第一章 新たな芽吹き
ダルマティア管区――議事堂の第三会議室。
重厚な扉が静かに閉じられると、委員会の空気は一層張り詰めたものとなった。
長い楕円形のテーブルの周囲には、王党派、進歩派、属領民連盟、中央派など、各派閥の議員たちが席に着いている。
窓の外には春の曇り空。
カタリナは議長席の隣に控え、手元の資料を静かに整えた。
ゾルターナ議長が議事録を確認しながら、低く落ち着いた声で開会を宣言する。
「本日の議題は、庶民院設立に向けた予算案および選挙制度設計について。まずは予算案の審議から始めます」
議員たちはそれぞれ分厚い資料をめくり、ペン先で数字をなぞる。
王党派のヴィルモシュは眼鏡を押し上げ、資料の端を指で折り曲げながら、隣の議員と小声でささやき合う。
属領民連盟のマテイは、手帳に何やら細かくメモを取り、時折カタリナの方をうかがう。
「庶民院設立のための予算は、三百万フローリン。内訳は選挙管理委員会運営費、投票所設置費、有権者名簿作成費、広報・教育費、選挙監視団費用――」
カタリナが資料を読み上げると、中央派のレーヴァイが椅子を引き、机の上で指をとんとんと鳴らす。
「財政負担が大きすぎる。行政経費の削減案は盛り込まれているのか?」
カタリナは静かに頷き、資料の一枚を差し出す。
「行政経費の見直し案も同時に提出しています。庶民院設立は段階的に進め、初年度は必要最小限の規模で運用します」
議員たちは資料をめくり、ざわめきが広がる。
エミリアはペンをくるくると回しながら、慎重に口を開く。
「選挙権の範囲については、どうなっていますか?納税資格者限定では、民意が十分に反映されません」
カタリナは一瞬考え、机の端を指でなぞる。
「まずは納税資格者に限定し、数年後に拡大する段階的導入を提案します。女性参政権についても、今後、議論の場を設けるつもりです」
属領民連盟のマテイが手を挙げる。
「イニス人街の住民登録は、我々が責任を持って行います。投票所の設置も、地域の実情に合わせて調整を」
ゾルターナ議長が議事録に目を落としながら、静かに補足する。
「選挙管理委員会の設置が急務です。今回は総督府、庶民院、貴族院、属領民連盟、そして大学からそれぞれ推薦を受けて構成することを提案します。各派閥・各層の利害が均衡することで、公正な選挙運営が期待できるでしょう」
王党派のヴィルモシュが眼鏡越しにカタリナを見つめる。
「行政経費の削減案が盛り込まれるなら、我々も委員を出しましょう。ただし、選挙の公正性は絶対条件です」
エミリアが続ける。「選挙監視団も設けましょう。各派閥から監視員を派遣し、不正防止に努めます」
議員たちは頷き合い、時折資料に赤線を引いたり、隣の議員と短く言葉を交わしたりする。
議場には紙をめくる音、ペン先が走る音、椅子がきしむ音が静かに響いていた。
議長の「ここで十分間の休憩を取ります」という声で、議員たちは一斉に席を立った。
カタリナは資料をまとめ、ゾルターナと小声で意見を交わす。
「王党派の反応はどうですか?」
「慎重ですが、行政経費の削減と段階的導入を条件に、賛成に回る余地はあります。属領民連盟との協力が鍵です」
マテイがコーヒーカップを手に近づき、カタリナに声をかける。
「投票区割りについて、イニス人街の代表枠を明文化してほしい。そうすれば、我々も全面的に協力できます」
カタリナは頷き、メモを取る。
「分かりました。民族ごとの議席配分についても、改めて協議しましょう」
エミリアは窓際で他の進歩派議員と話し込みながら、時折カタリナの方を振り返る。
議場の空気は、緊張と期待、そして駆け引きの熱で満ちていた。
休憩が終わり、議員たちは再び席に戻る。
ゾルターナ議長が静かに議事を進める。
