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第十話 夜明け

※今回は少し残酷な描写(解体)が含まれます。

吹雪は、三日三晩続いた。


岩山の亀裂の奥。辛うじて風を凌げるだけの、暗く狭い洞窟。


二日目の夜を越えた時点で、所持していた携帯食も水も完全に尽きていた。


最適化された揺り籠の中では、空腹で死ぬことなどあり得なかった。


だが、生の自然は胃袋を容赦なく削り、指先から体温と体力を奪っていく。




テミストスはシステムの完全な管理下で『端末』として生きてきた。


定期的なエネルギーの供給と、完璧な温度管理。


彼にとって「空腹」や「凍える」という概念は、知識としてのデータでしかなく、肉体的な感覚としては未知のものだった。


保護が途絶え、バッテリーが切れるように、彼の生体機能は急速に低下していく。


「私を放棄し、残存するわずかな熱源をあなたたち二人で共有するのが、生存における最適解だ」


テミストスは壁にもたれかかり、赤く点滅する瞳で二人を見た。


彼に、生への執着は希薄だった。




吹雪が僅かに弱まった隙を突き、二人は雪原へと出た。


剣を振るって魔物を狩るのではない。ただの獣を獲るための、泥臭い狩りだ。


真っ白な雪の上に残された、微かな爪痕と乱れた歩幅。


シーヴァの目が、それを冷徹に分析する。


「……白角鹿しろつのじかの亜種ね」


彼女は雪を指で掬い、その硬さから通過した時間を逆算する。


「この蹄の深さから見て、体重は四十キロ前後。


 警戒心が強いけれど、吹雪の合間には必ず、あの岩陰の苔を狙って降りてくるわ」


彼女の脳内にある膨大な地誌と生物学の知識が、獲物の習性と絶対的な移動ルートを弾き出していく。


「罠を仕掛けましょう。


 イザーク、手持ちのワイヤーと、あの白樺の枝を使って」


「わかった」


イザークの無骨な指先が動く。


シーヴァの指示を、イザークの手が、物理トラップへと組み上げていく。


地の利はなく、足場も悪い。


獲物が現れるのが先か、強大な魔物が現れるのが先か。


体力もできるだけ温存したい。


だからこその、完全なアナログ。


どちらか一方の知識や技術が欠けていれば、決して成立しない罠だった。


数時間後。雪原に鈍い音が響いた。


罠の仕掛けが弾けた音だ。


そこには狙い通り、もがく白角鹿がいた。


イザークが雪を蹴って飛び出し、最小限の魔力を込めた小刀で急所を的確に穿つ。


獣の瞳から、一瞬で命の光が消え去った。



だが、本当の生存闘争はここからだった。


「血抜きを急ぐわよ。心臓が止まった直後が勝負。」


「わかった、汚れるからシーヴァは離れ」


イザークの言葉を、シーヴァは首を振って遮った。


「馬鹿なことを言わないで。生きるか死ぬかの極限で、見栄を張るなんて愚かだわ」


シーヴァは凍える手で獣の首元を掴み、頸動脈の位置を正確に指し示す。


「ここよ。気管を避けて、動脈だけを斜めに断ち切って。


 それから、内臓を傷つけずに腹を裂くの。


 少しでも胃や腸を傷つけて内容物が漏れれば、肉が食べられなくなるわ」


元貴族の令嬢である彼女の口から出る、生々しくも完璧な解体の手順。


イザークは躊躇うことなく、指示通りに刃を進めた。


血が吹き出し、雪を赤く染める。


熱い血飛沫が頬にかかっても、二人は決して手を止めなかった。




二人は血まみれになって洞窟へ帰還した。


イザークは焚火で炙ったその硬い獣の肉を、テミストスの口へと無理やり押し込んだ。


「食べろ。生きるんだ」


テミストスは、咀嚼した。


神殿が配給する、無味無臭の完璧な栄養食とは違う。


硬く、血生臭く、泥の匂いがする肉。



だが、それを飲み込んだ瞬間。


凍りついていた彼の胃袋の奥から、暴力的なまでの『熱』が全身に広がった。


細胞が、悲鳴を上げるように活力を取り戻していく。



(これが……『生』……)



死を恐れなかったはずのテミストスの内側に、初めて「もっと生きたい」という非合理な熱が灯った瞬間だった。



その深夜。


獣の肉で飢えは凌いだが、いよいよ薪が尽きかけ、洞窟の温度が致死レベルまで低下する。


テミストスの意識が混濁し始める。


すると、イザークがテミストスの手を強く握りしめた。


「イザ、ーク……?」


「寝るな」


「シーヴァもこっちに」


イザークは魔力を直接「熱」に変換する。


恐ろしく集中力を要する行為だった。


効率を度外視した、ひどく泥臭く、不格好な「生への執着」。


自分を温めるイザークの手の熱さを、薄れゆく意識の中で、生涯消えないデータとして刻み込んでいた。





洞窟の中に、微かな光が差し込んだ。


テミストスは静かに目を開けた。


生きている。


三人とも、システムに保護されずとも、自力で生の自然を生き抜いたのだ。


彼は立ち上がり、自らの演算領域をフル稼働させた。


もはやシステムへの盲信はない。


だが、この世界を維持するための最も論理的な結論として、彼はシステム本体へ一つのレポートを送信する。



『完全な合理性による統制は、未曾有の事態において脆弱である。保護を失っても自律生存可能な彼らのようなバグを残しておくことこそが、システムの持続可能性において最も合理的なリスクヘッジである』



数秒の、無音のやり取り。



やがて――


テミストスの瞳の奥で点滅し続けていたエラーの『赤』が、


静かに、


元の澄んだ『青』へと変わった。



システムからの、承認。



三人が洞窟の外へ出ると、荒れ狂っていた吹雪は嘘のように止んでいた。


視界の果て。


氷の粒が太陽光を反射して煌めく。


息を呑むほど美しい朝焼けが広がっていた。


システムに保護された箱庭では決して見ることができなかった、


冷酷で、不条理で、


圧倒的に美しい「本物の夜明け」。



排除されるべき『エラー』であった夜が終わり、世界から黙認された『余白』としての新しい朝が来たのだ。


太陽の光を浴びながら、白い息を吐き、テミストスが小さく呟いた。


「……生きて、いる」


機械のように生きてきたテミストスの口から零れたその言葉は、


誰よりも深く、確かな温度を持っていた。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

イザークとシーヴァ、そしてテミストスの歯車から外れた旅は始まったばかりですが、ここで一旦完結となります。


少しでも「面白い」「続きが気になる」「システムが不気味だ」と思っていただけましたら、

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