第19章 真実(2)
シャワーを浴びてお茶を口にする。まだ食べ物を噛み砕く気力が湧い
てこない。擦り寄ってくる猫の頭を撫でながら、ベッドの横で膝を抱え
て座り込み黙々と喉を潤していた。
何も無い部屋の宙を眺めてはただ時が過ぎ去るのを待っていた。
(時間が経てば忘れられるの・・かな・・)
堅の笑顔を思い出す。(堅はもう忘れちゃったのかな)無意識に涙が
溢れ、思い出したくないのに脳裏に焼きついて離れない。
(無口だけどいつも優しくてそして時々意地悪で)
(高望みしちゃったから?身分相応を考えなかったから?だからバチが
当たったのかな?でも堅と一緒に居たかった傍に居たかった)
「ふっうぅ・・っ」
「ピンポーン」
玄関のドアチャイムが鳴る。
(またテレビ局とか週刊誌かな)
恐る恐る玄関に近づき覗き窓を見た。
(どうして?!)
慌てて服の袖で涙を拭き、チェーンと鍵を手早く外すとドアを開けた。
「平尾さん」
「突然訪ねて申し訳ありません、お話したい事が」
驚いたが中に招き入れた。ラグマットの上に座布団を敷き、勧めると会釈を
して無言で座る。少し離れて向かい合って座ると沈黙が流れた。
(どうして平尾さんが?堅に頼まれてきたのかな)
「今日こちらへは、私の独断で伺いました」
「え?」
少し俯いていた綾香が顔を上げて平尾を見た。
「代表には何も報告せずに来ました」
しばらく沈黙するとメガネを右手でゆっくりと直し静かに口を開いた。
「代表は、無口な方です」
「・・・はい」
「側近の私にすら必要以上の事は話されませんし、綾香さんもご
存知かと思いますが、それでも表面には出されないだけで内面では常
に状況を冷静に捉えて行動なさいます」
「代表を冷血、冷酷等と言う方もいますが、本当は性根の座った真っ直
ぐな方です」
「ですから、一連の報道に関しても綾香さんにどれだけ説明されたのか
私には察しがつきます」
「週刊誌の事ですか?」
「はい」
「私が代表の下で働き始めたのは12年ほど前になります、その頃から
代表は経営等に関して才能を発揮され、若き企業家として世間から注目を
集めていました。しかし、当時の共同経営者の裏切りにより代表は窮地に立たされ」
「当時、プライベートの事は私も把握しておりませんでしたが。交際し
ていた女性も権力や注目度が薄れたと言った理由で代表の目の前から去
られたと他の側近から聞いています」
平尾は淡々と続けた。
「当時から、無口で表情を殆ど変える事の無い方でしたがそれ以来、代表
は変わってしまわれました」
「事業が軌道に乗り、世界中からも注目されその権力も地位も確かなもの
になるにつれ代表に取り入ろうと善人の様に近づいてくる輩も多く」
「報道で取り上げられた女性達は皆、代表へ取り入りそして物品やその
ステータスを貪ってきました。どうやっても代表を操れないと悟ると今度
は何かにつけて手切れ金を要求してくる」
「そんな事の繰り返しです。報道にある妊娠も相手の女性の狂言でした」
「どうして?やましい事が無いならどうして手切れ金なんて!?」
「代表は、それでも孤独になりきれずに言い寄る女性達でも傍におい
ていたのでは無いでしょうか?」
「生まれた時から資産家の一人息子で沢山の使用人に囲まれていたとは
いえ、お母上が亡くなられてから多忙な先代は殆どご自宅には戻られない
状態ですし、成長してからは若手実業家として常に周りから一目置かれて来た
方です」
「代表を一人の関村堅として見て接してきた人がどれだけ居たでしょうか」
平尾はそこまで言うと口を閉じゆっくり息を吸い込み、話を続けた。
「私を含め少なくともこの12年間1人の人間も存じません」
「手切れ金はその人に対するある種の諦めだったのかもしれません」
平尾の言葉を聞いて初めて会った頃の堅の顔を思い出していた。
(あの時感じた。必要以上に近寄ると切れそうなほど鋭い眼差し、そし
て時々凄く寂しそうな瞳をしていた事。堅が孤独な人なんじゃないか?そ
んな風に思ったこと)
「代表は、綾香さんに何も申されなかったのでは無いですか?」
綾香は黙って頷いた。
「仕事では考えられないな、不器用な方ですね・・代表は・・」
「代表は、綾香さんに逢われてから本当に変わられた。以前街の中で
いきなり車から飛び出されて」
「職務中にマンションに戻られるし本当に。私は正直どうしてそこま
で代表が綾香さんの事になると取り乱されるのか理解できませんでした」
「でも、私もようやく分かった気がします」
「え?」
「あなたが、代表を一人の関村堅として見ていたからですよ」
「代表は初めて、そしてようやく見つけることが出来たのでは無いでし
ょうか?自分が愛せる人を、一人の人間として愛してくれる人を」
綾香の頬に涙が伝っていた。
平尾はスーツのポケットに手を入れると小さな箱を取り出した。
綾香の目の前に置いて箱を開く。そこにはプラチナのリングの中央に
ダイヤ、まわりに綺麗なブルーの宝石がついたリングだった。
「これは?」
「代表がお母様の形見を、リメークして綾香さんにと作った指輪です」
「え?」
「代表は、これを婚約指輪になさるおつもりだったようです」
「婚約?」
(堅がお母さんの形見を?)
