二人の女を愛した男たち
台風が接近し強風が吹き荒れ始めた夕方、携帯に着信音が鳴った。
「東野と申します。突然の電話失礼致します。実は現在あなたがお住まいになっている部屋のことですが三月まで私が借りていました。ところがそこに忘れ物をしまして何分現在ドイツにいるものですから、すぐではないですが十一月頃になりますがそれまでお預かりして頂けないでしょうか」
「何を忘れられたのですか?」
「いや、大袈裟なものではないのですが私にとっては大事なものですので」
話を聞いていると忘れ物は日記帳で押し入れの中に引っ越しの時置き忘れたのだという。僕はその日記のことはあまり気にはしていなかったが確かにあった。東野と名乗った男は現在仕事の都合でドイツに出張しているので十一月の末頃には伺えると言った。彼にどうして携帯の番号を調べたのか不思議であったので聞いてみると、既に海外にいるために仕方なく不動産屋に教えてもらったのだと言ったので僕は妙に納得し、それまで保管をしておくことを約束した。
秋の台風が美濃地方を直撃し外は激しい強風を伴う嵐だった。道路は冠水し川のように雨が流れ樹木は折れ風雨と共に庭先に叩きつける。窓ガラスはガタガタと音を立て今にも吹き飛ばされそうになり電線は唸りをあげて風を煽る。時刻は夕方なのに暗く何かプラスチックのゴミ箱のようなものが飛んで来たのか不規則な音を立て壁に当たる大きな音がした。風雨は益々激しくなり台風の進路は東海地方に向かっている。現在の台風の進路は直接美濃地方が暴風圏に入るところで明け方には日本海に抜ける予想だった。
その時僕は玄関のインターフォンの音からキャッーという悲鳴を微かに聞いた。画面を覗いてみると雨風で画面が濡れ充分に確認することが出来ない。
「誰か居るの?」
「すみません、雨宿りをさせて下さい」
女性はそう言ってインターフォン越しに喋り顔を避けた。暫く僕は其の儘にしていたがあまりにも雨風が強くなってくるので再度インターフォンで問いかけた。
「まだ見えますか?」
「ごめんなさい」
僕は致し方なくドアを開けると瞬間突風がドアを押し潰すように吹いてきた。その入り口の傍らにびしょ濡れ姿の女性が大きなスケッチバックを抱えながら腰を屈め小さくなっている。僕はドアを開け中に入るよう大声で言うと彼女は躊躇していたが
「お願いします」
風が強くドアを開けると激しい雨風が部屋の中を突き抜けるように吹いてきた。玄関に入ると体を拭く前に慌ててスケッチバックを開け描いている絵を取り出して確認している姿に僕は少々驚いた。
「よかった、濡れて絵具が流れてないかと心配したの」
そう言って八重歯を見せながらはにかむ様な笑顔を見せた。
その絵は真っ赤な薔薇の油絵であった。薄暗い部屋が一瞬パッと明るくなったような錯覚に襲われ湿った絵の具の匂いがした。大事そうにキャンパスを抱え込む彼女の姿は絵そのものが何よりも重大に映った。体はびしょ濡れで髪は激しく乱れていたので僕はバスタオルを無造作に手渡した。彼女は黙って頭を下げて受け取ると背を向けながら頭にバスタオルを被り長い髪を拭いた。
よく見ると彼女の白いブラウスは体に密着し、ジーパンは雨でびしょ濡れになり玄関の床にズボンの裾から雫がぽたぽたと流れている。手でブラウスやジーパンを絞って水を切っていたがとても追いつくような状態ではなかった。「ジャージで良ければ着てみる?」と言うと少し迷った風だったが
「お願いします。後で必ずお返しますから、助かります」
と笑顔をみせて頭を下げた。
それが僕たちの出会いだった。
僕は大学を出て一年目だったが仕事の所為もあるが引きこもりがちでフリーライターの仕事をしていた。先輩や知り合いが頼りで依頼があれば何とかそれに答えるような金にならない仕事だった。親からきちんとした正業に就くように言われるのだが人と係わりを持つのが苦手で、厳密に言えば引きこもりと言うよりか他人と拘わることの煩わしさの方が勝っていた。そう言う環境の社会から疎外され居心地のいい自分の世界でいつしか仕事をするようになった。気が付くと伝統的な家族制度が崩壊し、いつしか小さな核家族よりももっと小さな共同体のような組織が出来上がり僕はそう言う社会で生きていた。
彼女と別れて一週間後の残暑の厳しい日のことだった。彼女から電話があってお礼にマンションに伺いたいとの連絡があった。
僕は東野の日記が気になっていたが取り敢えず彼女と会った。彼女は夕方学校の帰りに立ち寄るみたいだ。先日と同じような格好でキャンバスバックを肩に掛けて顔を出した。
「この前は本当にごめんなさい。突然とはいえ台風が直撃してくることは事前に知っていたのだけどなかなか帰れなくて結局ああなってしまったの」
あの後バックに入れていたパンと持参していたウーロン茶で彼女は食事を済まし、結局シャワーに入って体を温め一泊して帰った。僕はあまり突然のことなので距離を置いて話をした。それにしても彼女は見知らぬ男性の家に潜り込んで怖くはなかったのだろうか。あの時びしょ濡れの姿が気の毒で結局ジャージを貸した。僕はそういうイメージの彼女しか知らなかったが、今日はきちんと青のストライブの入った薄手のブラウスに白のミニスカートの服装で清楚な女子大生であった
彼女はこの前に貸したジャージをクリーニングに出していた。そして新しいジャージを別に買ってケーキを包んだ紙パックと一緒に差し出した。
「本当にご迷惑をかけてしまってごめんなさい。ジャージは私の好みで買ったから気に入らなかったら捨ててくれてもいいから」
そう言って印象的な八重歯を見せながら笑顔を見せた。僕はそこまでしてくれなくてもいいのにといったがこれは私の気持ちだからと言って帰ろうとした。
「お茶でも入れるから飲まないか?」
僕は彼女とゆっくり話をしてみたかった。テーブルを挟んでケーキを食べながら彼女はぽつりと話し始めたが、今までとは少し違った暗い表情だった。
あの雨の夜、彼女は大西涼子と名乗りM大の三年生で病気のため一年間休学したのだと寂しそうな笑顔を見せた。僕は佐々木一平で二十三歳のフリーライターで、暇なライターだから自宅にいつもいるのだと言うと涼子は小さな声で笑った。
あの雨の日の会話を思い浮かべていると急に話しておきたいことがあると言って窓の外に目をやりながら彼女は大きな溜息をついた後ゆっくりと喋り始めた。
「二度目に会った方にこんな話をするのは失礼だと思うけど何故かあなたと気が合いそうだから話を聞いて欲しいの。実は私には記憶がないの・・・・・・」
「記憶がない?」
「それで一年間休学したのだけど、二年前タクシーに乗っていて交通事故に遭遇し記憶を失ったの。相手は飲酒運転で出合い頭にタクシーは大破したわ。車のボンネットが大きく跳ね上がり私は後部座席の運転手さんの後ろに乗っていたけどシートベルトをしていなかった所為もあって前に大きく飛び出しフロントデッキにあるカーナビに頭をぶつけて大怪我をしたの。多少頭は切ったけど大事には至らなかった。車は大きく凹みフロントガラスは網状にボロボロになってしまった。たまたま同乗していた人が警察や実家に連絡をしてくれて難を逃れたのだけど未だにあの時から以前のことは思い出すことが出来ないのよ」
あまり突然の話だったので僕は驚いた。そして彼女は追い打ちをかけるように言った。
「それにしても変なことを言うようだけど私この部屋初めての気がしない。何度か見たような気がする」
「だって実家に住んでいるのだろう」
「ええ、でも一時マンションに住んでいた時期が確かあるのよ。それが何時だったのか記憶が繋がらないの。確かにこのようなマンションに住んでいたわ」
僕は涙を堪え話する彼女をどうしてあげることもできない苛立ちを妙に感じていた。
「医者はどう言っているの?記憶は戻ると言っているの?」
「そのうちに戻る場合もあるし戻らない場合もあるとのことなの。ショック療法が逆にいいみたいだけどそれも怖いし、病名は解離性健忘症です。だから部分的には覚えているのだけど事故以来それ以前のことが断片的でよく分からないのよ」
僕はそう言う彼女の病名は解離性健忘症ということなのですぐにスマホにメモ書きした。名前は大西凉子というみたいですと他人事のように言ったが実際には実感はないのだという。僕はそう言う彼女の姿が事実なのかどうか正直不安と言うかそれよりも変なことに首を突っ込んでしまったような錯覚を覚えた。
記憶がないということはどういうことなのだろうか。その結ばれない接点の記憶を紐解いていきたいと思ったがやるべきことは全部やった。これからは記憶が戻るのを根気よく待つしかないが、記憶が戻った方が彼女にはいいことなのか戻らない方がいいことなのか、どちらかを一方を選択することは僕にはわからないが、敢えて僕の気持ちを言うなら今の状態でいて欲しい。自分の理性と判断が記憶を仮に元に戻してもそれは過去というBOXの中の世界に納まりきれないかもしれない、もしも彼女に記憶の接点が明確に繋がればもう会えないことも選択肢になるのだろう。そのことは健忘症という病名の中で明確な答えを医者はカルテの中で書いているそうだ。だから彼女は過去と現在、未来を行き来して泳いでいるような状況なのだ。かなり精神的にも不安定さを感じるが、もしかしたら過去は全て忘れ未来も予測は出来なくなると考えられないことはない。結局「今」という時間を選択するしかないのではないか。
「来週から秋のオープンキャンパスがあるの。美術部は個展を開いているので来てね」
この前の薔薇の絵を出品しているのだという。僕はM大に行く約束をした。彼女は時々愛くるしいほどの甘えを含んだ態度や言葉を見せる時があるが妙に八重歯と笑顔がマッチして印象的なのだ。それが僕には不思議と魅力的に映ったが、記憶喪失には精神的なことで痛みを伴わないのだろうか。僕は正直疑問を彼女に持ったことは事実だった。彼女は長い髪を右手で掻き上げ黙って笑った。
彼女が帰った後僕はあの電話以来気になっていた東野の日記を覗き見した。押し入れの隅にポツンと置かれていた青い日記帳。その中に東野にとって非常に大事なものとは何だろうかと思い悪いと思いながらもページを捲ってみた。その日記は一年前から書かれていた。凡そ人の私生活を覗く趣味はなくどうでもよかったが東野の彼女との経緯が書かれていてそのことが妙に僕の心を惹きつけた。
2018.01.15 晴
大学のマンドリンクラブの発表会があった。俺は野球部であったが音楽や文章を書くのも好きだ。自分が行き詰った時気分転換によく音楽を聴いた。開演の幕が開き十分ほどして隣の席に慌てて座る女性がいた。あまり慌てて座ったためか勢い余って俺の膝に両手をつき体が凭れるようになった。彼女は「すみません」と小声で言って椅子に座った。香水の香りが長い髪から漂って来る。演奏の休憩時間俺はロビーに出て缶コーヒーを買って飲んでいると隣に座った彼女が近づいて来た。
「先ほどは本当に失礼しました。ごめんなさい」
「慌てると大怪我しますよ」
俺は笑いながら水色のジャケットを着た彼女に話をした。彼女はM大二年の西田理恵だと自己紹介した。俺は東野健でM大の三年生だと話した。ロビーは沢山の大学の仲間やOBなどで混雑していたが俺たちは少し離れた窓際の椅子に座って話をした。
これが俺たちの出会いであった。
演奏会が終わりお互いにM大学だと分かりQRコードでIDを交換して別れた。俺はその夜彼女のことで頭が一杯になっていた。折角LINEを交換したのだからと思いメッセージを送った。
「話したいけどいいですか?」
彼女の既読が付く前にもう俺は彼女に電話をしていた。
「まだ返事していないのに早すぎる」
そう言って彼女は笑った。俺はまた会いたいのだけど食事でもしないかと誘いを掛けると彼女は来週なら時間が取れると言った。俺はすかさず了解しLINEで有難うと絵文字を添付し送った。彼女からは何も返事はなかった。
僕は東野の日記の最初の部分を読んだだけで吐き気がした。他人の生活を覗くことがこれほど苦痛だとは知らなかった。体が小刻みに震え何かが壊れていくような気がする。日記を元の場所に置いて暫くベッドに横たわり呆然とした。
