第18章 暗礁(1)
綾香を送り終えて一人部屋に帰るとバーカウンターに座った。ロック
グラスにバーボンを注ぎゆっくりと口に運ぶと、後ろを振り返りリビン
グを見渡す。ついさっきまで綾香が居た部屋。
今迄、この部屋は堅にとって唯一安らぎを感じる空間で誰かの痕跡な
ど必要なかった。一人で過ごすこの部屋の時間が心地よかった。それなの
に綾香が居た僅かの時間が、この部屋の温度を変えてしまったかのよう
に感じた。
心地よかった筈のこの部屋の冷たい空気が今は耐えられないほど孤
独を放って堅を包み込む。今までと変わらない空間なのに無性に広く
感じた。
綾香が座っていたカウンターの椅子。リビングのソファー、立っていた
キッチンそしてベッドルーム。今は虚しい残像のように瞳の中に浮か
んでは消える。
カウンターの椅子から立ち上がりウォークインクローゼットに足を踏
み入れた。特別お気に入りの時計を入れておくチェストを開けると、古
びた小さな箱を取り出す。箱を開けると赤いベルベットの布で包まれ
た指輪が入っていた。
シンプルなプラチナリングにブリリアントカットされた2カラットダ
イヤモンドがついた指輪。これは母の唯一の形見で亡くなった時身に
付けていた指輪を思い出に隠し持っていたものだった。
当時、堅が家を留守にしている間に母親が誰にも触らせないほど拘っていた
庭も服も写真も、父親が処分してしまった。堅が自宅に戻った時には母
親を感じられるもの全てが家の中から消えていた。墓参りすら許して
くれなかった父親の目を盗み、家出して墓参りに行った事が原因だった。
今ではこの指輪と記憶の断片で20年以上前に微笑んでいた母親の顔
を思い起こす事が唯一つ堅に残された母親の温もりだった。苦々しい
思い出を封じ込めるように失笑すると、指輪を大事に布に包みそれをポ
ケットに入れて部屋を出た。
「フローレスで大変状態の宜しいダイヤです」
白髪で短い髪、スーツを着込んだ上品な初老の店員がルーペを片手に
指輪を丁寧に戻す。老舗の宝石店の広いVIPルーム。堅は応接セット
に腰掛け指輪の鑑定依頼をしていた。
「デザインを換えて、他の石を追加して欲しい」
「リメークでございますか?」
「ああ」
「それでは、デザインのほうをデザイナーに依頼しまして追加の石は
如何なさいますか?」
「時間を掛けたくない、今あるデザインで何か良いものは無いか?」
店側が用意した数枚のデザイン画から1枚の紙を手に取る。中央にダイヤを
置き両脇に少し小さめの石を幾つか配置していて綾香に似合いそうなデザイ
ンだった。
「これにしよう」
「承知致しました。指輪のサイズのほうはこのままで?」
堅は少し黙ると先ほど綾香の指の感触を思い出していた。
「何か、基準になる器具はないか?」
店員は少し考え込むと5センチほどの長さで筒状の棒が並んだ箱を
持ってきた。
「こちら右端から7号〜15号までございます」
一本一本手にする。
「これにする」と9号の棒を店員に手渡した。
綾香にサイズを聞くほうが安易で確実だったが、サイズを聞くと直
ぐに「指輪」と分かってしまいそうで驚かせたくて聞かないでいた。
「こちらが、サンプルの石になります」
黒いベルベットの布に小さな石が20石ほど並んだケースを持ってきた。 淡い
ブルーの綺麗な石を目に留める。
「これは?」
店員は落ち着いた声でニッコリ微笑む。
「関村様、さすがお目が高い」
「そちらはブルーダイヤモンドでして、美しさも然る事ながら価値が
大変高く、主な採掘鉱山で全採掘量の1/100万の確立でしか
採掘することの出来ない、大変希少で奇跡の天然ダイヤモンドと言われ
ております。その程度の物でも、一般のダイヤの最高品質と言われております
Dカラーよりも数倍の価値がございます」
「直ぐに用意できるのか?」
「はい、先日入荷したばかりの色の深い最高のブルーダイヤがございます」
「それで頼む。出来上がり次第秘書に連絡してくれ」
「かしこまりました」
心の中に何か焦りを感じていた。幸せが逃げそうで、この晴れやかな気持ち
に暗雲が何処かに立ち込める気がして、出来るだけ早く綾香にプロポーズする
事を考えていた。