森の魔女と獣の騎士
「学園での不正疑惑、誹謗中傷への対処を怠り両家の家名に傷を付け続ける行為もう我慢ならんっ!エルデ、貴様に婚約者として決闘を申し込む!」
そう言って食堂で食事をしていた私の足元に、白手袋を投げ捨てたのは、婚約者であるリーオ様だった。いや、こうなったからにはヒマラヤン伯爵令息と呼ぶべきかもしれない。
椅子から立ち上がり、溢れかけた溜め息を呑み込んでから、悠然とした動きで足元の手袋を手に取った。
普段から、使用されている手袋ではなく新品の白手袋であることを拾い上げて確認する。
騎士として剣を握る手を覆い隠し、紳士として振る舞うための手袋を投げ付けることで、決闘と見なす。という趣旨すら理解出来てないらしい。
そも。
あの、白魚のように滑かな指では何も隠す必要がないのかもしれないけれど。
「まだ黙りか。沈黙の魔女とやらの気位は相当に高いらしい。」
誰のせいだと思ってるんだ。
一瞬、腹の底から沸き上がった怒りは声には成らない。
だが、眼力には表れたのかヒマラヤン伯爵令息が数歩後ずさる。
「決闘は本日の夕暮れ時、第二演習場で行う。貴様の実力を確認する為の決闘だ。代理を立てることは許さん。」
凄い。
全ての決闘の作法を無視していく。
公平性なんて全て投げ捨てた、子供の癇癪のような決闘。
だけれど、最近広がっている噂のせいだろう。
周囲の生徒達は決闘に肯定的な雰囲気で、それに呆れ返ることはあっても戸惑うことは無かった。
所詮は私も周囲も雛鳥にすぎない。弁明されない噂話を事実だと受け止めるのは当たり前の事だから。
「お前も魔女だ。決闘に騎士を連れてくることは認めよう。勿論、私も魔女を連れてくる。……もっとも、騎士潰しの魔女を庇護する者が現れるかは知らないがな!!」
煽るようにヒマラヤン伯爵令息が、食堂に響き渡り、噂話を買わしていた雛鳥達のざわめきすら一瞬止まる。
耳に痛い程の静寂。
更に何かを言おうと、ヒマラヤン伯爵令息が口を開いた瞬間。
「なら、僕が決闘に参加しよう。2対1だとあんまりにも不公平だ。」
するりと、人混みから1人の騎士が舞台に上がる役者のように不自然なほど絶妙なタイミングで私の側に立った。
僅かに驚きに目を見張るも、おそらくその表情を読み取れたのは目の前の騎士だけだろう。
「エデルワイス令嬢、構わないかな?」
大人しく頷く素振りを見せれば、花が咲いたような笑みを彼は浮かべた。
それの余波を受けた雛鳥達から黄色い歓声が上がる……流石は、騎士科を纏める寮長なだけある。
「ロットワイラー令息?!何故、貴方が……?」
「これだけ大きな騒ぎを起こしたんだ。僕の耳に届いても不思議じゃないだろう?それに僕ら獣の騎士は魔女に侍るものだろう?」
「そんなお伽噺を持ち出さなくても」
「お伽噺とはこの学園の方針に対して失礼ではないかい?そのお伽噺になぞらえて、運用されているのが魔女科と騎士科なのだから。」
「それは……。」
頼りなくヒマラヤン伯爵令息の獣耳と長くしなやかな尾が垂れる。
貴族であっても人の血が濃くなり、騎士ですら獣としての要素が耳と尾にしか現れなくなって久しい。
それでもその猫のような耳と尾は可愛らしく、全てを許してしまいたくなる魅力に溢れていた。
……対して、魔女は耳が尖るだけなのだからつまらない。
「それでヒマラヤン伯爵令息の魔女は誰になるんだい?」
「私です。」
その声の主は意外な女性だった。
改造もアクセサリーも身に着けていない、簡素な服装のシャルトリュー男爵令嬢が