「選挙管理委員会の委員は、総督府、庶民院、貴族院、属領民連盟、大学からそれぞれ推薦を受けて構成します。監視団の設置も同時に進めます」
カタリナは深く頷き、議場を見渡す。
「皆さんの協力に感謝します。庶民院設立は、我々全員の未来のための第一歩です」
議場には、静かな決意と、まだ解決すべき課題の重みが漂っていた。
予算委員会における議論は白熱し、委員会が閉会となったのはロディナの街灯に火が灯されたころであった。
議会のざわめきが背後に遠ざかる。廊下を歩くたび、カタリナの肩に残る緊張が少しずつほどけていく。ヴィクトーリアが執務室の扉を開けると、そこにはまた別の重圧が待っていた。
分厚い書類の山と、壁際の地図、そして窓の外に広がる暗がりが、カタリナの心をさらに重くしていた。
机上には、庶民院設立法案の草稿、属領自治憲章の改定案、王都からの通達、各派閥の議員名簿が乱雑に積み上げられている。
カタリナは書類の束を前に、額に手を当てていた。
「……やっぱり、中央議会の承認がなければ、自治憲章の改定は難しいわ」
ため息混じりの声に、向かいの椅子で腕を組むヴィクトーリアが不満げに首を振る。
「でも、殿下。王都の議会なんて、どうせ保守派とイザベラ派の巣窟だ。まともに議論したら、何年かかるか分からないよ」
「分かっているわ。でも、法的な正統性を欠けば、どんな改革も一過性のものになってしまう。……それに、イザベラ姉さまが黙っていないわ」
「で、イザベラ殿下を黙らせるには……」
「……議会の決議が必要」
堂々巡りの議論――この数日で幾度となく繰り返された議論。
カタリナは思わず椅子にもたれ、窓の外に目をやる。
春の曇り空は、どこまでも重く、冷たい。
指先で机の端を叩きながら、思考の迷路に沈む。
「……王家の威光だけで押し切るのは危険すぎる。民意を味方につけても、中央の反発が強ければ、すべて水泡に帰すかもしれない」
ヴィクトーリアは苦笑し、わざと明るい声を出す。
「殿下が王都に行くなら、護衛は僕に任せて。イザベラ様の前でも、絶対に殿下を守るから」
カタリナは小さく微笑むが、すぐにまた真剣な表情に戻る。
「ありがとう、ヴィクトーリア。でも、私自身がどう動くべきか、まだ答えが見つからないの」
「猪突猛進のカタリナ殿下が?冗談きついね。僕が殿下のために、言葉通り〝骨を折った〟のも、殿下が迷宮に行くだなんて言い出すからだよね?」
ヴィクトーリアが大げさに右腕をかばう演技をする。
「骨を折ったというより、腕に穴を開けたというほうが正しいと思うけど……怪我したの、左腕だし」
「野暮ったいこと言わないでよ、殿下。ほら、飴玉あげるからさ」
ヴィクトーリアにひょいと飴玉を口に押し込まれ、つい口に飴玉を頬張ってしまう。
甘酸っぱい果実の香りが口いっぱいに広がり、少しだけ気持ちが和らぐ。
「……そういえば、ヴィクトーリア。腕はもう大丈夫なの?三角巾もしてないけど」
「ああ、そうなんだ。どうやらあの占星術師は、簡単な治癒魔術も使えるらしいんだ。おかげですっかり元通り」
「簡単って……穴、開いてたわよね?」
「確かに重症だった気がする」
「なんでもできるのね、あの人。でも、どうしてすぐ治療してあげなかったのかしら」
カタリナは飴玉を舌で転がしながら、首を傾げる。
「いやね、僕もそう思って聞いてみたんだ。そしたら彼、何と言ったと思う?『あの後、何が出てくるかわからなかったので、魔力を温存していました』だってさ!」
ヴィクトーリアはラウノの口調を真似て、肩をすくめて笑う。
カタリナもつられて小さく笑い、机の上の書類を整え直す。
そのとき、ノックの音が響き、ラウノが書類の束と奇妙な金属と水晶でできた小箱――魔術暗号機の試作品を手に入室した。
