Episode_2.0 『Wolves in the Cell』
「彼等を逃がしましょう」
ゲオルグが去りしばしの静寂が流れた部屋でミアは重い口を開いた。その瞳には緊張と、それを上回るほどの確固たる決意の色が見える。
( 随分大きくなったもんだな…)
場違いにもヴァイアットは幼い頃から見てきた彼女の成長に今更ながら胸に来る物を感じた。オリーブの木が生えた庭で棒切れを振り回していたあの幼子がここまで立派になるとは。
「こんなにも早く、しかも斬首刑で、それも教皇の勅令です。異様だとお思うのは私だけですか?」
「…いいや、これは確かに異常事態と言っていいだろう」
ヴァイアットが眉間に刻まれた深い皺を解すように指で揉みながら、ため息と共に返す。
数年前に教皇の座に着いて以降、中立と平和維持を掲げてきた以前とは打って変わり、聖堂騎士団をちらつかせた圧力的な外交を推し進めている現教皇マクシミリアン7世。知る者は少ないがその影には収賄や孤児院を利用した人身売買への関与など、後暗い噂が後を絶たない。
初めはそんな教皇に異を唱える者も少なくはなかったが、どのような手を使ったかそんな者は一人また一人と表舞台から姿を消していた。騎士団内部にも教皇にいいように使われてなるものかと息巻く反骨的な者が少なくなかったが、片端から総帥直々の再教育を受けここ二年ほどで姿を消すかすっかり大人しくなっていた。
そんな背景もありヴァイアットは懊悩する。反対意見を唱えるだけでも彼と、古くからの友に託されたこの歳若い女騎士のキャリアは閉ざされる事になるだろう。それが勅令で死刑を宣告された囚人の脱獄幇助ともなれば、命すら危険に晒すことになるのは火を見るより明らかだった。
「彼らは…客人様なのだろうか」
「絶対とは言いきれないかもしれません。けれど例え彼等がただの侵入者だったとしても少なくともこのような形で処刑されるべきではないはずです」
「俺もお前も、おそらく無事ではいられないぞ」
「私に聖堂騎士がどうあるべきか教えてくれたのは貴方ですよヴァイアット。善くあれ、正しくあれ、そうでなければ騎士に非ず。私がいたずらをする度に、口酸っぱくそう説いてくれたじゃないですか」
(よくそんな昔の事を…)
そう思いながらも、ヴァイアットは決断を下す。
「……ならば騎士として、正しいことをしよう」
そう言うと熟練の騎士は、年季の入ったしっかりとした作りの木製の机の引き出しを開け、鉄の輪に繋がれた鍵の束をミアに投げ渡した。
「押収した武装は地下牢の入口に置いてあるだろう。俺は見張りを引き付ける。五分ほどしたら向かえ。できるだけ目立たぬよう、自然にな」
「了解しました。ヴァイアット上級士長殿!」
「普段からそれぐらい上等な返事しろってんだ」
再び溜息をつきながらそう言うと、白髪が気になり始めてきた壮年の騎士は腰に剣を下げ、ミアを残して部屋を後にした。
ぽたんぽたんと、何処からか絶えず水音だけが響く地下牢。二人の男は数刻ほど前から言葉を交わすことすらなく、ジェイクは壁に背を預け座り込み、兼光は坐禅を組んだまま、ただ時間だけが過ぎていた。
「なぁお猿さん、お前は向こうに家族はいたのか?喚ばれたってことはお前もあっちじゃ死んじまったんだろ」
静寂に飽いたか、はたまた鳴り続ける水滴の音に嫌気がさしたのか、ジェイクが冷たい鉄格子の向こうの侍に話しかける。
「なんだ手前藪から棒に。世間話なんかするタマだったか?」
「クソッタレ。暇なんだよ。他に相手が居れば誰がお前なんかに話しかけるか」
心底不服そうな声音でそう吐き捨てるジェイク。一拍ほど待てども返事はない。
(まぁ、独り言でも暇は潰れるか。)
そう諦めて再び口を開く。
「俺の父親は飛んだクソ野郎でな。物心ついてから覚えてるのは、いつも夜中に酒浸りになって帰ってきて怒鳴り散らしながら母親に手をあげる姿だった」
聞くつもりがないわけではないのか、身動ぎの音に横目で見れば侍は閉じていた目を開き坐禅を解いて胡座をかいていた。
「当然俺も事ある毎に殴られたさ。やれ字が汚いだの口の利き方がなってないだの。それでも十二の頃には酒浸りの中年の拳なんか効かなくなってな、それからは革のベルトさ」
「ある日博打で相当スッたんだろう。夜更けにいつもよりへべれけに酔っ払って帰ってきた父親は、いつものように母親に怒鳴り散らしてた」
「毎日毎日そんなことが繰り返せば鬱憤も相当だ。母親もその日遂に別れを切り出してな。俺を連れて家を出てくと言ったんだ」
語るジェイクは懐かしむような目を何処へともなく宙へ漂わせる。
水音に紛れ、あの夜の暖炉の薪がパチリと弾ける音が遠くで聞こえたような気がした。
「それに父親は激昂してな、使ったこともないだろう銃を酒精で震える手で棚の引き出しから取り出して母親に向けたんだ」
「気付いたら体が動いてた。そしていつの間にか父親は床で血を流してて、俺の手にはあいつが取り出した銃が握られてた」
「そのまま家を飛び出してから十何年も経つが、未だにあの時の母親の顔が忘れられねぇんだ。あれから人を撃った日の夜にゃ、必ず寝ると夢に出やがる」
「だから俺は世帯を持たなかった。あの野郎の血は俺の代で止めねえとならねえ。そう思ってな」
焼きが回ったな、と独り言ちりながらふと横を見ると、侍はいつの間にか立ち上がり、その切れ長の双眸を此方に真っ直ぐに向けていた。
「下らんな。女救って後悔するたぁ随分肝の小せえ男だ」
「後悔なんかしちゃいねえ。西部の男は後悔なんかしねえ」
(何人か敵方の夷人を目にする機会はあった。終ぞ言葉を交わせた相手はいなかったが…肌の色は変われど、所詮は同じ人間か。)
そんな事を考えつつ、この湿りきった空気を変える丁度いい切欠が来た事に謝意を覚えながら兼光は言葉を返す。
「身の上話なんか柄じゃねえが、気が向いたらそのうち聞かせてやる」
「どうせ時間ならいくらでもあるんだ。次はお前の番だろう」
大袈裟な仕草で肩を窄めて見せるジェイクだが、兼光はそれに目を向けることも無く話を続ける。
「人が来る。一人だ。どうなるかは分からんが手前も動けるようにしておけ」
どんな耳してんだこの男は。そう思いながらも二人が連れられてきた階段に目をやると、足音と共に、松明に照らされた影が見えてくるのだった。