第8章 安らぎ(1)
車は滑り出すように滑らかに加速する。F1直系のV10大型エンジンが付いている
とは思えない静けさで車に乗っている事を忘れさせるほど体に掛かる負荷も殆ん
ど無かった。堅は優雅とも思えるほどの手つきで運転をしていて片手で軽く綾香の
顔を包み込んでしまうほどの太い指。大きな手のひらが驚くほどしなやかにギアを
操作している。
綾香は妙な緊張感に包まれていた。
(なんかこうしていると私。堅の事本当に何にも知らなかったなぁ〜)
チラッと視線だけ堅に向けた。
(私の知っている堅はまるで固い鉄の鎧を着込んでいるみたいに無表情で人を寄
せ付けないような目をしたり、そうかと思えば意地悪で凄く悲しそうな目をしたり
優しかったり)
運転している堅の横顔が無防備に見える。信号で車が止まると堅はチラリと綾香を見た。
「何処かお勧めのカフェある?」
「え、カフェ?ん〜」
(スターバックスとかドトールとか。考えてみるとここだ!って思い当たる場所が
無いなぁ。お洒落なカフェなんてあんまり行った事ないし)
「お洒落なカフェとか良く知らなくて、堅が何時も行く所は?」
「カフェってそう言やぁもう7、8年行ってないな」
「え〜?珈琲とか何時も何処で飲んでいるの?」
「いつもはオフィスで専用の給仕が入れてくれるし、あとは食事の時にシェフが入れ
てくれるから」
「あは。そっ、そうなんだ」
(シェフってオフィスに専属給仕ってうぁースターバックスとか言わなくて良かった〜
珈琲一つでレベル高すぎ〜)と苦笑いした。モヤモヤ考えていると仕事の昼休みで
天気の良い日にお弁当を食べる丘を思い出し車内のフロントガラスから空を見上げる。
(今日は雲があるけど青空も覗いているし)
「ねぇ。じゃぁ〜さ、少し離れた場所だけど」
緑が多く残る狭い道幅の住宅街を登ると突然開けた景色が広がった。
堅の車を停めた空き地から「Green Home」が少し離れた場所に見える。
「あそこに勤めているの」と車から降りると指差して話しかけた。
「何かの施設?」堅は車のドアを手元の操作ボタンでロックしながら訊ねた。
綾香の隣に立つと、その場所から見える「Green Home」を見る。
「お年寄りがね、余生を送る場所なの」
と呟くと春風がカールした髪とスカートを揺らす。ふと、マダムコレットの事を考
えた。視線を感じて堅のほうを見上げると堅がこちらを見ている。日差しに照らさ
れ陰った目元が優しげで戸惑った。
「こっち。いい場所があるの」
空き地から今上ってきた狭い道路を挟んで向かい側に、高さ1.5mほどのヨーロ
ッパ調の白い柵で囲われた公園のような場所がある。足元に柔らかい芝生が敷き
詰められ歩く場所に敷いてあるレンガタイルが中に続いていた。
入り口はバラの木が植えてあり、まだ花の時期ではなかったが葉が茂り綺麗なル
ープを描いて二人を春の直射日光から優しく守るように招き入れた。
堅がその大きな体を少しか屈ませて入った狭い入り口からは想像できないほど中
には花や緑が咲き誇っている。中央には白く塗られた木製のテーブルと長イスが
置いてあった。白い外側の柵に絡むようにツル科の植物が覆い、綺麗な緑の垣根
のようになっている。イスに腰掛けると頭上に藤の棚が掛かっているのに気がつい
た。日差しが藤の木の隙間から零れ落ちてテーブルの周りを優しく照らす。キラキ
ラと白いテーブルに反射して心地よい風が緑や花の香りを纏いながら二人の間をす
り抜けた。
「良い場所だね」辺りを見回しながら一緒に長イスに座る。
「でしょ?」緑に反射した柔らかな日差しで照らされた綾香が笑顔で返事をした。
「ここね。前にホームに入居していた方の娘さんが手入れしているの」
「近所の人に開放してくれているんだよ」
黄色い小さな花が群れて咲く場所を見つめて微笑む。
微かに芝生を踏みしめる足音が聞こえると緑の柵が入り組んでいる奥のほうから
一人の女性が現れた。年は50歳〜60歳くらいで小太りの中年女性。髪は金色で
白髪が混じり白人のハーフの様に感じた。薄いブラウンの瞳にチャーミングなそばか
す。一瞬女性は驚いた様子だったが堅の体に隠れていた綾香を見つけると満面の
笑みを浮かべる。
「あら〜アヤカ。今日はお休み?」と流暢な日本語で話しかけた。
「蓉子さんこんにちは」
堅が見たことも無いような無防備な笑顔で挨拶をした。堅も軽く蓉子に向かって会
釈をする。蓉子はにっこり笑って堅を見るとゆっくりした足取りで二人の目の前のイ
スに腰掛けた。
「めずらしいこと、アヤカが男性をここに連れてくるなんてボーイフレンド?」
と柔らかな口調で声を弾ませた。
綾香は堅の顔をチラッと見る(やだ。蓉子さん誤解しているかも)
何故か恥ずかしくてたまらなかった。
「蓉子さん。お友達の堅よ」微笑んで言う。
「こんにちは」とぎこちなく挨拶をする。