略式のカテーシを行い、ヒマラヤン伯爵令息の隣に並ぶ。
彼女は魔女科だから、耳の先端がほっそりと尖っているだけだ。
彼女の家は男爵だが、実力の高い武家として名が挙がる堅実な家系だ。
私の疑問を代弁するように、ロットワイラー令息が口を開く。
「意外だね、淑女の鏡であると称される君がこう言う場に出てくるのは。」
「はい。ヒマラヤン伯爵令息には何の魅力もございませんが、エデルワイス子爵令嬢との勝負だとお聞きしまして是非、お手解きをと。」
「なるほど、騎士としての血の濃さは気質として表れたわけか。」
「お褒め頂き恐縮です。」
彼女の事は知っている。
大人しく、目立ちすぎず、けれど授業には熱心なクラスメイトだ。
話したことは無いけれど、丁寧な魔術を組むのは知っている。
子犬が吠えるように、ヒマラヤン伯爵令息が何か言っている気がするけれど、
彼女が出て来るなら、確かに2対1では厳しい戦いになったかもしれない。
「では、決闘は本日の夕暮れで。」
「分かった。立ち合いを行う教師の手筈は済んでいるね?」
「勿論でございます。」
とんとん拍子で話が決まって行く。
私が話に置き去りにされるのは、元々決まっていたことだから特に思うところも無いけれど、
当事者であるヒマラヤン伯爵令息も置き去りにされているのは、少し笑えた。
そんな私の視線を受けて、ヒマラヤン伯爵令息の目尻が吊り上がるのが視界に入る。
が、彼が何か言う前に視線を断ち切る様に間に ロットワイラー令息が立ちふさがった。
「さて、では夕暮れまでの時間、打ち合わせをしようじゃないか。何せ私達は、今まで交流は殆どなかったのだから。」
そうして、エスコートする為に差し出された彼の手を少し複雑な表情で見つめた。
交流は殆どなかった。確かに、表立ってはそういうことになっている。
だから、軽く目礼した後差し出された手に、手を重ねた。
大人しく慎ましやかな淑女のように。
ここ、新緑学園の敷地は広大だ。
大勢の生徒が過ごしている空間であるにもかかわらず時折、人気の無いスポットというのが出来る。
そういった、隠れ家のような場所は代々先輩から後輩へ受け継がれるもので、
私が普段昼休みを過ごす、この東屋もそういった場所だった。
食堂から直接裏庭には行かず、図書室のテラスから裏庭に出て、
錆の浮かんだ鉄柵の扉を開けなければたどり着けない東屋。
誰かの荷物は残されていないのに、剝がれたペンキの跡や補修の形跡に
大切に使われている事が伝わってくる場所だった。
風に乗って、生徒達の賑やかなお喋りや花の香りが運ばれてくるものの、
騒めきが遠いこの場所の事を、私は気に入っていた。
「あ~~~そこ!そこ!耳の裏最高~~~!!」
「五月蠅いよ、ポチ」
雰囲気をぶち壊してくる、同伴者が居たとしても。
「良いじゃないか!最高にかこよかっただろう?!僕は。
あまりの喜劇にいつ割って入るのが一番美味しいか、真剣に観察してしまったよ!」
「今、全部台無しにしてるけどね。」
「だが助かっただろう?」
「それは、とてもそう。ありがとう。」
そう言いながら、私の手はポチの頭を撫でていた。
旋毛の横に生えた犬耳の根元を指で搔き分け撫でてやると、すごい勢いで尾が揺れている。
ポチもとい、ロットワイラー令息のそんな様子を呆れた目で見る。
私の隣のベンチに座ることもせず、地面に直接座り込み、
私には指一本も触れないという東屋で会う時の約束を律儀に守りながら、私に褒められ、撫でられることを全力で喜ぶ姿を見ていると肩の力が抜ける。