僕が極度の引きこもりになったのは昔友達に虐められ、そのガキ大将が家のごく近所だったということが学校に行かなくなる原因で結果不登校と言うことになった。引きこもりと言うと嫌な言葉であるが登校拒否である。両親や学校の先生は学校に来させようと一生懸命だったことは理解が出来た。僕は引きこもり、不登校は罪悪のように評価されたが自由に選択をしたらいいと考えていた。学校に行かない選択肢もあるのだ、学校の勉強が全てではないと考えるようになったが、それと社会との共存共生は難しい問題に違いないが兎に角その時の選択は学校を拒否する選択を選んだ。親は僕の選択に「焦らなくていい」と言って無関心で何も強要をせず好きにさせてくれたことが有難かった。そう言う中で中学時代は義務教育なので卒業することが出来たが高校受験は自宅でNET学習や通信の勉強をして過ごしていたので何とか一流ではないが私立の高校に入ることが出来た。悪ガキは卒業と同時に家を飛び出し行方不明だと家族は嘆いていたが僕は心の中で笑っていた。涼子があの時の虐めっ子のガキ大将や不登校の学生時代に、もしも同じクラスだとしたら学校に行っていただろうかと、非現実的な想像の世界を気持ちが遊離して考えていた。仮に記憶をなくすことが出来るのならばその時の事実を消してしまいたい。過去を否定してしまうことは果たして重要なことだろうか。問題の事実は事実として正しかろうが誤りであろうが結果として記憶に残っているそのことを全て否定することに抵抗はあった。過去の全てが嫌なことばかりではなく楽しいこともあったはずだ。過去を葬りたいという気も無くはないが過去の前提の中で現在があり未来に繋がっていく。だが記憶が無くなってしまうとその接点は繋がらない。糸の切れた凧と同じで単なるパフォーマンスに終わって「今」だけが残る。自分はいったい何者かと言うことさえ分からず、住所や名前そして両親や友人たちの写真を見ても記憶が戻らないということは本当なのかどうか、大学の同僚で医学部の友人がいたので聞いてみようと電話をした。出来たら学園祭に行くまでに道筋をたてたいと考えた。
医学部の友人が実習しているS総合病院を訪問したのはそれから三日後だった。彼は高橋圭太と言って僕の数少ない友人の一人だ。待合室で待っていると白衣を着て聴診器を無造作に首にかけ背の高い高橋が片手を上げて近づいて来た。僕たちは握手をして再会を喜び病院の中の喫茶店に入った。店内は見舞客で少し混雑していたが少し世間話をしてからおもむろに話を切り出してみた。
「実は俺の知り合いが二年前から解離性健忘症の病気になったのだけどこれは治るのか?」
「その女性は一平の彼女なのか?」
「いや、彼女と言うほど付き合ってはいない。会ったのは二度だから」
そう言うと高橋は笑った。
「一平、お前二度しか会ってないというけど完璧に一目惚れじゃないのか?顔にそう書いているぞ」
高橋は豪快に笑った後、周りを見渡し急に小声で話した。
「悪いことは言わないからそう言う女性は辞めておいた方がいい。いずれ回復して記憶を取り戻すだろうが、現実に戻るのだから忘れている人間関係がまた違った形で絡んでくる。そして新しく難しい問題が連鎖的に発生する。記憶喪失の患者さんの多くはみんなそうなのだ。記憶がないのならばそのままの方が幸せな場合もあるがそうはいかない。しかし、事実を知ったらもっと悲しい真実に直面してしまう。その方が俺は怖い。一種の暴力みたいなものだ。多分に事故の衝撃度である程度は分かるのだが、カルテを見ればもっとよく理解ができるが何処の病院に通っているの?」
「知らないよ。そんなことまで聞くような仲ではないし・・・・・・」
高橋とは一時間ほど話をして病院を後にした。
帰り道確かに高橋の言う通りの気がした。記憶が戻ったとしたら彼女は過去のことを思い出し、両親のことや友人のことも思い出す。その時現実を過去のBOXに閉じ込めるのは無理だ。過去は動かしようのない事実だし、未来は彼女の場合事実の生活が創造された未来になる。過去は誰しも事実であるから曲げようはないが未来に於いて誰しも選択肢はある。それは過去の事実が選択肢の前提になっているからに違いない。未来を消すということはその前提さえも削除してしまう。だから過去を消すのなら未来の選択肢は残るが過去を知れば未来は上書きされてしまうと僕は帰り道市内の繁華街を通り抜けながら考えていた。明日は学園祭に行く日になっているが何故か気が重かった。
翌日は残暑が厳しく空が高く透き通って遠くまで見える。大学の坂を上るのは久し振りだが、青葉が少し色づき始めた初秋の並木道は当時とあまり変わっていないことに僕はほっとした。遊歩道が何か昔を思い出させてくれる。
凉子たちの美術部の展示会場は玄関ホールに入ってすぐに曲がったところにあった。花柄の黄色いワンピースを着た凉子は僕の顔を見つけると小走りに走ってきた。
「もう遅いのだから、とっても好評なのよ。早く来て・・・・・・」
そう言って僕の手を強引に曳いて会場まで案内した。会場は三十坪位の広さだった。入口に生け花が幾何学的な構成で大きな亀壺に活けられ軽音楽が流れている。そしてその会場を取り巻くように部員が自分の絵の前で説明をしている。壁には隙間なく絵画が掛けられ瞬間壁の花のような感じだった。僕は凉子に手を引っ張られ彼女の絵の前に立った。涼子は僕の側ではにかむ様に笑った。
彼女の絵は雨の日に見た薔薇の花だった。その薔薇の花は真っ赤な血の色のような気がした。当時とは細部にわたってかなり変わっていたが薔薇の赤も鮮明に見える。彼女の絵のタイトルが「雨の日の薔薇」油彩と書かれている。その絵の左の隅に赤でRとイニシャルが入っている。僕はその絵を見て自分が孤独の中で居場所を見つけ生きてきたことに後悔はないが、世の中に反抗し自分自身と戦ってきた中学時代を思い出した。薔薇の赤い色は何故か悪ガキに殴られた時に流れた血の色に見える。それは心の中にドロドロした無抵抗の旗を持った鮮血を思わせる。格差社会が一段と進み正規社員も難しく契約社員が増え自分でコントロールが出来る唯一の資格とか誰にも負けない技術を持つことは引きこもりの一人として身に着けることは当然の結果だった。中学時代社会を拒否し反抗をしたことがどれほど大変なことかその絵を見ていると憂鬱だった。ある作家の言葉に絶望が純粋なのはたった一つの場合だけである。それは死刑の判決を受けた時である、と僕は心の中で思った。その死刑はまさしく受け入れた薔薇の血であった。
彼女の油彩は粗末なテーブルに白いレースのクロスを広げた状態で、薔薇の花がキャンパス一杯に描かれている。薔薇は全て赤い花で無造作に五本花瓶に入れられていたが、その花瓶は血が染み込んだ色の様な備前焼の赤茶けた花瓶だった。花瓶から真っ赤な薔薇と多くの葉が画面からはみ出るように描かれている。その絵の前に立って記憶を失ったものが才能と言うものについては次元が全く違う形に変形するのだろうか。書けなくなる人もいれば逆にとても上手になってしまう人も見えるかもしれないと、感性や知性が変わるのだろうかと疑問を持った。
涼子は僕の側にじっと佇み一緒にその薔薇の絵を見つめた。彼女の香水の香りが胸の近くまである栗色に染めた長い髪から漂ってくる。凉子は両手で髪を掴み頭に持ち上げた。
「これを書くのに半年以上もかかったの。以前はもっと早かったのではないかと思うのだけど今になってはその辺のところは分からない」
「薔薇の花が五本なのだね。何か意味があるの?」
「何もないよ、ただ五本ぐらいが妥当かなって」
そう言って彼女は笑った。白いレースに真っ赤な薔薇。僕は凄く印象的だと彼女に言って、雨を象徴するように薔薇の花の背景は水色で塗り潰されている事実をあの日に重ねていた。素朴な中に新鮮なものを感じ、俗なものの中に淀みを見つけその中に真実を見つけることが出来る。薔薇の花や花瓶は血の香りがするようだったがそのことを涼子には話さなかった。
美術部のメンバーは彼女が記憶をなくしていることを知っているのだろうか。知っているなら今二人で話をしているのはどんな話をしているのだろう、或いは記憶のことは進んで喋ることでもないので知らないのかもしれない。
「最初『薔薇』というシンプルなタイトルだったけど『雨の日の薔薇』と変えたの」
そう言って笑った。僕は凉子の笑顔の中に将来どんな未来が待っているのだろうかと考えた。悪いことばかりでもなく過去を思い出すことで現実を取り戻すかもしれない。どちらにしてもあの衝撃の時点から彼女の時間は止まっていることに違いはない。その事実がこの薔薇の花に思いを込めた秘密があるのかもしれない。
「感想はどう?」
「そうだね、雨の日の薔薇って俺には分かるけど他の人には理解出来ないと思うけどいいの?でも水色のバックの色凄くインパクトあるね。その上薔薇って色んな花があるけど赤い花がとても印象的。涼子には薔薇の花が似合うよ。何か薔薇の香りまでしてくる」
「雨の理解などどうでもいいわ。私一平に分かって欲しかっただけなの。お茶でも飲みに行こう」
もう僕たちは互いの名前で呼び合っていた。
「会場を放っておいてもいいの?」
「大丈夫、一応先輩だから」と言って他の女性の部員に何か話し込んでいた。そして小走りに僕の方に走って来るとトートバックを肩に掛けて足早にホールを出た。
僕は彼女を車に乗せ大学の坂の下の国道を走った。長い時間は難しいということで大学から二十分位走ったところで少し小奇麗な隠れ家的な喫茶店に入った。建物は洋風造りで青い寄棟の屋根瓦に格子の窓が非常に感じよく、緑の蔦が建物に絡みちょっとした欧州風で古風な雰囲気を持った店舗だった。
「こんな場所におしゃれな綺麗な店があったのね」
凉子は感心したように呟くと駐車場に車を止めている間に一人で店の中に入っていった。僕が店に入ると手を振って手招きをした。
「この店よく来るの?綺麗ね」
「半年振りかな」
古典的なこの店は店主の好みなのか少々時代的だった。洋風の鎧を纏った騎士が剣を持って立っている。その傍らには中世の抽象的な絵画が飾られていた。
「大学この近くなの?まさかM大学?」
「そのまさかだよ。僕は文学部だった。部活は何もしなかったしアルバイトもしなかった。たまに先輩からレポートを頼まれたり調査や企業のモニターなどをしたりして食い繋いでいたのだよ」
「一平が同じ大学って初めて知った。ずるい先輩」
そう言って凉子は頬を膨らまして拗ねる格好をした。僕は時々八重歯を見せながら自然な彼女の甘えを含んだ人懐っこい仕草がとても気に入っていたが、このことは何時まで続くのだろう。コーヒーを飲みながら窓の外に目を移している凉子の横顔を見た。
「美術部の人は記憶喪失のこと知っているの?」
敢えて問題を大きくすることはないのでそのことは黙っていると彼女は言った。部活は暫く休部していたので左程問題にはならなかったけども最初仲間の名前が分からなかったと悲しそうな笑顔をした。
「私記憶をなくした車の衝突事件のこと言ったでしょ。あの時一緒に乗っていた男性とお付き合いしていたらしいの。そのことは母から聞いたのだけど彼は私の家に何度も来ていたみたい。でも私その実感はないし彼の部屋に行った時、求められたけど私は嫌だったので拒絶したの。彼は酷く落ち込んだみたいだけど彼との生活感を思い出せない。彼は一緒に写っている写真を見せてくれたりカラオケに行ったりした写真を見せてくれた。こんな風に付き合っていたのだということを私に教えたかったのだろうと思うけど、でも写真はいくら見てもわからないし思い出せない。カラオケに行ってこの曲よく歌っていたけど歌える?そんな話が多かった。でもどうしてもそう言った断片的なことは写真には写っているのだから事実なのだろうが分からない。当時はよかったけど空白部分の価値観が全く合わなくなっているのに気が付いたの。それは私が記憶を失ったからそうなったのか、それとも必然的に記憶を失うことで彼を見る視点が変わってしまったのかどうか分からない。でも流れから言えば事故を起こす前に見る目はすでに変わっていたのよ」
