優しさという毒に犯される
高校三年生ならば大学入試も大半が一段落して、高校時代の仲間達との最後の思い出作りだと言って、遊び回る三月半ばのまだまだ寒い日。
「ほらよ。また、取り返してきてやったぜ」
おれは奪い返す最中にくしゃくしゃになった一万円札を数枚友人に差し出す。
「だめだよ。奪ってきちゃ。それはお金が無くて困ってるからと、僕があげたものなんだから」
友人はとぼけたようにそう言う。
友人は友人に金が無くて困っていると言った奴らが別に金に困っている訳ではないことは分かっていた。
しかし、崖から飛び降りて飢えたトラの親子に自らの身体を食わせた聖人に憧れるこの男は神様みたいに慈愛のこもった、しかし人間味の欠如した腹立たしい笑みを浮かべて、その嘘を歪み切った優しさの名の下に真実とするのだ。
「違う。あれはカツアゲだ」
おれは友人も分かっていることを、念を押すためにそう言う。
一万円札を公園のベンチに座る友人に強引に握らせ、その隣に腹立たしさを紛らわせるために荒々しく座る。
「お前からいつもカツアゲしていた連中は、お前で上手くいったことに味を占めてより手を広げて、やり口も過激になっていって、遂には恐喝で捕まったよ。
お前、どう思う?」
「ダメだな~。僕からだけ奪っておけばよかったのに」
まえで他人事のようにそう言う友人にカッとなって、おれは友人の胸倉をひっつかむとベンチが揺れるほどに押さえつける。
「分かってるのか!お前が変な仏心を出さなければ、連中が味を占めることはなく、捕まるまで調子に乗ることはなかった。
お前にも責任の一端はあるんだぞ」
おれはぎりぎりと襟を捻って友人の首を絞めつけていくが、友人はおれが何故怒っているのかも分かった上でバカにしたようにあの笑みを浮かべ続けている。
何度目だろうか。あれがこうして与える優しさしか知ろうとしない友人に叱ってやる優しさを、拒絶してやる優しさを分かって欲しくて怒るのは。
しかし、それも―――。
「今日で終わりだ」
おれはそう宣言する。
幼稚園で出会い、高校までずっと一緒だった。
ずっと、おれは友人の歪んだ優しさを隣で見続けていた。
だが、これからおれは遠くの医大に行く。友人は地元の国立に進む。
だから、丁度良い機会だと思う。
おれが医大に受かったことを伝えると、友人は祝福してくれて、別れ際には最後まで変わることのなかったあの笑みでおれが見えなくなるまで手も振ってくれた。
おれはそれに答えず、背を向けて歩き出した。
友人との繋がりはここで全て捨てていくつもりだった。
しかし結局、手首で光る友人との思い出である安物のペアのブレスレットだけは捨てることが出来なかった。
* * *
おれが医者になろうと思ったのは、友人と出会って大きく歪んでしまったが元来おれは人並みには人の痛みを嘆けるような人間だったからだと思う。だから、医者になると、内乱の終わったばかりの海外の貧困地域で医者として活動したのもそこまでおかしな行動ではなかったはずだ。
その日、熱波を遮る壁もなく、サンサンと降り注ぐ太陽を遮るしか出来ないテントの下で、おれは医者として活動していた。
ゴミ箱を漁ったものなのだろうか?ボロボロでちぐはぐなサイズの服をベルトで無理矢理に固定するようにして着ている戦争孤児の少年の化膿して緑色のべたべたのある切り傷を治療していると、少年はおれのブレスレットを付けている手首をしきりに指差しながら早口で何かを捲し立てていた。
おれはまだその国の言葉を少ししか使えなかったために、ゆっくりと話すように下手な言葉で少年にお願いする。
すると、少年はゆっくりと「それと同じの持ってる」と言いながら、ズボンの後ろポケットからおれの手首にあるのと同じブレスレットを取り出した。
「どこで手に入れた?」と尋ねると、
「おいらが腹が減りすぎて道端に倒れている時に、パンを配り歩いていた兄ちゃんに『困ったら売ってお金にしなさい』って貰ったんだ。二束三文にもならないから売ってないけど、キラキラしてかっこいいから未だに持っているんだ」と少年は話してくれた。
