いつかの夏
「ぅあああ゛あ゛〜〜、ひーまだぁーー!! 」
きらきらとした夏の日差しが降り注ぐ家の中、私はいつものように世界に向けて暇を訴えていた。
……これは別に、私が不審者であるとかそういうのではなくて、あまりにも暇なのが悪い。近所の人のとこには、都会から帰省してきた家族だとか友人だとかが頻繁に訪ねてきているというのに、私の所にはゼロ!! あまりにも薄情、理不尽、人の心が無い!
まあ、そんな薄情な友人方には別にそこまで来て欲しいという訳でもない。むしろ来なくていいまである。
……あー、でも。
「……大くん、帰ってこないのかなぁ」
今の今まで耳を塞ぎたくなるくらい五月蝿かったミンミンゼミの鳴き声が急に止み、私の声がいやに大きく響き渡る。
これもまた毎年恒例のセリフ。毎年のように呟いて、勝手に期待して、勝手にへこんでる。
松田大輔。私の幼馴染。小、中と散々可愛がってあげたというのに、気づいたら都会の大学に行くとかでこの田舎を離れてた薄情者。
……ふっ。
「まあ? 別に? そんな特別な感情とか抱いてないし? 来ないなら来ないで、騒がしくなくていいし? こっちも色々気を遣わなきゃだし? むしろ来られたら困るって言うか? そんなに都会が良かったのかー、とか都会で可愛い彼女でも作ったのかーとか? ぜーんぜん思ってないけどねっ!! 」
息継ぎ無しで心のモヤモヤを地面に向かって吐き出す。
うん、ちょっとはスッキリした。さて、気分を切りかえて、今日という暇な一日をどうやって消化するのかを考えよう。
…………嘘。少しだけ、ほんのちょっとだけ、だけど。心の奥底に引っかかってて、ずぅっと取れない滓が今もまだ残り続けて、残り続けて、そしてたまに溢れそうになる。
ああ、今も。
「…………さみしい、なぁ」
彼がこの地を離れてから、いや、ひょっとしたらそれより前からずっと残り続けてる小さな棘。私のこの棘が抜ける日は一体いつ訪れるのだろうか。
どれくらいぼんやりしていたのだろうか、気づいたら随分とお日様が空の上の方に移動していた。
「あっつぅ……ヤダなぁこんな天気………………あれっ? 」
ざかざかと砂利道が踏み荒らされる音が近づいてくる。それもどんどん大きくなっていく。
まだ続く。
まだまだ続いている。
そして、止まった。
「…………よ、久しぶり」
身体が大きくなってて、背も伸びてて、顔だってちょっとおっさん臭くなってて。でもあの頃からよく知っている、全然変わってない下手くそな笑い顔を見せる彼がそこには居た。
「あ…………お…………ど…………」
アホーっ! とか、遅ーい!! とか、どんだけ待たせるのよ!!! とか、言いたいことは色々あるのに。考える時間だってたっぷりあったのに。
「…………ばか」
彼の顔を見たらもう、それしか言えなくなった。
「何年ぶり、だっけな。4年とか、5年とか……そんなもんか。駅前の方とかめっちゃ変わっててビックリしたよ」
「駅前……ああ、なんか商店街とか無くなっちゃったんだっけ。というかそんなことよりも! そんな数年も何してたの!? 」
ああ、本当はもっと大人な対応したいのに、すごく子供っぽい怒り方しちゃう。でも、彼は私のそんな内心を知ってか知らずか、話を続ける。
「忙しかったってのもあったけどさ、なんかちょっと来づらくて……ここに来ると色々思い出しちゃいそうになるからかな。お前には悪いことしたと思ってるよ」
「ホントかなぁ? そんな事言って、実は忘れてただけとかじゃないの? 大くん、昔から忘れ物多かったし」
「だからほら、ちゃんと色々お土産も買ってきたんだぞ。ほら、この饅頭とかお前好きだったろ? ちゃんと覚えてたぞ! 」
ふふっ、何そのドヤ顔。
しかも私が好きなお饅頭は粒あんの方じゃなくてこしあんの方だ。でも、そんなふうに気が使えるようになったっていうのは嬉しい。
「もー……ありがとね。嬉しいよ」
昔だったら絶対に言えなかった素直な気持ちが自然と口から溢れる。夏の魔力のせい? まさか、そんないいものじゃないだろう。
「後は……こういう時何話せばいいんだっけかな。……えっと、ご飯はちゃんと食べてるし、掃除……はたまに忘れるけどやってはいるよ。風呂もちゃんと入ってるし」
「いや私お母さんじゃないんだよ、そんな一人暮らしの息子の報告みたいな事されても反応に困るよ」
「……あー、違うか。近況報告ってこういうことじゃないよな。えっと、じゃあ……」
「……っふふっ」
難しげに首を捻る君を見下ろすのはいつぶりだろうか。小学生? どうだろうか、高学年の頃には既に背は抜かれていたから、もっと前かもしれないね。
ひょっとしたら君は気づいていないかもしれないけれど、私は君とのこういう会話がすごく大好きだったんだよ。なんでもない事を話して、笑って、ふざけあって。そんな時間が、何よりも大切だった。
