第9章 距離(2)
車が大通りから少し道幅の狭い通りに入り込むと綾香は瞳を輝かせて一軒
の店を指差した。
「あ、ここ!」
店の前を通り過ぎてから車を路肩に寄せてゆっくりと停め、助手席側の後部に
身を乗り出して「あの店?」と間口が狭くて薄汚れた暖簾の掛かるラーメン屋
を見た。
綾香は振り向いて「うんうん」と満面の笑み。
堅は言葉を無くした。
(ラーメン?嫌いじゃないが上海の中華料理店でしか食べた事無いぞ?!そ
れになんだかこの店、古くて汚れているし大丈夫なのか?)
「あ〜〜!ラーメン屋だって馬鹿にしているんでしょぉお」
「ここはぁ!本当に美味しいんだからっ」
と、得意気に白くて柔らかそうな頬をパンパンに膨らませた。さっきまでの沈ん
だ顔が嘘のようにその顔があまりにも可愛らしく思わず笑いがこみ上げる。
(今まで、女を食事に誘うとフレンチなんて言ったら飛びつくようについて来たのに)
「ぷっ!」
「あはははは。面白いなぁ〜ホント最高だよ」堪えきれずに大笑いした。
「もおぉ〜〜っ!やっぱ馬鹿にしてるぅ。食べたら分かるってば!」と自信満々。
そんな綾香が愛おしくてたまらなかった。
「あはは・・・」ふと顔の距離が凄く近い事に気がついた。僅か20cmくらい
の距離、堅の鼓動が一気に早くなる。
(このままキスをしてしまおうか)
堅の顔がいきなり真顔になったのに気がつくと綾香が堅の顔を見た。
ほんの数秒間見つめあう。
激しく降りしきる雨音を一瞬忘れてしまうほど綾香の表情が余りにも無防備すぎ
て、どうしたの?と言った感じでじっと見詰めてくる。このまま唇を重ねるのは簡単
だったがその顔を見てそんな風に考えている自分に罪悪感が襲う。
綾香はそんな気持ちに気がつかない様子でバックを取り降りる準備をした。
「雨すっごいね〜」
フロントガラスを覗き込むように薄暗い空を見上げると思いついたようにバックから
何か取り出す。
「まってね」ニッコリ微笑むとドアを開けて勢い良く車を降りた。
「え?おい!」呼び止めたが遮るようにドアが閉まる。
降りしきる雨の中飛びだした綾香が心配で外に出ようと運転席のドアを開け驚いた。
「え?」
目の前に折り畳み傘をさして得意げに立っている綾香が居た。堅の顔を見るなり
「あは。折り畳み傘持ってきて良かったぁ〜」と笑う。
堅は車から降りるとドアを閉めた。肩が濡れているのもかまわずに
良く見ると堅が濡れないように必死に背伸びして傘をさしている。
「堅、背が高い事忘れてたっ」と笑っていた。
堅が傘の柄を持つと小指と綾香の人差し指が触れた。その瞬間心臓の鼓動が全身
を揺らす。綾香の指が傘から離れると傘を綾香に引き戻し小さな傘に二人で入った。
車から店まで10メートルほどの距離。
雨脚が強いこんな日は傘をささず全力疾走してもびしょ濡れになりそうだった。
小さな傘に肩を重なり合わせるように二人で入る。肩が触れ合い堅は緊張した。店
の前に着くと軒下に入り傘を閉じた。右側に立つ綾香を先に店に入れようと左手で
ガラス戸に手を掛けた。建物は使い古されその戸を走らせているレールが磨耗して
いて指先を掛けて引くとカラカラと軽い音をたてて拍子抜けするほど簡単に開いた。
綾香は堅を見てにっこり微笑む。
「ありがとう」
照れくさくも傍に居られる事に喜びを感じていた。暖簾をくぐり店内に入ると傘を店
の入り口にある傘立てに差し込んで綾香の後に続いた。厨房から伝わる熱気と麺を茹
でる大きな鍋から蒸発した水分が入り混じり不快なほど湿度が高く感じる。思ったよ
りも狭い店内は厨房を挟んでカウンターがあって、10客ほどのイスと後ろに通路が
あり2人くらいが座れるテーブルが4つ並んでいた。
薄汚れた壁紙と色あせたビールのポスター。狭い店内は客で混雑していた。
厨房から身を乗り出すように店主と思しき男性が
「へい!いらっしゃい〜」と、威勢よく叫ぶ。
綾香を見ると中華なべを手際よく振りながらゴツゴツした顔を緩ませる。
「おお!綾香ちゃんじゃないか久しぶりだなぁ。元気にしてたか?」
「おっちゃん。こんばんは〜元気だよ。お客さん連れてきたの〜」
とまた無防備に笑う。
(綾香は人に好かれているんだな)と少し嬉しくもなんとなく寂しい気持ちになる。
(僕はこんな風に誰かに好かれて居るなんて実感した事もなかったし、必要性
すら感じた事は無かった)
「お〜〜い。綾香ちゃんがきたぞ」
奥から調理服の上にエプロンをつけた。中年で恰幅の良い女性が現れて
「おやぁ〜綾香ちゃん。久しぶりじゃないのぉ〜元気にしてた?」堅を見るとにんまり
笑った。
「あら、恋人連れてきてくれたの?座って座って」
「おばちゃんっ!お友達なんだってば」
カウンターの中央に丁度2客のイスが空いていて二人は狭いスペースに詰め込まれるよ
うに座るとまた距離が一段と近くなり肩と肩が触れ合った。
堅は熱気や古ぼけた店の内装の事はどうでも良くなっていた。
「何にしようかぁ〜堅は何食べる?」メニューを見ながら語りかける。
「何がお勧めなの?」綾香の横顔を見て言った。
「えっとね、鳥だし中華美味しいよ」微笑んで堅のほうを見た。
顔がくっつきそうになるほど近い距離だった。ドキドキする気持ちを悟られまいと平
静を装って返事をした。
「じゃぁそれにしようか」
「私も同じのにしようかな」
と言ったのを聞いて二人を覗き込むように見ていた店主に注文する。綾香はまる
で警戒心のかけらも無く堅を全く意識していないようだった。
(こんなに近くに居るのに彼女は僕の事。意識すらしていないのかな)
そんな子供が拗ねたような事を考えている自分を一瞬冷静に見てしまう。
(僕は何を考えているんだ?!こんな風に考えるなんて)
そう思うとまた切なくなった。