「凉子は何処の病院に通っているの?」
「病院は最初救急車で運ばれ個人病院に入院したけど記憶が飛んでいるということが分かったの。それで病院の先生は紹介状を書いてくれてその道の権威がいるというS総合病院に移転したのよ。だから今もS病院に通っている」
「S総合病院か・・・・・・」
高橋の病院だった。僕はそのことで高橋はきっとカルテを調べるだろう。そうするとある程度のことは分かる。真実を知ることは怖いが仕方がない、逃げるわけにもいかない。
僕たちは今度鵜飼見物にでも行こうかと話をして別れた。その足で高橋に電話を入れて話をしようとしたが彼は不在で留守電に要件を入れておいた。失われた真実と現実の接点はあるのだろうか、真実を求め知ることは怖いが知らなければもっと怖いことが起こりそうだ。
2018.01.22 曇り
俺たちは初めて夕方二人で会った。待ち合わせは神田町の交差点の本屋。今日は野球部の練習もなく彼女も時間的に余裕が合ったみたいだ。神田街は岐阜のサラリーマン街だ。ネオンが華々しく輝き冬の寒風を吹き飛ばすような感じだ。定刻を五分位過ぎて彼女は赤いコートを着てやってきた。長い髪が風に吹かれ香水の匂いが漂ってくる。俺は予約をしていた飛騨牛が堪能できる店に入って行った。彼女は肉が好きだと言っていたのでそう言う風に段取りした。
店は扉が木製で引き戸を開けるとカウンターと下足箱が目についた。俺たちは仲居に案内され個室に入った。料理はお任せでかなり学生にしては奮発をした。彼女は席に着くと赤いコートを脱ぐと黄色いセーターにグレーのミニスカートを穿いていた。あまりにもその色彩の変化が鮮やかなので一瞬眩暈がするようだった。
「こんな値段が高いところでなくてもよかったのに」
彼女は笑って言った。
「最初が肝心だからね。野球でも最初の一球が大事」
「見せ球でもね」
そう言ってケラケラと笑った。見せ球なんてよく知っているねと聞くと父親からよく話を聞かされていたからと言ってまた笑った。目の前に料理が並び彼女は手際よく網焼きに肉を乗せていった。その姿をじっと見つめていると彼女は恥ずかしそうにあまり見つめないでと言って俺の顔を見た。その顔は笑っていたが彼女の美しさに心が虜になっているのを知った。俺は今後良ければ付き合って欲しいことを伝えると、彼女は誰もいないから相手してあげると冗談めいて話を返してきた。
「理恵と呼んでいいよ」
「俺、健、健と呼んでください」
そう言うことで俺たちは交際が始まった。
パンドラの箱を開けてしまったのかもしれない。見てはいけない個人の日記をどうしても気になり読んでしまう。読めばまた新しい事実を知ることになり、怖さと知らない彼女の世界を知りたい気持ちが交差し僕はパンドラの箱を開けるしかなかった。しかし、よく考えてみれば東野と僕は同級生と言うことになる。東野健と言う名だから調べたら分るだろう。仮に日記を取り戻しに来たとしても中身を見ただろうと問い詰められたら見たというしかないのか、それとも知らないと言った方が無難なのか僕は迷ったが明日学生部に行って調べてみようと思った。
翌朝早く高橋から電話があった。明日は休みなので長良川畔の近くにいい店があるから予約しておいたと言ってきた。その店は創作料理で岐阜の有名な老舗であった。学生には行けるような店ではなかったが高橋は一応医学部だから経済的には恵まれている。彼は学生時代から先輩の医者から就活の誘いで御馳走をされたりしていたのでよく知っていたようだ。その上個人面談もかなりあるので個室の店をよく使用するのだと聞いた。
しかし、東野健は僕と同級生であるということは高橋とも同級だということになる。ひょっとしたら知っているかもしれない。ともあれ我々はM大学の仲間であることには違いなかったのだ。
翌日僕は学生部を訪ねた。受付の浅黒い健康的な顔をした女性は僕の顔を見つめて
「あなたはM大学の方ですか?」
「ええ、私は今年卒業したものですが友人の居場所が分からないものですので分かれば調べて欲しいのですが」
グリーンの制服を着た受付嬢は少し面倒な顔をしながら一応メモをして事務局に電話をしていた。
「学部分かりますか?同姓同名の方が二名いるらしいのですがどうしますか?」
「一人は法学部、もう一人は経済学部の方です。どちらにしますか?」
「二人共は無理ですか?」
「本当はあまり個人の情報は知らせることは出来ないので卒業名簿か何かで調べて欲しいのですが。これからは出来るだけそういう風にしてくださいね」
受付嬢は上から目線で僕を見つめて言った。
FAXが流れてきて手渡してくれた。僕は早々に礼を言って大学を出て車に乗った。二人の卒業生東野健は二名いたがすぐに分かった。それは住んでいる住所が僕の住所と同じになっていたからだ。経済学部の東野健ということが分かった。
もしも仮説を立てるとすれば涼子は過去と未来を共有しているわけでその未来を僕が占領し過去を抹殺した図式が出来る。涼子自身はどうか分からないが過去を全て葬りたいと思う人間は沢山いることは事実だ。いいことや悪いこと、いずれにしても都合の悪いことは全て取り除きたい。美味しいところだけ摘み食いしているようなもので人間誰しも同じだ。しかし、実際に苦労や楽しさの積み重ねが次の事実を作り上げていく。人の生き様などと言うものはそんな気がする。それが以前の彼も含めて消してしまいたいのかどうか僕には分からない。
2018.06.01 雨
俺たちは知り合ってあまり時間が経ってはいないが一緒に住むようになった。あまりにも二人の心が急接近した。俺は理恵と結婚を意識していた。理恵はその点に関してはかなり淡泊で一緒に住むことと結婚を一緒には考えたくはない、自分の道は少し曲がりくねっても自分の好きなようにしたいと言いながらも家庭的な料理や掃除洗濯はしてくれた。俺が野球から帰るとすぐにシャワーに入り浴室を出てから缶ビールを飲む、これが最高だった。理恵は酒を飲むのは苦手だと言っていたが俺のつまみには手を出して食べていた。甘ったるい二十代の新婚生活のような感じだったがもう一つ俺は彼女の心の中に入っていけないものを感じていたが、その違和感は何なのかよく分からなかった。
「そろそろ就活も決まりそうだけど商社に決まると嬉しいのだけどね」
「どこに決まりそうなの」
「今は内定を三社貰っている。その中でドイツに行ける会社を探している」
「ドイツに行きたいの?」
俺は小学生の頃ドイツに父親の関係で住んでいた。そういう意味でドイツは第二の故郷みたいだし幼馴染も何人かいる。今でもメールでやり取りしたりSNSで写真を交換したりして付き合っている。だからいつまでも友人を大事にしているのだと言った。
「私、ドイツには興味はないよ」
理恵はそう言って台所に行った。俺は理恵の後を追って一緒に行かないと別れてしまうようになるから一緒に行ってくれないかと頼んだが彼女は黙っていた。俺は流し台の前に立つ理恵を背後から抱きしめた。
2018.08.20 晴
俺たちは久しぶりに一緒に外食をしようと言って外に出た。理恵は岐阜城に登ってみたいと言ってロープウェイで頂上まで行った。彼女は高いところが駄目で本当は歩いて山登りする積りだったとスニーカーを履いて来ていた。高さ255.5メートル岐阜城までの所要時間三分だった。尻込みする理恵に俺がついているから大丈夫だと説得してロープウェイで登った。金華山は岐阜の名所と言うよりも市民のシンボルでもある。理恵はロープウェイの中でじっと俺の腕にしがみついていた。
天守閣から見える長良川はゆったりと街を横切り雄大な景観を見せる。信長は遠くまで見えるここで天下布武の御朱印を押したのかと思うと一瞬時代錯誤になってしまうような気がした。理恵は俺の腕にずっと摑まっている。
「ドイツに行きたくない気が分かるでしょ。まだ揺れている気がする」
そう言って笑ったが顔は硬かった。
天守閣から暫く経って俺たちは下に降りてきた。板垣退助の銅像を見て車に乗って駅前の玉宮町に行った。ここはもう昔と違って若者の街に変貌している。元々昼間はサラリーマンが多いところではあるが夜になると変貌する。以前は繊維の問屋街であったが今は飲食店が軒並み並んでいる。俺たちはその中の飛騨牛を食べさせてくれる創作料理の店に入った。かなりお値打ちな評判の店で理恵は久し振りだと言って喜んでいた。俺は理恵の喜ぶ顔を見ると何よりも嬉しいが、今日は理恵に話をしないといけないことがあった。料理が次々に運ばれテーブルが料理で飾られた。
「就職がK商社に決まったよ。取りあえず東証一部上場の会社だから将来は大丈夫だよ」
「おめでとう、でもそれって結婚のプロポーズなの?」
理恵はそう言って笑った。
「理恵、一緒にドイツに行ってくれないか」
「厭よ、私は日本から出たくはない。先ほども岐阜城でも言ったじゃない。私はあなたの未来に対して意見を言う立場ではないけど自分の将来は自分で決めればいいと思う。だから私のことは私が考えるから自分を優先してくれればいいの。結婚と恋愛は違う、結婚にはリスクがあるけど恋愛には全くとは言わないがリスクはないのよ」
「では俺がドイツに行くことを取りやめれば結婚してくれるのか?」
「こんな高い料理を前にして言うのも悪いけど私健とは一緒にならない。何か最近一緒に住んでみて価値観が違ってきているのがよく分る。私は平凡な普通の人生を求めているの。言い換えれば欲のないいい加減な女かも知れない。でも自分が選択することは自分しか出来ないのだから人それぞれの考えがあってもいいと思うの。健は小さい頃からドイツで育ち帰国子女で日本に帰って来たのだからドイツに行くのは抵抗ないだろうけど、私は日本でのんびり絵でも描いて過ごしたいと考えている。健は多分商社マンになってもやっていけると思うし、ある程度出世もすると思う。そういう積極的な、野心家のような気がする。物事の決め方考え方が随分一緒に住んでみて見えてきたの。ごめんなさい、少し言い過ぎたね」
俺はみるみる自分の顔が引きつっていくのが分かった。体が震えもう抑えが利かなくなってくるようだった。握る両手の拳に汗ばみを感じた。
「理恵は俺と別れるということなの?」
「そう解釈してくれてもいい・・・・・・」
俺たちは黙って食事をして終えた。俺はビールを頼んだ。
僕はいけないと思いながらも再び日記を読んだ。東野の苦悩が満ち溢れているのがよく分かった。この日記を読む限り東野は悪い人間ではないような気がした。パラパラと日記を捲っていると最後のページに朝顔の押し花があった。それは東野と彼女が花を摘み押し花にした朝顔だった。どんな気持ちで残したのかは分からないがこの時点では彼と彼女は少なくともうまくいっていたのだ。僕は東野も彼女も知っているわけではないが自分にも凉子という彼女がいる。東野と彼女の幸福な私生活を覗き見していると尚更凉子とのことが理恵に重なって来る。今なら涼子と別れることは出来るしその方が将来的にもいいのではないか、涼子にすれば僕は未来の男で以前の彼は過去の男となる。記憶が解けた時点で現実に戻れば彼のことは現実的で僕は一時の仮想の世界の男に過ぎない。その過去と言う状況の中で、僕が涼子を封印することは滑稽なことだ。その時僕は何もない愛と憎悪と嫉妬を知ることになり、時間の感覚が無くなって将に愛には窮屈なリスクが伴う喜劇を知るだけだ。
高橋と約束の日僕は時間があったので早めに現地に行った。岐阜金華山の麓にあって岐阜市最古の料亭で、藁葺の門構えの古風な数寄屋造りの建物は皇室の方たちがお泊りになったというほどの格式の高い料亭だった。長良川、金華山、隣に岐阜公園が隣接し自然に囲まれた三千坪の庭園は周りの緑と調和をしていた。門を潜ると番頭が出てきたが少し散歩させてくださいと言って庭園を見ながら高橋を待った。夕闇の岐阜公園はもう昼間の観光客の騒めきはなく岐阜城からロープウェイで降りて来る客もなく暗闇の中を料亭のサーチライトだけが青白く怪しく光を放っていた。
