第九話 5分間
地鳴りのような重低音が空気を震わせた。
「前方より、巨大な生体反応」
テミストスの青い瞳が、吹雪の向こうを凝視する。
山そのものが動いているような巨大な影が這い出てきた。
「対象との交戦における我々の勝率は……」
テミストスの瞳は赤く点滅したままだ。
「計算しなくても、ゼロパーセントよ。勝ち目なんてないわ」
シーヴァは巨大な影を観察するように睨み付ける。
それは、今までイザークが倒してきたような、剣の届く急所を持つ都合の良い的ではない。
純粋な暴力と質量の塊だった。
戦えば、一秒で肉片に変わる。
イザークが反射的に剣の柄に手をかけようとした瞬間、シーヴァの冷たい手が彼の腕を掴んだ。
「抜かないで」
彼女の声は凪いだ水面のように落ち着いていた。
「あれはおそらく盲目よ。風に乗る魔力の匂いと、熱だけを感知して動いている」
シーヴァは空を見上げ、雪の降る角度と風の流れる音を瞬時に計算する。
貴族の教養として叩き込まれた気象学と、書物から得た魔物の生態知識が、彼女の脳内で完璧な生存ルートを割り出していく。
「風向きが変わるまで、あと5分。
……雪に潜って。完全に魔力を遮断して、息を殺しましょう」
イザークは頷き、シーヴァと共に岩陰の深い雪だまりに身を沈めた。
テミストスも無言で二人に従い、気配を絶つ。
雪の中は、暗く、恐ろしいほど冷たかった。
イザークは、自身の内に渦巻く規格外の魔力を、鍛冶屋が炉の火を封じるように極限まで圧縮し、心の奥底に押さえ込んだ。
少しでも魔力が漏れれば、あの影に気づかれる。
ズシン、ズシンと、影の足音が近づいてくる。
地面が揺れ、崩れた雪が頭上に降ってくる。
息ができない。
肺が焼けるように痛い。
隣で身を縮めるシーヴァの肩が、微かに震えているのが伝わってくる。
イザークは、雪の中で彼女の冷たい手を強く握りしめた。
『僕たちはここにいる』
誰にも見えない暗闇の中で、彼らはただ生存することだけを強烈に主張していた。
剣を振るうことだけが闘争ではない。
世界から放置された彼らにとって、この理不尽な暴力の嵐の中で「死なないこと」こそが、システムに対する最大の反逆なのだ。
永遠にも思えた時間が過ぎる。
やがて、風の音がヒューッと高く反転した。
「……風向きが、変わったわ」
シーヴァの掠れた声。
地鳴りのような足音は、吹雪の彼方へと遠ざかっていた。
雪から這い出したイザークは、荒い息を吐きながら雪原に仰向けに倒れ込んだ。
たった5分間、息を潜めただけだというのに、全身の筋肉が疲労で悲鳴を上げていた。
イザークは、鉛色の空を見上げて小さく笑った。
「最悪の気分だ。でも……」
凍えるような空気の中で、肺いっぱいに冷たい息を吸い込む。
「生きるって、こういうことなんだな」
生の自然は残酷だ。
だが、その冷たさこそが、彼らがシステムの箱庭から抜け出した何よりの証明だった。
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この話は、第十話で完結予定です。
引き続き、「世界の余白」をよろしくお願いいたします。




