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革命の人形姫  作者: G. Velskin
第二部 簒奪の調べ
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13/14

第二章 揺れる玉座



 王都の朝は、まだ薄い霧に包まれていた。石畳の大通りに残る夜露が、馬車の車輪の音を柔らかく吸い込んでいく。

 カタリナは窓越しに、遠く連なる城壁と、塔の頂に揺れる王家の旗を見つめていた。旅の疲れが身体に残るものの、心はこれから始まる対話への緊張で満ちている。

「……到着いたしました、カタリナ殿下」

 ヴィクトーリアが馬車の扉を静かに開ける。その声にカタリナは小さく頷き、深く息を吸い込んだ。

「ありがとう、ヴィクトーリア。ラウノ、準備はできている?」

「もちろんです、カタリナ殿下。王都の魔素の流れは、やはり独特ですね」

 ラウノは淡く微笑み、胸元の天球儀をそっと撫でている。

 二人の存在に心強さを覚えつつも、王都の空気にはどこか落ち着かないものがあった。


 王宮の門前には、アマデオと、その近衛騎士イムレが待っていた。イムレは近衛騎士の礼装に身を包み、優しい笑顔で出迎える。その視線は柔らかく、歓迎の意を示しているようだった。

「ようこそ、カタリナ。長旅で疲れただろう?」

 アマデオの柔らかな微笑みは、昔から変わらない。けれど、今はその奥に、どこか翳(かげ)りがあるように思えた。

「ご配慮感謝いたします、アマデオ兄さま。王都は……やはり空気が違いますね」

 カタリナは一礼し、アマデオの手を軽く取る。イムレは一歩前に出て、柔らかな表情でカタリナたちを観察していた。


 王宮の応接室に案内されると、カタリナは一度立ち止まり、アマデオに向き直った。まだ誰も席には着いていない。

「アマデオ兄さま、まずご紹介いたします。こちらは私の主席宮廷魔術師、ラウノ・マキ。そして、近衛騎士のクレンチャー・ヴィクトーリアです」

 ラウノは一歩前に出て、丁寧に頭を下げる。

「初めまして、アマデオ殿下。ラウノ・マキと申します。カタリナ殿下の命により、王都までお供いたしました。お目にかかれて光栄です」

 ヴィクトーリアも控えめに一礼する。

「改めまして、カタリナ殿下の近衛騎士、クレンチャー・ヴィクトーリアです。王都でのご厚意に感謝いたします」

 アマデオは微笑み、ラウノとヴィクトーリアに視線を向ける。

「ようこそお越しくださいました。カタリナの信頼厚い方々と伺っています。どうぞよろしく」

 続いて、アマデオが自分の側に控える人物に目をやる。

「そして、こちらは私の近衛騎士、フェハール・イムレ。幼い頃から私を支えてくれている近衛騎士です」

 イムレはカタリナたちに深く一礼した。

「フェハール・イムレと申します、ラウノ殿。カタリナ殿下におかれましては、ご機嫌麗しゅう存じます」

「イムレは昔から、ずっと兄さまの横にいますね」

 互いの紹介と挨拶が済むと、アマデオはイムレに一瞬だけ視線を送った。イムレはごく控えめに頷き、アマデオの背後に静かに立つ。

 その動きは、長年の信頼と親密さを感じさせるほど自然だった。

 アマデオが柔らかく手を広げる。

「どうぞ、おかけください」

「失礼いたします」

 ラウノが軽く頭を下げて席に着き、ヴィクトーリアはカタリナの背後に控える。


 アマデオの顔を見つめながら、カタリナは静かに切り出した。

「アマデオ兄さま、本日は大事なお話があって参りました」

「改まってどうしたんだい?」

 カタリナは声を低くし、アマデオの目をまっすぐに見つめた。 

「ゾルターナからの伝言です。王都に不穏な影が迫っています。どうか、ご用心を」

 ラウノも続けて警告する。