そのブレスレットには名前が彫られていて、確認すると友人の名前だったために少年にパンを配った男が友人であることはほとんど間違いないだろう。
それをくれた奴の居場所を尋ねると、少年はとある村の名前を教えてくれた。
貧しい人々にパンを配り歩く外国人は珍しいから風の噂でよく聞こえてくるらしい。でも、いつもはすぐに移動するのに数週間もその村から移動した噂を聞かないから奇妙だとも教えてくれた。
おれは治療後に少年からブレスレットを買い取ると、少年と別れた。
それから海外から来た仕事の同僚は仕方ないにしても、地元で知り合った友人に尋ねても名前すら知られていなかった村の場所をなんとか調べると、今にも空中分間しそうなほどぼろいタクシーを拾って、その村へと向かった。
村ではよそ者が珍しいのかじろじろと詮索するような視線でひどく警戒されたが、下手な言葉と主に金の力ですぐに友人の居場所を知ることが出来た。
友人の居場所だと知らされて向かった村の外れには、かつて家だっただろう土塊があった。
かつては照り付ける太陽を一人で遮っていたのだろう屋根は、家からずれ落ちて地面に突き刺さって、中程まで地面と同化していた。かつて吹き荒ぶ風雨を遮っていたであろう四方の壁は崩れ落ちて、少し盛り上がった土の山になっていた。
そんな中で人型が一人、背の高い草の生えた地面に隠すように転がされていた。
ミイラのように痩せこけ、それがかつてどんな顔でどんな姿だったのかすら分からない。
しかし、こんな状況であろうと変わらない自己満足に浸った腹立たしい笑みだけでおれがそれを友人だと分かるには十分だった。
生死を確認しようと近づくと、痩せて顔の骨が浮き上がっているために突き出して膨張したように見える眼球が不気味に動いておれを捕らえ、何事かを言おうと口を震わせるが喉に力が入らず、音にならない。
辛うじて生きてはいるが、今にも死んでしまいそうな状態だった。
襤褸切れに包まれている身体をめくってみると、浮き出た痛ましい肋骨よりも子供がぬいぐるみを縫ったような乱雑な縫合痕の方が目に入った。触れて見ると、幾つもの臓器が無くなっていることが分かった。そう言えば、特に稼ぐ手段もなさそうなこの村の村長がやけに清潔でまともな服を着ていたことを思い出した。
おれはタクシーの運転手に金を払って手伝わせると、自分の仕事場のある街のまともな病院に友人を運んだ。
最初は全身に繋いだ管から栄養剤を注入され、いつ死んでもおかしくないような容体だったが、次第に回復してゆき、身体を起こして、パンを水に溶かしたものを小鳥に与えるほど少量ずつならばスプーンで口に近づけられれば食べられるまでになった。
その間に、おれは友人がこの国に来てから、おれがあの村で見つけるまでの情報を集めた。
最初は、日本で生活費も切り詰めて稼いだ金でこの国に来て、パンを買って、路上の戦争孤児などに分け与えていたらしい。
しかし、その行動で金を持っていると質の悪いあの村の村人に目を付けられ、不審に思いながらも疑うことをしようとしない友人はホイホイ付いていくと、金を毟り取られ、金が無くなると臓器を売られ、殺すのは目覚めが悪いとおれが見つけた時のように村の外れに捨てられていたらしかった。
友人はこのままいけば日常生活が送れる程度には回復するだろう。
しかし、回復した友人は再び同じことを死ぬまで繰り返すだろう。
だから、おれは友人の病を治療してみせると決意した。
友人のそれは優しさだ。
優しさは往々にして薬だが、友人のように行き過ぎると毒になる。濃縮され、周囲にも毒を撒き散らし、最後には自分自身すら殺す猛毒だ。
治療法は荒治療を一つしか思いつかなかった。しかし、いくら荒治療と批判されようと、友人を治せるのならばおれは構わないと思った。
* * *
何かに捕まれば歩けるまでに回復した友人に肩を貸して、おれは友人を外に連れ出した。
今度はタクシーではなく車を借りて、友人を乗せるとおれは友人を見つけた村へと向かった。
村に着いたおれたちに前回のように詮索するような煩わしい視線を向ける村人は一人もいなかった。なぜなら、村人全員が猿轡を噛まされて、後ろ手を縛られながら村の中央の広場に転がされていたからだ。
