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黒桜(こくおう)

作者: 口虚 人為

 そこには、黒い桜があった。

 青々と葉が茂る大地から伸びる太い幹は、色というものを忘れてしまったかのように白く。

 空を覆うように広げられた枝に咲く無数の黒い花びらが、足元に大きな木陰を作っている。

 まるで、喪に服す女のような。そんな、黒い桜があった。

 僕は、黒い花が好きだ。

 黒い薔薇も。黒いコスモスも。黒いダリアも。ただ黒いというだけで、同じ花種とはまるで違ったほの暗く妖艶な魅力を見せる黒い花が好きだ。

 ただ、そんな僕でも、黒い桜というものを見るのは、これが生まれて初めてのことだった。

 どうしてこんなところに、こんな樹があるのだろうか。

 そう思って近づくと、僕の視線の先――桜の根本で、何かが身じろぎをした。

 どうやら、それは幹の裏側にいたようで、それまで僕からは見えなかった。

 青い草を踏みしめる足音で僕という存在を認識したのか、それはゆっくりと幹の裏側から現れ、その眼で僕を見据えた。

「珍しい。こんな場所に、人が来るなんて」

 それは人だった。

 白い装束に身を包み、結った長い黒髪を垂らした……少女。

「あなた、死んだような目をしているけれど、生きた人間なんでしょう? 迷い込んだのかしら」

 木陰の下で、少女はそんな風に言いながら薄く笑った。

「……? 口がきけないの?」

「あ、いや。そう言う訳では……」

 ぼうっと少女を眺めていた僕の態度が不審だったのか、眉をひそめた彼女に僕は慌てて釈明する。

「その、黒い桜なんて初めて見たし、人がいるとも思わなくて、それで、驚いて」

「ふうん、そう。人、ね」

 意味深に頷いて、少女はにいっと口角を吊り上げる。

「ねえ、いつまでそこに立っているつもりなの? 日差しが眩しいでしょう? ほら、あなたも木陰に入ったらどうかしら」

「え……いいの?」

「むしろどうして悪いと思ったの? 桜の木陰に入ることに、私の許可が必要だとでも?」

「……」

 正直に言えば、そう思った。

 そう思えるほどに、彼女はその場所に馴染んでいた。その桜の下が、彼女の領域というか、彼女のために木陰があるような……いや、違う。

 彼女がまるで、この桜に寄り添うためだけにそこいるような、そんな風に、見えたものだから。

 ああ、そうか。

 僕はなんとなく、自分が彼女に見惚れてしまった理由が分かった気がした。

「それじゃあ、お邪魔するね」

「ええ、どうぞ。お客さん」

 黒い桜の作る影に、一歩を踏み込む。

 瞬間、不思議なざわつきが、僕の奥底に生まれた。

 身体を取り巻く空気が、一変してしまったかのような感覚。

 冷たく、それでいて優しく、何かが僕を包み込む。

 陽のあたるそれまでの場所と、この黒い木陰。

 明と暗。陽と陰。

 相反する二つの世界。それらが、この黒い桜の外輪ですっぱりと分け隔てられているような。

 世界の境目を、跨いだような気分だった。

「ねえ、一つ聞いていいかな?」

「あら、何かしら」

「君は、人間じゃないね」

 彼女の黒い瞳の奥で、影が愉快そうに蠢いた。

「あら、さっきは『人』って言ってくれたじゃない」

「そう見えたから、そう思った。でも、今は違うってわかるよ」

「どうして?」

「具体的に説明するのは難しいな……勘と言うか、感覚というか」

「へえ、人じゃないものがわかる感覚なんて、そんなものがあなたにはあるのね」

「慣れてるんだ、そういうものに」

「ふうん、人外を引き寄せる体質ってわけね」

「それもあるし、逆もある」