僕は高橋の後ろについて、廊下から手入れをされた樹木を見ながら部屋に入った。庭園はサーチライトのせいか神秘的な落ち着いた不思議な雰囲気を演出している。仲居が部屋に案内してくれると女将が現れ、挨拶をしながら料理は順に運んできますので堪能してくださいと頭を下げた。昼間ならリスが珠に見える時もあるのですよと言って小さく笑った。
僕たちは最初にビールを少し飲んでから日本酒にしようよということで結局日本酒が主体になった。そういえば高橋は学生時代から日本酒が好きだった。
「ところで彼女のこと何か分かった?」
「実はなあ、大西涼子という名のカルテはないのだよ。本当に俺の病院か?それこそ記憶違いじゃないのか?彼女自身のことについてはよくわからないが、病名を調べたから一般的なことや事故の状況からの話は出来る」
高橋はそう言って豪快に笑った。引きこもりの僕に何故こんな豪快な友人がいるのか自分自身でも不思議だった。意外と対極にいるので合うのかもしれないと不意にそう思った。
「ところで彼女は事故の前のことは部分的には理解しているのだろう?カルテはないからよくわからないけどこの解離性健忘症は少々性格が悪い。簡単に記憶が戻る人もいれば戻らない人もいる。周りが支えてやらないと無理だろう。彼女はまだ学生だし若いから早く記憶は戻ると思うがかなり大きな事故だったのだなあ」
「そうだといいなあ」
「一平、彼女のことが好きなのだろう?親身になって支えてやらないとまた再発するぞ。
彼女は現在多重人格の状況だ。兎に角この病気は自伝的記憶が失われる。自分は誰なのか、何処へ行ったのかとか、その時どんな感情があったのかなどが分からない。時間をかければ回復する人も見えるが回復しない人も見える。しかし、そうだとしても生活に支障はない。ただその部分だけがカットされ、それ以前はぼんやりと断片的に覚えている。だが少なくとも事故以後の現在のことは全て現実的に覚えているから安心しろよ。ただ忘れている以前の彼氏が現れると難しくなるなあ」
彼氏ということで僕は高橋に聞いてみた。
「同級生で東野健という人物を知っているか?確か経済学部と言っていたが」
「東野・・・・・・健?」
暫く高橋は酒を一口飲んで天井を見上げた。そして思い出したように言った。
「ああ、思い出したよ。余りにも身近にいたから分からなかった。野球部の選手じゃないか。俺の友人に野球部の仲間がいて彼の同僚だよ。そうだ、彼は英語やドイツ語が得意だったので商社に入社したのだ。確か音楽を聴いたり小説を書いていたりして少々変人とのことだったが、今ドイツに行っていないか?そんな話を部活の後輩連中から聞いたけどな。ともあれ彼は悪い奴ではない。ただ多少変わり者だったことは事実だ」
僕は東野について色々話を聞いた。しかし、知れば知るほど腹が立ち理恵と涼子を比較してしまうのだ。そう考えると酒を一気に飲んでしまった。それを見て高橋が言った。
「この解離性健忘症にもそれぞれ種類があるのだよ。俺はそういう患者はあまり知らないが事故以前全て忘れる人や特定のショックを受けた場面だけの場合やその他例えば家族や恋人などの様に特定化した選択、そういう場面ばかり忘れる人がいる。分類をすればそういうことだけど彼女の場合は過去を全て忘れているということではないわけだからその内治るさ。結局は極度のトラウマによるストレスだよ」
高橋はそう言って手酌で酒を注いで話を続けた。仲居を呼んで酒の追加を二本ほど頼んだ。僕は何とかこの状況を凉子と確認したかった。
「しかし一平、東野と彼女は何か繋がりがあるのか?」
「ないだろう、でも比較してしまうのが本音だよ」
高橋は豪快に笑った。
東野の彼女と涼子を比較したとき環境が余りにも違うことに気が付いた。だが二人の女性には接点はなく互いに存在がM大学という事だけだ。ただ僕は理恵という女性は知らないが凉子は知っているので、そういう意味では身びいきの点はあるかもしれない。反面凉子が東野の彼女であるとしたらどうかと考えたが意味のないことを考えても仕方がないと僕は空想の世界を泳いでいた。しかし、比較すること自体面倒だし、生きる上で時系列解析などは個々の問題で無意味に違いない。僕は東野に対してコンプレックスを感じそれを理恵と涼子に単にすり替えている卑怯者だと感じた。
部屋は完全に和室なのだが窓は庭の景色を見せるために障子を開けている。高橋の後ろの床には生け花が活けられ、そこには誰かの掛け軸が掛かっている。
僕は涼子と東野の彼女を比較することに抵抗があった。それは言い換えれば東野と僕との比較かも知れない。方や一流企業の商社マン、僕は安請負のフリーライター、そもそも比較する以前の問題だ。僕と東野の二人の男が一人の女性を奪い合うということならば、映画なら拳銃を持って決闘と言うことになるが今回の場合は立場の違う女性の比較論だ。東野は近いうちに日記を取りに来る。その時僕は彼と確実に会わなくてはいけないと思うと気が重かった。東野の住所が国内であれば送り届け会いたくはないのだが海外ともなるとそれも不可能だった。
十月の始め僕たちは以前から約束の鵜飼を見に行くことにした。まだ本格的に紅葉はしてはいないが時間が早かった所為もあるが岐阜城に登った。基本的に歴史は虐げられ屈辱に合いその中で生活の知恵をそれぞれが作り歴史を作ってきた。昔は井ノ口と言った地名を信長が岐阜と改め楽市楽座で天下布武を全国に発信した。天守閣からの展望は何とも言えない歴史を感じる。僕は涼子と天守閣の窓からゆったりと流れる長良川を眺めた。長良川の遠く川向うには伊吹山が見え、近くには大きなホテル街が並んでいた。その手前に順序良く並ぶ屋形船から右に移動すると斜張橋の鵜飼大橋がありその南側には井ノ口トンネルがある。左側に目を移すと長良橋があって車が忙しそうに流れ、その隣に昔の街並みを残す河原町が見えた。
「綺麗だけどちょっと怖い」
凉子はそう言って僕の腕をつかんで天守閣から屋根の甍を覗いた。天守閣には鵜飼が始まるまで時間があるので一つのコースになっている。ロープウェイで上がってもいいし山を登って来てもいい。登山コースも色々あって初夏の五月頃にはツブラジイが黄金のような色を付け輝くことから金華山と名付けたそうだ。標高三百二十九メートルの小高い山でその上に黄金の岐阜城がある。
凡そ信長は小牧城から墨俣城を秀吉が築城してこの難攻不落の斉藤龍興の稲葉城を攻め落とし岐阜と改名したのだ。町は楽市楽座で繁栄しもう少しの処で明智光秀に本能寺の変で不意を打たれ敗れたが、この信長について色々な説があるが僕は比較的秀吉、家康の三豪傑では信長が好きだった。引っ込み思案で外に出ることが嫌いな行動音痴の自分が行動派の信長が好みとは確かに不条理であるのだがそれは憧れかも知れない。涼子はそんな話に対して面白くもないのにケラケラと笑って見せた。今日の涼子は胸元にフレアが付いたピンクのワンピースだった。栗色に染めた髪が洋服にマッチしよく似合った。僕の好みは白とか黄、ピンクが好きだと言った時から何か意識していると勝手に思っていたがそれを涼子に確かめる勇気はなかった。
「何考えているの?遠くまでよく見えるね。揖斐や大垣の方まで見えている。あの山は伊吹山?冬になって雪が積もると綺麗だろうね」
「岐阜城は初めて?」
僕は何気なしに涼子に聞いてみた。彼女は昔来たことがあると思うと言った。他人事の様な返事だったが何処かで見たことは記憶にあるようだ。夕闇になったので僕たちは鵜飼を見るためにロープウェイでゆっくり下まで降りた。ロープウェイから岐阜の街を一望すると眼下に長良川が大きくうねり流れているのが分る。何か岐阜の市街を真横に断ち切っているようでゆっくりその世界を下っていった。もうすぐ紅葉の季節、きっと素晴らしいと思う。
「また秋に来たいね」
と涼子は言った。そして鵜飼の乗船の予約をしていたので早速船着場から船に乗った。乗船場は長良橋のたもとで湊町と言う昔の地名を残す街並みの一角だった。古い日本古来の家屋が並び昔は港町として栄えたらしい。今は鵜飼の乗船場として長良橋南手前から左に左折しては入った処にあって、岐阜の名所案内には必ず出てくるところだ。屋形船には船頭と調理人がそれぞれ乗り忙しく持ち場を点検している。鵜が捕まえた鮎を炭火で焼いてくれるのだが屋形船は僕たち以外に六人ほどの家族連れがいた。船はポンポンとモーター音を立てながら長良橋の下を潜り上流に登っていった。そして岸辺に船を寄せて総がらみまで酒を飲みながら食事を楽しむのだった。その間を繋ぐように一隻の屋形船に四角い桟敷席を作り三人の踊り子が演歌に合わせ舞っている。
凉子は夕闇に染まった長良川畔の景色にぼんやりと見とれていた。
「今まで何度もこの景色は見ているのだけど地上から見るのと船から見るのでは目の視点が違うから随分感じが違うのね。岐阜に住んでいてもそれ程鵜飼見物をすることはないし、どちらかというと花火大会の方が市民には人気があるかな。かなり遠くから見に来る方も見えるしね。観光客は鵜飼だろうなあ」
岐阜鵜飼は千三百年の歴史があるが、この漁法は中国から伝わったようで伝統装束に身を包んだ鵜匠がホウ、ホウと掛け声を出して鵜を手綱で操っていく。幽玄の世界というのか、或いは幻想的な世界というのか篝火を焚いて最後には六隻の船が一列に並んで鵜を追いつめ漁をする。川面に光る篝火は反射し屋形船の客の顔を赤く照らす。鵜は潜っては鮎を飲み込み鵜匠に引き上げられ再度川に戻され、最後のクライマックスが見せ場の総がらみとなるのだがそれにはまだ時間があった。僕たちは食事をした後岸に上がってみた。凉子はすぐに肩を寄せて腕を組んできた。彼女はすこぶる機嫌がいい。
その時少し前を歩いていた少女がこちらに振り返って走ってくる。少女はエンブレムを付けた紺色のブレザーに鼠色のスカートを穿いていた。
「先生、理恵先生。村中安奈、忘れた?」
そう言うと母親がやってきて
「先生事故でお体をお怪我なされて大変だったのですね。あの時はお世話になりました。十分なお礼もできずお陰様で私立中学に合格出来ました。ありがとうございました」
そう言って母親は涼子にお礼を言って僕の方を見つめた。凉子は突然子供に先生と言われたので一瞬発作が発生したのか固まってしまったがそれでも力を振絞って返事を返した。
「ごめんね、あれから学校も一年休学してみんなに迷惑かけてしまって。よく頑張ったのね。おめでとう」
「理恵先生もお体に気を付けてまた暇なとき遊びに来てください」
母親と子供はそう言って自分たちの屋形船に帰っていった。安奈という少女は振り返り手を大きく振って闇の中に姿を消した。涼子も笑顔で手を軽く振っている。僕たちも総がらみを見るため船に戻ることにしたがあれほど上機嫌だった凉子は急に塞ぎ込んでしまった。学生時代家庭教師をしていた事実が分かったのだが涼子自身は余りその自覚があるような感じには見えない。だが何よりも問題は凉子でなく理恵と呼ばれたことだ。凉子は最初無表情だったが無理矢理話を合わそうとしていたのがよく分かった。それは自分を過去のレール上に強引に乗せて走らそうとしている風に僕には見えた。その時僕は東野の日記の彼女が理恵と言う名であったことに気付いた。屋形船に乗るまで僕たちは少し気まずい雰囲気だったがそれでも他の乗客の笑い声に救われた。
涼子と理恵は同一人物かもしれない。涼子は東野の彼女だったのだとすれば僕は今まで彼女に騙されていたのか、それでは酷い話ではないか。もう涼子が理恵であって彼が東野健であったという事実は紛れもない事実だ。あの日記の中に出てくる理恵の行動は全てが涼子の計算的行動だったのか。楽しく会話し、酒を飲み、SEXの快楽に身を置いた理恵は涼子だった。涼子の記憶は元に戻っているとしたらこれは僕に対して暴力以外の何物でもない。このことに気を付けろと高橋は言っていたのだ。僕は今まさにその涼子と理恵の二人の女性に翻弄された惨めな男になっていることに気付いた。
「理恵先生って先ほどのお母さん呼んでいたけど」