何で彼をポチなんて仮名で呼ぶこんな奇妙な関係性になったのかと、思想が過去へととびかけるも今はそれ所では無かった。
「それで、どうするの?決闘。まさか表立って、ポチが私に接触してくるとは思っていなかったから、普通に驚いて声が出るかと思ったけど。」
「どうもこうも、正面から叩き潰してあげるだけさ。僕にも君にもその力はあるだろう?」
「ある……けど、私の異名知ってるでしょう?騎士潰しは伊達じゃないんだけど」
蕩けていたポチの耳がびくっと立つ。
少しは、まともに話をする気になったらしい。
「知っているさ。味方の騎士に棒立ちを強いるか、魔術で敵諸共吹き飛ばすかだろ?魔女を守る獣の騎士という矜持を圧し折るか、実力不足を叩きつけるかの二択。何もさせずに、評価稼ぎすらさせないパートナー潰し。実習の殆どが騎士とのペアで行われるのに、良くそれで高成績を得られてるな」
「実習だけじゃなくて、レポートも出してるから。その制度をろくに理解してない生徒のせいで余計に不正疑惑の噂が酷くなってはいるけど。」
「あ~、そういう事か。君の事情的に、肝心な所で弁解も出来ないだろうからね。」
「決闘は、勝者が敗者に何か一つ命じられる。あちらが何をしようとしているのかは分からないけれど、リーオ様は悪意を煮詰められるほど思量深く無いから、命令に関してはそこまで警戒しなくて良いと思うの。」
「仮にも婚約者で幼馴染だろ?さらりと貶すね。」
「……貶してるかしら?」
苦笑いを浮かべるポチと視線が合う。
……そんなに今、変なことを言ったかしら?
「まぁ、僕は薔薇は棘ごと好きなタイプだからいいや。それよりもさ」
体勢的に、常にこちらを見上げる姿勢のポチが首をかしげた。
こうしていると、普段の大人びた様子は鳴りを潜めて随分と年相応に……いえ、それよりも幼く見える。
「君、決闘中。ヒマラヤン伯爵令息の前で魔術の詠唱できるの?」
「……。」
それに返事をしようとして口を開いたけれど、
ヒマラヤン伯爵令息が声が届く範囲に来たのか、声が出なくなる。
「駄目そうだね」
その様子を見たポチがどこか嬉しそうに、目を細めながら笑っていた。
……思ったよりも、決闘は拙いかもしれない。
夕暮れ時。
指定された第二演習場にロットワイラー令息と共にやって来た。
既に演習場の外周には、野次馬の生徒達がわらわらと集まっていた。
暇人だな、と思いながらも演習場の結界の中に入ると自動的に体に補助の魔術がかかるのを感じた。
致命傷の身代わりをする保護の魔術がこの結界内では付与され続ける。
そうでなければ、貴族が集まるこの学園で実習も決闘もこんなに気軽には行えないだろう。
演習場の反対側には、もうヒマラヤン伯爵令息とシャルトリュー男爵令嬢が揃って立っていた。
シャルトリュー男爵令嬢はシンプルな木の長杖を持って魔女には珍しく皮の手甲を身に着けていた。
相変わらず、ヒマラヤン伯爵令息は重そうな全身鎧を身に着けている。
似合ってないのだから、止めればいいのに。
結界の外には、騎士科だろうか見慣れない教師が一人立っていた。
「遅かったな、エルデ。待ちくたびれさせてこちらの体力の消費を狙う作戦だったかもしれないが、俺の心身には欠片の動揺も与えられてないからな!」
「ちゃんと来るかってずっとソワソワしていましたのに。」
兜越しのくぐもったヒマラヤン伯爵令息の声と、呆れ交じりのシャルトリュー男爵令嬢の呟きが結界内で響く。