「逆って?」

 首を傾げる彼女に、僕は少しだけ先を言い淀んで。

「僕も、人でないものに惹かれているから」

「……そうなんだ」

 僕は、人でないものが好きだ。

 それらの持つ、一歩間違えれば「あちら側」に引き込まれて後戻りができなくなるような危険と、妖しい誘惑が好きだ。

 引き込まれてしまいたいと、度々思う。

 だから僕は、最初彼女に見惚れたんだろう。

「君は、誰? どうしてこの桜の下にいるんだい?」

「うーん、そうね。桜の妖精って感じかしら」

 彼女は少し悩んで、そんな風に肩を竦めて言った。

「妖精……?」

「あら、なあに? 不満があるわけ? 失礼ね」

「あ、いや」

 懐疑的に思ったのが、そのまま顔に出てしまっていたらしい。

 弁明しようとして言い淀む僕を、彼女はくすくすと可笑しそうに笑う。

「ねえ、この桜がどうして黒いかわかる?」

 そして、そんな事を問うてきた。

「……いや、わからないよ。初めて見たし」

 余談だが、「黒い花」というものは現実には存在しないらしい。

 花の持つ色素には「黒」という色を発色させる色素がないそうだ。

 だから、俗にいう「黒い花」というのは、それらの花が濃い紫や赤など暗い発色をしているのが、僕達人間の目には黒く見えているだけなのだという。

 その点で言えば、この桜はそれらの例と全く異なっている。

 この桜の花びらに見られる「黒」は、紛れも無い「黒」だ。

 それこそ、最初「喪に服す女」を思い浮かべた程に。喪服のように黒い。

 こんな色は、花の発色としてあり得ない。

「もしかして、この樹は桜じゃ……いや、花ですらない、のか」

「そうね。少し当たってるかも」

 妖しい微笑みを浮かべたまま、彼女は僕をじっと見て、そして足元に視線を向けた。

「『桜の樹の下には死体が埋まっている』って、よく言うでしょ」

「梶井基次郎だね。桜は、地面に埋った様々な生き物の腐った死体に絡みついて、その栄養を吸い上げて花を咲かせている。だから、桜はこれほどまでに美しい、だったかな」

「あなたはどう思う? この黒い桜を、美しいと思う?」

「思うよ、とても」

 僕は、頭上で満開に咲く黒い花びらたちを見上げる。視界の端で、わずかに目を見開いた彼女が、顔を上げて僕を見たのが見えた。

「……そう。そうね、私もそう思う」

 頷いて、彼女もまた僕と同じように満開の桜を見上げる。

 黒い、光を根こそぎ吸い尽くしたかのような真っ黒の花を、二人で見る。

 しばらくの静寂。数秒だったのか、数十秒だったのか。あるいは、数日か、数年か。

 僕は、この桜に目と心を奪われていた。

「この桜の下にも、死体が埋まっているのよ」

 静寂を破ったのは、彼女の方。

「数十や数百じゃ足りない。数万、数億の死体が、この樹の下には眠っているわ」

 その血肉を吸って、魂を喰らって、業を絞り出して、この桜は咲いたのだと、彼女は言う。

「だから、この桜は黒いの。厳密には、桜ですらないかもしれない。この黒さは、命の黒さなの」

 綺麗なものも、汚いものも、死んだ命の持つ全てを吸い上げて咲く、黒い花。

 一種の妖怪のようだ、と思った。あるいは、神様のようだと。

「神様、そうね。そう言うのが一番近いかも……私はね、この桜の守り人なのよ」

「守り人?」

「桜が神様だとするなら、それに仕える巫女ってところかしらね。……そんな柄じゃないけれど」

 彼女は肩を竦めて、自分の言葉に自分で苦笑を浮かべる。

「山と積みあがった死体の、その全てを封じるためにこの桜は作られた。嘆きも苦しみも、怨嗟も怨念も、その全てをどこにも出さないために。ここでずっと、眠っていてもらうために」