「我が師ゾルターナの使い魔が確認したところによると、最近お亡くなりになったアマデオ殿下の魔術師が、偶発的な事故を装った暗殺では、と」

「イムレ、そうなのかい?」

 イムレは口元に手をやり、逡巡したのち、口を開いた。

「……確かに、占い師のペトラが馬車の事故で亡くなりましたが、警察は整備不良で車輪が外れた、と」

「ふむ……」

 アマデオは一瞬だけ表情を曇らせたが、すぐに肩をすくめて笑った。

「ゾルターナの警告か。ありがたいけど、心配しすぎじゃないかな?イムレがいれば大丈夫さ。なあ、イムリ」

「はい、ご心配には及びません。必ずやお守りいたします」

「……イムレがいれば、ですか」

 ヴィクトーリアが低く呟く。「それでも、警戒は怠らないでください。王都の空気は、以前よりも重く感じます」

 ラウノが窓の外を見ながら静かに言う。「魔素の流れも不安定です。何者かが結界に干渉している可能性もあります。警戒を強めた方が良いでしょう」

「大丈夫、大丈夫。イムレは僕の影みたいなものだから。何かあれば、すぐに知らせてくれるよ」

 アマデオは軽く手を振って笑い飛ばす。イムレは一歩前に出て、部屋の隅々まで視線を走らせている。

「それより、カタリナ。君にも伝えておきたいことがある」

 アマデオは声を落とし、椅子に腰掛けるよう促す。カタリナも静かに腰を下ろし、ヴィクトーリアは背後に控える。

「イザベラを中心とする保守派が、議会で新しい法案を提出しようとしている。『王国統合秩序法案』――各民族を特定の領域に強制的に移住させる内容だ」

 アマデオの声には、珍しく重さがあった。

「……王国統合秩序法案」

 カタリナはその言葉を繰り返し、手元で指を組む。「それは、王国の多様性を否定するものです。イザベラ姉さまは本気なのですか?」

「本気さ。イザベラだけじゃない。保守派の多くが賛同している。議会で可決されれば、王国は大きく変わる」

 アマデオは苦笑し、イムレに目をやる。「でも、僕は反対だ。カタリナはどう思う?」

「もちろん、私は反対です。王国の未来は多様性の中にこそあると信じています」

 カタリナは静かに頷いた。

 ラウノが静かに口を開く。「カタリナ殿下、もし議会でこの法案が可決されれば、王国の秩序は一時的に保たれるかもしれませんが、長期的には分断と対立を生むでしょう」

 アマデオはふっと微笑み、手のひらでテーブルを軽く叩いた。「君たちがそう言ってくれると、心強いよ。でも、議会は今、揺れている。玉座も、揺れているんだ」

 アマデオの言葉に、カタリナはふと違和感を覚えた。

 玉座が揺れている――その表現が、どこか現実離れして聞こえたのだ。王都の空気の重さや議会の不安定さは理解できる。

 だが、玉座そのものが揺れるとは、どういう意味なのだろう。


 カタリナは、そっとアマデオの顔を見つめた。兄の表情には、いつもの柔らかな微笑みが浮かんでいる。しかし、その奥に、わずかな陰りと迷いが見え隠れしていた。

「……アマデオ兄さま、玉座が揺れている、とは?」

 問いかける声は自然と低くなった。ヴィクトーリアもラウノも、静かにそのやりとりを見守っている。

 アマデオは一瞬、言葉を探すように視線を泳がせた。手元のカップをそっと持ち上げ、しかし口には運ばず、しばらく沈黙する。

 そのとき、イムレがそっとアマデオのそばへ半歩寄る。アマデオは無意識のようにイムレの袖口に指先で触れ、イムレは何も言わずにわずかに頷いた。

「……そうだね。カタリナには、きちんと伝えておくべきだった」

 アマデオは小さく息を吐き、視線を落とした。普段は軽やかな兄の声が、どこか重く響く。

「父上――国王陛下は、しばらく前から体調を崩されていてね。今はほとんど病床に伏していらっしゃる。医師たちは静養が必要だと言っているけれど、回復の兆しはまだ見えない」

