42:その名を――(2)
ドーム状だった天井は消えて、夕焼けのような空が広がっている。
目を落とせば、そこにあるのは深い谷。白い岩山の群れだけが、スケールの大きな峡谷を形作っていた。
足元だけは相変わらず、広く平らな土の床。よっぽどのことがない限り、落とされることはなさそうだ。
異界とは、主の魂から形作られたもの。雄大にすら思えるこの景色が、途切れることなく続く圧倒的な地形こそが、白槌の本質なのだとしたら。
「キッツいわ、ね……」
「これは……すごすぎる、ねえ……」
「……戦う前から負けちゃダメだ。むしろ、ここからだろ?」
この強大さに勝てるのかと、そんな考えがよぎる前に。地面を踏みしめ、嫌な思考を振り払う。
「そう、ここからだ。多少小突いて終わりなど、失望させてくれるなよ?」
そう答える白槌は、上半身の衣服を脱ぎ捨てている。想像通りの筋肉の塊には、大小たくさんの古傷と、ふたつの真新しい傷が刻まれていた。
「で、だ。これが俺の異界、千手千岩の効果なわけだが。単純に身体能力が上がるほかにな」
みちみちと膨れ上がった両腕の周りには、無数の砂や小石がまとわりつくように浮かんでいる。それは不規則に収束と拡散を繰り返し、まるで生物のようにうごめいていた。
「攻撃範囲の拡張、威力の増加だろ? わかりやすいパワーアップだよな」
「なんだ、そこまで割れていたか。小石や岩を纏うだけの、なんのことない大道芸よ」
「バカ言え、今でもギリギリなんだぞ。これ以上強くなるんじゃねえよ」
言いながら、ふたりに目線で合図を送る。白槌の異界が姿を変える――自身の強化に役割が振られる。この変化こそ、俺たちが狙う状況だからだ。
『いくら異形の王と言っても、使える力は無限じゃないからね。自身の強化にリソースを割けば、相対的に縛る効果は弱まるんだよ。白槌の異界に干渉するなら、このタイミングしかないんじゃないかな』
とはいえ、あとを引き継いでくれる先生はいない。やみくもに力を振り回したところで、すぐに押し切られてしまうだろう。
だったら、とれる手段はひとつだけ。
白槌に全力の技を出させて、俺の異能でそれを受けきる。そこに俺の奥の手――異界構築を押し当てる。
『できる』と感じたのはついさっき。どんな異界が創れるのかは、俺と冬華にもわからない。それでもそれは間違いなく、俺たちの助けになるはずだ。
『向こうも1ヶ月で異界構築を覚えてくるとは思ってないだろうしね。その油断に六哉の異界――激しい弱体化、あるいは強力な一撃をぶつける。その隙を突いて、弱点である角の1点狙いだね』
予定外をふたつ重ねる、綱渡りみたいな考え。ピンチはチャンスを地でいくような、無謀にも思える作戦だけど。
これが俺たちの本当の作戦。3人で考えた勝ち筋だ。
「――それに値する相手だと、そう判断したまでよ」
白槌の声に意識を戻す。ここからは、一瞬の気も抜いちゃいけない。
「では、行くぞ!」
地面を蹴る。爆音とともに巨体が動く。
「はああああっ!!!」
反応し、前に出たのは秋穂。薄紅色の光をまとわせたその体は、ぴったりのタイミングで白槌の頭へとハンマーを振り下ろす。
「オオオオオオッ!!!!!」
「……ッ!!!?」
けど、それは届かない。軽く振られた白槌の、石を纏ったその腕が、重い一撃をなぎ払う。
跳ね上げられるのはハンマーと、それを握った秋穂の両腕。がら空きになった胴体に、白槌の拳が狙いを定めて。
「まずはお前からか! 薄紅の娘ェ!」
「『解呪』ッ!『障壁』!」
がぎぃん! と重い衝突音。拳が秋穂に触れる直前、光の壁が攻撃を阻む。
でも、それも一瞬。細かいヒビが入ったあとに、それは粉々に砕けて消えて。
「危ないっ!」
ギリギリのところで秋穂に飛びつき、白槌から距離を取る。
「あ、ありがとう……! 異能、ちゃんと発動してたのに……!」
「いい! 早く立っ……っつぅ!」
立ち上がろうとしたところで、体にずきりと痛みが走る。痛みの元を探ってみれば、制服の脇のあたりがズタズタに千切れ飛んでいた。手を当てれば、ぬるりと嫌な感触さえする。
「かすってもなかっただろ……!? それでこれかよ……!」
「ふゆちゃん!!!!」
秋穂の声に顔を上げれば、白槌が冬華に腕を伸ばしているのが見えた。しまった、と考えたその瞬間には、その手は冬華の首元を――
「……おォ?」
――幻でもつかんだみたいに、するりと抜けて空を切った。
「すぐ治す! ぼーっとしないで!」
「え? あれ? 冬華?」
「『透過』の呪符を使ってたの! 1枚だけの切り札だったけど、無駄にしちゃってごめん! それで……秋穂!」
「わかってる! 手当ての時間、稼ぐから!」
言い終わるころには、秋穂は白槌と打ち合っていて。
俺の隣には、脇腹の傷を治療してくれている冬華の姿があった。
「……もう大丈夫。助かった」
「完全に治せなくてごめん。励起の呪符は温存しておきたいから」
「動くのには問題ないから。それより、秋穂を助けないと……ッ!!!?」
「秋穂!?」
ゴキリ、と嫌な音が鳴って、秋穂の体が飛んでくる。その体を受け止めた奥に見えるのは、拳を振り切った姿勢の白槌だ。
「秋穂ッ!」
「ご、ごめんなさい……武器、こわれちゃった……」
秋穂が手に持っているのは、半ばから折れてしまったハンマーの柄だった。それをからんと落とすと同時に、秋穂の体の光が消える。
「ちょっと、休んだら……動けるから……」
秋穂の制服はところどころが破れていて、顔や手にも細かい傷が入っている。大きな傷はなさそうだけど、すぐには動けそうにない。
「無理すんな。冬華、頼――」
「話してる暇があるのかィ? 舐められたものだなァ!」
白槌が吠え、向かってくる。避ける? 逸らす? 間に合わない!
