第17章 幸福(2)
都内の高級スーパーにやってきた。オーガニックや輸入食材を専門に取
り扱う店内を、買い物かごを下げて2人で歩く。隣を歩く堅の横顔をチラリ
と見上げると何時も落ち着きのある堅が物珍し気に店内を見ている。
「堅。もしかしてスーパーに来るの、初めて?」
「あ、あぁ。初めてだね」と微笑んだ。
「あはは、そっか〜」(だよね〜)予想通りの答えに苦笑いした。
綾香は手際よく材料を選んでカゴに入れていく、マジマジと寄り目にな
りながら真剣な顔でトマトを裏返して見たりする姿が可愛くて堅は笑い
を堪えるのに必死だった。
「何を作るの?」
「えっとね、ポトフとガーリックトースト、あとは生ハムとチーズのサラダ
にしようかと思って」
しばらく店内を歩き回りベーカリーコーナーでフランスパンを手に取りかごに入れる。
「あっ!」
「どうした?」
「生ハム忘れた〜」とばつが悪そうに堅を見た。
「え?」
(さっき生ハムを置いている大きなコーナーがあってハムを見ながらあ
まりにも堂々と素通りするから、てっきりメニュー変更したのかと思っ
たが。この調子で本当に大丈夫なのか?)
そんな風に思うと笑いを堪えきれずに噴出す。
「ぶっ、あはは」
噴出す堅を見て頬をパンパンに膨らまし
「どうして笑うのぉ?!」と睨む。その顔もまた何処か愛嬌があっ
て笑いが止まらない。
「あはは。ゴメンゴメン。生ハムな、持ってくるよ」とカゴを提げた
まま直ぐ後ろのコーナーへと戻っていく。
どうしてそこまで笑われたのか腑に落ちない。
(も〜あんなに笑わなくても良いのに)と思うとまた頬を膨らませた。
堅が戻ってきて「これでいい?」とかごに入れたハムを見せた
「パルシュートね、うんうん」と満面の笑み。
部屋に戻ると綾香はキッチンに入り手際よく料理を始めた。ふと視線に
気がつくと堅がキッチン入り口に立って見ている。
その顔が優しくてドキドキし、横目で堅を見上げた。
「珍しい?お料理しているところ見るの?」
「いや、うん」と戸惑いながら頷く。
(母さんに似ている綾香。死んだ時そういえば同じくらいの年だったな)
微かな記憶を思い出し母親の面影を重ねていた。
ふと電話が鳴り堅はリビングに戻っていく。視線を感じなくなると妙な
緊張感から開放されてホッとした。
(ふぅ〜なんか妙に緊張する。見られていると)
「綾香、これから平尾が来て仕事の話をするから」
ジャガ芋の皮を剥いていると声がした。
「うん」
微笑むと料理を手際よく進めていく、気がつくと堅の姿は無かった。 食器を
探してキッチンカウンターに並べ、ふとリビングを覗くとソファーに座って
堅と平尾が話をしていた。
時折メガネを片手で直しながら仮面を付けているかのように冷静に頷く平尾。
そして、真剣な顔で話をする堅の顔。 初めて出会ったときの堅の鋭い眼差
しを思い出していた。
(堅。仕事の時はあんな顔なんだ)
綾香に見せる笑顔とは全くの別人のように淡々と話しをている。
邪魔をしては悪いとキッチンに戻る。一通り作り終えて後は並べるだけ
だった。
鍋を見て思った。
(ちょっと、作りすぎたなぁ)
洗い物を片付けようと振り向いた時カウンターの上
に置いていた銅製の鍋蓋を足の上に落とした。
蓋が縦になり足を直撃する。
「いった〜〜ぁい!!」
大理石の床にバウンドして大きな音が大げさに響く。
「ガシャーーーン!!」
(あー!またやっちゃった)
料理は好きだ、でもそそっかしい綾香はよくこうして物を床に落とすことがあった。
大きな音はリビングまで届いていた。堅は勢いよく立ち上がると
平尾が驚くほどの速さでキッチンに向かう。
平尾も後に続いた。
「綾香!大丈夫か!?」
大きな声で叫ぶと、床に座り込んで足をさすっている綾香に慌てて近寄る。
「あ、うるさくしてごめんね、蓋落としちゃって」
「大丈夫か?!」
「うんうん、大丈夫」と微笑んだ。
「立てるか?」
「うん」と子供のように頷くと堅は綾香の両腕を抱えるように立ち上がらせる。
「他には?何処か打ってないか?!」
真剣な面持ちで手や足をキョロキョロとチェックしている。その慌てふ
ためく様子に驚いたが、先ほどの仕事に打ち込む堅とは全く違う表情に
嬉しさと可笑しさがこみ上げてくる。
「大丈夫だよぉ〜心配しすぎ〜」
堅はホッとした様子で綾香を見下ろし、顔を緩めたかと思うと少し眉を吊り上げた。
「気をつけてくれ、まだ蓋だったから良いようなものの、これがナイフ
だった・・!」
と、言いかけて顔が固まる。堅の顔を見て首を傾げた。
「堅?」
堅は綾香の後ろに視線を向けたまま真剣な面持ち。
「綾香、動くなよ」
と言いながらゆっくり綾香の後ろにまわる。不思議に思い顔を後ろに
向けて視線で追うとその先にナイフが落ちていた。
僅か20センチくらいの距離だ。
「あ」
綾香が間の抜けた声を出すと、堅は慎重にナイフを手に取りカウンターに置い
て深いため息をついた。
少し沈黙する。
「綾香、危ないだろう」
「ごめんなさい〜」