「ホント、楽しかったなぁ……」
ぱちり、と目が合う音がした。大くんの目線と、私の目線が交差して、重なって、互いを貫きあう。
騒がしいセミの声、吹き抜ける風の音。射し込む陽の光が大くんを照らす。彼の口が作り慣れた音を作り、見開かれた瞳が青い山々を映し出す。
「…………由香? 」
呼ばれた名前、重なる視線。
まるでテレビを見ているみたいに現実感の無い夏が、私たちの間に横たわっていた。
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茹だるような暑さが鬱陶しい。思い切り息を吸い込んだら入ってくる青い土の臭いが気持ち悪い。都会のそれよりも遥かに騒がしい虫の鳴き声が、頬を伝い口に入る汗の塩味が、ギラギラと視界を焼く陽光が。俺の全身に訴えかける夏が嫌いだ。
けれど、俺の足を絡め取るのは、1歩を踏み出す気力を奪うのは、そんな生易しい不快感なんかじゃない。
幼馴染。仲良しだった、大好きだった、何に替えても守りたかった大切な人。
そんな彼女を奪ったのが夏だからだ。
「……久しいね、松田くん。5年ぶりかな」
「はは……すみません翔吾さん。なかなか顔を出せないで」
都会の大学に進学し、ある程度生活も安定し始めた2年生の夏。俺は長い間足を向けることが無かった生まれ故郷へと帰省していた。
由香のお墓に寄り、実家に荷物を置いた俺が、訪問したのは初老の男性が住まう家。
目の前に座るそれなりの歳であるはずなのに、ちらほらと白髪が混ざる程度で老いを全く感じさせないナイスミドルが皆月翔吾。
俺の幼馴染である皆月由香の実の父親であり、唯一の肉親。
「いや、別に責めた訳じゃないさ。気にしないでくれ。それよりあの子……由香のところにはもう顔を出したのかな? 」
「ええ。あいつは真っ先に会いに行かないと拗ねるような奴ですから」
「拗ねる……そうか、私にはそんな所を見せてはくれなかったな」
「え゛っ……そ、それはなんと言いますか……」
「なに、気にしないでくれ。あの子の知らなかった部分が知れて私は嬉しいんだよ」
……反応に困るな。別に俺と由香はただの幼馴染であって、付き合っていたわけでも、好き合っていた訳でもない。
由香は俺をただの友人として見ていて、俺は由香の事が女性だとか恋だとか、そういうのとは関係なく愛していた。ただそれだけの関係だ。……それだけだったのに。
由香が亡くなったのは、高一の夏だった。あの時も今みたいに、じくじくと汗が滲むようなそんな暑くて不快な夏だった。
高一の夏、それもこんな田舎じゃあ高校デビューなんてものとは俺たちは無縁だった。だからあの日も、ヤンチャ盛りの小学生みたいに山ではしゃぎ回っていた。
長い髪は木に絡まるから切っちゃおうかな、なんて由香がボヤいてて、長い方が似合ってるけどなとか思いながら、口では短くしたらまた男子と間違われるぞ、とか毒づいて。
そういう、なんてことの無い普通の一日だったのに。
由香の死因は熱中症による多臓器不全だった。
少し休みたいと言われて、木陰で休んでいた。
あの時すぐに病院に向かえば良かった。
荒れきっていた由香の呼吸が落ち着いて、静かな寝息が聞こえてきた。
俺が倒れてでも彼女を背負って走れば良かった。
白い額に玉のような汗が浮かんでいて、拭いたその肌は煮えたぎっていた。
彼女を連れ帰る時に、少しでも全身を冷やしながら帰れば或いは救えていたかもしれない。
もっと水分や塩分を用意すべきだった、そもそもあんな炎天下に長時間遊びに行くべきではなかった、長い髪は熱を溜め込みやすいのだから何か言ってやるべきだった。
何か出来ることがあったはずで、でも俺ができたことは何も無くて。だから、由香は死んだ。俺が、殺した。
なのに、何だろう。由香の墓前で感じた懐かしい気配は。
「…………ん、……松田くん? 」
「……え? 」
「大丈夫かい? 急に黙り込んで……言い難いが今日は暑い。体調には気をつけなさい」
「それは……はい。そうですね」
とんでもなく言い難い注意をさせてしまった。翔吾さんだって、きっと、まだ由香のことを引き摺っているに違いないのに。
……ダメだ。
見ることができない。顔を上げて、目の前の人の顔を見る事が。彼を避けるように、自分の罪から目をそらすように視線を外す。
きらきらとした夏の日差しは、いつの間にかその輝きを陰らせていた。夏の雲がもくもくと空を覆い、部屋の隅が黒く沈む。
日めくりのカレンダー、位牌が置かれた仏壇。キュウリの馬、茄子の牛。見慣れた家に、見慣れない物。
用意されたコップの氷が、からり、と後悔の音を立てて溶けていった。