ラウノは扉を静かに閉め、無言で一礼してから、机の端に魔術具をそっと置く。
「失礼します。……新しい暗号機の試作品――星紋封鍵ができました。王都との通信も、これがあれば誰にも盗み見られません」
カタリナは顔を上げ、ラウノに微笑みかける。
「ありがとう、ラウノ。……ところで、あなたはどう思う?庶民院設立のためには、やはり中央議会の承認が必要かしら」
ラウノは一瞬考え、淡々と答えた。
「中央議会の承認なんて、勅命があれば不要でしょう。国王の勅命は、憲法上、議会決議より優越します。もちろん、反発は大きいでしょうが」
カタリナははっとして、机上の勅命案に目を落とす。
「……そうか。勅命があれば、議会の承認は〝形式的〟なものにできる。イザベラ姉さまや中央の反対派も、法的には押し切れる……」
ヴィクトーリアがにやりと笑う。
「さすが魔術師。現実的だね。殿下、あとは王都で陛下に会って、勅命をもらうだけだ」
カタリナは小さく息を吐き、椅子にもたれた。
「……でも、反発は避けられない。王都に行って、アマデオお兄様や進歩派、せめて中立派の一部でも味方につけないと……。多数派工作は、やっぱり避けて通れないわね」
ラウノは静かに暗号機を机の上に置き、カタリナに向かって言う。
「この星紋封鍵があれば、王都との通信も安全です。殿下の意志が正しく伝われば、きっと道は開けますよ」
カタリナはもう一度、机上の法案に目を落とし、深くため息をついた。
「そうね……この暗号通信機、あといくつくらい作れそうかしら?」
王都の進歩派と中立派への多数派工作を行うにあたり、何度か意識合わせをしておく必要があるだろう。
その際に、この暗号通信機があれば安心して遠隔会議できる。
「予算があればいくらでも」
「これ以上、1ディナールも出せませんから」
「それは残念……そうですね、今日持ってきた試作機で予算切れになりました」
机の上に転がっているのは、三台の魔術具。
「三台……だけ?」
「ええ。どれも最高級の素材と魔術的加工を施した、唯一無二の傑作です」
「へぇ、さぞお高いんだろうね。いくらしたの?一つ十フローリンくらい?」
「触らないでっ!」
ヴィクトーリアが魔術具に手を触れるのを見て、カタリナは思わず声を上げる。
ヴィクトーリアは驚いて手を引っ込め、カタリナを見つめる。
「……びっくりしたぁ。殿下、どうしたんだい?」
「五千フローリン」
「へっ?」
「全部で、五千フローリン使ったそうよ」
「は?この小さいの三つでアルニロヴァシュより高いって?」
「ええ。希少な素材が安く手に入ったので、大変お買い得です」
カタリナの気も知らず、ラウノは満足そうに微笑む。ヴィクトーリアは呆れたように頭を抱え、カタリナはこめかみを押さえる。
「ヴィクトーリアが言っていたとおりだわ。ラウノは壊滅的に金銭感覚が狂ってる」
「失敬な。私でも労働者の月収が十フローリンから十五フローリンくらいだってことくらい、知ってますよ」
「だったらなんでこんなにお金を湯水のように使えるのよ……!」
――頭が痛くなる。カタリナは椅子に深く座り直し、額を押さえ直す。
「ヴィクトーリア。今後は彼の予算はすべてあなたが管理しなさい」
「えーっ!嫌ですよ、殿下。きっとラウノから新しい魔術具の素晴らしさとか、最近入荷した魔術素材の品質について延々と聞かされる羽目になりますよ」
その推測はおそらく正しいが、庶民院設立で物入りなカタリナにとって、これ以上の浪費は許容できなかった。
ヴィクトーリアの苦情は一応頭の隅に置いておきながら、一言「命令です」と言い放つと、ヴィクトーリアは膝から崩れ落ちる。
「さて……量産化に向けたコストダウンはまた別の者に任せるとして……当面は、この三台を有効活用するしかないわね」