「私に、処分するようにと・・託されました」
(やっぱり堅は、堅は・・私の事をもう)
「綾香さん。これはここに置いていきます。これをどうなさるかあなた
に考えていただきたい」
平尾はそこまで言うとメガネを直し立ち上がり、背を向けて呟くように言った。
「代表を諦めないで欲しいのです」
「では、失礼いたします」
と言うと足早に玄関に向かい、座り込む綾香を見る事無く部屋から出て行った。
平尾が出て行った部屋で綾香は一人考えていた。 溢れ出る涙を拭きも
せず。平尾の言葉の意味を、堅がこの部屋で言った言葉を思い出していた。
(堅の気持ちは確かなものだったのに)
箱の中にきちんと収まっている指輪を右手の人差し指で撫でた。
堪えきれずに声に出る。
「け・・ん・・堅」
咽び泣き名を呼ぶその声は狭い部屋にむなしく響いた。両手で顔を覆っ
て感情を抑える。呼吸が浅くなって肺の中に滞留した酸素を吐き出す
ように口にした。
「堅の笑顔も優しさも私だけが知っていた筈なのに、私は信じようとしなかった」
部屋の片隅に無造作に置いていた週刊誌に目が行く。瞳は涙で滲んでいたが
微かに記事が見えた。呼吸を整えるとまた頬に涙が伝った。
「私は・・・あの人たちと何も変わらない」
そう思うと指先から体が冷えていくのを感じた。
いろいろな事を次々と思い出す。
(街で孤独に苛まれ泣いていた時堅が来てくれたこと、友達になって
ほしいといきなり言われた事、書店でビジネスマンにぶつかられた時
の事、一緒にお茶を飲んで安らいだ気持ちになれた事、ずぶ濡れに
なった時優しく包み込んでくれた事)
(そして好きだって言われた事)
頬から伝った涙が零れ落ちて、手にした指輪の箱に落ちる。
(私は堅に相応しくない。今度の事で良く分かった。どんなに堅を
想っていても傍に居たいと願っても私だけに見せてくれた素顔を感
じ取る事が出来なかった)
(私は堅を信じる事が出来なかった)
深呼吸して、溢れる涙を止めようと天井を見上げる。
(この街には堅との思い出がありすぎて辛いよ)
吸い込んだ息をゆっくりと吐き瞼を閉じると決意した。
この街から去るそう心に決めた。
2日ぶりに自分の携帯の電源を入れる。留守番電話が30件も入ってい
た。内の20件は新聞社からの取材依頼で他の10件は実家と友達から
だった。おそらく報道を見て心配していたのだろう。綾香は履歴の中からひ
とつ選択すると電話をかけた。
「はい、高橋です」
久しぶりに母の声を聞いて何処かホッとした。
「もしもし、お母さん?」
「綾香!!?心配して居たんだよ〜どうしていたの〜?!」
綾香の声を聞いて母は声を張り上げた。
「ごめんね」そう言うと涙がこぼれそうになり声が上ずる。
「綾香、大丈夫?」
母はそれ以上何も聞かなかった。辛い事を察してくれているようだった。
「心配掛けてごめんね」
「ちゃんと食べているの?」
「・・うん」
「お母さん・・」
「どうしたの?」
喉に詰まるような何かを押し出すように言葉を吐く。
「戻っても良いかな?実家に」
母は少し沈黙した後に優しい口調でこう言った。
「帰っておいで、部屋片付けておくから何時帰れるの?」
「出来るだけ早く帰るね、準備が出来たらまた連絡するから」
電話を切った後、直ぐに所属している会社に電話した。退職の旨を伝え
ると上司は厄介払いしたかのように「あ〜、そうかそうか。退職願?
!ああいい、要らんよ。じゃぁ本日付退職でいいね」
と、綾香の返事もろくに聞かずに一方的に電話を切った。
(今迄、私なりに一生懸命頑張ってきたけどなんだか虚しい終わり
方だなぁ。こんなのでいいのかな、本日付ってなんだかアッサリしすぎ
ていてピンと来ないや)
不動産屋や運送会社に連絡して明後日引っ越せる事になった。
(早くこの街から去りたい、ここに居ると苦しいよ)
マンションの窓から外を眺めた。隣のビルの外壁と僅かに外の道路が見
える。夕暮れの日差しに染まる窓ガラスを見て堅の笑顔を思い出しまた
切なくて胸が痛んだ。