「まったく、これじゃあ、危なっかしくて料理なんてさせられない」
「え〜大丈夫だよぉ〜こんなこと何時もだし」
つい口走ってから慌てて手で口を押さえた。
(あ、やば)
堅の顔が見る見る青ざめていく。
「あやか何時も?蓋やナイフを落としているのか?」
と、口をパクパクさせて聞いた。
「あは。う、ううん時々だよ」目を泳がせて笑ってごまかす。
「あはは!」
その様子をみて後ろから笑い声が聞こえた。
「あはは・・」
何時も仮面を付けている様に表情を変えない平尾が、口に手を当
てて笑っていた。見たことも無い慌てふためく堅と飄々としながらも
子供みたいに謝る綾香のやり取りを見て、あっけに取られ笑いがこみ上
げてきたのだ。
綾香は平尾を見てから堅の顔を見る。冷静になって考えると真剣な顔で
慌てる堅が可笑しくなってきて笑いがこみ上げる。
「ぷっ、あはは」
笑い出すと堅も綾香のおもちゃみたいに笑う顔を見て釣られて笑う。
「ははは」
平尾は笑いを堪えると我を取り戻したかのように咳払いをして
「失礼致しました」と頭を下げた。その顔はまだ可笑しさが残っているようで
いつもの顔には戻っていなかった。
「いや。いいんだ」堅は笑いながらこたえる。
平尾は二人を見て思った。
(代表がなぜ、綾香さんの事になるとあんなにも取り乱されるか分かっ
た気がする)あのホームでコレットに歌を聞かせていた事、今の綾香を
見て明らかに今までの女性達とは違うことを感じていた。
(自然体で、安らぎを感じる)
綾香がふと真顔に戻り堅に話しかける。
「ねぇ、良かったら平尾さんに夕食一緒に食べてもらえないかな?ち
ょっと作りすぎちゃって」
堅が鍋をのぞく。
「平尾もしこのあと予定が無いなら、食べて行ってくれないか?」
「え?しかし・・」
予定は無かった。何時も業務に追われ夕食は一人で外食かコンビ二物で済ま
せる事が殆どだった。
「頼むよ、この量じゃ3日はポトフを食わされそうだ」
と笑いを堪えて平尾を見た。
「あ、ひどい〜」と笑いながら堅を見てから
「平尾さんお願い」と覗き込むように見た。
平尾はまたこみ上げる笑いを抑えた。
「では、お言葉に甘えて」
堅がポトフを口に運ぶのを綾香と平尾が食い入る様に見つめた。
「あ、うまいな」と気が抜けたような返事をした。
「本当?よかったぁ〜」とホッと胸を撫で下ろす。
「平尾さんもどうぞ大丈夫みたい。召し上がってください」
と、ニッコリ微笑んだ。
「僕は、毒見か」とボソッと呟くと
「あはは。冗談だってば」
そんなやり取りを見てまた笑いがこみ上げた。
(代表に仕えて12年余り今迄、こんな風に笑いあうことなど一度もな
かったな)そんな風に思うと嬉しくなった。
「ご馳走様でした」
平尾に頭を下げられ、綾香は戸惑うと
「あ。いいえ、粗末な物でごめんなさいね」とニッコリ微笑んだ。
「いいえ、とても美味しかったです」
「代表、それでは明日」頭を下げると振り返り部屋を出る。
「気を付けてな」
平尾はその言葉にまた驚き、ハッとすると振り返る。
「し、失礼いたします」
【気を付けてな】そんな言葉を掛けられたのも、もちろん初めての事
だった。堅に背を向けていつもの様に部屋から出る平尾の顔が穏やかに
微笑んでいた。
キッチンで洗った食器を拭いていると視線を感じて振り返った。
「どうかした?」。
「またナイフ落とされたらたまらないからな。監視」
と意地悪な顔で笑う。
「もぉー意地悪」
と頬を膨らませ棚に食器を戻し終わると堅に近づいて笑い混じりに睨
んだ。堅は綾香を抱き寄せる。
微笑む綾香が愛おしくて可愛くてニッコリ微笑んだ。 唇を重ねると、お
どけていた感覚は消えうせて体が熱くなる。堅の舌先が綾香の唇を促
すように優しくなぞると唇がほんの少し開き舌先が絡み合う。
「んっ・・ぁ・・」激しい口付けに綾香の吐息が漏れる。
堅は このままベッドへ運んで肌の感触を確かめたい衝動に駆られた。
綾香はこのまま唇を重ねていると、止まらなくなりそうで堅の唇からゆ
っくり離れる。
その瞬間が堅には、たまらなく切なかった。
「もう帰らないと」と綾香が少し潤んだ瞳で堅を見上げた。
「そうか・・」
「明日仕事だし、堅も仕事でしょ?」
「あぁ」
返事をすると綾香をきつく抱きしめた。綾香の耳元で囁く。
「送るよ」
「ワイン飲んだし、タクシーで帰れるよ?」
と腕の中で笑い混じりに答える。
「大丈夫、運転手が待機しているから」
「あは、そうなんだ」見上げて微笑むと堅は綾香の額に軽く口付けをした。
リムジンに乗り込むとパーテーションで仕切られた車内で2人は寄り
添う、 左側に乗り込んだ堅が綾香の左手を握ると親指と人差し指で
なぞるように指を触っていた。
柔らかいシートに身を沈ませて、くすぐったくて笑いがこみ上げた。
「あは。くすぐったいよ」
堅が笑窪を作って微笑むと綾香は肩にもたれた。
窓の外を眺めて、幸せで満たされていた休日の終わりを寂しく感じた。
(ずっと一緒にいたいな)心の中で願いながら車は静かに綾香の家
へと向かった。