「一つはここ、ロディナの総督府だ。それは外せないよね」
ヴィクトーリアが立ち上がりながら、提案する。
「ええ、そうね。もう一つはアマデオお兄様に渡せると良いわね」
「その……アマデオ殿下はカタリナ殿下の思想に賛同しているので?」
貴重な魔術具を預けるのだ。信用できる盟友でなければならない。
「ええ、ラウノの懸念はもっともね。でも、心配いらないわ――アマデオお兄様は、私に民主主義について語った張本人ですもの」
「アマデオ殿下はカタリナ殿下より、よっぽど穏健で現実を見ているけどね」
ヴィクトーリアは遠回しにカタリナは急進的で夢物語ばかりを追っていると述べる。
カタリナは苦笑し、魔術具をそっと机に戻す。
「そうですか、それなら安心です。では、最後の一つは、進歩派議員との意見交換に使うのが良いでしょうか。でも、数が足りませんね?」
暗に予算を要求するラウノに、カタリナは「もう予算はありません」と断固として拒否する。
ラウノは肩をすくめ、魔術具の蓋を閉じる。
「簡単じゃないか、ラウノ君。王都にカタリナ殿下の別宅があるから、そこに置いておこう。進歩派議員を、そこに呼び出せば良い」
王都はいくら広いといえ、同じ街の中である。王都内のカタリナの別宅であれば、呼び出してもそう手間はないだろう。
だが、懸念がないわけでもない。進歩派議員が頻繁にカタリナ邸を出入りしているとなれば、何らかの企みが進行しているのは想像に難くない。
「どうかしら、私の別宅に進歩派議員が出入りしていたら、何か企んでいるのが一目瞭然じゃないかしら?」
カタリナは不安げに唇を噛み、机の上の魔術具を指先でそっと撫でる。
ヴィクトーリアは腕を組み直し、ラウノの方をちらりと見る。
「やはり、開発予算を増額して一人一個ずつ持たせるのが良いのでは?」
ラウノは真顔で提案するが、カタリナは眉をひそめてラウノを睨む。
ヴィクトーリアが苦笑しながら、ラウノの肩を軽く叩く
「ラウノ君はちょっと黙ってて……。カタリナ殿下、目的を誤魔化すなら、いつも密会をするのと同じ感じだとダメかな?」
「いつもと同じ?」
カタリナは首を傾げ、ヴィクトーリアの顔をじっと見つめる。
ヴィクトーリアは少し考え込むように視線を泳がせ、やがて手を広げて説明を続ける。
「うん、意見交換会とか名目で、保守派、進歩派を含めた各派閥から幅広く意見を聞くとか適当に表向きの理由を与えるんだ。実際、その中で何を話したかは分からないけれど、表向きの目的があるなら、少なくとも変な憶測は立ちづらいのでは?」
カタリナは小さく頷きながらも、机の端を指でとんとんと叩く。
「そうね……ただ、できればこの魔術具の存在も可能な限り秘匿したいわ。私が不在のはずなのに、私と会話したというのは不自然だわ」
ヴィクトーリアはしばらく黙り込み、窓の外に目をやる。
ラウノは腕を組み、少し得意げな表情で口を開く。
「そんなもの、簡単です。適当に魔術師を代官として置いておいて、魔術通信で会話したことにすれば良いですよ」
「魔術通信というのは、そんな簡単にできるんだっけ?ラウノ君」
ヴィクトーリアが半信半疑で尋ねると、ラウノは肩をすくめて答える。
「いえ、王都からここロディナまでとなると、我が師ゾルターナや私ならともかく、その辺の短命種の魔術師には無理でしょう。でも長命種ならそんなこと、造作もないかもしれません」
「……殿下、エルフの魔術師をダミーで配置するのはどう?うちの部隊に、一人いるけど」
「そしたらあなたの部隊、魔術師が欠員出ちゃうじゃないの」
部屋にはしばし沈黙が落ち、三人それぞれが思案に沈む。
やがて、ラウノはすべてを諦めた様子で立ち上がり、書類を抱えると「政庁の魔術具の様子を見てきます」と宣言して席を立った。
