新入生
その時の美樹先輩の顔を、私は忘れることができない。
「美樹先輩、強打じゃなくてゆっくりボールを回しませんか?」
咲良ちゃんの明るい声がコートに響いた瞬間だった。
美樹先輩の顔から血の気が引き、瞳は黒く濁り、口元が醜く歪む。
小さな一言に対するあまりにも大きすぎる先輩の変化に、私は心臓を鷲づかみにされたように凍りついた。
##咲良という子
咲良ちゃんがサークルに現れたのは4月の下旬だった。
「みなさん、はじめまして!情報工学部1年の咲良です!埼玉から出てきました!」
彼女はきらきらした笑顔で、自己紹介をする。
同郷の田中先輩に誘われて入ったのだと言う。
「テニスは高校から始めたので、まだまだですが、一生懸命頑張ります!」
彼女のさわやかな挨拶が、気持ちの良い春風のような爽快感をサークルにもたらす。
私は咲良ちゃんのことを可愛いなと思った。
屈託のない笑顔で、一生懸命で、見ていて気持ちがいい。
「咲良ちゃん、元気でいいね」
「明るい子が入って良かった」
他のメンバーの咲良ちゃんに対する印象もすごく好意的だった。
男の先輩たちは「いい後輩が来た」って喜んでいたし、同級生の1年生たちは「咲良ちゃんと一緒だと練習が楽しい」って言っていた。
練習が始まると、咲良ちゃんの魅力はさらに際立った。
「美月先輩のバックハンド、ほんとに綺麗です。何か気をつけていることはありますか?」
彼女はいつも真っ直ぐで、声掛けだけじゃなく、質問すら教える側が嬉しくなるような聞き方をする。
本当にテニスが好きなのが伝わってきて、彼女を見ているとつられて笑顔になってしまう。
「咲良、もうちょっとヘッド走らせな」
健太先輩が指導している時も咲良ちゃんは目を輝かせて聞く。
そして教わったことをすぐに実践して、みるみる上達していく。
「この子、本当に飲み込みが早いな」
サークルリーダーの拓海先輩も感心していた。
咲良ちゃんは、理系らしく論理的に技術を理解して、効率よく練習する。
そんな彼女に対して羨ましさもあったけれど、それ以上に彼女を見ているのが楽しかった。
ただ、全員が咲良ちゃんを好意的に見ていたわけではなかった。
練習の後、美樹先輩が小声で話しているのを聞いた。
「ちょっと積極的すぎない?1年生にしては」
「まあ、悪気はないんだろうけど...」
確かに咲良ちゃんは、他の1年生に比べて存在感があった。
質問も多いし、練習中の声も大きい。
それが「元気で良い」と受け取る人もいれば、「ちょっと出すぎ」と感じる人もいる。
でも私は、咲良ちゃんの一生懸命さが好きだった。
何より咲良ちゃんが来てから、私自身がサークルにいく事を以前よりも楽しみにするようになっていたのだ。
## 5月中旬のある土曜日
問題が起きたのは5月中旬の練習時だった。
「今日はコントロール重視で、4人1組でダブルス形式練習をしよう。ゆっくりボールを回すことを意識して」
拓海先輩の指示で、私は美樹先輩、咲良ちゃん、そして2年生の山田くんと一緒のコートに入った。
最初のうちは順調だった。
4人でボールを回しながら、コントロールとポジショニングを確認していく。
咲良ちゃんも「ナイスコース!」「今のいいですね!」と明るく声をかけてくれる。
でも徐々に美樹先輩のボールが強くなってきた。
力任せの強打が増えていく。
山田くんが慌ててボールを拾いに行く場面が何度か続いた。
美樹先輩が、一番エースを取りやすい山田くんにむかって強打するのだ。
「すみません...」
山田くんが申し訳なさそうに何度も言う。
でも悪いのは彼じゃない。
咲良ちゃんもそんな山田君の姿を、不憫そうに見ていた。
美樹先輩が、また山田くんの足元に力強いボールを打って、ラリーが終わった。
その時だった。
「美樹先輩、強打じゃなくてゆっくりボールを回しませんか?」
咲良ちゃんが、いつもの明るい調子で言った。
山田くんが咲良ちゃんの方を見て、ほっとしたような顔で頷いた。
けれど、美樹先輩の表情は凍りついていた。
まるで軽い注意が、自分を否定する刃に変わったかのように。
「…そうね」
美樹先輩の冷たい返事が、コート全体に重い空気を広げていった。
隣のコートから健太先輩の声が聞こえた。
「こっちも基本に戻そうか。ラリー継続が一番大事だからね」
同じような指摘でも、3年生の健太先輩が言うのと、1年生の咲良ちゃんが言うのとでは、受け取られ方が全然違う。
美樹先輩が、親の敵にでも会ったような顔でさくらちゃんを冷たく睨んでいた。
その表情があまりにも薄ら寒く、私の胸の奥にはどんよりとした雨雲のような不安が広がっていった。