相変わらず、発言の切っ掛けになりそうな言葉は無い。
手筈通り、ロットワイラー令息が一歩前に出る。
機動性を重視し部分鎧を身に着けたその姿は、騎士としての余裕を表す様に背筋も耳も尾も自然体のように伸びていて、確かに所作が様になる男性だと改めて思う。
「すまないね、こちらも突然の決闘だから準備に手間取ってね。」
「いえ、お気遣いなく。」
「お前はどっちの味方だ!」
「あえて言うなら……公平性でしょうか?早く着きすぎたのはこちらですから。」
三人の会話を聞きながら、手の中の短杖を眺める。
節だったトネリコの木目をなぞると、これをプレゼントされた時のヒマラヤン伯爵令息の顔が思い浮かぶ。
幼いころは、よく書庫に潜り込み彼とごっこ遊びに興じるくらい仲が良かった。
あの事が無ければ、穏やかな関係が結べたかもしれないけれどそれも今では『かもしれない』にすぎない。
こじれた関係性を、ただ終わらせることしか私には出来ない。
「エルデ!」
視線を外しているうちに話が落ち着いたのか、あるいは私の気が漫ろなのに気が付いたのか、ヒマラヤン伯爵令息の声がかけられる。
「俺に、お前の実力を見せてみろ!」
「よろしくお願いいたします。」
「エデルワイス令嬢、よろしくね」
ロットワイラー令息の視線が、私の瞳の中を覗き込む。
大丈夫、手筈は覚えている。
教師の合図で、決闘が開始された。
まずは、声を出そうと息を吐くも喉は震えるものの音は形にならない。
命令は、こんな時にも有効らしい。
ロットワイラー令息へそれを伝える為に、無詠唱で行使できる氷の礫を幾つかヒマラヤン伯爵令息にぶつけた。
多少の衝撃はあっただろうけれど、流石にその程度では流石に体幹すら揺るがない。
全身鎧に氷の礫がぶつかり、周囲に散らばる。
「つめたっ?!防御はどうした、防御は?!」
「あの程度、その鎧なら傷にもなりませんので結界は魔力の無駄ですわ。」
文句を言いながらも、ヒマラヤン伯爵令息が重い足取りで一歩ずつ歩みを進め始める。
私は演習では、小技で牽制して翻弄している内に削りきるか。
あるいは亀のように結界の中に引き籠もり、自らの騎士諸共大技で吹き飛ばすかの大雑把なものだから、
防御を固めて小技を無視しながら距離を詰める、というのは作戦としてはかなり真っ当だ。
詠唱が行えないせいで、小技しか使えなくなっている。
と、言うのはバレていないらしい。
「赤き血潮、轟く祈り、天津見渡す火の息吹、我が根幹は鼓動、我が祈りは勇猛、我が祝福は熱風。三度命じる、速く鋭く熱く、我が敵を貫け『熱射の槍』」
亀の歩みで進むヒマラヤン伯爵令息を追い抜くように、詠唱が終わったシャルトリュー男爵令嬢の火の槍の矛先が私に向けられる。
なるほど、余計な妨害はさせないように私のことは、守りに徹させるつもりらしい。
何時もの私なら、その対応は正しい。
自分の身の安全を他者の手に委ねるなんてぞっとする。
けれど、私の隣に居るのはポチだ。
彼と私で立てた作戦は一つ。
『私はポチの事を、自分が放った高位魔法だと思って運用する。』
何も言わずとも、ポチが一歩前に出た。
音も無く引き抜かれた白銀の剣に、最低限の保護の魔術をかける。
それに、ポチの口角が上がるのを目視しながら意識は次の手に移っていた。
自分が放った魔法の威力を疑う術者など、居ない。
火の槍とポチの剣が交錯する。
保護の魔術は、正しく機能しその剣を熱から守った。
ポチの剣筋は、正しく機能しその軌道は魔術の核を打ち砕く。
核から解放された魔術が解け、魔力に変わる。
