短編:秋穂が息をしていない
秋穂が息をしていない。
異形を仕留めたと思った瞬間、それは道連れとばかりに冬華へと狙いを定め。
いち早くそれに気づいた秋穂が、突き飛ばすような形で冬華と入れ替わり。
なんとか間に入れた俺が、異形の攻撃を受け止めたのはいいけれど。
文字通りの必死の一撃は、想定よりもはるかに重く。俺は後ろにかばっていた秋穂ごと、大きく吹き飛ばされてしまった。
地面へと叩きつけられる前に、秋穂の体を抱きとめられたのは幸いだったけど。
落とされたのは地面ではなく。
昨日の大雨で増水し、濁流と化していた川だった。
「秋穂! おい、秋穂!」
秋穂を抱きしめたまま、どれくらいの距離を流されたんだろうか。なんとか岸へとたどり着いたころ、彼女が意識を失っていることに気づいて。
「体もこんなに冷たい……くそ、冬華がいてくれたら……!」
ぴくりともしない秋穂の手を取り、祈るように握りこむ。体温はすっかり奪われていて、氷を触っているみたいだ。
「……そうじゃない。焦るな、落ち着け。ふたりを『護る』そのために、俺の異能はあるんだろうが……!」
俺の異能――『護り』は、単なる防御の能力じゃない。大切なふたりを護るために際限なく取り込んだ、異能と知識の集合体だ。
意識を研ぎ澄ます。俺の魂の奥の奥から、必要な情報を取り出していく。
「そうだ、難しいことじゃない。必要なのは心肺蘇生、人工呼吸とマッサージ……!」
天啓のようにひらめいたのは、基本の基本である知識。それすらも異能に頼らなければならないほど、俺は焦っていたんだろう。
「まずは胸元を、衣服をゆるめて……それから口元を……よし、待ってろよ……!」
知識と経験が降りてくる。過去の誰かの実体験が、異能を通じて俺へと流れる。それに従い手を伸ばし、秋穂の体に触れたところで――
「………………」
――気づいてしまった。
相変わらず、息はしていないみたいだけど。
頬はなんとなくゆるんでいるし、口元を明らかに尖らせているし。
「……その冗談はやっちゃいけないやつだろ」
「えへへー、バレちゃったねえ」
そう声をかけてしまえば、隠そうともしないらしい。ぱちっと目を開けた秋穂は、しっかりと目を合わせてきて、にっこり。
「もう、ろっくんが胸を触ったり、キスするって言ったりするからだよー? それさえなければ、もっと息を止めたままでいられそうだったのにー。あとちょっとで新記録だったんだよ?」
「どっちも言ってないし、物騒な新記録を狙うんじゃない」
「でもでも、気を失っちゃってたのはほんとうなんだよ? すぐに気がついたんだけど、必死でわたしを助けてくれてるろっくんがかっこよくてねえ。もうすこしこうしてたいなって、ついつい思っちゃったんだー」
「思うなよめちゃくちゃビビったわ。どこか痛いとか気分が悪いとか、そういうのはないんだな?」
「ぜんぜん平気です! ほんとうに、ごめんなさーい!」
「ならまあ、いいけどさ」
えへへとゆるーく笑ったまま、元気に起き上がる秋穂さん。しっかりとしたその様子、空元気ではなさそうだ。
そんな姿を見ていたら、どっと疲れが心と体に。ぐっしょり濡れた制服が、重たくのしかかってくるみたいだ。
「あらら、びしょびしょになっちゃったねえ」
「かなりの時間流されてたからなあ……というかここ、どこなんだろ」
「どこかの山奥、って感じかなー? クマさんとかイノシシさんとかが出そうだよ」
「端末……はふたりとも荷物の中か。学院からは俺たちの位置はわかるんだよな?」
「学生証を付けてる限りはねー。だから、すぐに助けが来るとは思うんだけど……っくち!」
ぶるる、と体を震わす秋穂の顔は血の気が引いたまま。そりゃそうだ、あの体の冷たさは、演技できるものなんかじゃない。
それを意識してしまったとたん、ぞくりと背中に嫌な感触。必死でわかっていなかったけど、俺の体も冷え切っているんだろう。
そんな俺と目を合わせた秋穂は、なぜか嬉しそうに、にっこり。真っ青だったほっぺたも、ほんのすこしだけ血色を取り戻している気がする。
「ほらほらろっくん、早く服を乾かさないと風邪引いちゃうよ? さあさあ脱いで脱いでなにも恥ずかしくなんてないからねこれは必要なことなんだから遠慮せずぐっとばっとずばっとね」
「それで元気を取り戻すの怖い。それを言うなら、濡れてるのは一緒だろ?」
「もー、ろっくんのえっちー。でも……ふゆちゃんに内緒にしてくれるなら……わたしは嫌じゃない……よ……?」
「もうちょっと真剣になれないものですかねえ……」