「私よく理恵って呼ばれるの。家でもママに理恵って呼ばれるのだけど私はその名前はピンと来ないのよ、だけど凉子って名前は憶えていたの、だから凉子でいいよ。写真やその他持ち物などもみんな理恵になっている。だから本当は西田理恵らしいけどまだそこまで記憶が追い付いていないの。黙っていてごめんなさい。いつか話をする積りだったけど順序立てて話をしたかったの、もう少しだから待って」
「無理しなくていいよ。凉子でいいじゃない」
僕は少し投げ槍的に言った
「ありがとう、そう言ってくれると本当に肩の荷が下りた気がする。今までいつか話さなければと思っていたのだけど言い出せなくて・・・・・・。一平にそう言ってもらえるとすごく気持ちが楽になる」
長良川のせせらぎが心地よく聞こえ、川風が優しく頬を撫でる。その度に涼子の香水の香りが漂って来る。凉子は船から手を差し出して水に手をつけた。
「冷たい」
先程の落ち込んだ顔はもう忘れたように素っ頓狂な声を出した。長良川はホテルの部屋の明かりが見える位でもう佳境に達していた。そうすると上流から鵜匠のホウ、ホウという声とともに篝火を燃やしながら一斉に川を下ってきた。船は六隻で光と影を演出し、山上にはライトに照らされた岐阜城が背後に浮き上がって見える。
「何か繋がりそう」
「えっ?」
「繋がる、きっと繋がるわ・・・・・・」
僕は涼子が独り言のように呟いた繋がる意味は理解できなかった。過去と現実、未来が今まで断片的であったのが何かそこに一本の糸に繋がりそうな接点になるヒントが見えた。
「今」という鵜飼の篝火の存在が時系列となって過去と未来の接着剤になった。それは果たして何なのかは理解できなかったが、その時高橋が忘れたものはそのうち戻って来るという言葉が頭を掠めた。乗客たちは立ち上がり一斉に写真を撮ったり歓声を上げたり総がらみは最高潮の盛り上がりを見せた。
凉子は理恵というのが本当の名前であった。過去を簡単に事実として理恵に切り替えるのはかなり難しく、仮にそうだとしても相当な違和感があることには違いない。僕は家庭教師をしている凉子の姿を想像してみた。するとその隣に東野の影を何故か見るのだ。涼子と理恵が同一人物だということは記憶が戻らない方が好都合だ。過去を現実のものに引き戻した時東野との愛情も復活して来ることは自然だ。東野にしても彼女の意識が戻ることを待っているわけだから嬉しいに違いないしひょっとしたら一緒にドイツまで連れていくかもしれない。そんな空想的なことを考えると現実を過去の世界に戻すのは無理なことだ。だが無駄を省きシンプルに考えれば過去の世界の箱に納まるかもしれない。僕は自分の都合のいいように考えその空想に怯えていた。涼子は記憶が蘇ったのか頭が痛いと言ったので早々に引き返すことにした。
その夜鵜飼見物を終えて僕たちは車で繁華街を走らしていた。凉子は外をずっと見続けていたが繁華街のネオンはキラキラとして何か華やかな気持ちになっているのか気持ちのテンションが高かった。今までの記憶が失われていることも忘れ憂鬱な気持ちがないように見えた。今日は涼子の二十二歳の誕生日だった。帰り道岐阜の有名店で予約をしていたケーキを買ってマンションに戻った。
誕生日は涼子が今日だと言っていたのでお互いに二人でお祝いをすることにしていた。今まで誕生日の祝いを何度かしたはずなのだがどうしても記憶を呼び起こすことはできないと言って部屋に着いてから凉子はケーキやコーヒーの用意をした。その時インターフォンの音が聞こえた。僕が出ると「お花が届いています」と言って配達人が見えた。
「凉子宅急便が来ているようだから受け取ってくれる」
「はーい、印鑑は何処?」
「サインでいいと思うからいらないよ」
凉子がドアを開けると一瞬真っ赤な薔薇の花がドア一杯に広がり配達人の顔も見えないぐらいの大きさで薔薇の香りが一気に部屋中に充満した。
「お誕生日おめでとうございます。薔薇の花をお届けに来ました」
玄関の入口一杯に広がった甘い香りの薔薇の花は涼子の顔をも隠すほど大きかった。両手で薔薇の花を抱えた凉子は一平に尋ねた。
「薔薇の花を頼んだの?」
「ああ、凉子は薔薇の花がよく似合うから」
そう言って僕は照れた笑顔を誤魔化した。
「そろそろ始めようか。テイクアウトで買ってきた寿司をテーブルに並べてくれる」
「一平ありがとう」
僕はクララ・シューマン作曲「ローベルト・シューマンの主題による変奏曲」を静かに流した。音楽は小さな部屋を大きく見せるように隅々に小気味よく伝わる。その曲に合わせ大きめのローソクを二本と小さめの二本をケーキにゆっくり突き刺し火を付けた。
「ライトを落とそうか。さあ、一気に消して。否、ちょっと待って写真を取ろうか」
「そうね、今まで写真は色々取ったけど一平とのツーショット写真一枚もないのよね。一緒に撮ろう」
凉子はそう言って僕に抱きつき自撮りが出来るようにカメラを二人に向けシャッターを切った。ローソクの灯は暗がりの中で怪しく輝き、彼女は僕の顔を見て笑顔を見せると一息でローソクの灯を消し、僕は先ほど届けられた薔薇の花を抱えて涼子に手渡した。
「おめでとう」
音楽は快く爽やかに高原の草群を撫でるように流れている。
「何本あるの?全部赤なのね。高かったでしょう。あっ、メッセージがついている。読んでいい?」
「ああ」
凉子は黙って読んで僕を見つめた。部屋はまだ薄暗くあまりメッセージもしっかりと読めないだろうと思ったが凉子は全てを読み顔が真っ赤に紅潮するのが分かった。
―――― お誕生日おめでとう。来年も居てくれることを祈って薔薇の花を二十三本用意しました。何時までも側にいてください―――――
一平
メッセージを読んだ凉子は急に僕の胸に飛び込み泣き出した。
「一平、私みたいな記憶をなくした女でもいいの?私これからが怖い」
「大丈夫だよ」
部屋の明かりをつけると涼子は涙を流しているのがよく分かった。彼女の肩を抱き寄せると彼女は少し甘えたように頭を僕の肩に預け手を握ってきた。
「そうだ今日のためにワインを買ってあったのを忘れていた。冷蔵庫で冷やしているのだ」
そう言ってワイングラスを二つ持ってきた。冷蔵庫にチーズがあったのでスライスにして用意した。凉子は手伝うと言って冷蔵庫からアスパラとベーコンを取り出し、それを巻いて簡単な料理を手際よく作った。料理とかそういうものの記憶は関係ないのだろうか。
「料理の作り方などは問題なかったの?」
「どういうものが好みだったとか苦手だったとかそういうことはあまり覚えていないけど、でも料理は基本的には煮たり焼いたりすればいいからあまり記憶とは関係ないの」
凉子はそう言って笑った。
流れるクラシックを背にテーブルにワインとスライスのチーズ、そして凉子が作ったベーコンのアスパラ巻きを並べ真ん中に寿司を並べた。さあ食べようか。まずワインを開けよう。ワインのラベルに1997年と大きく書かれたボルドーの赤ワインだった。
「二十二年前凉子が生まれた歳に収穫したワインだよ。ワインの専門店に頼んでおいたんだ」
「一平、すごいサプライズよ。私の生まれた年に収穫し今まで熟成されたワインなんて考えてもみなかった。大事に熟成されたのは何故か私とワインが重なる気がする」
凉子はそう言って感激をしてまた抱きつき甘えた。凉子の香水の香りが僕の心を占領し、僕は涼子の長い髪を優しく撫でてからワインの栓を抜いてグラスに入れた。
「さあ、乾杯しよう。おめでとう凉子」
「私は何も一平にあげるものはないのに・・・・・・」
僕はそんなものは何も期待はしていないと言った。今日の昼間は岐阜城に登って夕方から鵜飼を見物して食事をした。グラスを合わせて口にワインを含み互いに顔を見合わせ飲んだ。二人とも酒は強い方ではなかったが今夜のワインの味は特別だった。
その夜僕は初めて凉子を抱いた。
僕は高橋に涼子は大西凉子ではなく西田理恵というのが正式な名前であったと伝えた。多分にカルテは西田理恵で存在するはずだと話をすると、高橋は時間を少し呉れないかと言って電話を切った。
涼子と理恵が同一人物でありながらその理由を言い出せなかった彼女の背景は何だったのだろう、そこには何か僕には理解が出来ない真実が存在する。それにしても凉子という名は何処から来たのだ、何故そんな名前を使用したのか不思議だった。過去は断片的に繋がってくる。確かに凉子は「繋がったみたい」と呟いたが、繋がるたびに僕も凉子の過去が明確になり段々彼女が遠くなるような不安を覚える。過去の事実がカットされていたのが一枚一枚の場面が同じ接点の座標に繋がったということなのだろうか。もしも繋がったとしたら切片と傾きの問題だけだ
高橋から電話が掛かってきた。
「今夜そちらに行くけどいいか?病院では話せないから」
「ああいいよ。酒飲むなら買っておくけど」
「おおいいね。じゃあ俺は牛肉を買っていくよ。すき焼きをしようか。いい肉買っていくよ。お前野菜買っといてくれよ」
高橋は一方的に話して電話を切った。僕はすき焼きの鉄板を台所の天袋から取り出し冷蔵庫の中身を調べた。あるものは取り敢えず使用し不足しているものをスーパーに買い出しに行った。帰り涼子に電話をすると家で絵を描いているとのことだった。この前のお礼に明日でも時間があれば行きたいと言うからお礼などいらないと答えたのだが渡したいものがあるからと言って電話を切った。取り敢えず今夜高橋と話をして明日凉子と話そうと思った。
高橋は八時頃やってきた。最高級の飛騨牛を買ってきたぞと威張って見せた。僕たちは互いに顔を見合わせ笑った。そして鉄板が熱くなってきたので油で鉄板を拭いて牛肉を入れた。牛の独特の匂いが部屋中に充満してくる。割り下を入れて卵で丸みをつけて食べるともう何とも言えない感じで、普段あまり飲まないビールがよく冷えていたこともあったのか互いに顔を見合わせて笑った。
「旨い」
高橋はビールをググっと一気に飲んでそう言った。僕はまず野菜を入れ豆腐やその他の具を次々と入れビールを飲んだ。
「一平、大西涼子ではなかったが西田理恵ではあったよ。解離性健忘症と書いてあったが原因はタクシーに乗っていた時にたまたまスマホを弄っていたので下を向いていたそうだ。その時に対向車の飲酒運転の車と衝突し、シートベルトをしていない所為もあって後部座席からフロントガラスの方に体が飛び出し頭を強く打ったそうだ。その時の状況は一緒にいた男性が話をしたというからきっと東野だろう。だが不思議なことにその後色々な検査をしてももう健忘は治っているはずだと医者は言うのだよ」
「それでも凉子と名乗っているのだから断片的で完全に回復はしていないのだろう」
「いやもう完治している。どちらかというとそんな演技をしているのではないか」
高橋の話に僕は騙されたような気がした。今の涼子はそうすると全て演出をしているのだろうか。僕は彼女の生活、振る舞いが不自然であるとはどうしても思えなかった。明日彼女は来る、その時に問い詰めて聞こうと思った。
「完治と言ってもあまり時間が経過していないから再発の可能性もある。だから支えてやらないと駄目なのだ。こういう事実は何か原因があるはずだから根っこの部分を取り除いてやる必要があるのだよ」
高橋はそう言って美味そうにビールを飲んだ。そして帰る際に
「一平、悪いことは言わない。その女と別れろ。その女は相当のくわせ者だぞ」
僕はそうだなと相槌を打って苦笑いをした。高橋は僕の方を向き親指を立てて笑顔を見せながら帰った後、料理の片づけをしながら高橋の言葉を噛みしめていた。
高橋は担当医の話も交えてもう完全に記憶は戻っているという。そうだとするなら何故今でも偽名を使って嘘を演出する必要があるのだろうか。益々僕は分からなくなった。
2019.02.25 曇り
理恵と話をするために紺のスーツを着て彼女の実家に向かった。理恵の家は入母屋造りの田舎にしてはかなり豪華な建物だ。俺はリビングで理恵を待った。理恵が出て来るまで随分長く二十分位掛かったような気がした。もう帰ろうかと思ったその時理恵は母親に背中を押されリビングに入ってきた。最初から彼女は挑戦的だった。
