第12章 願い(2)
硬い座り心地で押し込むように体がソファーに沈んだ。何処か落ち着かなくて
部屋を見回していると目の前にお茶が置かれる。横を見上げると先ほどの事務
員がにっこりと微笑んだ。
「先ほどはすみませんでした」
と謝ると事務員は「いいえ、私の方こそ不手際で申し訳ありませんでした」
と優しく微笑む。部屋に案内してくれた男性が机の上に並べてあるファイルから
何かを探しているようだった。
(なんだろう。遅いなぁ〜)
そう思い事務室に掛けられた時計を見る。あれから20分も経っている。
「あの。まだですか?」
痺れを切らし男性に話しかけた。
「あ、申し訳ありません。書類がねぇ〜見当たらなくて」
とゴソゴソと机の引き出しの中をかき回している。
時間が経つにつれ決心が鈍るようで焦りを感じた。
自宅に向かう車中で堅は落ち着き無く足を組みかえると外を眺めた。
(逢ったら何て言おう。綾香はなんて言うのだろう?逢いたい、綾香に逢いたい)
謝る事も、自分を嫌いになってしまったのかも知れないと思う不安も大きく渦巻いて
いたが逢いたいと思う気持ちが堅を支配していた。
(綾香に謝ろう。そして自分の気持ちを伝えよう、このままじゃ耐えられない)
祈るような気持ちで堅は窓の外を眺めた。
自宅マンションの前に車が停まると運転手が降りる前に車から飛び出す。お抱え
運転手は焦って駆け寄った。
「ここで待っていてくれ!」
そういい残し慌ててマンションの中に走り出した。
綾香は妙な焦りに包まれていた。
(これ以上ここに居たら私・・・)
思い切って勢いよく立ち上がる。
「あのっ!これ置いていくだけですから、お願いします」
そう言い終わると腰掛けていたソファーの横に紙袋を置き部屋を飛び出した。
後ろのほうで男性が呼び止める声がしたが一刻も早くこの場を立ち去りたかった。
胸に渦巻いていた何かを押さえきれなくなりそうで怖かった。
ビルのエントランスに飛び出るとスーツにノーネクタイの男が駆け込むように入ってきた。
「!」
(堅だ!)
綾香の心臓は一瞬大きく躍動してその鼓動は全身を強く揺らした。
(どうして。逢っちゃうの?)
少し離れた位置でドアを隔てて見詰め合う。堅はドア越しに綾香を見下ろすと
そのまま横に設置されているインターホンに近づきなにやらボタンを押した。
分厚いドアが滑る様に開く、堅はゆっくりと綾香の前まで歩くとそのまま黙り込む。
綾香は堅を見上げた。優しい瞳でも、怒っている様子でもなくほんの少し顔を仰向け
にして綾香を見下ろす。沈黙する二人、綾香は耐え切れずに下を向き、顔を逸らすと
口を開いた。
「借りていた服返しに来ただけだから。あの事務室に預けたから」
早口で言うと、顔が見られないまま目の前に立ちはだかる堅を避けるように横を通
り過ぎようとした。
あのチクチクが強くなる。
どうしようもなく苦しい気持ちが膨らみ喉を圧迫しているようで痛くて早く逃れた
かった。通り過ぎる瞬間。堅が綾香の手を掴む。
「!」
驚いて堅を見上げた。
少し眉を顰めていたけれどその瞳は力強さを感じない優しい眼差し、綾香は
直ぐに目を逸らす。
(堅の顔見ていると苦しくなる)
「は・・放して」
そう言うと堅の指が少し動いたがそのまま綾香の手を引いてビルの中に入る。
「堅!?」
堅は綾香を見るでもなく先週綾香が降りてきたエレベーターのドアに足を向けた。
痛くは無かったが手は力強く引っ張られる。
透明な分厚いドアの横にある四角いカメラに堅が顔を近づけると「認証しました」
と音声が流れドアが開いた。手を引かれるまま中に引っ張り込まれ2枚目の自動ドア
をぬけ、そのままエレベーターに乗ると一気に上昇した。その間黙って手を握りこち
らを見ようともしなかった。
(胸が苦しいどうして?)