窓の外では、煙突の煙が夕餉の時刻を知らせている。政庁の廊下には人影もなく、静寂だけが支配していた。
§
政庁の夜は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
廊下の壁にかかる古い肖像画が、蝋燭の淡い光に照らされている。
ラウノは、書類の束を抱えたまま、人気のない廊下をゆっくりと歩いていた。
窓の外には夜霧が降り、石畳の中庭は月明かりにぼんやりと浮かび上がる。
時折、風が木々の葉を揺らす音だけが響く。
(……何か、空気が違う)
ラウノは立ち止まり、懐の魔術具に手を伸ばす。
指先が銀の護符に触れると、微かな魔力の流れが皮膚を撫でた。
魔素の流れが、どこか不自然に乱れている。
(転移魔術の残滓……?)
廊下の奥、地下へと続く階段の方から、かすかな気配が漂ってくる。
ラウノは息を潜め、足音を殺して階段へと近づいた。
革靴が石段を踏むたび、冷たい感触が足裏に伝わる。
階段を降りると、地下牢へと続く重い扉が半開きになっていた。
普段は厳重に施錠されているはずの扉――
ラウノは眉をひそめ、慎重に扉の隙間から中を覗き込む。
地下牢の空気は、石壁に染み込んだ湿気と、どこか鉄錆びた匂いが混じっていた。
薄暗いランタンの光が、床に長い影を落としている。
その奥――
牢の鉄格子の前に、一人の男が立っていた。
黒いローブに身を包み、顔は見えない。
だが、その手には、禍々しい魔術の波動が渦巻いている。
牢の中では、モーリツ元執政官が、何かを叫ぼうとした瞬間だった。
黒衣の男が、静かに手をかざす。
空気が震え、黒い魔術の光が一閃――
モーリツの叫びは、かき消されるように途切れた。
ラウノは思わず息を呑み、壁の陰に身を隠す。
心臓の鼓動が、耳の奥で激しく鳴る。
(……黒魔術。転移の痕跡も……)
ラウノは、魔術具をそっと取り出し、指先で空気をなぞる。
魔素の流れが、まるで煙のように揺らいでいる。
侵入者は、転移魔術でこの場に現れ、そして――今まさに、証拠を消そうとしている。
ラウノは、意を決して一歩踏み出す。
「そこまでだ――!」
黒衣の男が、ゆっくりと振り返る。その顔は、仮面で覆われており、目だけが、闇の中で不気味に光る。
「……おや、見つかってしまいましたか」
男の声は、どこか愉快そうで、しかし底知れぬ冷たさを孕んでいた。
ラウノは天球儀を構え、魔力を集中させる。
だが、直接的な攻撃魔術は苦手だ。
(……幻惑、時空操作、占星術――僕の得意分野で、どうにか……)
「君が何者かは知らないが、ここで好きにはさせない」
黒衣の男は、仮面の奥で目を細める。
「残念ですが、私はもう用を終えて帰るところです。……定時帰宅の邪魔はしないでいただきたい」
ラウノは、静かに詠唱を始める。
空気が震え、青白い光が指先に集まる。
彼は床に魔法陣を描き、淡い霧を発生させた。
「幻惑……?」
黒衣の男の声が揺れる。
ラウノは、霧の中に星座の光を浮かべ、空間そのものを歪める。
「ここは、君の思うようには動かせない」
黒衣の男は、黒い魔力で霧を払い、鋭く指を鳴らす。
「面白い。だが、幻惑だけでは私を止められませんよ」
黒い魔力が、蛇のようにラウノの足元を這い寄る。
ラウノは素早く後退し、壁際に身を寄せる。
(……直接攻撃は避けたい。だが、相手は黒魔術師。下手に隙を見せれば、命はない)
ラウノはすかさず時の牢獄を詠唱する。空間が歪み、黒衣の男の動きが一瞬だけ止まる。
その隙に、ラウノは幻影の鎖を放ち、青い光の鎖が黒衣の男の四肢を絡め取ろうとする。
「……時空操作に束縛。なかなかやりますね」
黒衣の男は、魔力を集中し、鎖を強引に引きちぎる。黒い魔力が空間を切り裂き、ラウノの幻影を消し飛ばす。
(やはり、力押しでは分が悪い……!)
