第10章 決壊(3)
傘を差して、精根尽き果てた様な顔で力なく歩く綾香を車まで連れて戻った。
助手席のドアを開けて背中をかばうように促すと綾香は足を止めて黙り込む。
「どうした?」
綾香の髪から水滴が滴り落ちると、大きな瞳に涙を溜め込んで堅を見上げ唇を
震わせた。
「車汚れちゃうよ?」
その瞳が潤んでいてたまらなく切なかった。
「いいよ、気にしなくて」
背中を軽く押すと車に乗り込み俯いた。堅が運転席に戻ると綾香は腕を抱えるよう
に体を震わせている。
「どうした?」心配になり肩に手を掛ける。
綾香の体が驚くほど冷たい。
「寒いのか?」
訊ねると体を震わせながらゆっくりとうなずいた。
(このままだと風邪を引くな、ここからだと僕の家のほうが近いか。早く体を温め
ないと)堅は自分の家へと車を走らせ駐車場に着くと助手席から綾香を下ろし直通
のエレベーターに乗る。綾香の目は虚ろで今にも崩れそうなほど疲れ切った様子だった。
エレベーターから降りるとそこはもう堅の自宅でグレーの毛足の長い絨毯が敷かれ
た広いエントランス。綾香は我に帰ったかのように足を止め、震える瞳で辺りを見回し
てから堅の顔を見た。
「大丈夫だから、濡れた服を乾かしたほうがいい」
綾香の手を引いてその奥にある厚いガラスの扉から中に入った。
静まりかえった真っ暗な部屋は足を踏み入れるとセンサーが感知して足元に据え付
けてある小さなライトが付く。足を踏み出す先で小さな灯りが付き、今通ってきた場所
から追うように消えていく、小さなセンサーライトの光が床から漏れて辺りを照らすと
暗い場所が綾香の部屋の何倍も広いリビングだという事が分かった。
堅は綾香を広いパウダールームに通した。奥はバスルームがある様だった。
広く取られた洗面所は大きな一枚の鏡がはめ込まれていて、カウンターはグレーの大理
石。足元は暖かく、床には外気温と室温を感知して自動的に温まる暖房が入っていた。
部屋の片隅には綾香の背丈ほどの観葉植物が置いてあり間接照明が照らしていて磨き上
げられた内装はまるでショールームのようだ。
「これ、タオルね。バスローブはこれ」
「ドライヤーはそれ使って」それだけ言うと堅は部屋から出て行った。
置かれた環境に驚き戸惑ったが今は何も考えたくなかった。体が冷えて指先の
感覚が無い、震える指で濡れて体に張り付いた服を脱ぎ体にバスタオルを巻くと
床を濡らさないように服を畳んで洗面台に置いた。
そのまま部屋の奥に繋がっているバスルームに入るとシャワーを浴びた。
大理石や磨き石が綺麗に光っていてシックにまとまっているが、その一つ一つが最
高級品であることを感じるほどバスルームは豪華だった。
頭から熱いシャワーを浴びる。
功一の顔もユリの含み笑いも頭を離れない。
「苦しいよ」
涙を抑えようとシャワーを浴びながら呼吸を整えると冷え切った体が少しずつ温ま
るのを感じた。涙を抑えて体を拭くとバスルームから出る。用意されていたバスローブ
を着込み、髪を乾かしているとノックの音がした。
(堅かな?)