ニヤつく秋穂に背を向けながら、ついておいでと手振りで示す。風は冷たく、着替えもない。どこかで暖を取らないと、本当に冗談じゃなくなるからだ。
こんな時にも「誰かの知識」は役に立つ。
サバイバルどころかキャンプの経験すらない俺でも、落ち着いて休めそうな場所を見極めることができて。
薪になりそうな枝の判別も楽々。たまたま持ってたライターひとつで、立派なたき火を熾すことができた。
……できた、んだけど。
「ふうふう……あったまるねえ……さっとたき火ができるなんて、ろっくんはすごいねえ……」
よどんだ水をたっぷりと含んだ制服は、暖かな火に当たっていても、とても着ていられる状態じゃあなくて。
「すごいのは能力だっていつも言うけど、使いこなしてるのはろっくんの努力があってこそなんだよ? わたしたちはねえ、いつもそれに助けられててねえ」
どうしようもないからと、俺たちはその、濡れた制服を脱いで乾かすことにした。
「ふゆちゃんだって、言葉にしないだけで感謝してるんだよ? もうちょっと素直になったほうがいいって、お姉ちゃんいつもそう言ってるんだけどなー」
そう。
たき火を挟んで目の前には、俺たちふたりの制服があって。
「素直になったほうがいいのはろっくんもだけどねー? ラブラブだって油断してたら、誰かにふゆちゃんをさらわれちゃうかもしれないんだよー?」
制服どころか、旬のカボチャでも入れるのかと言うほどの、大きな大きなカップを誇る、イメージとはちょっと離れた大人っぽい黒のブラジャーが、ずっと視界のはしをチラチラと。
「……お話、聞いてくれてる? さっきからぜんぜんこっちを向いてくれないけど――」
「向けるか!!! いま素っ裸だろお前!!!」
そんな状況なのに、ぴっとりとくっつくみたいに隣を動かない秋穂。
ほんの少し視線をずらすだけで、まっしろな肩が、肉づきのいい太ももが。
そしてなにより、傷ひとつなくすべらかな、女の子を主張する胸元が、目に入ってしまいそうで。
「腕で隠してるから大丈夫だよー。ろっくんだってパンツいちまいなんだし、お互いさま?」
「そういう問題じゃないだろ……せめてもう少し離れるとかさ……」
「くっついてたほうがあったかいと思ったんだけど……いやだって言うのなら、わたし……」
「……そういうわけじゃ、ないけど」
長いつきあいだからわかってしまう、しょんぼり下がった秋穂の声色。どうにも俺はそれに弱くて、聞こえてしまうともう強くは出られない。
「わーい、ろっくんは優しいねえ!」
たとえそれが、計算されつくしたものだったとしても、だ。
「とはいえ、これは本当に寒いからで、それ以上の意味はないからね! ふゆちゃんじゃあないんだし、わたしの体なんて見てもつまらないだろうし……そうだよねえ……はあぁ……」
今度は演技を感じさせない、大きな大きな強いため息。がっくり肩を落としているのが、気配だけでもはっきりとわかる。
「おんなじ双子のはずなのに、どうしてこんなに違うんだろ。ふゆちゃんはすらっとかっこよくて、お腹や足も引き締まってて。わたしなんて、どこをとってもぷにぷにぷにのぽっちゃりさんだもんねえ」
「いやいや、お前のそれは、ぽっちゃりというか」
「……どころか? 太ってる? 川から抱き上げてくれたときも、重たすぎるって思ってた?」
「思ってない思ってない」
「それじゃあ、なにを言いかけたのー?」
「それは……ええと……」
「じぃー……」
あいまいに笑ってみるものの、ごまかされない秋穂さん。確かに冬華と比べれば、秋穂のほうが肉付きがいい。だけど、それはもちろん太っているなんて意味じゃあないし。
『双子なのにどうして……あの子はあんなに大きくて、色気だってすっごくて……いや……私もまだ……まだ成長期のはず……牛乳を……牛乳を信じるのよ……』
比較されてる冬華といえば、はっきりこんな認識である。あいつが夜中にブツブツ言ってた現場に遭遇しちゃったからわかる、アレは本当に怖かった……
「じゃないや、とにかく! 太ってるなんてそんなことはないし、冬華と比べなくてもいいだろ。いくら双子だって言っても、いいところまで一緒な必要なんてないんだし」
「……それじゃあ」
そこで言葉を切り、ゆっくりと腰を浮かせる秋穂。
なにをして、と。
口を開いた俺の言葉が、音として出るその前に。
「ふゆちゃんじゃなくても……だらしないわたしの体でも」
獲物をからめとってしまうような、しっかりとした力強さで。
「こんなふうにくっついたら、ろっくんはドキドキ、する?」
俺の首へと腕を回し、後ろから秋穂が抱きついてきた。
「………………」