ポチはその熱風に髪と耳を揺らしながらも、満足げな笑みの奥に獰猛な獣の牙をチラつかせた。
ヒマラヤン伯爵令息はまだ、私にたどり着けない。
なら、先に狙うべきはシャルトリュー男爵令嬢。
セオリー通りに魔女から狙う形になる。
詠唱が出来ない以上、こちらが作れるのは下級魔術だけ。
それでも、本命を叩き込む為の隙くらいなら作れる。
魔力を注ぎ込み続けて維持し続けていた、氷の礫。
その魔術を解き、拡散しかけた魔力を起点に更に別の魔術を編む。
奇術のようなもので、威力は殆どない。
けれど、その異様な魔力の動きは魔女なら誰でも気を取られてしまう。
案の定、シャルトリュー男爵令嬢の視線がポチから逸れた。
発現した冷風の刃を杖を振い打ち払われるも、剥がれた杖の表皮から鉄芯の輝きが夕陽に反射する。
「なるほど、仕込み杖か。」
「流石に刃は仕込めませんから、鉄芯が入っているだけですよ。」
ポチの一撃を、シャルトリュー男爵令嬢が受け止める。
騎士の一撃を魔女が受け止めるなんて前代未聞。
だけれど、魔力の気配を追ってみれば身体強化を自身にかけている様子が伺えた。騎士の為の魔術を自分にかけるなんて、思いつきもしなかった。
けれど、それでも身体能力の差は埋めきれないのかシャルトリュー男爵令嬢は防戦一方で、けれどポチの足止めに成功してしまっている。
「エルデ!こっちを見ろ!」
意思より先に、視線がヒマラヤン伯爵令息に向いた。
魔女の支援が無くなった体ではその鎧すら枷でしかないだろうに、何時の間にかヒマラヤン伯爵令息が私との距離を縮めていた。
若干、火の槍に巻き込まれたのか全身鎧が土埃で煤けている。
ポチがシャルトリュー男爵令嬢に蒔けるとは思っていないけれど、ヒマラヤン伯爵令息より早く、こちらに来るには、時間が足りない。
「お前は何時もそうだ!たまにこっちを見たかと思えばすぐに目をそらすか、耳だけ見てうっとりしやがって!」
騎士の獣部分を愛でるのは、魔女の本能だから仕方ないと思う。
それに子猫のように愛くるしく、お馬鹿なヒマラヤン伯爵令息も悪いと思う。
本当に。
「絶対に俺はお前に勝ってやるんだっ!」
そう言って、また一歩こちらに近づく。
彼から伝わってくるのは、まっすぐな気迫であり怒りであり、けれどそれらは決して悪意ではなかった。
だから、私は何時まで経っても彼のことが嫌いになりきれない。
ここまで近づかれると思っていなかった私は足元を凍らせるか、関節を軋ませるか、
どちらが良いか悩んでしまう。どちらが、どんな手がより効果的か、悩んで戸惑って。
また、ヒマラヤン伯爵令息が一歩を詰める。
ずっと腰に下げていた剣を漸く抜いて、その間合いに私が居る。
その刃の反射に映る私の顔は相変わらずの、無表情で。
一瞬、鎧の奥でリーオが苦い顔をした気がした。
「こんな時までエルデは何も言わない」
けれど、一瞬の彼の戸惑いも直ぐに剣を振りかざす上段の構えにかき消されて。
「悲鳴くらい上げたらどうだ、エルデ!」
刃が振り下ろされる瞬間の、ヒマラヤン伯爵令息の言葉に喉がこひゅっと動いた。
「『氷檻』」
リーオによる発言の許可により、動いた私の喉は冷徹に彼を呆気なく氷の中へと閉じ込めた。
氷漬けだけれど、意識はあるはずだ。
……風邪は引くかもしれないけれど。
「……絶対そうじゃないって、エデルワイス令嬢。」
近くに戻っていたポチが呆れ交じりにそう呟いているのが耳に届いたけれど、
決闘中なんだから、間違ってないよね?
