違和感
## 冷たい空気
翌日の日曜日。いつものように大学のコートで練習が始まった。
「おはようございます」
咲良ちゃんが明るい声で挨拶すると、みんな普通に返事を返す。
健太先輩も山田くんも、他のメンバーたちも。
でも美樹先輩だけは違った。
「...おはよう」
素っ気ない返事。視線も合わせようとしない。
咲良ちゃんの笑顔が一瞬固まった。
「美樹先輩、調子悪いのかな?」
1年生の田村ちゃんが小声で私に聞いてきた。
彼女も気づいているのだ。
「さあ...疲れてるのかも」
私は曖昧に答えたけれど、美樹先輩の態度に意図的なものを感じていた。
その後の練習で、美樹先輩の態度はさらにはっきりしてきた。
「今度は2コートに分かれてボレー練習をしよう」
健太先輩の指示で、みんなが自然に分かれ始める。
咲良ちゃんが左のコートに向かうと、美樹先輩は明らかに意図的に右のコートへと移動した。
左コートに残された咲良ちゃんの表情が、一瞬困ったように曇った。
彼女も美樹先輩の態度の変化に気づいているのだ。
結局、咲良ちゃんは私や田村ちゃんたち2年生と一緒に練習することになった。
彼女は相変わらず明るく参加していたけれど、時々右のコートを気にするような素振りを見せるのが気になった。
「美月先輩、ありがとうございます!」
ボールを拾ってもらった時、咲良ちゃんが元気にお礼を言う。
でも、その笑顔が少し無理しているように見えて、胸が痛んだ。
練習が終わって片付けをしている時、2年生の佐々木さんが私に近づいてきた。
「ねえ、美樹先輩と咲良ちゃん、何かあった?」
やっぱり他の人も気づいている。
「土曜日の練習で、ちょっと...」
私が説明しようとした時、美樹先輩が近くを通りかかった。
咲良ちゃんが「お疲れ様でした」と声をかけたけれど、美樹先輩は顔を向けることもなく素通りしていく。
「うわ...」
佐々木さんが小さく呟いた。
「あんなに冷たい美樹先輩、初めて見た」
私も同感だった。
普段の美樹先輩はもっと優しいし、後輩の面倒もよく見てくれる。
それがこんなに露骨に態度を変えるなんて。
翌週の練習で、咲良ちゃんに微妙な変化が現れた。
相変わらず元気で一生懸命なのは変わらないけれど、美樹先輩がいる時だけは明らかに控えめになった。
自分から話しかけることもなくなったし、練習中も美樹先輩とは自然と距離を保つようになった。
「咲良、美樹に気を使ってるな」
健太先輩が困ったような顔で呟いた。
彼も状況を理解しているようだった。
「美樹はプライド高いからな...前もそれでちょっと揉めたことあったし」
前も?私は興味を引かれた。
「何があったんですか?」
「1年のときに、同級生からフォームのこと指摘されたんだ。技術的には正しいこと言われていたんだけど、美樹の機嫌がすごく悪くなって」
健太先輩は困ったような顔をした。
「結局その子、居づらくなって途中でサークル辞めちゃったんだよ。もったいなかったな」
私の胸に、冷たいものが走った。
やめちゃったって…。
「咲良は悪い子じゃないんだけどな。でも美樹が一度こうなると...。まぁ、時間が解決するのを待つしかないな」
本当に、時間が解決してくれるのかな…。
そんな不安が、胸のなかにあった雨雲を更に厚くしていった。
## 咲良への評価
サークル内での咲良ちゃんへの評価が、少しづつ分かれるようになった。
健太先輩や男子メンバーは彼女を可愛がっていたし、同級生の1年生たちは好意的だった。
「咲良は素直でいい子だよ」
「あの子と練習すると、俺も上達する気がする」
「咲良ちゃんのおかげで1年生の雰囲気が良くなった」
一方で、美樹先輩の周りには微妙な空気が流れるようになった。
美樹先輩は咲良ちゃんを露骨に避けるようになったし、それを見た何人かの先輩も距離を置き始めた。
美樹先輩の、サークルリーダーの拓海先輩の彼女という立場が、余計にそれを助長させているように感じた。
私は板挟みのような気分だった。