 そのためにこの桜は、ずっと喪に服しているの。と、彼女は笑った。

「でも、桜は所詮桜。自我の無い植物が、死んだ命に祈ることは無い。でしょう? だから、私が必要だったのよ」

「それは、つまり……」

「人柱。生贄。そうね、私はそういうものだった。そういうものとして、この樹の下に埋められた。他の全ての死者に冥福を祈るために。桜と共に、喪に服すために」

 だから、きっと。初めて彼女を見た時に、この桜に寄り添うためだけにここにいるように見えたんだろう。

 だから、きっと、初めて彼女を見た時に、「美しい」と、そう思ったんだろう。

 他者のために祈り続け、それに狂うこともなく、それでもどこかで疲れ切ったような影を落とすその姿が、紛れもなく尊いものだったから。

「……それじゃあ、一体」

「?」

 口をついて出た言葉。しかし、最後まで言い切る前に、僕は口を閉ざす。

 言っても意味がないと思ったからだ。それを言っても、何も変わらない。

 いや、僕には何も変えられない。

 そんな奴に、それを口にする資格なんてないと思ったからだ。

 しかし。

「なあに? 聞かせて」

 彼女は、隣に座る僕にしな垂れかかるようにして、先を促す。

 耳元に顔を近づけて、僕の口元を指でなぞる。

「いや……」

「いいから」

「でも、」

「言いなさい」

 耳元で囁くように、彼女はそう口にする。

 強い語気。でもその口調は決して強いものではなくて。

 むしろ弱く、幽かで。せがむように、懇願するように、手招くように、彼女は言った。

「ねえ、言って」

 だから僕は、恐る恐る、それを言う。


「……それじゃあ、一体。一体誰が、君に祈るんだ」


 数多の死者に祈るために、彼女は埋められたのだと言った。

 意思なき桜は死者の魂には祈らないとも、言った。

 では誰が、そんな彼女自身に祈るのか。

 いつ終わるとも知れない祈りの中で、ただ一人桜を見上げ続ける彼女は、誰に祈られるのか。

 おかしいじゃないか。死者に祈るために桜に縛り付けられた彼女が、自分は何の祈りも向けてもらえないなんて、不合理じゃないか。

「そう、ね。私は誰にも祈られない。祈ってもらえない。可哀そうな女だと思う? 痛ましいと思う?」

 その問いに、僕は答えられない。答える言葉を、持たない。だって。

「それじゃあ、あなたが祈ってくれる?」

 だって、そう聞かれたら、困ってしまうから。

「私と一緒にここに埋められてくれる? 私と一緒にこの桜に寄り添ってくれる? 私と一緒にいてくれる? 私の話し相手になってくれる? 私の孤独を、埋めてくれる?」

「…………」

 そんなことはできない。と、そう突っぱねることも、僕にとっては難しい。

 だって、僕の心は揺れているから。

 そうしてあげたいという気持ちも、そうしたいという気持ちも、僕の中にはある。

 この美しい黒い桜の下で、この美しい彼女と共に二人きりで過ごす……それを想像すると、脳が震える。甘美さに、酔いそうになる。

 けれど。

 けれど。

「…………それは、できない」

「……」

「だって僕は、生きているから」

 生きてしまっているから。

 死に損なっているから。

 生者と死者は、一つにはなれない。同じ姿をしていても、同じ言葉を交わせていても。

 もっと根本のところで、相容れない。決定的に。欠落的に。

「酷い人ね。死んでいる私に、そんな風に言う?」

「……ごめん」

「いいの、わかってたから」

 そう言って、彼女は立ちあがる。

「なら、早く帰りなさい。ここは、生きている人間のいるところじゃないんだから」

 僕の方を見ずに、彼女は外を――陽の当たる場所を、指して言った。

 そんな彼女に、なんて声をかけるべきか迷って。

「……僕は、生きている。生きてやらなきゃいけないこともあるし、死に損なった責任もたくさんある。だから、ここに埋ることはできない」

「じゃあ、」

「だけど……だから、僕が死んだら、その死体は君が引き取ってくれないか」

「……え」

「引き取って、この桜の樹の下に埋めてくれ。そうしたら、一緒にいられるし、祈ってあげられるようになる」

 生者と死者は、一つになれない。

 だから、死者同士なら。

「君のために死んであげることは出来ないけれど、死んだ後なら、君のためにできることもきっとあると思う」

 彼女は僕を振り返る。

 その目は、信じられないものをみるように見開かれていて、笑ってはいなかった。

「……何、言ってるのかしら」