ラウノは、鏡像返しの構えを取り、黒衣の男が放った黒い魔弾を鏡のような魔法障壁で跳ね返す。
だが、黒衣の男は反射された魔弾をあざ笑うようにかわす。
「青の魔術師、君の手札はそれだけですか?」
ラウノは、空間跳躍で黒衣の男の足元を歪め、一瞬だけ牢の外へ弾き飛ばそうとする。
だが、黒衣の男は転移の波動を逆利用し、自らの体を霧のように分解して牢内に戻る。
「……直接的な攻撃は苦手なようですね」
ラウノは、魔力吸収の術式を展開。黒衣の男の魔力の流れを一時的に封じ、その隙に幻影の刃を生み出して牽制する。
だが、黒衣の男は黒魔術で幻影を打ち消す。黒衣の男が手を振り上げると、黒い魔力が鞭のようにラウノに襲いかかる。
ラウノは咄嗟に身を翻し、魔術具で防御結界を展開する。結界が軋み、黒い魔力が食い込んでくる。
(……このままでは、押し切られる)
ラウノは、最後の切り札――時空断裂魔術の詠唱を始めかけて、拳を握りしめた。
(……だめだ。ここで時空断裂魔術を使えば、証拠も痕跡も、すべて消し飛ぶ。事件の全貌がつかめなくなる)
黒衣の男は、ラウノの逡巡を見抜いたように、仮面の奥で笑う。
「その魔術――使う気はないようですね。甘いですね。私なら初手で四肢を弾き飛ばしますね」
ラウノは、必死に幻惑と時空操作を組み合わせ、黒衣の男の動きを封じようとする。
だが、黒衣の男は黒い魔力で空間を裂き、転移の詠唱を始める。
「……また会いましょう。赤毛の雪男殿」
ラウノは、最後の力を振り絞り、星座の光で転移座標を乱そうとする。
だが、黒衣の男は一瞬だけ空間を歪め、闇の中に溶けるように姿を消した。
「――!」
ラウノは、魔術具を振るい、転移の痕跡を必死に追う。
だが、残されたのは、黒魔術の残滓と、冷たい静寂だけだった。
牢の中には、すでに息絶えたモーリツの姿。
ラウノは、しばしその場に立ち尽くし、拳を握りしめた。
(……黒魔術の痕跡は、完全には消されていない。必ず、何か手がかりが残っているはずだ)
ラウノは、魔術具を使い、慎重に現場を調べ始める。
その指先は震えていたが、瞳には静かな決意が宿っていた。
――夜の政庁には、再び深い沈黙が訪れていた。
§
夜はまだ深い。
応接室の窓の外には、夜霧が濃く漂い、街の灯りもほとんど見えない。
蝋燭の炎だけが、静かに揺れている。
ヴィクトーリアは銀のトレイをテーブルに置き、カタリナとラウノ、ゾルターナの分のカップも丁寧に並べた。
ヴィクトーリアは先ほどまで書類とにらめっこしていた目をこすり、あくびをかみ殺す。
先ほど仮眠をとったばかりというのに、どうにも体が重い。
(……寝不足のせいかな?)
