第20章 黄昏の中で(1)
「では、以上で宜しいですね?」
「はい、お願いします」
「毎度どうも!失礼します!」
中年のがっちりとした体格の男性が【白ねこ引越しセンター】と
社名が大きく入った帽子のつばを右手でつまみ、勢い良く脱ぐとお
辞儀をしてトラックの運転席へと戻って行った。トラックを見送り何も
無くなった部屋に戻ると、がらんとした部屋の真ん中に座り込む。
部屋で過ごした短い日々を思い出した。
(あっけない幕切れだったなぁ〜)
部屋の片隅に置いたバックの中には平尾が置いていった指輪の箱が入っ
ていた。バックを左手に提げると指輪の箱を取り出す。中をあけて眩し
いほどの輝きを放つダイヤモンドを見ると無性に切なくなる。
鼻がツンとなって今にも涙が溢れそうになり、どれだけ泣いても枯れる事の
無い涙を疎ましくすら思った。
瞳を閉じて深く息を吸い込み気持ちを振り切るように部屋を後にした。
伊倉は隣のビルの屋上から綾香の住むマンションを見た。無精ひげを蓄え
よれよれのシャツを着て首からカメラを提げている。不気味に微笑むとカメ
ラのファインダー越しに綾香の部屋の窓を覗いた。
(あの女は関村の一番のお気に入りだ。関村に張り込んで今迄見てきたが
一番入れ込んでいた女だ)
堪えきれずに声を出して笑う。
「ふっ、あははは」
(あのユリって女を買収して正解だったぜ、まさか国内のマスコミ
に対してガードが固い関村もアメリカのゴシップ記事から火がつくなんて
想像していなかっただろうな。あの女、マスコミの容赦ない攻め立てでとうと
う参っちまったか。大方実家に帰るとかだろうな)
「ざまぁみろ、関村」
(おまえもあの薄汚い親父と同じなんだよ!俺のお袋をゴミみたいに捨
てやがって!そしておまえも・・・!)
「もっと苦しめ!関村!このまま株価の急落が続けば責任問題になりか
ねない。あとはあの専務が追い詰めてくれれば」
伊倉の母親は15年に渡り堅の父親と愛人関係にあった。伊倉は母親の連れ子
で父親の温もりを知らない。幼心に父親の面影を堅の父に見出していた。
しかし15年尽くした母親を簡単に捨てて堅の父親は悪びれる様子も無
く伊倉親子の前から姿を消していた。
(あの親父は機嫌が悪いと俺を邪魔者扱いして殴ったりした。お袋は陰
で15年もあいつを支えてきたのに苦労した挙句癌で死んでしまった)
堅の父親が来ると真冬で雪が降っていても夜中、何時間も外に放りださ
れたのを思い出す。優しかった伊倉の母も堅の父親には逆らえず虐待行
為を咎める事が出来なかった。
堅の父親に対して憎悪がこみ上げる。
(15年も尽くしてきた女の見舞いにも、葬式にすら来なかった)
そして成人してから結婚を直前に控え、付き合っていた女性が堅に入れあ
げ伊倉を捨てた。その事が記憶に封じ込めた憎悪に火をつけたのだった。
伊倉の目に堅は何一つ不自由なく父親の愛情を受け、今の地位に上り詰め
すき放題生きているように映っていた。 何よりも同い年で対照的な生き方
をしている堅が許せない。
胸ポケットに入れていた携帯電話が鳴る。電話を手に取ると着信を見てニヤ
リと微笑み電話に出た。
「これは、これは、専務さん」
「伊倉君、金のほうは香港の架空会社の口座に振り込んでおいたよ」
「はは、そりゃぁどうも、で?あいつは?順調ですか?」
「あぁ、これだけの騒ぎになっているのに堂々としたものだよ。まぁ
このまま下落が続いたら他の役員も株主も黙っちゃ居ないだろう」
「頼みますよ〜、あいつが落ちてくれないと俺もあんたも困った事に
なる。トコトン追い詰めてくださいよ」
「もちろんだ!あの若造め!私を散々コケにしおって!」
「まぁ、私は専務と言う立場だが、関村の血縁と言うことで派閥も
私に傾いている。このままで行けば次の代表の座は私に決まりそうだ」
「あはは、そいつは楽しみだ。まぁせいぜい頑張ってくださいよ」
「金を確認したら、直ぐに香港に飛べ!何時までもここでうろうろする
なよ!足が付いたらまずい事になる」
「わかっていますよ、では」
電話を切ると真顔に戻り舌打ちをする。
「いけ好かねぇ親父だぜ!まぁ、関村を叩き落せるならなんでもいいや」
マンションを眺めて何かを考えるとビルの屋上を後にした。
綾香がマンションから出ると通りへ出ようといつもの道に体を向けた。
道の向こうから一人の男が歩いてくる。気にも留めないで歩いてい
たが男の視線を感じて顔を見た。
(もしかしてテレビ局の人かな)
そんな風に思うと早く男から遠ざかりたくて早足に歩き始めた。
「こんにちは」
見ず知らずの男に声をかけられて不思議に思う。眉を顰めて警戒した
態度を取ると男は目の前に立ちはだかり不気味に微笑んだ。
(なっ、なにこの人?!)