エレベーターが止まり、ドアが開く。
堅はゆっくりと動き出し綾香をエレベーターから降ろす、そこは以前来た堅の家の
エントランスだった。綾香の部屋の3倍はある広い玄関にはグレーの密度が高く
毛足の長い絨毯が敷かれている。
堅は背を向けたまま綾香の後ろでエレベーターのドアが閉まると手をゆっくりと放した。
堅が振り返り綾香と目が合う。綾香はとっさに逸らすように俯いた。顔を見ると何かが
溢れ出しそうで、それを抑える事で必死だった。
(服を返して終わりにするじゃなかったの?早く言わなきゃ)
俯いたまま言葉を発した。
「私・・・」
そう言い掛けて、心の中で何かが遮るように口を重くした。
堅は今迄感じたことの無い焦りをどうしたら良いのか考えていた。
(私?綾香。なんて言いたい?今何を考えている?こっちを見てくれ)
心の中で焦りが募る。そんな自分を落ち着かせようと平静を取り戻したつもりで口
を開いた。
「それで、何?」
その声は整ったテンポで落ち着き払い冷たく聞こえ綾香の心に突き刺さるような
気がした。
(堅の顔が見られないよ。今どんな顔しているの?)
下を向いたまま口を開く。
「私もう振り回されたくないの・・」綾香の視線が彷徨う。
「堅は、友達になりたいって言ったのに・・なのにもうわかんないよ」
堅は心臓から血液が押し出される瞬間の鼓動が全身を揺らす感覚に包まれた。ずっと
逢いたかった綾香が目の前に居る。
愛しくて切なくて嫌われてしまったのでは無いかと不安で2週間過ごしてきた。
(綾香違うんだ!僕は)
表情が見られない事で心の中に不安が押し寄せる。綾香に出会って今迄感じたこ
との無い感情や経験ばかりで戸惑い焦りを感じていた。
(何て・・切り出したら良いんだ!)
「服ありがとう。下に預けたから」
堅に背を向けてエレベーターのボタンに左手を伸ばした。
その瞬間!その手を掴まれ綾香は後ろから堅に抱きしめられていた。
驚いて頭が真っ白になる。ゆっくりと堅の力強く暖かい温もりが伝わってくる。
「綾香」
綾香の耳元で囁くように言うその声は少しかすれていて、何かを押さえ込むように押
し殺した声だった。
「綾香、好きだ」
夢の中で聞く言葉のように体の中で反響して揺れ動くような感覚に陥る。堅が綾香の
左手を放し両手で体を包みこむと心臓がまた強く躍動するのを感じた。
堅は抱きしめながら心の中で強く思う。
(失いたくない。どこにも行かないでくれ!)
「好きだ!」
もう一度聞こえた、はっきりと響いてきた。包み込まれた腕から暖かい温もりが伝
わってくる。綾香はゆっくりと顔を後ろに向けると堅と目が合った。
堅は驚くほどあっさりと抱きしめている腕を解くと綾香は振り返り二人は向かい合う。
彫りの深い堅の顔はその瞳が揺らめいていて切なさが溢れていた。
「け・・ん」
見つめ合うと瞳から視線が外せなくなる。吸い込まれるようにその大きな瞳を見て
いた。ゆっくりと口を開く、気が付くと指先が震えていて手を握り締めた。
「この2週間ずっと考えていたの、堅みたいな人がどうして私と友達になろうって言
ったのか。気まぐれだったんじゃないかって・・・だから、あれ以来もう堅は私の事忘
れちゃったんじゃないかって」
堅は静かに綾香を見ていた。
綾香はまた俯く。
(私・・・堅に逢いたかったんだ)
そう心の中で強く感じた。
「堅が本当はどう思っているのか怖かったの」
そう言うと胸の中で何かを圧し止めていた感情が涙と一緒に溢れ出す。苦しい感情の
正体が何なのかやっと分かった気がした。堅は綾香の顔に右手を差し伸べ頬にかかっ
た髪の毛を優しく直す。
綾香はゆっくり堅を見上げた。
吸い込まれるように見詰め合う。
「堅に・・・逢いたかった」
堅の左手が綾香の体を優しく引き寄せ見詰め合ったまま顔が近づく。
瞳をゆっくりと閉じると、そのまま唇を重ねていた。その存在を確かめ合うように唇が
触れ合う。柔らかな綾香の体、そして微かにシャンプーの香りが堅の全身を包み込み
愛しい綾香を抱き寄せて、二人の鼓動が一つになったかの様に体に反響していた。