「あの、入って宜しいでしょうか?」不思議に思ったが返事をすると扉が静かに開き
四十歳くらいの事務服を着た女性が顔を覗かせた。
「あの、サイズが合うか分かりませんがこちらを着てください」
そう言って幅の広い布紐の付いた紙袋を手渡された。
「下着のほうもサイズちょっと自信ないので」
「え?」
袋を覗くと中にはヨーロッパ製の高級ランジェリーの袋が入っていた。紙袋を見ると
有名イタリアブランドの袋だった。
「代表が中くらいの女性としかおっしゃいませんでしたので、中にバックが入ってい
ますからそちらに脱いだ服を入れてお持ち帰りください」
「あの、これわざわざ買ってきてくれたんですか?」
驚く綾香に女性は優しく微笑み軽くお辞儀をすると、すぐにパウダールームから
出て行った。
袋から服を取り出して見ると、スモーキーピンクの上品なワンピースにレースが
綺麗にあしらってあるニットジャケットだった。サイズは丁度良く足元を見ると可
愛いミュールが用意してある。一緒に入っていたビニールバックに濡れた服を入
れパウダールームから出るとルームランプが付いている薄明るいリビングに出た。
部屋は広くシックな家具がまるでインテリア雑誌のお手本のように綺麗に配置され
ている。大きな窓ガラスが雨模様の夜景を映し出して滲んで見えた。
ソファーやテーブルがあり必要最低限の間接照明が計算されたように配置してある。
広い部屋の奥にはバーカウンターがあって堅はカウンターのイスに座り窓の外を
眺めていた。
その瞳は依然見た深く寂しい瞳だった。
堅は綾香に気が付くと振り向いてゆっくりイスから立ち上がった。
「堅。なんか迷惑掛けちゃってごめんね」
「この服・・・」
そう言い掛けて目の前に居る堅の顔を見た。
(堅の顔を見ると泣きそう)
ホッとしたような気持ちになるのを抑えながら下を向く。
堅は顔を見てくれない綾香に切ない気持ちがあふれ出していた。悟られないよう
にカウンターの中に入る。
「いいよ、気にするな」と微笑んだ。
「何か飲むか?暖かいものがいいな。そこ座って」と不自然なほど明るく振舞う。
手際よくホットワインを作った。
「アルコール度数低いし、甘いから飲みやすいよ」
グラスをカウンターテーブルに乗せて滑らせるように静かに差し出した。
綾香は少しためらった様子だったが「ありがとう」と小さな声で言ってグラスを
手に取り、ゆっくり口に運んだ。
「美味しい」
その顔が笑顔になり堅はホッとして微笑んだ。
ずっと付きまとう切なさ、どうしたらこの切なさから逃れられるのか綾香をみて考
えていた。
綾香は一瞬目が合うとグラスを口から離し俯いた。
取り乱し泣いた顔を見られた恥ずかしさも。そして、戸惑うほどの堅の優しさを感じ
ていた。(堅の瞳が優しくてその瞳を見ちゃうと泣きそう。頼りそうになる・・)
そんな自分を否定するように、またワインを口にした。
街の灯りが窓ガラスに映りこみ雨が当たって灯りが滲む、ほんの少しの沈黙が気
まずくて何とかしようと綾香は口を開いた。
「なんだか」
そう言い掛けると唇が震えた。
(やだ。泣きそう気が付かれたくない)
グラスをカウンターに置くとゆっくりと立ち上がり窓辺に向かった。
堅に背を向けて外を眺める。
綾香の背中はまるで泣いているように感じて、堅は黙ったまま傍に歩いた。
綾香の横顔は瞳が潤んで今にも泣きそうだった。
(僕は綾香を愛しいと想うたびに、肩を引き寄せて抱きしめたいと想った。だがその
感情を抑えてきた)
綾香は雨に滲むガラスを見つめながら静かに口を開く。
「堅には・・・」
そう言い掛けると無理に作り笑いをして。
「情けない所。見られてばっかりだね」
言い終わると綾香の瞳は涙でいっぱいになり今にも頬を伝わりそうだった。
堅の頭の中が一瞬真っ白になる。
「け・・・ん?!」
驚き戸惑うその声が聞こえたのは腕の中からだった。綾香を引き寄せて強く抱きし
めていた。堤防が決壊するかのように感情があふれ出す。刹那が爆発してもう自
分を抑えられない。綾香の暖かい温もりと柔らかな香りが堅を包み込む。
堅を見上げるとその瞳は優しく夜景が照らして怪しく光っていた。
顔が凄く近く強く抱きしめられて、先ほどまでの堅と違う事に驚きを隠せないで居た。
(いつもの堅と違う)
「堅?」
綾香の声が震えていた。 瞳が揺れ動き堅を見つめる。
(堅どうして?)
綾香の震えを抑えるように堅はそっと唇を重ねた。綾香の唇は強張っていた。だが強
く想う気持ちだけがただそれだけが頭を過ぎって、全身を支配していた。綾香の唇が
離れようとすると追いかけるように捕らえて逃さない。
「け・・・ん・・」
重ねた唇から声が漏れる。嫌われる事も、この先の事も考える事が出来なかった。
綾香の唇から伝わる温もりが堅の心を一層熱くする。
「堅・・やめ・・て」
唇の隙間から吐息が漏れるように言うと、綾香が腕を振り払い離れた。気が付くと
その瞳から涙が溢れていた。
「ひどい!どうして?こんな事をするの?!友達だと思っていたのに!堅は私と!私と・・!」
最後まで言葉にならず心の中で叫ぶ。
(そんなつもりで付き合っていたの?!)
声にならない声でそこまで叫ぶと泣きながら荷物を掴みそのまま部屋を飛び出した。