それをしたのは、以前の内乱で兵隊として徴兵され、血と火薬の味が忘れられず、戦争を夢にまで見て、平和へと向かおうとするこの国に捨てかけられていたごろつきたちだ。
そして、依頼したのはおれだ。この国では大金と呼べるだけの量の金を見せると、二つ返事で今回の依頼を受けてくれた。
村の惨状を見て、驚きの声すら出せず愕然としている友人の手首におれは友人の捨てたブレスレットを嵌めさせて、後ろから友人の骨の浮かび上がった身体を支えるように抱きしめて用意していた拳銃を握らせる。
そして、友人の耳元でささやく。
「お前が村人を一人でも殺せれば、他の村人は全員解放する。
でも、お前が一人も殺せないと言うのならば、全員を殺す。
そうだな。あの子が良い。あの何も知らないだろう小さな子が‥‥」
おれが友人をこんな目に会わせた村の大人たちではなく、何も知らないだろう少女を狙わせたのはそれほどの衝撃でなければ友人を神様から人間へと引きずり落とすには足りないと考えたからだ。
「さあ、引き金を引けるぐらいには体力は回復しているだろう。
あの子を殺すんだ。
そしたら、他の村人には何もしない。
簡単な引き算だ。お前にもそれぐらいは出来るだろう?」
友人は拒絶反応を起こし、激しく身体を震わせるが、おれは後ろから押さえつけて、銃口を少女へと向けさせ続ける。
どれだけの時間でも、友人が引き金を引くまで待つつもりだった。
しかし、突然。やせ衰えたその身体のどこにそんな力があったのかという馬鹿力でおれの腕を振りほどくと、おれを見据えながら叫ぶ。
「僕が憎いんだろう?だから、こんなことをするんだろう?
僕の命で勘弁してもらえないだろうか。一人の命を奪えと言うのならば、僕の命でも構わないだろう?」
それが友人の答えだった。
その枯れ木のような腕ではこめかみまで拳銃を持ち上げることの出来ない友人は、拳銃を逆に持って、抱きかかえるように拳銃の銃口を自分の胸に当てる。そして、引き金を引くと、銃弾は友人の身体を貫通し、背中に空いた穴から血を噴き出して倒れた。
駆け寄って、生死を確認すると心臓から僅かに外れていたために友人は即死を免れていた。
しかし、傷口から漏れ出る血の量は友人はもはや助からないだろうことを示していた。
おれは立ち上がり、腕を振り下ろして合図する。
すると、後ろで退屈そうに待機していたごろつきたちは待ちくたびれたように立ち上がると、芳醇な火薬と血の匂いで頭の中をいっぱいにするために抵抗の出来ない村人たちを持っていたアサルトライフルで殺して回った。
村人たちの悲鳴とごろつきたちの感極まった絶頂の笑い声。
咲き誇る血の赤と排出される薬莢の鉛色。
命の失われる鉄の臭いと命を奪う鉄の臭い。
おれは友人が死ぬ前に地獄を見せてあげることが出来たと思う。
その証明に友人はあの張り付いた笑みをかなぐり捨て、おれのことを敵意を剥き出しにして睨んでくれている。
おれは友人の治療の完了に歓喜した。
友人は折角完治した病とは別の理由で死のうとしているが関係ない。治療の完了を友人と祝えないことは少し残念だが些細なことだろう。
おれは恐ろしい表情でおれを睨む友人の手から拳銃を借り受けると、丁度村人全員を殺し終え、恍惚とした表情で呆けているごろつきたちを背後から撃ち殺した。
村で立っている者はおれ一人となり、死の臭いが村中に充満している。
おれは怒り狂っているが、指の一本すら動かせなくなった友人の傍にしゃがみ込んで、眼前に広がる死屍累々とした惨劇の光景を指差しながら語り掛ける。
「どうだ。これがお前の望んだ結末だ。
おれは少女の命と言った。お前があの少女を殺すことが出来ていれば、こうはならなかった。
お前がみんなを殺したんだ。お前がみんなを――――」
おれが言い終わる前に、友人は事切れた。怪我のせいではない。友人は逃げ出したのだ。
おれは静寂が空間を支配し、一人ぼっちになった村の中で「偽善者が‥‥」と聞こえるように吐き捨てることしか出来なかった。
他にも「バナナの皮の国の成立と滅亡について【改訂版】」という短編を書いているので、お暇でしたら読んでくれると嬉しく思います。