 カタリナは思わず息を呑んだ。父王の健康について、最近は断片的な噂しか耳にしていなかったが、兄の口から改めて聞かされると、胸の奥が冷たくなる。

「……そんなに、お悪いのですか」

 アマデオは頷き、少しだけ苦笑した。

「だから、今は僕が摂政として、一切の国事を取り仕切っている。議会との調整も、王家の代表として僕が担っているんだ。……正直、荷が重いよ」

 その言葉には、兄としての責任感と、どこか頼りなさが同居していた。カタリナは、兄の肩にかかる重圧を思い、胸が痛む。

「兄さま……私は、兄さまがどんな決断をしても、きっと正しいと信じています。兄さまは、誰よりも優しい方ですから」

 アマデオは苦笑しながら首を振る。

「優しさだけでは、国は動かないよ。理想と現実の狭間で、何度も自分を見失いそうになる」

「それでも、兄さまは兄さまのままでいてください。私は、兄さまが変わらずにいてくれることが、何よりの支えなんです」

 アマデオはしばし沈黙し、窓の外を見つめる。

「……カタリナは、昔から変わらないな。まっすぐで、時に無鉄砲で……でも、そのまっすぐさに救われる人もいる。私も、何度も救われてきた」

 カタリナは少し微笑み、意を決して口を開く。

「ありがとうございます。……実は、兄さまにお願いがあって参りました」

 アマデオはすぐには答えず、少し考え込むように視線を落とす。

「……君の頼みなら、断りづらいな。でも、今の私にできることは限られている。内容によっては、慎重に考えさせてほしい」

「もちろんです。無理を承知でお願いすることになるかもしれません。でも、兄さまの力が必要なんです」

「……話を聞こう。君がそこまで言うなら、私も覚悟を決めるしかないな」


 カタリナはそっと手元の書類に視線を落とし、意を決して顔を上げる。

「私は、ダルマティア管区の自治憲章を改定し、庶民院――民意を直接反映する下院の設置を実現したいと考えています」

 アマデオは黙って耳を傾けている。

「アマデオ兄さまはロディナの惨劇は覚えていらっしゃいますか?」

 アマデオは苦々しい顔で答える。「……もちろんだとも。あの忌々しい事件を忘れるわけがない。先の勅書も、責任者(モーリツ)を解任させるために、中央派の反対を押し切って出したんだ。……まさか、特使ごと消されるとは思わなかったが」

 ロディナの惨劇は、王都でも大きなスキャンダルとなった。新聞各社は被害者のセンセーショナルな写真を一面に飾り、政府はその対応に追われた。

 だが、中央議会における政治的取引の結果、あれほどの事件があったにも関わらず、モーリツ執政官に対する責任は問われなかったのである。

 アマデオが父王を説得して勅書を出してもらったのが、例の『消えた勅書』の事の発端である。


「兄さま……その、報告が上がっているか心配なのですが……その、モーリツは何者かに暗殺されました」

「……それは穏やかではないね。一体、何があったんだい?」

「まだ調査中ですが、彼を恨む人間は大勢いたかと……」

 アマデオは顎をこすりながら「さもありなん」と呟く。


 カタリナは静かに息を吐き、言葉を選びながら語り始める。

「ロディナの惨劇は、イニス人たちにとって忘れがたい傷です。彼らは何度も弾圧され、家族を失い、故郷を奪われてきました。それでも、彼らはパンノニア王国の一員として歩む覚悟を示してくれました。私が総督として赴任したとき、彼らは恐れながらも、自治と共存の道を選んだのです」

 アマデオは目線で続きを促す。

「ですが、今、王国統合秩序法案が可決されれば、属領の民意は踏みにじられ、イニス人たちは再び分断と迫害の危機に晒されます。私は、彼らの信頼を裏切りたくありません。もし、ここで政治的な妥協がなければ、ダルマティア管区では内紛が起きかねません。属領民連盟も、自治憲章の改定を強く求めています」

 カタリナは机の端を指でなぞりながら、熱を帯びた声で続ける。

「庶民院の設置は、理想論ではありません。現実的な解決策です。民意を直接反映する下院があれば、属領民の声を政策に届けることができる。王国の分断を防ぎ、内紛を未然に防ぐためにも、今こそ庶民院設置が必要なのです」

