開いたドアの音が静まり返ったホー
ルに響きわたった。
(この人なんか寂しそう。私と同じ?まさか?!)
(お金持ちで何も不自由していない様なのに?)
(でも前から感じていた。この人の鋭い眼差し深い悲しみなぜかほっとけない気持
ちになる)
エレベーターのドアが誰も乗せないまま静かに閉まった。
綾香が口を開く。
「いいよ。友達になろっ」そう言って微笑んだ。
堅は平静さを保ったつもりでいたが、その言葉を聞いてゴツゴツとした堀の深い顔
は子供のように白い歯を出して微笑んだ。
思いがけない表情の変化に綾香は少し照れくさくなり俯き加減でまた昇降ボタンを
押しドアを開けた。エレベーターに乗り込むとドアを閉める前にこう言った。
「あのっ城川、あ、関村さん」
「堅でいいよ」
堅はさりげなくドアが閉まらないように外からボタンを押していた。
(返したくない。もう少しだけあと少しだけ話がしたい)
そう思うと感じた事が無いほどの切なさが堅の中で渦巻いていた。
「じゃぁ〜〜け、堅あはっ」そう言って笑う。
「えっと、あのさ。堅は笑った顔結構いいよ?なぁんかいつも怖い顔してる
からさ」
そう言って見上げた彼女の笑顔に堅は不意打ちを受けたかのよう高鳴った心が
揺さぶられた。照れくささを隠そうとぎこちなく笑う。
「え?あ・・ぁ、余計なお世話だ」
照れ笑いをしながらまた捻くれた様な事を言ってしまった自分に気が付いた。
綾香が微笑んで手を振ると堅はそっとボタンから手を離す、ドアがゆっくり閉
まって綾香の顔を隠すとそのままエレベーターは下に降りていった。
自分以外誰も居なくなった展望室で夜景を見下ろした。
黙り込んだその瞳からは何時しか寂しさが消えていた。詳しいことは何も知らな
いのに、不思議に彼女とはまた何処かで逢えそうな気がする。
「電話番号教えておけばよかったな」そう呟いてふっと笑った。