「それで話って何よ。ドイツの件なら断ったでしょう」
理恵は思い切り俺の出鼻を挫けさせるような言葉を発した。まるで喧嘩の様相だ。俺は理恵と将来のことを話したいと答えた。交通事故を起こし記憶がなくなり俺自身のことも忘れるほどの重傷を負いそれがトラウマとなり二人の決定的なことになったような気がするが、その事実は健忘症と言う病名にかこつけているだけではないのか。俺は全てにおいて理恵を守ってやれなかった責任がある。理恵は何も俺のことに関しては心配していない素振りだった。
あの事故の前理恵は別れたいと言っていたことは事実だ。それは互いの価値観が違うというのだ。最初は楽しかったがその内に互いの欠点も見え始め、益々別々に育った環境が価値観の違いを浮き彫りにしていったというのだ。
「俺はこれからドイツに行く。そして必ず将来成功して見せる。理恵が傍にいてくれれば俺は心が癒されるし何もかもうまくいくような気がする。確かに病気のこともあるだろうが出来たら俺と一緒にドイツに行ってくれ。もしもそれが出来ないというのならば俺と結婚の約束をしてくれ。此処に今お母さんが立ち合いをしてくれている。俺は通俗的なありふれた言葉で申し訳ないが結婚して欲しい。もう俺たちには決断を迷う時間が残されていないのだよ。ドイツでいい医者に見せて体を治して見せる」
「事故をする前までは一時的にしても一緒に住んでいたのだから結婚を意識したのは事実かもしれない。でも今ではあの時の様な恋愛感情はないのよ。健の顔を見ても何も感動はないの。だから結婚はこの前に私は断った積り。病気が治ればまた考えも変わるかもしれないけど多分そうはならないと思う」
「理恵、好きな人がいるの?」
「そんな人いるわけないよ」
「いやいる。その人物は誰だよ・・・・・・」
「勝手に想像しないでよ。誰ともお付き合いしていない」
理恵はそう言うと部屋に戻ろうとしたが俺はその男と話をしたいと背中越しに叫んだ。「彼と話をさせてもらえないか。もう四月には入社式があってその後配置転換でドイツに行くようになる。もう俺には時間は残されていない」
理恵は付き合っている人がいないのにそういう邪推は最も嫌らしいことだと言って部屋に籠ってしまった。俺たちはそう言う言葉のやり取りをして結局別れることになった。俺はドイツから帰るまで待ってくれと説得したが理恵は厭だと言った。それは多分に好きな人が出来たということだと確信した。厭と言う否定的な言葉は拒絶以外何物でもない。仮に好きな彼が出来たとしても彼女の過去を知らず一緒になることは難しい。俺たちはあの事件を境にすれば過去の同志であり彼は現在の見知らぬ彼であるということになる。過去のレールと未来のレールは失われた接点がなく交叉はしない。しかし、記憶が戻ってきたら失われた接点を見つけ交差するだろう。だが交わっても原点は同じでも傾きは異なり平行に進むことはない。俺は理恵とお母さんに挨拶を済ませ家を出た。外は木枯らしが吹きスーツの襟を立てて足早に車に乗った。
2019.02.26 晴
俺と理恵はあのマンドリンの発表会で出会ってから付き合い、何時しかこの部屋で生活をするようになった。俺たちはまるで新婚時代のようであった。それがあのタクシーの事件の前に気になることがあった。それはレストランでの話で結婚もしていないのにこういう生活をしてもいいのだろうか。私たちSEXだけの感じがする。私はそう言う関係は嫌いだしそもそもSEXは好きではない。健は体力的に野球で疲れてその癒しに毎日自分を求めて来るがそのことは果たしていつまで続くのだろうか。私はもっと自由に羽を伸ばして人生を楽しんでみたい。結婚なんてしたくはないし、子供だって欲しくはない。こんな索漠とした世の中に自分の子供は要らないと確かに理恵はそう言った。
あれは八月の暑い盛りの日だった。大学のリーグ戦に理恵と父親を招待したことがあった。風はなく陽射しがきつく温度計は三十七度を指していた。父親と理恵はスタンドで観戦していた。理恵は黄色のポロシャツにジーパンと言う軽装で野球帽を被っていた。俺はセンターを守っていたが理恵の父親はレフトと言うことで互いに外野手だと話が盛り上がっていたのを思い出す。
試合は三対三で緊迫した投手戦だった。状況は九回の裏二死ランナー一塁と言う場面でバッターは俺だ。ピッチャーは初球スライダーを外角低めに投げてきたが俺はストレートを待っていた。二球目そのストレートが内角に来た。俺はそれを強振するとセンターへの単純な凡フライになって延長と誰もが思った瞬間センターが球を見失い落球した。一塁ランナーは二死であったので一挙にホームに帰りサヨナラ勝ちを収めたのだった。俺はヒーローのように持ち上げられ、会心の当たりでは決してないのだけども兎に角相手のエラーで点が入ったと喜ばれた。落球したセンターの選手はグランドに両手をついて暫く項垂れていたのが印象的だった。
試合後俺たち三人は食事をした。その時父親は兎に角勝ってよかったと大きな声で笑ったが、反面理恵は終始不機嫌そうな顔をしていたのが俺は最初から気になっていた。
「私はあの落球した彼が可哀想。私は弱者の味方よ。彼の人生の中であの結末がどれほどの意味を持つかどうかわからないが、少なからず影響はある筈。私は勝利よりもそういう弱者に心が惹かれる」
「勝負事は勝たないと話にならんよ、人生も同じだ。勝負みたいなものだよ。俺も野球を高校、大学とやって来たが弱者に同情していたら勝つことの意義がなくなる。勝負事はどちらかが勝者でどちらかが敗者なのだ」
理恵の父親はそう言って美味しそうにビールのお代わりをしたが、俺は理恵が暗い顔をしているのが妙に気になって食事が進まず彼女の顔ばかり見ていた。
「野球はあまり知らないけど九人でするのでしょ。そういうチームワークを大事にするスポーツってあまり興味がないわ。どちらかと言うと孤独に絵なんか描く方が向いている方だから。でも勝者には勝者の意味があるのだろうけど敗者にもそれなりの意味があると思う。私は敗者に興味があるわ。如何なる理由であっても敗者は勝者より上には行けないが、敗者に感動を感じる者もいる、それは時には敗者が勝者より感動を与えることもあると思うからで結果と感動は違うわ」
理恵はそう言ってその場を立ち去った。父親が機嫌よく飲んでいるので俺は理恵を追うことが出来なかった。価値観が違うのだなと俺は正直その時確認した。
あの時確かに理恵はそう言った。勝ちと負けるでは将に逆のことで俺たちはお互い考えることはもうすでにあの時見えていたのだ。
僕は読んではいけない東野の日記を読み涼子への愛と嫉妬、そして東野への憎しみを思い嘔吐した。それでも終わりの方に朝顔の押し花を残して僕は何と答えたらいいのか迷った。そのことは少女趣味で将に滑稽な事実なのか。ただ高橋が言ったようにもう涼子の意識は元に戻っているはずだということだ。では東野との別れは意識が十分あってのことだ。僕が涼子を初めて抱いた時獣の様に求めてきた彼女の姿に気後れした。あれは過去を葬り去るため過去の自分との決別だったのかもしれない。しかし、それも演技だと言えばそう言うことかと割り切るしかない。僕は涼子の意識が完全に戻っているのかどうか明日聞いてみようと思った。
翌日僕は涼子が部屋に来るまでの間、最初の出会いをぼんやりと思い浮かべていた。
台風でびしょ濡れの彼女を部屋に入れてあげた。放っておいても構わない見知らない女性だったのにあまりにも風雨が強いために気の毒だと思い部屋に入れたのだが彼女はスケッチバックを抱え雨に叩かれる小鳥のように小さくなっていた。そして中に入って僕に背を向けバスタオルで髪や体を拭き、黙っていたので狭いが上がらないかと言って彼女を部屋に入れた。最初お互いに警戒して話すこともなくテレビの台風状況を聞いていたが本格的な台風の通過は今夜半と言うことで今はまだ暴風圏に入ったばかりだった。
「どうします?タクシー会社に電話してみましょうか」
「もしもタクシーが大丈夫でしたらお願いします」
涼子はそう言ったので僕はタクシー会社を片っ端にから電話をしたが迎えに来てくれるところは一軒もなかった。
「そう言うことです」
「そうなのですね。分かりました。申し訳ないけど何処か片隅で寝かせてください。自己紹介させてください。M大学三年二十一歳の大西涼子と言います。一年間休学していましたが現在美術部で住まいは岐阜市内です」
「僕は佐々木一平、フリーターで二十三歳、あまり儲けのない仕事をしています」
時間が経過するにつれ僕たちは話をして盛り上がってきたがその時彼女の服がまだ随分濡れているのに気が付いた。
「良かったら僕のジャージでも来ますか?風邪でもひいたら大変だからシャワーでも浴びて着替えた方がいいかと思うけど」
涼子は少し躊躇したが是非お願いしますと小鳥のように頭を下げた。先ほどから服が体に張り付いて気持ちが悪かったのですと言った。彼女はあまり警戒心がないのか、それとも余程気持ちが悪かったのか僕のジャージを抱えて浴室に入りシャワーを浴びた。
僕は彼女が浴室でシャワーを浴びることに少し抵抗があったが先ほどの話を聞いていると悪い女ではなさそうだということは分った。彼女は濡れた下着やジーパンをビニール袋に詰めてドライヤー貸してくださいといった。彼女のジャージの下は何もつけていない涼子の姿がある。髪を乾かしている音を聞きながら僕はそんなことを不意に思った。
「昔『雨の訪問者』って映画があったよね。チャールズ・ブロンソンの映画。あの逆バージョンみたい」
そう言って凉子は笑った。僕は彼女に言った。
「雨の訪問者か。面白いフランス映画だったね。逆バージョンなら僕が襲われるのか」
「そんな積りじゃ・・・・・・」
かなりコミュニケーションが取れて来た時、凉子の長い髪から香水の香りがした。僕たちはお互いにラインのQRコードでIDを交換したりして暫くは盛り上がって話をしたがもう夜中の二時頃になって風もかなりきつくなってきたので寝ようということになった。僕はベッドで寝るのでこちらの部屋を自由に使ってください、別の布団はないので毛布があるのでそれを掛けて寝てくださいと言った。まさか同じベッドにとは行き過ぎだし僕自身嫌だったのでそう言うことにしてもらった。
彼女は泊めて頂けるだけで有難いと言って毛布に包まれソファーで眠った。
翌朝六時頃彼女は礼を言ってスケッチバックを抱えジャージのまま足早に部屋を出た。
二度目の訪問の時「自分は解離性健忘症」の病気を持っていると悲しそうな顔をして言った。確かにあの時彼女は記憶がないと言ったが、現在のことも明日になれば忘れるのだろうかと僕は奇妙な気持ちになったことは事実だ。よく聞いてみると交通事故の衝撃が原因らしいが、過去は忘れているけど事故以降については何の支障もないと告白した。問題はその事故以前の過去のことがどの程度かと言うことだ。現在はお陰で断片的に分かるようになったが話が写真の一枚一枚の様にカットされ連写的に繋がらないのだと言った。
涼子がいつも通り大学の帰り部屋に来た。
クリーム色のブラウスに黒のスラックス姿で肩にキャンパスバックを掛けてやってきた。僕は手が離せないところだったので黙って仕事をしていたが凉子も何も話さなかった。
そして僕の仕事場の入り口のドアに力なく凭れ呟くように言った。
「出来たの・・・・・・」
「えっ?」
僕は驚いて振り返り凉子の顔を見た。彼女は泣いていた。子供が出来たことが理由に違いがなかったがその理由はよくわからない。ただ涙が頬を濡らしていたことだけは事実だ。
「私、子供産むわよ、いいでしょ。反対しても産むから。だけど子供を産むから結婚をしてくれとは言わない。結婚はお互い自由の意志だからそこまで一平に強要はしない。でも私の子供には違いないし産む選択、産まないという選択をするのは最終的には私自身の決断だから」
凉子は一気に喋りかなり興奮気味だった。