 アマデオはしばらく沈黙し、窓の外に目をやる。

「……君は、属領民のためにここまで考えているのか」

「いいえ、兄さま。私はすべての王国民の幸福を、王国の未来を守りたいのです。多様性を否定する法案ではなく、民意を尊重する新しい仕組みが必要です。兄さまの声明があれば、中央議会も無視できません。どうか、摂政として、王家の意志として、庶民院設置と自治憲章改定へのご支持を表明していただけませんか?」

 アマデオは深く考え込むように視線を落とし、やがてゆっくりと答える。

「……君の信念はよく分かった。だが、中央議会は保守派が多数だ。声明を出せば、私自身も標的になるかもしれない。それでも、君がそこまで言うなら、私も覚悟を決めるしかないな」

 カタリナは安堵の息をつき、深く頭を下げた。

「ありがとうございます、兄さま。必ず、王国の未来をより良いものにしてみせます」

 アマデオは微笑み、イムレの方へちらりと視線を送る。

 イムレは静かに頷き、アマデオの背後に控えたまま、そっとその手に触れ返した。



 §


 夜も更け、カタリナの別宅の書斎には、三人だけが集まっていた。

 窓の外には王都の灯りが遠く霞み、静かな空気が部屋を満たしている。

 カタリナは机の上に広げた議員名簿や手紙に目を落とし、ラウノは魔術通信の端末を片付けている。ヴィクトーリアは窓辺から戻り、椅子に腰を下ろした。

 カタリナが静かに口を開く。

「……今日も、地道なやりとりが続いたわね。お二人とも、お疲れさまでした」

 ラウノは軽く頷き、手元のメモを指でなぞる。

「私は、商人組合の代表に声明を依頼しました。アマデオ殿下のご支持があることを伝えたところ、明日には組合としての意見書をまとめてくれるそうです。ただ、農業代表は予算面での譲歩を求めてきました。庶民院設置については、条件付きで賛成に回る可能性が高いです」

 カタリナはラウノの報告に小さく頷き、資料に何かを書き加える。

「ありがとう、ラウノ。商人組合の動きは大きいですね。農業代表には、予算の件で再度調整しましょう」

 ヴィクトーリアは、少し間を置いてから口を開いた。

「僕は、今日三人の議員と個別に話をしてきたよ。うち一人は庶民院設置に前向きだったけど、もう一人は保守派の顔色をうかがっているみたい。残る王党派の一人は、イザベラ殿下の案に表向きは賛成しつつも、内心では強制移住に抵抗があるみたい。アマデオ殿下の支持があると分かると、『よく考える』ってさ」

 カタリナは二人の報告を聞きながら、静かにペンを走らせた。

「ありがとう、ヴィクトーリア。やはり、表向きの態度と本音は違うのね……。王党派の議員には、もう一度個別に働きかけてみましょう。イザベラ姉さまの案に疑問を持っているなら、必ず説得の余地はあるはずよ」

 彼女は書類の束をめくり、今日一日の活動を振り返るように語り始めた。

「私は午前中、属領民連盟の代表に会ってきたわ。彼らは庶民院設置に強い期待を寄せているけど、中央議会の動きには不安も感じているみたい。特に、王国統合秩序法案が可決されれば、属領の民意が無視されるのではないかと……。その不安を払拭するためにも、アマデオ兄さまの声明が大きな意味を持つと伝えたところ、ぜひ協力したいと」

 カタリナは一息つき、窓の外の灯りに目をやる。

「午後は大学の有識者たちと意見交換をしたわ。彼らは選挙制度の設計や、庶民院の権限について具体的な提案をくれたわ。中には、女性参政権や民族ごとの議席配分についても議論があって、まだ課題は山積みだけど、少しずつ協力の輪が広がっている」

