不吉な誘い
とある夜。男は酒に酔い、ふらつく足取りで繁華街を歩いていた。
朝から降り続いた雨はすでに止んでいたが、アスファルトはまだ濡れている。街灯や信号の光が黒い路面に反射し、赤や青や白の色を滲ませていた。
人通りはそこそこあり、楽しげな表情ばかりがやけに目に入った。
――ちくしょう……。
男は大きくため息をつき、立ち止まった。そのときだ。背後から声をかけられた。
「あのー」
「ん、ああ? 邪魔だったかい? 悪いね。ははは、それともカツアゲかな? ひひひひ」
男はへらへらとした笑い声を漏らしながら振り返った。
そこには、全身黒づくめの男が立っていた。静かな声が続く。
「いえ、私は死神です」
「……はあ?」
男はまじまじとその男の顔を見つめた。遠くの街灯の明かりにぼんやりと浮かび上がる輪郭。一瞬、お面か何かをかぶっているのかと錯覚したほど、生気がない。ぞくりと背筋に寒気が走り、酔いが急速に引いていった。
だが不思議なことに、視線を外した途端、その顔の印象がふっと薄れた。まるで夢の中の存在のように。
「あんた、本物なのか……?」
「ええ」
死神は男をじっと見つめながら、淡々と答えた。
「ずいぶん不幸そうな顔をされていたので、お声がけさせていただきました」
「そ、そうか……ははは、死神に見初められるとはな。おれはとことん運がない……そう、おれは運がないんだ……今すぐ死にたいくらいにな……」
「それなら、いい方法がありますよ」
死神はゆっくりと手を差し出し、前方の交差点を指さした。
「あそこへ行って、車の前に飛び出せばいいんです。痛みもなく、ポンと終わります。保証しますよ」
「ははは、ずいぶんと雑な誘い文句じゃないか。さては、あんた新人か? まあ、おれにはふさわしいかもな……。いいよ、死んでやるよ。死神公認ってのも悪くない」
男はそう言うと、ふらついていた足取りを正し、交差点へ向かった。
横断歩道の前に着いたとき、信号が赤に変わった。車が行き交い始める。
男は横に立つ人々をちらりと見たあと、車道に視線を向けた。
タイミングを見計らっているのだ。だが、その必要はなかった。死神がそっと男の耳元で囁く――。
「今ですよ」
そして、男はためらうことなく車道に飛び出した。
鋭いブレーキ音がビルにこだまし、夜の空へと突き抜けた。視界がぐるんと回り、男の意識は男の意識は深い暗闇に沈んでいった。
◇ ◇ ◇
「……なんで、生きてるんだ?」
男は病院のベッドの上で目を覚ました。天井の白い蛍光灯の光が目に刺さる。体が動かない。麻酔が効いているのか痛みはないが、怪我をしていることは間違いなさそうだ。どうやら、救急車で運ばれてきたらしい。
楽に死ねるという話だったのに、あの死神はただの幻覚だったのか……。
天井を見つめながら呆然と考えていると、ふっと笑いが漏れた。相当重傷だ、と。
だがその瞬間、視界の端で黒い影がすっと動いた。
――死神。
顔の記憶は曖昧だったが、この不気味な気配。あの死神で間違いなさそうだ。
死神は申し訳なさそうに手を擦り合わせ、小さく頭を下げた。
「大変申し訳ありません……まさか、こんなことになるとは……」
「ああ……」
「実は、いや、本当にありえないことなんですが、手続き上のミスが重なってしまいまして、その……あなたはもう死ねないことになってしまいました」
「……え、死ねない?」
「ええ、はい。ずっと……ですね。たとえ首を斬られようと、燃やされようと、魂は肉体から離れられません。まあ、粉々になればわかりませんが……」
死神は「運が良かったですね」とぎこちなく微笑むと、ふっとその場から消えた。
男はただ天井を見つめ続け、『死ねない』――その言葉を頭の中で何度も反芻した。
やがて目尻を伝い、一筋の涙が流れ落ちた。
「おれは末期癌なんだぞ……」