冗談はよせとかやめろとか、喉まで言葉は出かかっている。
それでも黙ってしまったのは、圧倒されてしまったから。
冷たさなんてものともしない、女の子らしいやわらかさに。
お菓子や果実の匂いとはぜんぜん違う、本能を揺さぶる吐息の甘さに。
「わたしは……ドキドキ、してる、よ?」
触れた場所から伝わってくる、はっきりとした鼓動の強さに、だ。
「わたしを助けてくれたときから、本当はずっとドキドキしててね。たくましいなあ、かっこいいなあって、そうしたらもう止まらなくてね。一緒にいたいな、触れたいなって、そう思ったら、服なんてもう邪魔なだけでね」
ぎゅうっと腕に力がこもる。そのぎこちない強さが、余裕のない鼓動の速さが、演技じゃないことを物語っていて。
「いまはふたりだけなんだって、わたしがここにいるんだって、思ったらもうだめなんだ。触れてほしいし、見てほしい、だから……うん、こう言えばいいのかな」
心臓が痛いくらいに跳ねる。触れあった肌が燃えるみたいに熱い。
「どこを見られても触られてもいい、そうしてくれるとうれしい。わたしにとってろっくんは、そんな男の子なんだ、よ……?」
そんな言葉が最後の一押し。すぐに秋穂を抱きしめようと、俺は体をひねっていて――
「なーんて、ふゆちゃんならそう言うんだろうけど!」
「……へ?」
姿がない。背中側から声がする。
逆方向へと体をひねると、頭から毛布を被った秋穂。まるで雪ん子になったみたいに、顔以外はもうすっぽりだ。
「どうやって後ろに、じゃない、どこからそれ……でもない、秋穂?」
「えへへ、それはねえ……あ、ふゆちゃーん!」
「え?」
ぱあっと顔が明るくなる。そんな秋穂の視線の先には、必死で走る見慣れた顔が――
「――ああああああああああんで全裸なのよアンタはあああああああああああ!!!」
「おだあっ!!!!?」
アスリートみたいにきれいにジャンプ。キレのある姿勢変更を経て、教科書通りのドロップキックを俺の体へと突き刺していた。
「なにしてんのバカなのなにしようとしてたのバカなの!!!?」
「いってえなあ! 見りゃわかるだろ! 服がずぶ濡れで仕方なかったんだよ!」
「学生証の中に着替えも毛布も入ってるでしょうが! なんでわざわざ脱いでんのよ!」
「……は?」
秋穂を見る。するん、と毛布を脱ぎ捨てた彼女は、よく知っている制服姿。女子って見せないように着替えるのやたらと上手いよねなんなのあれ。
「知らなかったの? 秋穂も教えてあげなかったの?」
「だってだって、合法的にろっくんの体を眺めるチャンスだったんだよ!? ふゆちゃんでも教えないよね!? ギリギリまで黙ってたいって思うよね!?」
「ぜんぶわかったわ悟ったわ。でも常識で考えればわかるだろうし、有罪」
「指輪から服が出てくるの、どこの世界の常識だよ」
言われて意識を合わせてみれば、ずるりと出てくる毛布と制服。バカアホ死ねとののしられながら、ささっとそれを身につけて。
「ねえねえねえ、気づいてた? ろっくんが着替えてる間の、ふゆちゃんの視線!」
「ぜんぜん見てないから! なにを見せつけるんだって思ってたくらいだから!」
「お姉ちゃんにはわかりますー。ろっくんの股間をねえ、じぃーってねえ!」
「胸板!!! 見てたのは胸板だから……って違う! 違うんだから、ねえ!?」
こうして3人揃ってしまえば、あとはいつものこのノリだ。
きっと運がよかったんだろう。俺たちが流されたこの場所は、すこし歩けばすぐ道路で。
「ふたりとも元気みたいだし、さっさと帰るわよ。見たことのない異形だったし、課題のレポートをまとめなきゃ」
「おまかせしまーす! お姉ちゃん、ふゆちゃんだーいすき!」
「自分でやるのよ、自分で!」
道案内する冬華のそばを、子犬みたいに秋穂がじゃれつく。
「……からかわれてたんだよなあ、あれは」
そうして思い返してみれば、火が出そうなほど恥ずかしい。誘惑するような言葉、湿り気を帯びた吐息、背中に当てられた感触。それもみんな、まんまと引っかけられたイタズラで――
「六哉も! 車はすぐそこなんだから、さっさとこっちに来て!」
「そこに道路が見えてるよー! はやくー!」
雑念を振り払おうと、大股で先へ進んでいく。すぐにふたりに追いついて、秋穂のそばを通ったその時。
ほんの一瞬、袖を引っ張られた気がして。
立ち止まる。目が合った。
「わたしがさっき言ったこと、ぜんぶ本当だったら……どうする?」
上目遣いで、顔を真っ赤にして。
秋穂はちいさく笑ったあと、冬華に向かって駆け出していった。