咲良ちゃんは確かにいい子だし、テニスに対する姿勢も立派だ。
大人げないとは思うけれど、美樹先輩の気持ちも分からなくはない。
時折、咲良ちゃんが美樹先輩を見てため息を付く時があって、私は何と言えばいいのか分からなかった。
彼女はその後も、いつもの明るさで練習に参加していた。
けれど翌週になると、咲良ちゃんは、美樹先輩と完全に距離を置くようになった。
## ある金曜日の放課後
大学の図書館で勉強していた時、偶然美樹先輩と遭遇した。
「美月ちゃん、お疲れ様」
美樹先輩はいつもの優しげな笑顔を浮かべていた。
でも咲良ちゃんへの冷たい態度を知っている今、その笑顔がどこか作り物のように見える。
「美樹先輩、こんにちは。卒論の準備ですか?」
「うん、調べ物にね」
少し雑談をした後、美樹先輩の表情が急に暗くなり、ためらいがちに言った。
「ねえ、美月ちゃんは咲良ちゃんのこと、どう思う?」
突然の質問に、私は戸惑った。
「どうって...普通にいい子だと思いますけど」
私の応えに、美樹先輩は、陰口を言う相手を間違えたと気づいた小学生のように慌てて表情を変える。
「そうよね、もちろんいい子よ」
美樹先輩はいいひとそうな笑みを浮かべて頷きながら、トーンを変えて続ける。
「でも最近、ちょっと気になる話を聞くことがあるの。ほら、私たち3年生はサークル全体のことを見ないといけないでしょう?」
「悪口を言うわけじゃないのよ」と、前置きをされている気分だったが、私は黙って聞いていた。
「例えばね、3年生の中で『練習中の声がちょっと大きすぎない?』って話が出てるの。『ナイスボール!』とか元気なのはいいんだけど、隣のコートまで聞こえちゃうくらいで」
確かに、咲良ちゃんの声は通るから大きく聞こえるけど、誰かの話を遮るようなこともないし、気になったことはない。
けれど、賑やかなのが嫌いっていう人もいるから、そういう意見を全否定は出来ない。
「それに、他の1年生たちが少し萎縮してるって、何人かの先輩が心配してるのよ。咲良ちゃんが積極的すぎて、田村ちゃんとかが遠慮しちゃってるんじゃないかって」
そうかな…。
むしろ咲良ちゃんに引っ張られて積極的に練習に取り組んでいるように見える。
彼女のせいで萎縮するなんて雰囲気、少なくとも私は感じたことはない。
「咲良ちゃんって、サークル全体の雰囲気を考えると...どうなのかな…、ね?」
表情は穏やかで柔らかいのに、どこか威圧的だった。
背筋が寒くなった。怖いな…この人。
「そこまで気にしたことがなくって…、すいません」
そう応えるのが精一杯だった。
「そう。いいのよ。来年は3年生だし、今後はそういうところにも気を配ってくれると嬉しいわ」
「はい」
私は怯みそうになる気持ちを悟られれないように、一生懸命笑顔を作った。
私はちゃんと笑えていただろうか。
図書館を出た後、私の胸にはモヤモヤした気持ちと同時に、ぞっとするような感覚が残った。
美樹先輩は本当に巧妙だった。直接的な悪口は一切言わず、全て「みんなの声」や「心配」として包装する。
そして最後は私の意見すら、自分のいいように圧力をかけて操作しようとしてくる。
こんなことを他の人にもしているのだとしたら、咲良ちゃんは孤立してしまうかもしれない…。
## 楽しそうな咲良ちゃん
翌週の練習、休憩時間に、1年生の田村ちゃんと山口くんが咲良ちゃんを囲んで相談事をしていた。
「咲良ちゃん、サーブのコツ教えて」
「今度一緒に自主練しない?咲良ちゃんと練習すると上達するんだよね」
咲良ちゃんが1年生たちに慕われているのは前から知っていたけれど、改めて見ると彼女の影響力の大きさが分かる。
楽しそうに笑う咲良ちゃんを見てなんだかほっとした。
「みんなで頑張ろうね!」
咲良ちゃんの明るい声に、1年生たちの目がキラキラと輝いている。
その光景を少し離れた場所から、冷たい表情で見ている美樹先輩がいた。
咲良ちゃんが楽しそうなことすら気に入らないようだった。一体なぜ美樹先輩は、こんなに咲良ちゃんに執着するのだろう。