第9章 距離(1)
車を走らせ帰路につくとフロントガラスに雨がポツポツと当たって弾けた。
「あ・・雨だぁ」助手席の窓を見て綾香が呟く。
「降って来たな」
(この後、綾香は男と会ってどんな時間をすごすのだろう)心の中に湧き
上がる不安。全身が冷たく硬くなる様な行き場の無い自分の気持ちを押さ
え込んだ。
(いっそ、何もかも壊してしましたい。嫌われてもいい力ずくで彼女を手に入
れてしまおうか?)そんな事考えて堅は綾香を見た。これから会える事を楽し
みにしている様子を見るとそんな風に考えてしまった自分に罪悪感を覚える。
(車を停めたくない。停めたら綾香は・・)ふと何か振動する音が聞こえた。
耳を澄ませると綾香のバックから聞こえているようだった。
「電話じゃない?」
気がつかない様子の綾香に言う。慌てた様子でバックから携帯電話を取り出す
綾香は着信を見て一瞬ためらった様子だった。
「出なくていいの?」
「今車の中だし。後でいいよ」
なんとなく落ち着かない様子でこたえる彼女を見て。
「いいよ。気にしなくて」と無理に笑う。
「ごめんね、ちょっと電話に出るね」急いで携帯を耳に当てた。
【もしもし、お疲れ〜】狭い車内で男の声がもれて聞こえた。
胸が締め付けられる気持ちだった。ハンドルを持つ手に無意識に力が入る。
「お疲れ様」
【あのさ〜】
「え?」
【急な仕事が入って、ちょっといけそうに無いんだ】
綾香は少し沈黙すると「そっか」と泣きそうな顔。
【会社の部下がな。どうしようもない仕事取ってきてさこれから頭下げて断りに行か
ないと、今日は遅くなりそうだし】
「うん・・・大変だね。頑張って」
微かに震える声で笑うと電話を切った。折りたたみ式のピンクの携帯電話を閉じる
とすぐさま助手席の窓を見た。堅はどこかでホッとしてハンドルを握りなおした。
気がつくと綾香が窓を見たまま不自然な格好でこちらに背を向けていた。
綾香が今どんな表情をしているのかと想像したら、ホッとしていた自分が恥ずかし
くなった。(涙を堪えているのか?)その背中が寂しそうで顔を背けた綾香を思うと
車を停めて引き寄せたくなる。何と言ったらいいのか言葉が見つからなかった。
気がつかない振りをしながら運転を続けた。
綾香は少しするとゆっくりと体制を戻して笑う。
「あは。またドタキャン」
その顔は悲しげで無理をしているのが痛いほど伝わってきた。
「彼氏。仕事忙しいの?」
「うん。小さい会社だけど社長さんだし、色々大変みたい」
膝の上に置いた携帯電話を両手で握り締めて言った。
「仕方ないの、仕事だしね。土日も殆んど休まずに働いているみたい」
「会社経営って私には分からない苦労も有るだろうし、逆に体が心配なくらい」
ぎこちなく笑った瞳が潤んで見えた。堅は何と言ったら良いのか分からないまま
「そうだな」と呟くように言った。
雨が強まる。フロントガラスに叩きつけるように降りしきる雨にワイパーが忙しそう
に動いている。規則正しく動くワイパーをじっと見つめて綾香は黙り込んだ。何か言
葉を掛けようと必死に考えを巡らせたが、綾香の気持ちを推し量ると軽々しい事は
言えないと思った。
「あのさ、よかったら飯でも食べて帰らない?」
続く沈黙、落ち込んだ様子の綾香が心配で声を掛けた。綾香は少し黙る。
「・・・うん」雨音にかき消されそうな声で答えた。
「どっ何処で食べようか?あ、良く行くフレンチの美味しい店があるんだ」
不自然なほど明るく振舞うと、綾香の視線を横顔に感じる。妙に緊張している自分を
必死に隠そうと運転に集中した。
「ごめんね・・・」
その言葉にチラリと見ると綾香は一瞬泣きそうな顔をしてすぐに微笑んだ。
「空気重いよね〜〜。あははは。なんだか気使わせちゃってごめんね」
健気に笑う彼女を見て愛おしくてたまらなくなった。
「ん?あぁ何?そんな事気にしていたのか?」わざと気がつかない振りをした。
「それじゃぁ。何処行こうか」
と訊ねると泣きそうな顔が少し和らいで見えた。人差し指を唇に当てて少し考え
込み何か思いついたように微笑む。
「じゃぁ〜。堅が行った事の無い美味しいお店行こう!」と笑った。
(ん?美味しい?僕が行った事がない?面白そうだな)
世界中の有名な高級店を渡り歩く堅はその言葉を聞いてワクワクする気持ちを感
じながら笑顔で返した。
「じゃぁ。道案内よろしく」