大切なものには名前を書こう(ショートショート・1672文字)
「あー、こっちにも書かないと……!」
ソファに腰掛けてテレビを見ていると、妻が忙しそうにしていた。
彼女の前には、散乱した小物たち。上履き、タオル、バッグに着替え、巾着袋。
「どうしたんだ?」
「保育園に持っていくもの、全部に名前を書かないといけないんだって。地味に大変で……」
「そうなのか。手伝うよ」
僕はサインペンを用意し、妻と手分けして名前を書いていく。
「苦労かけてごめんねぇ」
記名する様子を見て謝ってきたのは、僕の母だ。
僕は妻と共働きで、仕事に行っているあいだは、母へ娘を預けていた。
しかし最近になり、母が体調を崩しがちになった。
これからのことも考え、娘を保育園に入れることにしたのだ。
娘の様子をうかがうと、テレビに夢中だった。
彼女は、おばあちゃんっ子なので、入園を納得させるのに苦労した。
しかしおばあちゃんに長生きしてもらって、ずっと一緒にいるには必要なことなのだと説得し、ようやく前向きにとらえてくれた。
「謝らなくていいですよ。今までご苦労かけっぱなしで……」
妻の方も申し訳なさそうに頭を下げる。
「せめて小学校に入るまで面倒を見れたらよかったんだけど……」
「母さん。幼稚園や保育園を利用するのは、最近じゃ普通のことだよ。それで教育に悪影響なんてことはないよ」
母は古い人間なので、妻が育児休暇を終えて職場に復帰するときにも難色を示していた。母の愛を受けて育つのが一番だ、と。
それでも説得を受け入れ、妻とも良好な関係を築いている。
「パパたち何してるの?」
名前入れを再開してしばらくすると、テレビに飽きた娘が興味深そうに近寄ってきた。
「おまえの名前を書いてるんだよ。幼稚園に持って行くものすべてに書かなくちゃいけないんだ」
「これ全部に? なんで?」
「大切なものには名前を書かないといけないんだ。そうすれば、なくしても戻ってくるだろう? だから、なくしたくない大切なものには名前を書くんだよ」
「ほぇー、そうなんだ。わたしも手伝う!」
娘が手を上げてアピールしてくる。
その様子はとてもかわいらしいが、娘はまだ文字がかけない。
大丈夫だから、と言ってもなかなか聞いてくれない頑固者だ。誰に似たのやら。
正直、邪魔でしかないが、親切心を否定するわけにもいかず弱ってしまった。
「わたしにまかせて」
祖母が娘に話しかける。
「ほら、こっちに書いてね。おばあちゃんがお手本書いてあげるから」
落書きセットをおもちゃ箱から引っ張り出して、娘にクレヨンを渡す。
母は見本として、落書き帳に娘の名前を書き込んだ。
「これ、大切なものなの?」
娘の疑問はもっともだ。
名前を書く意味をさっき教えたばかりだ。
いつも使用している落書き帳に、その価値があるとは思えないだろう。
「あのね、紙がないと大好きな絵本も作れないんだよ。絵本、なくなっちゃったら、こまるでしょ?」
「それはこまる!」
娘は、母のデタラメを信じたようだ。
大変だ、とばかりに、母の膝を座布団替わりにして、見よう見まねで書き始める。
落書き帳にミミズがのたくったような文字が量産されていく。
「ありがとう。これで最後よ」
室内用の上履きに名前を書き込み、すべての物に記入し終えた。
娘も母に「お手伝いありがとう」とお礼を言われ、満足気な顔をしていた。
翌日の朝。
僕が食卓で朝食ができるのを待っていると、母がやってきた。
母は早朝に散歩へ出かけるのが日課なので、それを済ませて戻ってきたのだろう。
「おはよう、母さん……って、その顔は……!」
僕は思わず吹き出して、笑ってしまった。
母はなんのことかわからず、困惑している様子。
「鏡で確認してみなよ」
僕は笑いをかみ殺して言った。
母が手鏡で、みずからの顔を確認する。
その顔には、クレヨンがぐちゃぐちゃに塗りたくられている。
「まあ、なんてこと……! あの子ったら、どうしてこんなイタズラを……」
母は顔を真っ赤にして狼狽している。
顔に落書きされたまま散歩に出かけてしまっていたのだから、なおさらだろう。
「イタズラなんかじゃないさ。だって昨日、僕は言ったじゃないか。なくしたくない大切なものには名前を書くんだよ、って」
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました!
少しでも面白い! もっと読みたい! と思っていただけたら、
『ブックマーク』と広告下の【☆☆☆☆☆】を【★★★★★】にしていただけると幸いです!
評価ボタンは、モチベーションに繋がりますので、何卒応援よろしくお願いします!