 ラウノが静かに頷く。「学者たちの協力は心強いですね。制度設計がしっかりしていれば、反対派も納得せざるを得ないでしょう」

「ええ。明日は医師会や職人組合とも会う予定よ。各層の声を集めて、庶民院設置が王国全体の利益になることを示したい。……でも、まだ油断はできないわ。保守派の動きも活発だし、イザベラ姉さまがどんな手を打ってくるか分からないから」

 ヴィクトーリアは苦笑しながらも、カタリナの覚悟を感じ取っていた。

「殿下が正面から話せば、きっと心を動かされる人も増えると思うな。僕も、明日はもう一度、王党派の議員に会ってみるよ」

「私も行ったほうが良いかしら?」

 ヴィクトーリアは一瞬だけ動きを止め、窓の外に視線を投げたまま、返事をしなかった。

 部屋の空気がわずかに張り詰める。

 数秒の沈黙ののち、ヴィクトーリアははっとしたように振り返り、いつもの調子で答える。

「……あっ、ごめんごめん。ちょっと考え事してた。大丈夫、僕一人で行けるよ」

 カタリナは気に留める様子もなく頷き、ラウノに目を向ける。

 ラウノはそのやりとりを横目で見て、胸の奥に小さな違和感を覚えた。

(……今のは、珍しいですね。気のせいでしょうか? まるで、誰かに意識を引かれていたような……)

 カタリナは報告が一通り終わったことを確認し、静かに言葉を継いだ。

「……アマデオ兄さまのご支持がある今、私たちの声はきっと届くはずです。庶民院設置も、自治憲章の改定も、王家の意志として進めていきましょう。明日も、引き続きお願いします」

 ラウノは「承知しました」と短く答え、ヴィクトーリアも「はい、カタリナ殿下」と静かに頷いた。


 窓の外には、王都の夜が静かに広がっていた。三人の間に流れる沈黙は、次なる一手を考えるための、確かな緊張感に満ちていた。


 

 §


 厚いカーテンが外の世界を遮り、王宮の一室は静けさに包まれていた。テーブルの上に灯された数本のろうそくが、部屋の隅々に淡い光と影を落としている。

 イザベラは椅子に腰掛け、指先で書類の端を静かになぞった。蝋の香りがほのかに漂い、紙の感触が夜の空気に溶けていく。

 レオポルトは斜め向かいに座り、落ち着かない様子で指を組み替えている。ネゼルは無言で書類を読み込んでいた。

 イザベラは、ふと自分の手元にできた影を見つめる。

――この影のように、王家の未来もまた揺れている。そんな思いが胸をかすめる。


 「……庶民院設置案、思ったより支持が広がっているわね」

 声に出すと、部屋の静けさが一層際立つ。

 レオポルトが小さく頷き、低い声で応じる。「アマデオ兄さんの声明が効いてる。王党派の中にも、揺れている議員がいるみたいだ」

 イザベラは視線をネゼルに移す。ネゼルは書類から顔を上げ、淡々と報告した。

「保守連合も、表向きは結束を装っていますが、実際には各派閥の思惑が交錯しています。地方貴族の一部は、庶民院設置に条件付きで賛成する動きも。完全な一枚岩ではありません」

 イザベラは静かに息を吐き、背もたれに身を預ける。

――理想だけでは国は守れない。だが、力だけでも人はついてこない。

 胸の奥に、焦燥と責任が渦巻く。


 「……カタリナたちは計画の全容をつかんでいるのかしら?」

 問いかけると、ネゼルは一瞬だけ間を置き、静かに答えた。

「彼らも何らかの陰謀が進行していることは察知しています。ただ、こちらの計画――〝本件〟については、まだ具体的な証拠や核心には至っていません。警戒は強めていますが、暗殺計画までは掴めていない様子です」