カタリナはティーカップを手に、静かに息を吐いている。
ゾルターナはローブの裾を整え、椅子に腰を下ろした。
扉が開き、ラウノがやや疲れた様子で入ってくる。
その顔には、普段の皮肉や余裕はなく、どこか緊張が残っていた。
「遅くなりました。……報告があります」
カタリナが顔を上げる。「どうしたの、ラウノ?」
ラウノは一礼し、卓上に天球儀をそっと置く。
「先ほど、政庁の地下牢で異常を感知しました。転移魔術の痕跡があり、調査に向かったところ……モーリツ前執政官が殺害されているのを発見しました」
ヴィクトーリアは思わず息を呑む。カタリナも、カップを持つ手が止まる。
「……モーリツが、死んだの?」
ラウノは静かに頷く。「はい。犯人は高位の黒魔術師で、現場で私と遭遇し、短い戦闘になりました。私は応戦しましたが、相手は転移魔術で逃走し、取り逃がしました。現場には黒魔術の痕跡と、巧妙な隠蔽魔術の残滓が残っています。今後も調査を続けます」
カタリナはしばらく言葉を失い、やがて低く呟く。「……政庁の地下牢で、そんなことが……」
ヴィクトーリアも背筋に冷たいものが走るのを感じた。
ゾルターナは深く息を吐き、手元の書類を指でなぞる。「……つまり、我々の中枢に、黒魔術師が侵入したということですね」
カタリナは静かに頷き、指先でカップの縁をなぞる。「警戒を強める必要がありますね。政庁の結界も再点検しましょう」
ヴィクトーリアは腰のホルスターに手を添え、警戒を新たにする。「殿下、警備体制は私が再確認します。ラウノ、君は魔術的な防御を強化してくれ」
ラウノは「承知しました」と短く答え、天球儀を懐に戻した。
ゾルターナは一同の様子を見て、さらに声を落とす。
「……もう一つ、王都で不審な動きがあります。私の使い魔で観察したところ、アマデオ殿下の宮廷魔術師が何者かに暗殺されていました。アマデオ殿下ご自身も、魔術的に〝脆弱な〟状況にあるようです」
カタリナは驚きに目を見開き、すぐに表情を引き締める。「アマデオ兄さまが……?」
ゾルターナは静かに頷く。「はい。王都では、何者かが暗躍しています。殿下の周囲の結界も弱まっており、魔術的な保護が不十分です。今のままでは、さらなる危険が及ぶ可能性があります」
ヴィクトーリアはすぐにカタリナの方を向く。「殿下、王都行きは……」
カタリナは一瞬だけ考え込み、やがて決意を込めて頷いた。「……庶民院設立の件で、もともと王都へ行く予定でしたが、予定を早めます。アマデオ兄さまの安全も、私たちの改革も、今は一刻を争います」
ラウノは静かに立ち上がり、カタリナに向かって深く一礼する。「殿下、王都への護衛は私とヴィクトーリアにお任せください。魔術的な警戒も怠りません」
ヴィクトーリアも力強く頷く。「必ずお守りします」
ゾルターナは、カタリナの決意を見届けるように、ゆっくりとカーテシーで礼を返した。
「どうか、ご無事で。王都の闇は、想像以上に深いかもしれません。ですが、殿下の勇気が、必ず道を切り開くと信じています」
カタリナは静かに微笑み、三人を見渡した。
「ありがとう。皆の力を借りて、必ずこの危機を乗り越えましょう」
蝋燭の炎が静かに揺れ、応接室の空気は、次なる戦いへの緊張と決意に満ちていた。