彼女は妊娠したことと結婚は別だという。そう言う選択もあるのかもしれないが僕が涼子を愛しているのならばそう言うことにはならない。愛情にはリスクが伴う。結婚と言う選択もそのリスクの一つかもしれないし、そのことを確認もせずに子供を産むという気持ちは女性の母性本能と言うことだけで解決していいのだろうか。どう考えてもそれは彼女の身勝手な利己主義のような気がする。たまたま結果的に子供が出来たということは意識していたわけではないが、出来た以上涼子と一緒になる決断は一つの選択肢には違いなかった。子供が出来ない場合結婚は希望しないのか。あの東野の日記にあったように結婚はしたくはないという言葉が僕の脳裡を掠めた。それをそう言う表現をされると少し意味合いが違ってくる。果たして僕と言う存在は果たして何だったのだろうか。子供が出来るということには相手がいるわけだがそれは誰でも結果的によかったのだろうか。例えばその父親が東野であったとしたらどうなのだろう、同じようなことに結果を導くのだろうか。単に反対しても産むということはそう言う事実から来ているのではないか。僕はその阻害している涼子の気持ちと僕の気持ちを阻害している気持ちが大きく互いに反射していることに気が付いた。
「何週間になるの?」
「五週目、生理が来ないので心配で妊娠検査薬で分かったの。明日病院に行ってくる」
「凉子結婚しよう。ご両親に挨拶に行くよ。そうしないと僕の立場がないから。挨拶もしないで子供を産むということは僕でもプライドが少しはあるから嫌だよ」
「本当に一平はそれでいいの?私は普通の健康な女と違うのよ」
「凉子のことは守ると言っただろ」
そう言うと涼子は僕に抱きつき体を震わせ「ありがとう」と言った。凉子を見ると睡眠不足なのか目が少し充血していた。
暫くの静寂の後涼子が言った。
「そうそうこれこの前私の誕生日のお祝いをしてくれたでしょう。こんなものしか一平にあげるものはないの」
それは文化祭に展示した「雨の日の薔薇」の絵だった。僕はこの絵のお陰で出会いそして誕生日を祝い今一緒になろうとしている。そんな状況の中で凉子の行動が嬉しかった。
「どこに掛けようか。といってもそんなに掛ける場所はないけど入り口で一番よく見える処にしようか」
凉子は少しはにかむ様な笑顔を見せた。
コーヒーを出して少し落ち着いたら話をしたいと思った。
「実は僕の友人でまだ学生だがS総合病院に勤めている医者がいる。それで凉子のことを相談したらもう治っているじゃないかというのだよ。その辺はどうなの?」
「どうなのって?どうにもこうにも一緒だよ。ただ前よりは完全によくなったことは実感出来ている。あの鵜飼を見た時過去と現実が繋がる気がした。私はあの時止まっていた時計があの夜空に輝く篝火のお陰で繋がったの。火花が夜空を焦がし川の水面が火の川となって今まで混乱した糸が全て焼き切られて繋がった。だからあの日のことはすごく感動的で嬉しかった。その上私が生まれた年のワインを用意してくれたりして本当に申し訳ないほど感謝したわ。今まで何度もお誕生日はしてもらったけどあんなに嬉しかったのは初めて。その辺から過去と現実が交差しレールの上を走ることが出来るようになって一つ一つが解決し読めるようになったの。その原点の交差から私自身の心の整理も順序立てて出来るようになった。あの日確実に記憶が戻った確信があったのよ」
僕はまだ理解できなかった。
「今でもそうだけどどうして理恵でなく凉子なの。理恵と呼んでくれと言わないの?」
「大西凉子は私のニックネームなの。だから愛着があったのね。その名前だけは何故か憶えていた。あの時、鵜飼で生徒の安奈ちゃんに会って理恵先生と言われ何かスイッチが入った。鵜飼の総がらみを見た時あの篝火や鵜が鮎を捕まえ鵜匠に操られ篝火が川面に反映して水面が真っ赤に揺れた。あの時に私は自分を取り戻しほとんど元に戻った。それにしてもまだ私には解決しなくてはいけないことがあった。それは以前の彼との清算をきちんと明確にする必要があったの。それを終えて初めて理恵に戻れるような気がしたの。彼は東野健と言って私より一歳年上だった。その時は一平の存在は知らなかったけど健とは別れることは必然的にそうなる流れだった。話は楽しいけど将来のことや色々な問題について意見の交換をしていると考え方が全く違っているのよ。結婚して別れるのなら最初から一緒にならない方がいい。価値観って言葉では簡単だけどリスクの多い言葉だね。だからと言うことではないけどあの事故の日私たちは別れ話をしての帰りだった。それが事故の為に一時中断され棚上げのようになったの。結論的に言えば周りや家族は賛成だったが私は一緒には過ごせないと感じていた。それは何にしても性格の不一致が邪魔をした。私はマイペースで自分の世界でのんびり構えたい。しかし、彼は我武者羅なタイプで強引だった。私はもうついていけないと結論を出したの。その直後の帰りに事故を起こしたのよ。このことは大事なことだからいずれきちんと話したいと思ったけど妊娠もしたしちょっと精神的にも疲れたので私自身見失っていた気もする。結果的に後出しになって一平には迷惑をかけてしまったけど本当にごめんなさい」
凉子は僕を見つめしっかりと答えて深々と頭を下げた。そんな凉子を意地らしい気がしたが、事実は事実で受け止めないといけないので取り敢えず凉子のご両親にご挨拶に行きたいと伝えた。
それから三日後僕は涼子の家に行くことになった。紺のスーツを着て洋菓子を手に持って初めて凉子の家に行った。彼女の家でどう呼ぼうかということになったが今まで通り凉子でいいというのでそういうことにした。
彼女の家は岐阜市内の北部にあった。今日行くということを事前に言っていたこともあってご両親に会えることになった。僕は形通りの挨拶をしてこの度は涼子さんと結婚をさせて欲しいと頭を下げた。両親には凉子はすでに話を通していたのかあっさりとご両親は許してくれた。父親は野球の選手だったということで体格がよく、逆に母親は少し細身の体系で涼子とは少し感じが違って見えた。
部屋に通されたリビングはかなり天井が高く、ゆったりと広い空間の部屋で僕は涼子と並んでソワーに座った。天井の小屋裏には天窓があって部屋の隅には犬の置物が無造作に置いてあった。カーテン越しに何処からか流れてくる風が緊張のせいか何とも言えないほど爽やかに感じた。レースのカーテンの隙間から晩秋の陽射しが射し込んで来ていることも妙に気持ちを落ち着かせてくれた。
「佐々木君、ご存知だと思うが理恵は解離性健忘症という病名で記憶を忘れているのだ。そういう状況だが構わないか?敢えて言うならばこちらこそ宜しくお願いしますということになるのだが」
母親は学校も事故に遭遇してから一年間休学したことや断片的に記憶が剥がれていること、いまだに自分の名前を理恵でなく凉子と呼ぶことなどを愚痴っぽく言った。
その時涼子は突然両親の話を断ち切るようにソファーから立ち上がり言った。それは空気を切り裂くような悲鳴にも似たような声で、僕は彼女のそのような姿は初めて見た。
「やめて!今から言うことを聞いて。初めていうけど私の記憶はもうとっくに戻っているのよ。厳密に言ったら事故を起こして一週間ほどで回復したわ。ただ病院にいると気持ちが落ち着き記憶は確実とはいかないまでもその時点でほとんど戻っていた。でも確かに断片的であったけど繋がった自信が出来たのはあの鵜飼見物で篝火を見てからだった。暗闇の中で篝火が輝き川面が一瞬のうちに火の川に変わった。一平には今まで凉子と呼んでもらったのは心苦しかったが健のことがあったからどうしても話が出来なかった。でも彼とも話がついたのだからもう凉子は捨てるわ。一平に健のことを全て話したし、もう何も過去のことで引っかかることはないの。お腹には一平の赤ちゃんもいるから大事に家庭を作っていきたい。健には悪かったけど事故を起こした日に別れる話をしていたしもう終わりの結論を二人で出していたのよ。だから荷物も全て引き上げた。それが事故の為に宙ぶらりんになり棚上げになった。昔の彼の話は一平には不愉快だろうけど何もかも吐き出してその上で一平と一緒になりたかった。パパ、ママ私の気持ちを理解して。もう赤ちゃんいるのよ」
父親は記憶が戻っているそんな大事なことを何故もっと早く言わなかったのだと怒った。仮に一週間で記憶が戻ったとしたら東野君だって対応は違った。理恵はその時別れ話があったからもう終わった話だというがその後何度も東野君は我が家を訪ねて来ている。勝手過ぎると父親は憤慨をし、記憶が戻っているのに戻ったことを知らせない理恵に父親は卑怯だと怒った。
「それは違うと思うわ。あの事故の日私たちはすでに別れの結論を出していた。荷物を片付けたこともあって健は事故を口実に寄りを戻そうと接近してきたのよ。よく家に来ていたことも私は知っていたから余計厭になった。それに事故の後一週間ほどで記憶がほぼ回復してきていることを健には話たし、そこに話をすり替える健こそ卑怯よ」
僕はその時東野の日記の一部が不意に頭を掠めた。
僕は傍らで二人のやり取りを聞いていた。彼女は全てが理解できないと次の段階に進めないし、結局病気を正当化することで自分を演出するしかなかったようだ。彼女はそれを責任転嫁して人の所為にしたくないし否定もしたくもなかったようだ。結局選択肢は彼女にある訳で現在僕の子供を宿しているということになれば問題は少し違ってくる。事実涼子は僕と結婚しなくとも構わない、子供は自己責任で産むという。だとすれば僕に対する愛情はないのか。愛情と子供とは別の問題だというのか。女性が子供を産むという結論はそんな単略的なことでいいのだろうか。
「フリーライターってよく知らないのですが、経済的には大丈夫なのですか?」
「当分は今の状況で行こうかと思っています。友人に医者がいるのですが事務員で来ないかと誘いを受けていますが今は迷っています。フリーライターだからと言っても一応はジャーナリストの端くれですので報道記者で進みたいのです」
僕はそう答えると両親も少し安心したようだった。
「理恵は佐々木君と結婚するにしても、仮に彼が結婚を申し出しないとしても子供は産むと言っていたがそれは男ならだれでもいいということにならないか?佐々木君に失礼だろ」
「確かに一平が反対しても子供は産むつもりだったわ。結婚と子供を出産すると言うことは別の生き方になると思う。子供が出来たから一緒にならないといけないという選択はもう今の時代には窮屈じゃないの」
涼子はそう父親に言った。
「いや、そう言うことを言っているのではない。理恵が子供を産むのは勝手だが佐々木君に対してお前の愛情はどうなのだ。父親が東野君でも同じようなことだったのか。そこが一番肝心なところだろう」
「私、一平のこと好きよ。何か健のようにがさついところもないしゆっくり自分のペースに合わしてくれる。波長というかリズムが出会った時から凄く合う。それに一平は常に私のことを立ててくれるし親身になってくれた。世の中にこんな人がいるのだと初めて思ったわ。仮に健の子供だとしたら私は確実に中絶しているし、結婚も子供も欲しくなかった。一平の子供だから産んで育てたいの。だから一平と二度目に会った時病気の話をしたのは私には自然の成り行きだったの。あの1997年のワイン一つ取って見ても一平の心が分るわ。だから愛情がなくても子供を産むということは今の時点では当てはまらない。私は一平に会ってから考え方が随分変わった。それに私がいつも絵を描いているけどイニシャルのRは理恵のRではなく凉子のRなの。私たちはあの嵐の夜偶然にも住んでいた部屋で出会った。それは惹きつけられるようにあの台風の中私はたどり着いた。どうして住んでいたあの部屋に行ったのか不思議だった。そこにはもう健はドイツに行っていないことは知っていたけど迎えてくれたのは一平だった。どこの誰かもわからない私を彼は黙って泊めてくれた。温かい人だとあの時思ったわ」
彼女は初めて両親の前で告白をした。
それにしても僕はその東野と会わなくてはいけない。東野はこの事実を知っているのだろうか。僕はマンションに帰って東野の日記を開けてみた。
2019.03.25 晴