 イザベラは、そっと書類を重ね直す。

――私は、王国の未来を守るためなら、どんな汚れ役も引き受ける覚悟がある。

 だが、心の奥底では、ほんの僅かに迷いが揺れていた。

 病床の父王、優しいアマデオ兄さま、そしてレオポルトの無垢な信頼。

 それでも私は、立ち止まることは許されない。

 誰かがこの国の重荷を背負わなければ、王家は、民は、きっと滅びてしまう。

 長命種に囲まれた短命種国家の宿命である。

――私は、強くなければならない。

 ろうそくの灯りが揺れ、机の上に落ちる自分の影が、ひどく遠く感じられた。

 「……王国の秩序は、私が守る。理想に溺れる者たちに、現実を教えてあげなくては」

 そう呟きながら、イザベラはレオポルトとネゼルに目を向ける。

 レオポルトが不安げに姉を見つめる。「姉さん……本当に、ここまでしなくちゃいけないの?」

 イザベラは一瞬だけレオポルトに視線を送り、微かに微笑む。

「迷いはあるわ。でも、私が立ち止まれば、王国は崩れる」

 レオポルトは、しばらく黙っていたが、やがて声を震わせて言った。

「でも、もし……もし、失敗したらどうなるんだろう?僕たちの計画が露見したら、姉さんは、どうなってしまうんだろうって、時々、考えてしまうんだ」

 イザベラはレオポルトの不安を受け止めるように、そっと手を伸ばし、彼の手を包み込む。

「大丈夫よ。どんな結果になっても、私はあなたを見捨てたりしない。私たちは家族だもの」

 レオポルトは首を振り、涙をこらえるように唇を噛む。

「姉さん、もしも失敗したなら、その時は僕を置いて逃げて。きっと囮くらいには……」

「レオポルト。そんなこと、できるわけないじゃない」

 イザベラは静かに微笑み、彼の頭をそっと撫でる。

「あなたも、ネゼルも、私にとってはかけがえのない家族よ。どんな運命でも、最後まで一緒にいるわ」

 しばし沈黙が流れる。


 ろうそくの炎が静かに揺れ、三人の影が壁に寄り添うように伸びていた。

 イザベラは、胸の奥に残るわずかな迷いを押し隠しながら、静かに立ち上がる。

「……今夜はもう休みましょう。明日からは、さらに厳しい日々が続くはずだから」

 レオポルトは小さく頷き、ネゼルも無言で立ち上がる。

 イザベラは最後にもう一度、部屋の隅に揺れる影を見つめた。

――この影が消える日は、果たして訪れるのだろうか。


 部屋を出ると、廊下の向こうに夜の静けさが広がっていた。

 イザベラは背筋を伸ばし、ゆっくりと歩き出す。

 その足取りには、決意と、ほんのわずかな震えが混じっていた。



 §


 王宮の奥、静かな回廊をアマデオ兄さまと並んで歩く。

 一歩後ろには、ラウノとイムレが護衛としてついてきている。

「今日はヴィクトーリアは一緒じゃないんだね」

 アマデオは珍しそうな目でからかう。

「ええ、今日は部屋で休ませています。少し疲れてしまったようです」

「それはいけない。後で何か滋養の付くものを持って行ってあげるとよい」

「大丈夫だと思いますよ。今日、来れないことをひどく悔やんでいたので、むしろ、連れてきた方が元気だったかもしれません」

 他愛のない会話を楽しんでいたところ、両開きの重厚な扉の前に着く。

 ラウノが控えめに一礼し、「私は部屋の前で見張っています」と小声で告げてくれる。

 カタリナは軽く頷き、兄とともに扉をそっと開けた。


 部屋は朝の光がカーテン越しに淡く差し込み、静寂に包まれている。

 ベッドの上には、やつれた父王――アウレリウスが静かに横たわっていた。

 アマデオが枕元に近づき、優しく声をかける。「父上、カタリナが見舞いに参りました」

 父はゆっくりと目を開け、微かに微笑む。「……遠いところ、よく来てくれたな。カタリナ、顔色が良くないぞ。無理はしていないか?」

「ご心配をおかけしてすみません。父上こそ、お加減はいかがですか?」

「年寄りの風邪だ。だが、こうして子どもたちの顔を見ると、少しは元気が出るものだ」