次の日
中庭の東屋のベンチに座った私の足元に、ポチは居ない。
代わりに私の背後に回って、令嬢らしく長く伸ばしている髪をありとあらゆる見たことないブラシを使用して手入れしている。
彼が協力する対価は、私の髪を彼の手で手入れさせること。
なんでも獣の騎士にとって毛並みというか髪は大切なもので、ずっと手入れが中途半端な私の髪が気になっていたらしい。
「僕は獣よりの本能が強いからね。たまには撫でて貰いたくなるし、友人がぼさぼさの髪をしていたら気になる物さ」
「そう」
「かといって令嬢にそんなこと言ったら大変なことになるだろう?」
そういいながらポチは鼻歌交じりに、柔らかい櫛で丁寧に私の髪を梳いている。
痛くもなく、けれど髪に触れられている感触だけは伝わってきて不思議な気分で。
「エデルワイス令嬢こそ、良かったの?決闘の報酬『ヒマラヤン伯爵令息と交わされたありとあらゆる契約の白紙化』なんて温いので。ちゃんと従属契約の破棄って言えば、沈黙の魔女っていう悪名も返上した上で慰謝料を取る事もできただろうに。」
「元々、ヒマラヤン伯爵令との婚約は仮のものだもの。慰謝料を取るほどの事でもないし。彼があれだけお馬鹿じゃなければ、自分の命令に私が逆らえないって、もっと早く気付かれていたでしょう?そうなった時、普通は悪用し始めるでしょうから、契約相手が彼で私はある意味守られてたとも捉えられるの。それに、悪意は無いし。」
「それは……好意的に見すぎじゃないかな。そもそも、ヒマラヤン伯爵令息が、許可なく喋るな。なんて命令を言わなければ、もっと早く解決できてただろう?君なら」
彼の手が握るブラシが変わった。
少し弾力のある櫛が頭皮をほぐす様に滑って行く。
「どうかしら?そもそもその命令も5才6才の頃の癇癪交じりの物だったし……そもそも、従属契約だろうっていうのも、私の予測でどうしてヒマラヤン伯爵令息の命令に逆らえなくなってたのかは、謎のまま。誰かの呪いみたいなものかもしれないし。」
「呪い、ね。」
何かを噛みしめるように、言葉を繰り返す。
「それに、汚名を返上出来ていた所で結局、別の悪名は広まっただろうから」
「沈黙の魔女改め、冷氷の魔女だっけ。勝ちを確信させた後に、氷で閉じ込めたのがわざと心を折ろうとしていたように見えたみたいだね。」
「私も彼等も雛鳥ですし。結果として、そういうことになったのは間違いないですからね」
「ヒマラヤン伯爵令息が休んでるのも噂に拍車をかけてるよね。」
「風邪を拗らせたようですよ。体が温まり切ってないのに、治療室から抜け出して学園内を徘徊したのだから、自業自得では?」
「本当に不憫だな……。」
更に櫛が変わり、細い木製の櫛になった。
櫛に纏わせていた香油が、何という種類の花の香りなのか分からないけれど、
柔らかい春の日差しのような淡い香りは、心地いい。
「まぁ、僕は役得だから良いんだけどさ……はい、出来た。」
「…………指通りが良いですね。」
整えられた髪の先端を指で弄る。
今まで見たことがないほど、自分の髪が滑らかで艶のある姿になっていた。
「感想それだけ?」
「そうですけど」
苦笑を浮かべているだろうポチを見上げると、不思議とその瞳に浮かんでいるのは呆れでも、諦めでもなかった。
私の知らない、柔らかい視線。
「まぁ、いいや。一つずつ覚えてくれれば。」
そういって白手袋で包まれた手で私の手を取ると、指の先端に唇を近づけた。
触れたか触れていないか、分からないほど微かな温度。
「これからもよろしくね?僕の魔女さん。」
誤字脱字等ございましたら、お知らせいただければ幸いです。