理恵と別れることになった。互いの価値観が合わない。俺は青春の思い出として理恵と別れる。理恵は事故をする少し前から別れ話をしていた。別れることは理恵の心の中では想定内のことだった気がする。最初交際を求めた時相手がいないから付き合ってあげると言った。それは付き合う人が出来れば別れるということか。自分の求めることに対して相手が受け付けない、拒否をする場合それは俺自身が嫌いと言うことではなくそう言う考えもあってもいいが自分にはついていけない。まして将来を一緒に暮らすということになればもっと酷い時代を過ごすことになる。ならば早い今のうちに解消した方が理に叶っているのではないだろうか。ともあれ嫌いになれば何もかも嫌になって来る、そう言う風にはなりたくない。理恵と一緒に作った朝顔の押し花が寂寥を漂わせ日記に貼られている。俺はこれを思い出にドイツに行く。
理恵は別れる時、記憶について話をしてきた。自分の記憶はもうすでに戻っている。解離性健忘症は一週間ほどで回復したが、その後確かに辻褄が合わないところはあった。色々な写真や音楽、自分で書いている絵画などじっくり見つめていると自然に繋がって来たと言う。そのことについての優しさや努力は感謝をしているが、記憶がないから自分が面倒を見るために連れていくということは理由にはならない。そうだとしても行く勇気はないし病気が治れば尚更性格が不一致だと先は見えていると理恵は明確に言った。
理恵、楽しい青春をありがとう、そしてさようなら。
東野の日記の最後に朝顔の押し花があった。2018.07.25と書いてある。二人でどんな話をしていたのだろうか。紫色のその朝顔の花は変色もせず今も鮮やかに残っている。まるで二人の愛情がいつまでもと言う感じだった。あるいは思い出は永遠にと言う感じだろうか。ともあれ押し花は二人の歴史と愛情の化石を感じさせた。
僕は日記帳を元の押し入れに仕舞う。いずれ電話がかかってくることだろう。確かあの時十一月の末には帰ると言っていたのでもうそろそろ電話があってもいいはずだった。その時僕は妙なことに気が付いた。それは涼子の記憶が戻っていたのならば台風の時にこの部屋を訪れたのは意識的だったという事にならないか。だから部屋に彼女を入れた時部屋の間取りや勝手は全て知っていた。それはここで東野と一緒に暮らしていたのだから当然のことだ。そういう意味でこの部屋は見たことがあると言ったのだ。それは記憶の断面でなく生活の意識の断面だったのではないか。単にクロスを張り替えただけのことで調度品や色彩は勿論違うが間取りは一緒だ。だから学校の帰りに雨宿りが元住んでいた部屋になるということは自然なことだったに違いない。そしてこの部屋に入ることも想定していたのかもしれない。僕はそんなことを考えた。知らないところよりも知っている方が安心なのは人間として当たり前だ。今まで事実を隠していたのは東野の件が明確になるまで理恵と言う女は涼子と言う名で演出していたのだ。結局騙されていたのは僕の方ではないのか。
数日後東野から電話があった。
「佐々木さんでしょうか、突然のお電話で申し訳ありません。以前忘れ物で電話をさせて頂いた東野です。誠に勝手でありますが佐々木さんのご都合がよければ明後日の三時頃お伺いしたいのですが如何でしょうか」
「明後日の三時ですね。分かりました。お渡しできるようにご用意しておきます」
僕は日記の話は涼子にはしていなかった。全く理恵という女性の存在が凉子と同一人物だとは思わなかったからだが、このことは涼子に言わない理由にはいかなかった。高橋に相談すると体に悪いから会わさない方が無難じゃないかと言った。確かに会わさない方が無難かもしれないが後で後悔したくはないので話だけはしておこうと思った。
涼子に東野の日記の話を初めてした。涼子は最初驚いた表情をしたが事実を隠す必要もないのでその通りですと認めた。僕は涼子が日記の存在を認める前に二人の関係を覗き見したことを怒って欲しかったが意外とすんなり認めた。事実が書かれているのだから仕方がないが心の葛藤まで記載されていることで凉子の心を読み取ることに抵抗しないことに少し拍子抜けしたことは事実だった。涼子はそれだけ東野から心が離れているのだと僕に言った言葉を信じた。何もかも自分と言う人間を晒しその上で自分を守ってくれるのなら一平についていきたい、だから日記を読む気もしないし関心もない。それこそ記憶が無くなればいいと笑った。
東野が日記を取りに来ることで、凉子は会わないけど部屋に上がることはないから奥で話は聞きたいと笑った。話の状況で出てくるという判断かもしれないが、彼女にすればもう過去の人物でドイツから何か社用で帰ってきたのだろう。その時に忘れたものに青春時代の日記帳、理恵との思い出の日記を自分の宝物のようにしていたからそれを取りに来るのだろうと思った。その日凉子は青いブラウスにチェックの柄が入ったグレーのタイトスカートの服装をしていた。相変わらず髪は長く胸の辺まで伸びている。右手で髪を掻き上げながらもうそろそろ切らないとお産の時にきついから美容院に行くねと言っていた。
その日はやって来た。
東野という男はビジネス用のショルダーバックを肩に掛けてインターフォンを押した姿が見える。その音を聞いて凉子はインターフォンを覗いてから奥の部屋に籠った。僕はカメラ越しに話をした。
「佐々木ですが」
「東野と申します。この度はご迷惑をお掛けしました」
僕は東野の日記を紙袋に入れてドアを開けた。東野は背の高いがっしりした如何にも体育系という感じの男だった。
「この品物でしょうか。押し入れに残っていたのはこれだけですが」
「そうですこれです。本当にご迷惑かけました。すぐに来ればよかったのですが何分ドイツに希望転勤していましたので帰るに帰れなくて、この度会社に用事がありましたので帰って来ました。本当に助かりました、ありがとうございました」
東野はそう言って簡単な手土産を渡し元自分が住んでいた部屋を眺めていたが凉子の薔薇の絵に気が付いた。
「この薔薇の絵は佐々木さんが描かれたのですか?」
「いえ私ではないです。友達が描いたのですがプレゼントしてくれたのです。綺麗な薔薇の花です」
東野は足元を見ると、そこには凉子の赤い紐が付いたスニーカーが置いてあった。見るからに女性のものだという事はすぐに分かる。
「お客さんですか、つい余計な話をしまして失礼しました」
東野はそう言って帰ろうとドアを開けようとしたが振り返り様に言った。
「そう言えば私の付き合っていた女性も学園祭に出すのだと薔薇の絵を描いていましたよ。イニシャルはいつもRと入れていました。交通事故をきっかけに別れましたがいい女性でした。一緒にドイツにと勧めたのですが別れることになりました。あなたにプレゼントした薔薇の花の作者は多分いい方なのでしょう。大事にしてあげてください」
東野は僕と涼子のことをみんな知っていたのだ。東野よりも僕を選択したことも知ってその上でドイツからわざわざ帰って来たのだ。
凉子がドアの閉まる音を確認して奥から出てきた。僕の顔を見て暫く我慢をしていたが胸に飛び込んで堰を切ったように嗚咽を漏らした。震える体で痛いほど腕に力を入れて立っているのがやっとの感じだった。
「一平、自分では分かっている積りだったけど辛い。私を離さないようにしっかり支えていてね。これでみんな解決した。今まで凉子と言う名前で呼ばせてごめんなさい。これからはもう理恵と呼んで、お願い、本当にごめんなさい」
理恵と呼んで欲しいと涼子は泣きながら言った。過去と現実は違うのだから、その記憶を失くしたものは過去に被せ消すことは出来るが記憶があるものは延長線上でしかないのだ。しかし、もう今までの反抗的な大西凉子はいなくてここにいるのは西田理恵なのだ。あの解離性健忘症の涼子ではない。だが今まで凉子と言う名で来たが、この時を境に理恵と呼ぶにはかなり正直違和感があった。不意に彼女の香水の香りが変わっているのに気が付いた。一度ついた心象意識はそう簡単には変えることは出来ない。僕は自然に任せようと思い彼女のお腹をそっと撫でた。
「パパになるね」
「まだ動かないよ」
そう続けて言って笑った。
「香水の香り変えたのだね」
「うん、一平に気に入ってもらえるかどうかわからないけど過去を捨て去る一つとして今までつけていた香水は捨てたの」
理恵はそう言って八重歯を見せながら笑った。
理恵は東野のことに未練はないのだろうか。僕は朝顔のことを聞いてみた。
「一年ほど前、2018年の夏だけど東野と一緒に朝顔を摘んで押し花にした記憶はある?」
「うん覚えている。何時までも色褪せないようにと言って私の家に咲いていた朝顔を摘んで確か日記に挟んでいた。それがどうかしたの?」
朝顔は東野の日記に挟まれていた。そして悪いとは思ったが日記を断片的に読ませてもらった。勿論東野も僕が読んでいることは承知であろう。その日記の中で東野と理恵との話が出てきて東野の葛藤がよくわかった。彼はあの薔薇の花を見た時イニシャルのRを見て多分気が付いたのかもしれない。そしてスニーカーにも思い出があったかもしれない。
「じゃあ一平はあの時健と会うべきだったというの?もう終わったことなのよ。それに今は一平の子供を宿しているの。私そんなふしだらなことはしたくない」
理恵は急に不機嫌になったが東野に会わなかったことが僕に対する覚悟のような気がした。実はこの話は黙っていれば彼が今日来ることは分からないのだがそれでも理恵に教えたという事は後で悔いを残したくなかったし、後日理恵から責められるのも厭だったので話をして立ち会ってもらったのだと話した。
「そう言ってくれると嬉しい」
理恵は僕の膝を枕にして指で意味のない文字を膝に描いて甘えた。
「今度病院に行くとき一緒に行って、お願い」
「そうだね。時間の都合がつけば是非行きたいね。どちらにしても行かないといけないし一人で育児をすることは大変だから時間が取れる範囲で一緒に行くよ」
学校は暫く休むかもしれないけど卒業は必ずするからと言った。僕は理恵を車に乗せて家まで送っていった。
「家に寄る?」
「いや今日は帰るよ。この後高橋と会う約束をしているんだ」
「ああ、あのS病院のお医者さんね。じゃあ行ってらっしゃい」
駐車場に着くともう高橋は来ていた。僕たちは多分に岐阜市で一番であろうこの店の庭園にある水車を眺めた後に赤い暖簾を潜った。岐阜県は飛騨牛が有名だが何故かこの店は松阪牛だった。先代から肉は松阪牛を使っていると女将は言っていた。ある有名な県のお役人の方がお見えになったが飛騨牛でないので今後飛騨牛にしてくれないかと言われたけど女将は断ったそうだ。松阪牛で生きてきた人間が途中から変えるわけにはいかないと言ったらその身勝手な役人はそれ以後来なくなったと笑っていた。
窓からは旅館の手前に長良川が流れその向こう側にライトに輝く岐阜城が浮き上がって見える。僕は山頂で輝く岐阜城がこれから先の未来の光のような気がした。
「きれいだなあ。昼間ならもっと絶景だろうなあ」
「美味しいものを食べて旨いお酒を飲んで最高だよ。ところであの体格のいい東野は来たのか?」
「ああ、圧倒されそうだった。しかし、家に来た時東野はもう何もかも知っていたような
気がする。彼は彼なりに調べたのではないだろうか」
「彼女はどうしていたの?」
「うん、奥の部屋で聞いそう言って笑っている時に僕の携帯が鳴った。
「一平さん、理恵が大変です。部屋で躓いて大量に出血しお腹が痛いと言って泣いているのです。すぐ来てください。今救急車を呼んだところです」
理恵の母親が泣き叫ぶように言った。
高橋は僕の携帯取り上げた。
「一平の友人で高橋と言うS総合病院の医者です。今から病院にスタッフを手配しますので救急車にS総合病院に行くように伝えてください。私も今から一緒に行きます」
僕たちはタクシーに乗ってS総合病院に向かった。タクシーは長良橋を渡り繁華街に入った。僕は車の中で何故か理恵と最初に出会った「雨の日の薔薇」の絵を思い出しながらぼんやりと夜景を見つめていた。
了