「こんにちは。アヤカにはとてもお世話になっているの」
にっこり笑うと春風が蓉子の白髪を揺らした。
「父が生きていた時に本当に親身になってくれて、娘みたいに思っているのよ」
「うれしいわぁ、ここにボーイフレンドを連れて来てくれるなんて」と笑顔で返した。
綾香は蓉子の口を閉ざすように慌てて名前を呼んだ。
「よっ、蓉子さんっ!」蓉子はほんの少しにやけた顔で綾香を見ている。
(蓉子さん。やっぱり誤解してるよぉ)
「おほほほ。分かったわアヤカ。ボーイフレンドね」
少し意地悪に微笑んだかと思うと思い出したように綾香に訊ねた。
「ところでアヤカ。コレットの体調はいかが?」それを聞いて綾香は少し寂しそうに
蓉子の顔を見た。
「うん、あまりね・・・よくないの」
「そう・・」
蓉子は父親が施設にいた頃。コレットと何度か話をしたこともあり気に掛けている様
子だった。沈んだ顔を上げると堅を見て「あら。私ったら肝心のお茶がないわね」
と、ふくよかな顔でにっこり笑う。イスから立ち上がり「まっていてね」さっき出てき
た通路のほうへと消えていった。
堅は訳が分からないと言った風に瞳を大きく開いて綾香の顔を見る。
「あ、ごめんね。堅になら話してもいいかな」
「あの施設にね・・」とコレットの事を話した。
「そうか。じゃぁさっきの本はそのために?」
「うん。やっと見つけたんだけど肝心の音符が付いていなくて」
とちょっと残念そうに笑う。
「でも。もう耳が聞こえないなら、手話でもだめなんじゃ?」
「あは、うん。そうかもしれない」と少し寂しそうに目を伏せた。
「コレットさん癌なんだ。進行は遅いんだけど、体力が無いから手術も
出来ないの。担当医は老衰か、癌かどちらかが死因になってもおかしくないって
・・もうね、あまり・・彼女には時間が無いの・・」
一瞬強く吹きつけた風が綾香の髪をなびかせる。
「同僚も同じ事言っていたの。確かにその通りだと思う。手話じゃ音は伝わらない
もの」そういうと寂しそうな顔をして堅を見た。
「でも諦めたくないんだ。少しでも可能性があるならそれでもし、コレットさんが安ら
ぐ事が出来るならそれに賭けてみたいの」
堅の瞳が優しく綾香を見つめると堅から視線を逸らし頭上の藤棚を見上げた。
「あは。私ってホント32にもなって無駄に一生懸命だったり、いつも迷いっぱなしで
だから嫁の貰い手も無いのかなぁ〜あはは」
「堅はすごいね。私とそんなに年変わらないのに全然違うもん。きっと堅から見たら
私のしている事って無駄にしか見えないよね」と少し寂しそうに微笑んだ。
「いや。そう言う優しさって有ってもいいんじゃないかな」
「優しいのかな?自分が安心したいだけなのかも・・目の前で孤独なまま人生を終
わらせてほしくないって。私の偽善なのかも・・・」
そう言う綾香の瞳が潤んで見えた。
「あは。ダメだね私って」と笑うとまた堅の顔を見た。堅の彫りの深い顔は木漏れ
日に当たってその目を陰らせていたがその奥から覗く瞳は、春の柔らかな風が綾香
を包み込むかの様に見つめていた。
その瞳があまりのも優しげで、さきほど堅の腕の中で感じた衝撃を思い出した。
(やだ、なんだか今日の私変。きっと蓉子さんがあんな風に言うからだわ)
そう思うとちょっと頬を膨らませた。風が緑を撫でると葉が擦れ合う音と新緑の微か
な香りがゆっくりと二人の間を通り過ぎる。
(堅。なんだか無口)
「おまたせ」
奥から華やかな声が聞こえた。蓉子がティーセットを運んでくる。木製のトレイの上
でティーカップとセットになっている銀のスプーンがカチャカチャと音を立てている。
綾香は立ち上がり蓉子を手伝ってテーブルに本格的なティーセットを並べた。
「わぁ〜スコーンまである〜、ありがとう蓉子さん」
「蓉子さんの焼いたスコーンはその辺のお店でも食べられないくらい美味しいのよ」
「そうなんだ。有難うございます」と堅はぎこちなく蓉子にお礼を言った。
「おほほほ。アヤカのボーイフレンドですもの取っておきの紅茶を入れたのよ」
とゆっくり笑顔でこたえた。
「だからぁ、蓉子さんお友達なの!」と慌てた様子で頬を膨らまし蓉子に訂正を入れる。
「あらぁ〜オトモダチね!分かったわ」綾香に意地悪そうにウィンクする。
蓉子の態度に恥ずかしくなって堅の顔を見られないで居た。
「ゆっくりしていって頂戴ね」にこやかに笑うと先ほど出てきたほうへと帰っていった。
再び二人きりになった公園で綾香はティーポットからカップにお茶を注ぐ。
「蓉子さんね、イギリス人のハーフで紅茶には凄くこだわっているんだ」
と語り紅茶を注いだカップを堅の目の前に置いた。華やかな紅茶の香りが漂う。
「ありがとう」ぎこちなく微笑むと紅茶を口に含み、驚いた様子でカップから口を離す。
「う、旨い」と呟いて綾香を見た」
「でしょ?すごく美味しいの、蓉子さんの紅茶」なんとなく恥ずかしさも消え打ち解け
た気がして二人は微笑んだ。