 笑ってはいなかった顔に、彼女は笑いを浮かべる。けれどそれは歪で、不自然で。作り笑いだと、すぐにわかった。

「『一緒にいてくれる?』なんて、冗談よ。なあに? 本気にしたの?」

「うん、僕は本気だよ」

「……どうして? どうして、そんなことを言うの? 会ったばかりの亡霊に、どうしてそんなことが言えるの? 自分が何を言ってるのかわかってる? 馬鹿なの?」

「…………」

「本気で言ってるんだとしたら……異常だわ」

 心の底から理解できない、というような、困惑した表情を浮かべる彼女の質問に、僕は少し考える。

 理由をぱっと挙げることは、出来なくもない。

 放っておけなかったから、とか。独りの辛さは知っているから、とか。

 他にもそれらしい理由なら山ほどつけられるだろう。

 しかし、それはやはりどうしても、後付けのように思えてならない。

 本来の理由では、きっとない。

 本当の理由は、もっと衝動的で、刹那的で……何よりも僕自身が、そう在りたいと思って……ああ、そうか。

 そうだったのか。

 やっぱり僕はいつもこうだ。いつも感情のままに行動する癖に、その感情を後になってから理解する。

 僕は。

「僕は、君に一目ぼれをしたから」

「…………」

 絶句、という言葉が似合う表情として、これ以上のものはないだろう。

 彼女は、そんな顔をした。ドン引きと言っても過言ではない。

 なんなら、「聞き間違いであって欲しい」と言いたげにすら見える。

 とても心外だった。

 そして、僕の言葉が聞き間違いでも言い間違いでもないと、数秒かけて理解したのだろう彼女は、

「……あはは」

 と、笑った。

 今度こそ、作り物ではなく、心の底から生じたのであろう笑みだ。

 むしろ笑うしか無かったのかもしれない。

「やっぱりあなた、変わってるわ」

「そうかもしれない」

「そう、ありがと。でもそれならその言葉には責任を取ってもらうわよ? 私はちゃんと聞いたから、もう反故になんてできないわ」

 そう言ってまたくるりと僕に背を向ける彼女。

 その寸前、目が潤んでいたように見えたのは、僕の都合のいい錯覚だろうか。

「生きているうちに、またここに来ても良いかな?」

「……来られるものならね」

「……そっか」

 きっと、それは叶わない。

 こうして僕がここを見つけられたことすら、きっと偶然の産物だったんだろう。

 少し、寂しかった。

「じゃあ、僕はもう行くよ。色々教えてくれてありがとう」

「私も久しぶりに色々新鮮な気持ちにさせてもらったわ。ありがとう、それじゃあ元気でね」

 僕も立ち上がり、名残惜しい木陰から、日差しの下に向かって歩く。

「しばらく独りにしてしまうけれど、僕が死んだら、一緒にいよう」

「……」

 答えは、正直期待していなかった。

 僕は彼女に一目ぼれをしたけれど、彼女はきっとそうではないだろうから。

 退屈を紛れさせることができるなら、きっと僕じゃなくても良かったんだろうし、何でもよかったんだろう。

 肩を竦めて、僕は木陰から最後の一歩を踏み出した。

 その、刹那。


「……待ってるから。早く、死んでね」


 確かに、そんな言葉が聞こえた。

 振り返ると、そこにはもう何も無い。

 黒い桜も、白い幹も、美しい彼女も、どこにもいない。

 ただ、緑の野原だけが広がっている。

「……」

 空を仰ぐ。

 青い空から注ぐ、日差しが眩しかった。

 僕が体験したものは、幻覚でも白昼夢でも、きっと無い。

 彼女はそこにいたし、今もきっとそこにいる。

 僕が死ぬのを、待ってくれている。

「じゃあそれまでは、ちゃんと生きよう」

 ちゃんと生きて、ちゃんと死のう。

 無様にしがみつくことなく、恐れることなく。

 やらなきゃいけないことをして、責任を果たして。

 寂しがらせないように、早めに死のう。


 極めて前向きに。至って真面目に。

 僕は、そんな風に思った。

 ご一読いただき、ありがとうございました。

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[良い点] 孤独な少女が「僕」によって心を揺らす様が印象的でした。 特に、少女の目が潤む描写や「待ってるから」というセリフなど、飄々とした彼女の雰囲気とのギャップがあってよかったです。 あと文章が読み…
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