 アマデオが水差しを手に、「薬は飲みましたか?」と気遣うと、父は「お前は昔から世話焼きだな」と苦笑する。

 カタリナは、ふと幼い頃の思い出を口にした。「昔、兄さまたちと王宮の裏庭でかくれんぼをしたのを覚えていますか?イザベラ姉さまが見つけるのが一番早かったんです」

 父は目を細めて頷く。「あの頃は、皆よく一緒に遊んでいたな……今は、兄弟仲も少し冷えてしまったようだが」

 アマデオが苦い顔で言う。「イザベラは、相変わらず厳しいですから。父上も、もう少しイザベラをたしなめてくだされば……」

 父は静かに首を振る。「兄弟というのは、時にぶつかるものだ。だが、家族であることに変わりはない。……カタリナ、お前も、アマデオも、イザベラも、皆、私の大切な子どもだ」

 カタリナはそっと父の手を握る。「はい。私も、家族を大切にしたいと思っています」


 しばらく、三人で昔話や家族の思い出を語り合う。

 父の声は弱々しいが、どこか温かい。

 カタリナは、ふと父の横顔を見つめた。かつて、王宮の大広間で玉座に座る父は、誰よりも大きく、威厳に満ちていた。

 その一声で臣下たちを従え、兄姉たちも、幼い自分も、父の背中を追いかけていた。

 あの頃の父は、王国そのものの象徴だった。

 だが今、ベッドに横たわる父の手は細く、肌は透けるように白い。

 言葉の端々に、かつての力強さはもうない。

 それでも、父が自分たちを見つめる目だけは、昔と変わらず優しかった。


(――本当に、時は残酷だ。父も、王国も、永遠ではない。私は、父が守ってきたものを、これからどう受け継げばいいのだろう)


 胸の奥に、寂しさと決意が同時に湧き上がる。

 父の弱り切った姿を見るのは、正直つらい。

 けれど、今の父の静かな微笑みも、カタリナにとってはかけがえのないものだった。


(私は、父の誇りでありたい。けれど、父の時代とは違う未来を選ぶことが、果たして親不孝なのだろうか――)


 カタリナはそっと父の手を握り返し、心の中で静かに誓った。

 どんなに時代が変わっても、この人の愛と誇りを胸に、前に進もうと。


 やがて父が静かに尋ねる。「……さて、王都の様子はどうだ?」

 カタリナは、王都での多数派工作の進捗や庶民院設立の困難について、簡潔に報告した。

「進歩派の中にも協力を約束してくれる方はいますが、イザベラ姉さまや保守派の妨害も強く、道は平坦ではありません」

 父はしばらく黙って話を聞いていたが、やがて枕元の小箱に手を伸ばす。

「……そうか。やはり、簡単にはいかぬな」

 そして、封蝋の施された書簡をカタリナに差し出す。

「ほれ、これが欲しかったんだろう?」

 カタリナは驚き、思わず父の顔を見上げる。

 アマデオも息を呑む。

「父上……これは……」

 父は多くを語らず、ただ静かに微笑むだけだった。

 カタリナは感謝の気持ちを抑えきれず、何度も頭を下げる。「本当にありがとうございます。父上のご厚意がなければ、私たちは何も始められません」

 アマデオも「父上のご決断に、心から感謝します」と続ける。

 父はしばらく天井を見つめ、「……だが、カタリナ。お前は本当に、民の声を信じているのか?王家の権威を手放してまで、民主主義を選ぶ覚悟があるのか?」

 カタリナは真剣な表情で頷く。「はい。私は、民の声がこの国の未来を導くと信じています。けれど、父上のご懸念も分かります。民意は時に揺れ動き、誤ることもあるでしょう。でも、私はその危うさごと、未来を託したいのです」

 父は静かに目を閉じ、「……お前の信念が、国を導く光となることを願っている」とだけ言った。

 カタリナはもう一度、深く頭を下げる。「必ず、父上のご期待に応えてみせます」

 父は微笑み、「……頼んだぞ」とだけ言い、二人は静かに寝室を後にした。


 廊下に出ると、ラウノが静かに控えている。

 カタリナは手にした書簡をそっと胸に抱きしめ、王宮の静けさの中で、父の温もりと重みを噛みしめていた。

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