目の前で見ると無精ひげを生やし、首からカメラをぶら提げていたが着てい
るシャツもよれよれで皺だらけだ。どうみてもテレビ局アナウンサーの清潔な
イメージとはかけ離れていた。
「なんでしょうか?!」怪訝に思い返事をする。
「あなたに、プレゼントがありましてね」
そう言うと無精ひげやルーズな姿に似付かわしく無い、白い歯をちら
りと見せて笑った。伊倉の不気味な笑みに身構える。
「プレゼント?!」
伊倉は片手に持っていた茶色いB5サイズの封筒を綾香に差し出す。
綾香は怪訝な顔のまま封筒を受け取ろうとせず後ろに退いた。
(な、何この人)
伊倉は綾香の顔を見て不気味に声を上げて笑う。
「あはは、そんなに脅えるなよ」
「まぁ、見てみろよ。面白いものが入っているからさ」
そう言って差し出した手をさらに綾香に近づけた。
恐る恐る封筒を受け取る。封はされておらず中を見ると写真が何枚も入
っていた。ゆっくり取り出すと写真に写されている光景に指先が震える。
(この写真何時のだろう)
綾香と出会う前のものかもしれない、だが堅が他の女性と写っている写真
にショックを隠せないでいた。そこには堅とキスをしている女性の写真があった。
他にも女性が抱きついている写真が映っている。おそらくマンションの
前だろうか夜に撮られた写真のようだった。
「この写真あなたが撮ったの?!」
伊倉はニヤリと笑うとその質問には答えずに
「なにせ、ベストショットが多すぎて週刊誌に載せきれなくてな」
「分かっただろ?!あの男は女をなんとも思っちゃいねぇ〜あんたも
あの男に弄ばれたんだよ!」
動揺して震える指、週刊誌とは違う写真そして生々しさが伝わってきた。
(け・・ん・・)
写真の堅は仮面を付けたかのように無表情で綾香の知る笑顔や優しい
眼差しは1枚も写っていなかった。 平尾の言葉を思い出す。
【代表はそれでも孤独になりきれずに、言い寄る女性達でも傍において
いたのでは無いでしょうか】
【代表を一人の関村堅として見て接してきた人がどれだけ居たでしょうか】
(堅・・・)
伊倉はショックを受けている綾香を見て笑い声を上げる。
「ひっでぇ〜男だよなぁ〜金にもの言わせて、アンタみたいに田舎っ気の
抜けねぇ擦れねぇ女にまで手を出すんだからよ」
「まぁ〜あいつも何時まで関村グループの代表で居られるかなぁ」
俯いてゆっくり目を閉じて深呼吸した。 震える指が止まると両手で
写真を掴み真ん中から破り捨てた。
「なっ!」綾香の行動に驚き伊倉の目が大きく見開いた。
鋭い目で伊倉を見上げる。
「だから何?!」
「強がるなよ、実際関村の態度が変わったんだろ?」
(確かにあの記事はきっかけにはなったけれど、でも)
あの日部屋を出て行く堅の後姿を思い出し、目を伏せた。
「私も」堅の笑顔を思い出す。
(堅・・・)
もう一度伊倉を見上げて声を張り上げる。
「私も記事を信じた。でも!本当の堅を知ったから。あんな記事で堅を
追い詰められるなんて思わないで!」
言い切った綾香の揺ぎ無い態度と強い口調に伊倉は一瞬たじろいだ。
それだけ言うと伊倉の前を避け足早に通り過ぎた。