「――『異能発現』!」
刀の刃を立てながら、白槌の体を受け止める。俺の異能の始まりは、小細工のない防御の力だ……!
衝突の瞬間、重心を変えて受け流す。ふたりとは逆方向に、少しでも場所を離せるように。
俺の体を通り過ぎた白槌が、踏みとどまって体をひねる。その勢いを活かしたまま、岩の拳が俺へと迫る。
さっきよりも速い。でも見えてるし聞こえてる。この攻撃なら避けられる。
全身の感覚を総動員、俺は体を沈み込ませて――
「2度は通じるかよォ!!!」
目の前には白槌の脚。蹴られた。避けられない。
「ぐっ……ああああっ!!!?」
ギリギリ。ギリギリ間に合った。刀でそれを受け止めて、直撃だけはなんとか避けた。
強い衝撃に体が浮く。そこに白槌の拳が来る。息ができない。動けな……
「……動けよ!!!!!」
両腕で盾を作る。体を折り曲げ、頭と胸と腹は守る。この場をなんとかしのいだあとで、カウンターの一撃を……!
衝撃に備える。絶対に耐えきってやると、歯を食いしばって覚悟を決めて。
「『解呪』『拘束』!」
――攻撃の代わりに飛んできたのは、張られた冬華の声だった。
「……むゥ?」
白槌の体がビクリと跳ねる。それが見えても受け身は取れず、俺は背中から落ちてしまう。
息が絞り出される感覚に、すぐに体勢を立て直せない。早く動けと地面をつかんで、上半身だけをなんとか起こす。
「……今、何をした? 一瞬自由が効かなくなったが?」
「ほんっと、化け物ね……! 1級でも長く止めれる、貴重で強い呪符なのよ……!?」
「それは残念だったなァ……しかし、だ。お前はよく動くなァ」
白槌の笑みが大きくなる。それが向けられているのは俺じゃあない。
「的確な術に療治の異能。どうやらお前が、この3人の要だねェ」
「……違うわよ。私がいちばん弱い。なんの役にも立ってない」
「いやいや、戦っていればわかる。六哉も薄紅の娘も、お前を守ろうと動いているぞ?」
白槌がゆっくりと歩く。後ろの秋穂をかばうみたいに、冬華がその前に立つ。
「そのお前が狙われたなら、両人はどう動くかなァ!」
「やめろ……!」
強化された拳を振り上げる白槌。その前に立とうと、体の力を絞り出す。
どんな力が付与されたのかもわからない。でも、体は確かに動いた。
「ふゆちゃんから……! はなれて……!」
秋穂も同じだったんだろう。俺たちふたりは白槌の前に立てた。
「そうだ、それでいい! 魂を燃やせ! 抗ってみせろ!」
拳が迫る。纏われた石が大きく広がる。
「ああああああああっ!!!!」
叫びながら斬りつける。拳と刀が火花を散らす。
強い力に体が揺らぐ。でも、絶対に通さない。
「あっちに……行ってよおおお!!!!」
秋穂の体が光る。振りかぶられた拳が、白槌の胸を殴りつける。
車と車が衝突したような、そんな大きな音がして。
「……はっはァ! それだよ!! 楽しいなァ!!!」
ついに白槌が後ずさった。満足そうに笑いながら、さらに大きく飛び退いていく。
「はぁ……はぁ……」
「秋穂……その腕……」
「ちょっと無理……しちゃったねえ……」
ぶらん、と垂れ下がる左腕は、間違いなく折れている。顔色は蒼白に近くなって、額に浮かぶのは脂汗だ。
「でも……ふゆちゃんには、触らせなかったよ……」
「そうだ、冬華ならすぐに治せて……! 頼む……!」
冬華のことだ、言う前から動いてるはず。呪符もまだ残ってるし、傷なんてすぐに治してくれるだろう。
「……冬華?」
返事がない。動くような気配もない。
「ふゆ……ちゃん……?」
秋穂の声が震えている。
痛むんだろうか。
そうじゃない。
そんなことで秋穂は、不安そうな声は出さない。
振り向く。
冬華の姿がない。
しゃがみ込んでるのは秋穂だ。
その隣に倒れているのが、冬華で。
胸元。
脇腹。
2カ所だ。
2カ所に、ぽっかり。
拳くらいの、穴が。
「――俺の白跳は触れずに抉る、お前も知ってたはずなんだがなァ」
うそ、だろ。





